聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

聖徳太子の系譜の謎と蘇我馬子、蝦夷、入鹿のお墓

2017年02月22日 | 聖徳太子の謎


今回も古墳のお話です。もともと、古墳にはあまり興味がなかったのですが、・・・大阪、奈良
は近く、最近、頻繁に訪れています。
そして、新たに王陵の谷ともいわれる、大阪府太子町、磯長(科長)で蘇我馬子のお墓を発見しました。
蝦夷、入鹿のお墓もね。

やったー!!!前回に続きまたまた新発見でーす。(^^)/

蘇我馬子のお墓に関しては、石舞台古墳が有名ですが、蘇我氏の本貫地である科長には、馬子のお墓の伝承が残っています。
そして誰もが容易に蘇我馬子のお墓を発見できます。なのに・・・・なぜ???

聖徳太子の謎に関しても、もちろん蘇我馬子は大きく関わります。そして、このお墓の謎もまた、聖徳太子の謎に関わります。

本来、日本書紀の、推古条における、皇太子とは、推古の息子である竹田皇子のことでした。

ウイッキベディア・・・
皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造百八十部併
せて公民等の本記を録す。
 『日本書紀』推古28年是歳条
******************************
この竹田皇子と蘇我馬子は、天皇記・国記を編纂したとされます。蘇我馬子が編纂したということからも判断できますが、
これ蘇我氏の歴史書です。天皇とは本来蘇我の王の呼称でした。
蘇我馬子により、古代の王家に蘇我氏を繋げる改竄がなされている。
この天皇記・国記の推古条には推古の息子の竹田皇子が皇太子の名称で書かれていました。この蘇我氏の歴史書である
天皇記・国記を基に、後の歴史書は編纂されている。

その蘇我氏なのですが、・・・
実は、本来は、蘇我氏というのは、もと息長氏のことなんじゃないのか?という疑問を考えていましたが、・・・長くなりそう
なので、今回と次回に分けます。
息長とは科長のことでもあり、蘇我氏の本来のの本貫地なのでは?
多くのお墓が存在し、王陵の谷ともいわれる、磯長は、蘇我氏の墓域です。

この磯長 で、蘇我馬子のお墓見つけちゃいました。

でもね、・・・実は誰にでも簡単に見つけられます。それは、ここ磯長 には、蘇我馬子のお墓が存在するとの伝承が
残っているからです。しかも文献には位置情報まで伝わっています。これらの伝承どおりの場所に古墳が存在し、容易に見つけられます。

なのに、治定できていません。
何故かっていうと。聖徳太子の謎を解けていないからです。この蘇我馬子のお墓の伝承の謎も、私には容易に解けます。
それは、ひとつ謎解けると矛盾する箇所が容易に見つかるらです。

今回は、この磯長 (科長)に残る蘇我馬子のお墓の伝承から、改竄された聖徳太子の系譜の謎について考えてみます。
本来の王家の人物が、蘇我の人物として取り込まれている。

本来の蘇我馬子のお墓は、もちろん明日香にある石舞台古墳なのですが、蘇我氏の墓域である、磯長に、蘇我馬子は改葬されたのです。

ウイッキベディア
石舞台古墳・・・
被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。
仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する
懲罰ではなかったかとする説もある。

     *********************
石舞台古墳の現在の状態からも判断できますが、封土もなく、また石棺もありません。ですので、埋葬品は盗掘に遭った
後とされますが、そうではありません。
封土が剥がされ、また石棺がないことからも、ここから移葬されたのです。
天武は、明日香の地に宮を建設しました。その時、蘇我氏憎しの天武により、蘇我馬子は明日香の地から追いやられたのです。
同様に、蘇我蝦夷、入鹿親子も明日香からこの磯長 に移葬されている。

明日香の地を宮と定めた、天武は、明日香における蘇我氏の痕跡を排除しています。石舞台古墳の蘇我馬子も明日香から、
磯長に移葬され、埋葬されたたのです。
そして、これまで記述してきましたが、蘇我氏に関わっていた事績を消し去っている。

斑鳩寺を法隆寺に、そして、明日香の栢寺を、橘寺に、法興寺を、元興寺として寺名を変更し、由緒も、推古の息子の
竹田皇子から祖父の押坂彦人大兄皇子の事績として書き換えている。
これが聖徳太子とは誰なのか混乱している原因になっている。この二人の事績が、聖徳太子の名称で纏められてしまっている。


