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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

元興寺伽藍縁起并流記資財帳の謎と聖徳太子

2016年09月14日 | 聖徳太子の謎


元興寺は、蘇我馬子が飛鳥の地に創建した法興寺が前身となります。蘇我氏の氏寺であり、
日本最初の仏教寺院として有名です。平城京遷都に伴って飛鳥から移転して、元興寺とい
う寺名になったとされます。

この元興寺伽藍縁起并流記資財帳には、聖徳太子とは誰なのだろうか?という疑問に答え
てくれる記述がある、凄く重要な銘文です。
元興寺は、もとは法興寺とも飛鳥寺ともされます。なぜ複数の呼称がるのかというと、
法隆寺や橘寺と同様です。法興寺の由緒を、天武によって変更されているのでは?。
ですので、この法興寺から元興寺への寺名の変更についても、天武によるものにも思う
のですが?
斑鳩寺を法隆寺に、栢寺を、橘寺に、そして法興寺を、元興寺として寺名を変更し、由緒も、
推古の息子の竹田皇子から祖父の押坂彦人大兄皇子の事績として書き換えている。これが
聖徳太子とは誰なのか混乱している原因になっている。

この元興寺伽藍縁起并流記資財帳の銘文を、ネットで原文を見ることができます。かなり
の長文ですので、今回は参照、引用させてもらいながらこの銘文の謎を考えていきたいと
思います。この銘文の解釈も難問とされます。
ですので、これ偽書とされます。
何故。元興寺の縁起として、こういう銘文が存在するのかを考えていけば、・・・
「聖徳太子はふたりいた」とする私にはなんとなく謎解けるように思うのですが・・・。
矛盾する箇所が多く存在するのは、何度かの書き換え時に間違いが生じたのだろうと思います。

本来は、天武により法興寺の由緒の竹田皇子に関する箇所を、祖父の押坂彦人大兄皇子に
由来するとして描いたものです。それが後に推古に書き換えられたのです。その証拠は
この縁起の銘文の後半部分現れます。

そして推古の息子の竹田皇子こそ、本来の聖徳太子だという記述もあります。

厩戸皇子 というのは、押坂彦人大兄皇子のことで、豊聡耳 というのが、推古の息子の
竹田皇子のことです。ふたりの皇子が、聖徳太子の名称で、後に纏められてしまったの
です。複数の呼称が存在するのは、他の人物と混同されているからでもあります。

もう以前より記述してきましたが・・・
まず天武によって、蘇我の皇子である竹田皇子の事績を、祖父の押坂彦人大兄皇子の
事績として取り込んでいるということ。取り込んだので、後に聖徳太子の名称で、二人の
皇子が混同されてしまっている。
藤原氏にとっては、この押坂彦人大兄皇子が大王だと都合が悪いので、系譜を改竄する
必要があった。その系譜に矛盾する、これら寺院の銘文を改竄した内容に合わせる必要
があったわけです。

その改竄した人物は、この元興寺伽藍縁起并流記資財帳の末尾に署名していますが、
僧の行信です。光明皇后から依頼されて怨霊を封じたのはこの行信です。そう、この
押坂彦人大兄皇子は怨霊だと恐れられていました。

元は天武が、お寺の由来を祖父の押坂彦人大兄皇子として記述されていたものが存在し
ていたのですが、後に改竄されたものです。
天寿国繍帳の銘文 と同様、僧の行信によって手が加えられたものなのでは?
押坂彦人大兄皇子が祟ったと恐れられてから改竄されたものです。
737年に天然痘により藤原四兄弟が病死して以降にです。
藤原氏にとっては、この押坂彦人大兄皇子が大王では都合がわるいのです。天武と、
行信によって2度の書き換えがあったのです。

もう何度も書き込んでいますが、わかりやすいので・・・
問題は以下の系図です。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子