この蘇我氏の墓域である磯長 に、蘇我馬子のお墓があるという伝説が残っています。しかも文献には位置情報まであるのに
治定できていません。


聖徳太子伝私記・・・
蘇我馬子廟桃源者 河内国科長東条石川也 御廟辰巳方也
  ************************
聖徳太子伝私記には、科長の聖徳太子御陵の辰巳(南東)に、蘇我馬子のお墓があるという記述があります。
そう、蘇我馬子は、石舞台古墳からここに改葬されたのです。


地図を見てください、古墳は簡単に見つけられますよね。しかも蘇我氏のお墓である方墳です。
聖徳太子御陵の傍の南東にある古墳は、この古墳以外ないですよね。
あれ???でもここ用明天皇の御陵(河内磯長原陵)とされています。

でも、私には、容易に蘇我馬子のお墓を見つけることができました。それは、被葬者が用明天皇だからです。
もう何度も記述してきましたが、用明天皇は改竄された系譜上の聖徳太子のお父さんです。
聖徳太子の、本当のお父さんは敏達天皇だからです。

厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と穴穂部間人皇女の王子です。
聰耳皇子こと竹田皇子は敏達天皇と推古の皇子です。

押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の、ふたりの皇太子が聖徳太子の名称で後に纏められてしまったのです。
ですので、聖徳太子御陵の傍の古墳を用明天皇陵としていることからもおかしいわけです。改竄した系譜に合わせて、
お墓も変更している。

つまり、この古墳がが用明天皇陵とされることからも間違っていると判断できます。
それは、改竄した系譜を正当化するために、古墳も被葬者も変更したのです。
この古墳以外にも、系譜の改竄に伴い多くの古墳の被葬者を変更しています。

聖徳太子御陵の傍の南東にはこの古墳しかないのに、ここが用明天皇陵と改竄されたので、古代の人も
蘇我馬子のお墓がどこかわからなくなったようです。ですので、近くに層塔を造って祀ったようです。
この用明天皇陵は、その規模や形が石舞台古墳とよく似た形だともいわれます。


江戸時代の「河内名所図絵」に・・・
馬子大臣塚 西方院壱町計東の方 民家の前にあり

写真の層塔を、蘇我馬子の塚としていますが、もちろんこんな層塔が、蘇我馬子のお墓であるわけがありません。

聖徳太子は、この用明天皇と穴穂部間人皇后との皇子とされます。
古事記、日本書紀は正史。その正史にあるから、誰も疑いません。
だから真実の歴史は見えません。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子


押坂彦人大兄皇子の子孫と対立していたのは、 天智系の天皇や、藤原氏だということは、この系譜を見れば容易にわかります。
本来の王家から繋がらないように、系譜から外した人物が、用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子としての厩戸皇子です。

この用明天皇陵こそ、明日香から改葬された蘇我馬子のお墓です。

天武が明日香に宮を定めてから、蘇我氏の痕跡を排除している。
逆に、蘇我氏に関係する人物して科長に葬られていた、敏達天皇と 厩戸皇子こと 押坂彦人大兄皇子をこの科長から改葬している。

敏達天皇の最初の皇后は、息長真手王の女の広姫とされますが、そうではありません。最初の皇后はもちろん厩戸皇子こと
押坂彦人大兄皇子のお母さんの穴穂部間人皇后です。次の皇后が推古であるので、敏達はこの科長の地に葬られていました。
ですが、天武によりこの科長から改葬されている。前回書きましたが、同じく押坂彦人大兄皇子もまた、この科長から改葬されている。
孝徳天皇と同様に、この用明天皇も、蘇我氏に関係する人物ではなく科長の地に葬られてはいません。


息長真手王の娘の一人である麻績娘子が継体天皇に嫁ぎ、もう一人の娘がその孫の敏達天皇の皇后の広姫であるという、
ありえない系譜からも杜撰な改竄というのがわかります。ここが光明皇后による聖徳太子に関する系譜の改竄個所です。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は敏達天皇と、 穴穂部間人皇女との王子です。敏達天皇の最初の皇后は、広姫ではなく、
この穴穂部間人皇女です。そして、敏達天皇は欽明天皇の皇子ではありません。また、穴穂部間人皇女も、蘇我稲目の娘の
小姉君の子供ではない。ともに蘇我氏の血を引く人物ではありません。次回に続く・・・。