古事記は、712年に、日本書紀は720年に完成したとされますが、この藤原四兄弟が病死
した737年以降に改竄されている。つまり、聖徳太子が祟ったのは737年であり、この聖徳太子
とは、押坂彦人大兄皇子だと思われていた。
改竄した系譜と矛盾しないように、する必要があったからです。
天武によって描かれていた 押坂彦人大兄皇子の系譜を、改竄するために作られた人物が
用明天皇と穴穂部間人皇女 の皇子である厩戸皇子 です。
長屋王に繋がる大王では都合悪いのです。

記紀においては、この押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことが消されています。
この縁起にも押坂彦人大兄皇子がお寺の縁起として記述されていたものを、推古に変更され
ていると思うのですが?推古が天皇時に大王だったのは、この押坂彦人大兄皇子です。
591年に天皇に即位したのが推古であり、593年に大王に即位したのが、厩戸皇子こと押坂彦
人大兄皇子であるということ。

この593年というのが、法興元年 です。王が即位したので、建元されたのです。
そして、もしかしたらこの「法興 」が日本で最初の元号かもしれません。

この元興寺伽藍縁起并流記資財帳 は、仏教伝来の記述があり、重要な名分です。しかし
偽書だとされます。偽書といえば偽書なんだけど、本来のものに記述されていた都合の悪い
箇所があったっため改竄されている。改竄したのだけど、大きな間違いがあった。
そのひとつは、銘文に記述がある大々王、つまり大王という人物が存在するのがおかしいからです。
この大王を、消し去っている。つまり大々王を、推古にに充てている操作がなされている。
天皇=大王ということにしている。
では、この 大々王という人物はいったい誰のことなのでしょうか?


銘文の最後の部分・・・
天平十八年十月十四日被僧綱所牒偁 寺家緣左并資財等物 子細勘錄 早可牒上者 依牒旨 
勘錄如前今具事状 謹以牒上
天平十九年二月十一日 三綱【三人】
可信五人 位所皆在署
僧綱依三綱牒檢件事訖 仍爲恒式以傳遠代 謹請紹隆佛法 將護天朝者矣
天平廿年六月十七日佐官業了僧【次佐官兼藥寺 佐官興福寺師位二人 佐官業了僧一人】大僧都行信

        ************************
銘文最後に、元興寺伽藍縁起并流記資財帳が作成された理由が述べられています。
この天平18年(746年)に、僧綱所からお寺の由来と所有する財産目録を提出するようにとの
通達がありました。その通達を受けてお寺の縁起と財産目録である資財帳を作成し、翌天平19年2月に
牒上 した。その牒上 された縁起を改竄したのが、最後に署名がある僧の行信です。

記紀を改竄し歴史、系譜を変えたため、寺社などの縁起と矛盾が生じないように、この天平十九年、
747年に新たに縁起を提出するように命が下ったわけです。
天寿国曼荼羅繍帳 でも記述しましたが、おそらく、天平廿年(748年)に僧行信 による改竄。
かなり稚拙な改竄ですが、100年以上前のことだしこの時代なら無理はないかな?
それは藤原氏にとっては、藤原氏と対立していた 高市皇子や長屋王が本来の王家に人物では
都合が悪いため系譜の改竄されている。


それでは、原文と意味を引用させてもらいながら考えていきます。長文なので問題箇所
だけ説明していきます。

元興寺伽藍縁起并流記資財帳・・・

楷井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百歳次癸酉正月九日馬屋戸豐聰耳皇子
受勅記元興寺等之本縁及等與彌氣命之發願并諸臣等發願也
            *******
揩井等由羅の宮で天下を治められた等与称気賀斯岐夜比売の命(推古天皇)がお生まれに
なってから百年目の癸酉(613年)正月九日に、馬屋門豊聡耳皇子(聖徳太子)が、(推古天皇の)
勅を受けて、元興寺等の本縁及び等与称気の命(推古天皇)の発願并びに諸々の臣等の発願を
記したものである。

  ****************************

まず冒頭いきなりの難問ですよね。通説では推古が100年生きたことになっていると
解釈されていまよね?たしかに、推古はこの年代としては長命だったのでが・・・。
説明がつかないので、推古がこの年(613年)に60歳になるので、干支年を基準に60進方
だという説明をしているようなのですが、・・・これは違うと思うのですが?

そうではなくて、生誕100年目にあたるのが 「癸酉」だということですよね。

この元興寺伽藍縁起并流記資財帳は、基なるものが存在していて、それには聖徳太子が
縁起に関わったとされていたのではないのだろうか?
蘇我馬子と推古の息子の竹田皇子が関わったとされていた縁起を、天武が祖父の押坂彦
人大兄皇子が関わったとして改竄した縁起が存在していた。

そう推古の生誕100年ではなく、聖徳太子の生誕100年だったのでは?

謎は、そして問題はこの「癸酉」です。定説では(定説があるのかどうかしりませんが)、
これ推古や聖徳太子が生きていた613年だとされています。
推古の 勅を受けて聖徳太子が記したとされるからかな?
でも、これおかしいですよね。生誕100年が613年なら、生まれは514年ですよね。つまり
この生誕100年目の「癸酉」とは、673年とするのが自然ですよね。それでも、574年生まれ
となって記紀との記述とは矛盾が生じます。
推古は欽明天皇15年にあたる、554年の生まれとされます。

でも、この年には非常に重要な人物が生まれています。それは聖徳太子です。
そう、574年というのは、聖徳太子が生まれたとされる年なのです。
この銘文の「癸酉」を673年だとすると、聖徳太子の生誕100年目に充たり、また天武が大王に即位
した年でもあります。蘇我氏憎しの天武がこの時に、由来を変更したのではないのだろうか?
 
そして後に、・・・聖徳太子生誕百年を、推古に変えようとして・・・こで間違いが生じた???
そう 改竄時にこの「癸酉」を613年だとし間違えて改竄してしまった。「癸酉」を613年だと
して間違えたのが僧の行信なのでは?


この「生誕100年目」は、聖徳太子の生誕年なのではないのだろか?
天武が即位したのが、皇祖とあがめる祖父の 押坂彦人大兄皇子の生誕100年にあたる
この「癸酉」の673年です。
法興寺の縁起では推古の息子の竹田皇子の事績とされていたものを、天武が祖父の
押坂彦人大兄皇子の事績として取り込んだ縁起が存在していたのでは?
お寺の由緒を聖徳太子こと押坂彦人大兄大王になっていたものが存在していたのですが、
後に書き換えられたのではないでしょうか???

聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の「生誕100年目」を、推古に書き換えている。
これはこの後の文章で明らかになります。かれが大王では藤原氏には都合が悪いのです。

蘇我氏憎しの天武が書き換えた縁起が存在していて、のちに747年に再び改ざんされたのでは?
この「癸酉」の673年は、聖徳太子の生誕100年目であり、天武が即位したのはこの年です。
天武は、推古天皇の息子の竹田皇子の事績を祖父の押坂彦人大兄皇子の事績として取り込んでいる。
これまで、述べてきたように法隆寺、橘寺なども同様です。


次は、有名な仏教伝来に関する箇所です。欽明天皇の時代の538年に百済国の聖明王から
仏教が伝わったとされます。その伝来した仏像をどこに安置するかを、欽明が推古に
尋ねたという記述があるとされる問題個所です。

大倭國佛法創自斯歸嶋宮治天下天國案春岐廣庭天皇御世蘇我大臣稻目宿禰仕奉時
治天下七年歳次戊午十二月度來百濟國聖明王時太子像并灌佛之器一具及説佛起書
卷一篋度而言當聞佛法既是世間無上之法其國亦應修行也時天皇受 而諸臣等告此
自他國送度之物可用耶不用耶善計可白告時餘臣等白我等國者天社國社一百八神一
所禮奉我等國神御心恐故他國神不可禮拜白但蘇我大臣稻目宿禰獨白他國爲貴物者
我等國亦爲貴可宜白爾時天皇卽大臣告何處置可禮大臣白大々王後宮分奉家定坐可宜白