ウイッキベディア・・・
用明天皇・・・
埋葬について、『日本書紀』では天皇は崩御後の7月21日に「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られたうえで、
推古天皇元年(593年)9月に「河内磯長陵」に改葬されたとする。一方、『古事記』では「科長中陵」に葬られたとする。
『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では現在と同じ「河内磯長原陵」の名称で記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北3町で
守戸3烟を付すとしたうえで、遠陵に分類する

 ******************************
聖徳太子のお父さんとされる、用明天皇のお墓は、日本書紀の記述、そして、延喜式の中の諸陵式において、
河内磯長原陵とされるからです。もちろん、延喜式の成立は記紀成立の時代より後のもです。
延喜式は改竄された日本書紀の記述を参照している。
聖徳太子のお父さんを用明天皇として系譜を改竄したときに、聖徳太子のお墓の傍にある、この古墳を用明天皇の
お墓として改竄したのです。
つまり、用明天皇は改葬されていなくて、いまも磐余池上陵に眠っています。


天武は、明日香の地に宮を建設しました。その時、蘇我氏憎しの天武により、蘇我馬子は明日香の地から追いやられたのです。
この磯長は、蘇我氏の本貫治であり、墓域である。

すると、どうなのだろう?そう、同様に、蘇我蝦夷、入鹿親子も明日香からこの科長に移葬されているのではないだ
ろうか?・・・と、私には推測できるのですが、どうなのだろう?


日本書紀には、蝦夷・入鹿のお墓は双墓とされます。本来はもちろん住居があった明日香の地にお墓を造るはずです。

いろいろ説があるようですが、本来の蘇我蝦夷、入鹿のお墓は、五条野宮ケ原1・2号墳で間違いないと思います。
明日香の近くである。蘇我氏の方墳である。7世紀中頃の築造である。
その規模から、1号墳が、蝦夷、2号墳が入鹿のお墓とされます。
隣接してあることからも、記述どおりの双墓とされます。

この古墳で間違いがないと思うのは、この二つの古墳とも石舞台古墳と同様に覆土が剥がされ、石棺がないのです。
さらに、石室を組んだと思われる石も移動されていました。
石棺がないことからも推測されますが、他の場所に移葬されたのです。
私には、そうとしか考えられない。蘇我馬子と同様に、明日香から本来の蘇我氏の墓域である磯長に改葬されている。

では、磯長のどの古墳が、蘇我蝦夷、入鹿親子のお墓なのでしょうか?

聖徳太子御陵の南東の方向、この馬子の墓から少し離れますが、同じ方向に、推古天皇陵と、二子塚古墳があります。
この二子塚古墳が蝦夷と入鹿親子のお墓なのではないのだろうか?

それで、この二子塚古墳なのですが・・・
方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式だそうです。隣接してあるということと、二つ並んであることからだろうけど、
この古墳こそ推古と、竹田皇子のお墓だともいわれていたようです。
ですが、推古と、竹田皇子は一つのお墓、同じ石室に合葬されています。
もちろん、お隣の磯長山田陵(山田高塚古墳)です。

2基の方墳が、連接した双方墳、または長方墳とされます。少し特異な形状をしているのは、同時に二人を埋葬するためであり、
もちろんこの二人の被葬者は近縁者です。
蘇我馬子と同様に、蘇我蝦夷、入鹿親子もまた、明日香の地を追い出され、この蘇我氏の墓域である磯長に改葬されている。
すると、この二子塚古墳しかない。




下の1、2枚目の写真は、用明天皇陵とされる。河内の磯長の陵です。

大阪府太子町のホームページから・・・
第31代用明天皇は、『日本書紀』によれば、磐余の池上の陵に葬られますが、その後、推古元年(593)に「河内の磯長の陵」
に改めて葬ったと記録されています。
用明天皇陵は、東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートルの方墳で、周囲には幅7メートルの空濠を巡らせており、
この濠の外堤までを含めた規模は、一辺100メートルに達する巨大な規模を有しています。墳丘規模や形は、蘇我馬子の墓と
言われる石舞台古墳とよく似ています。
      **********************
この用明天皇陵は、石舞台古墳と似ているとされます。そう伝説どおり、改葬されたのは、用明天皇ではなく、蘇我馬子です。
石舞台古墳から、蘇我氏の墓域である磯長に埋葬されたのです。

そして、聖徳太子御陵の南東の方向、この馬子の墓から少し離れますが、同じ方向に、推古天皇陵と、二子塚古墳があります。
推古はもちろん蘇我の女帝です。
蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人はこの蘇我氏の墓域である磯長に眠っています。

                                   











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