時天王召大王告汝牟原後宮者我欲爲他國神宮也時大々王白大佛心依佐賀利奉白時
其殿坐而禮始然後百濟人高麗人漢人弘少々爲修行在

   **************************

この銘文の問題点の一つとされるのが、推古が、まだ生まれていない欽明の時代に
現れるとされています。銘文の癸酉を613年とすると推古は514年生まれで、推古が
欽明の時代にあらわれても不思議はないですよね???生誕100年目が、613年とし
たため、推古が欽明の時代に現れているわけです。
銘文改竄時のあやまりです。本来、天皇が召した大王とは、もちろん推古ではない
ということです。では誰なのでしょうか?

もうひとつは、「大々王」、つまり大王という人物を推古にしている。
大々王の牟久原の後宮と表現されているわけですから、女帝の推古ではおかしいわけです。
後宮とは、皇帝や王などの后妃の住居なわけです。だから大々王は推古ではおかしいわけです。
そして、もちろん天皇の他に大王という人物がいるわけにはいかなかった。
推古はもちろん、蘇我の王である天皇です。しかし、後に記述さている推古には、
「大々王」の記述が付け加えられ「大后大々王 」とか「大々王天皇」としている。
つまり、欽明の時代の。「大々王」を推古としたために後の推古には「大々王」が加えなけ
ればならなかったのでは?
天皇とは、本来は蘇我馬子によって名付けられた、蘇我の王の呼称です。


ここの問題個所は、推古の「汝牟(久)原後宮」と「時天王(天皇)召大王」です。
仏像をどこに安置するかを欽明天皇が、「大王」を召したとの記述です。天皇と大王が
存在したという記述です。それではこの「大々王」とは誰なのか?

百済国の聖明王 から仏教伝来したとされる、538年頃のおはなしです。この銘文では、
「大々王」とは推古のことだとされますが、もちろんまだ生まれていません。538年だと
すると宣化ですよね。
仏教伝来のことはもうすでに記述してきましたが、欽明は天皇だけど大王ではない。
531年に蘇我の王である天皇に即位したということ。そう蘇我氏の歴史書である天皇記・国記に
記述されていたということ。531年に大王に即位したのが安閑 で、次の大王は宣化だということです。
蘇我の歴史書ですから、蘇我の王である天皇のほうが、大王より上の立場での記述になっている。
欽明は、継体の皇子だけど、安閑と宣化は雄略から繋がる本来の王だと思うのですが?


天皇記・国記によって歴史は変えられた。蘇我馬子は、蘇我氏を本来の王家と繫げる
必要があった。それは、蘇我氏が王家と初めて関わったとする、推古のお父さんであり、
継体の皇子である欽明を、王家と繫げる操作がなされている。
それは、本来の王子たちを欽明の皇子に取り込んでいる。その人物のひとりが敏達です。
蘇我氏は王家と対立し関わっていなかった。つまり本当は敏達は蘇我が関係する欽明の
皇子ではない。蘇我馬子が改竄したかったのはここです。蘇我氏を王家と繋げたかった。

仏法を信じなかったとされる敏達は、仏教を受け入れようとした欽明の皇子ではない。


これは、この後の記述にでています、推古が矛盾ある発言をしています。この銘文の最も
重要な箇所です。聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子を、推古に書き換えているのがここで明らかになります。

爾時天皇卽從座起合掌 仰天至心流發懺悔言 
我現在父母六親眷屬愚癡邪見人三寶卽破滅燒流 所奉之物反取滅也 然今我以等由良後宮
爲尼寺 山林園田瀆封戸等更納奉 又敬造法師寺田園封戸等納奉 又敬造丈六二
軀 又修自餘種々善根 以此功德 我現在父母六親眷屬等爲燒流佛法罪及所奉之物返取滅
之罪 悉欲贖除滅・・・ 


我現在父母六親眷屬愚癡邪見人三寶卽破滅燒流・・・ 

推古が・・・そのとき、天皇(推古)は立ち上がり、合掌し天を仰ぎ心極まり懺悔して言った。
私の現世に父母、六親族、愚かにも道理を無視する間違った考えをする人が、三宝を破壊し
滅して、焼き流しました。奉納したものを取り返し滅しました。・・・

ウイッキペデア・・・
敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の
蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭る
とちょうど疫病が発生したため、敏達天皇14年(585年?)に物部守屋が天皇に働きかけ、
仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。

   *****************************

推古のお父さんは欽明であり、お母さんは蘇我稲目の娘の堅塩媛 です。おかしいですよね、
彼らは仏教推進派であり、彼女は蘇我の女帝ですよね。
本来は押坂彦人大兄皇子の発言箇所を推古に変えているからです。
杜撰な変更であり矛盾が生じた箇所です。
押坂彦人大兄皇子のお父さんは、敏達であり、仏法を信じなかったとされるのはこの敏達です。
彼が廃仏派であるのは、欽明の皇子ではないということが推測できると思います。
では、敏達は欽明の皇子ではないとすると誰の王子なのでしょうか?
雄略天皇から繋がる本来の王家の人物です。

この発言をしたのは、押坂彦人大兄皇子であり、本来はこの押坂彦人大兄皇子の生誕100年目に
天武によって作られた銘文だったのでは?
継体天皇の謎でも触れましたが、敏達のお父さんは宅部皇子?であり、物部の王たちです。
だから、廃仏派なのです。天武系の王とは、雄略天皇から繋がる物部系の王たちです。

蘇我馬子が改竄したのは、蘇我の王である天皇は、古代から繋がる正当な王たちであると
するために、本来の王家を、蘇我氏が関わる欽明のお父さんの継体で断ち切り、さらに後に
繋げるために、この欽明を、本来の王家と結びつけるために、敏達のお父さんをこの欽明に
している。そう継体は本来の大王ではなかったため、欽明を王家に繋げるための改竄です。
そのために消さなければならない人物が、この宣化の王子の誰かです。おそらく宅部王子
だろうと思うのですが?
蘇我馬子は、この敏達の后となっていた推古を皇后にして、敏達を蘇我の王である天皇に
即位させた。さらに敏達を欽明の皇子として系譜を改竄したのではないでしょうか?


ふたりの聖徳太子が存在する記述がある箇所です。

時池邊天皇以命 大々王與馬屋門皇子二柱語告宣 法師寺可作處見定告 時百濟客白 
我等國者 法師寺尼寺之間 鍾聲互聞 其間無難事 半月々々日中之前 往還處作也 
時聰耳皇子馬古大臣倶起寺處見定 

そこで池辺天皇は大々王(推古)と馬屋門皇子(押坂彦人大兄皇子)の二人に、
法師寺を作る場所を見定めるようにと命じた。その時百済の客は言った。
「私たちの国では、法師寺と尼寺の間で鐘の音が互いに聞こえ、その間に災いもなく、
半月ごと午前中に往き来できる所に作ってあります」。聡耳皇子(竹田皇子)と馬古
大臣はともに寺をつくる場所を見定めた。

************************
この馬屋門皇子と聡耳皇子とを分けて使用している。別人であり、馬屋門皇子とは、
押坂彦人大兄皇子であり、聡耳皇子とは竹田皇子のことです。
押坂彦人大兄皇子が大王で推古が天皇時、皇太子はこの聡耳皇子こと息子の竹田皇子です。


そして、この聡耳皇子とは推古の子供の竹田皇子であるという記述です。
本当の聖徳太子とは、この竹田皇子のことです。

然大々王天皇命等由良宮治天下時癸寅(丑?)年聰耳皇子召告 此櫻井寺者 
我汝不得忌捨 【牟都々々斯於夜度禰與二】佛法初寺在 又重後言大命受在寺在也 
我等在【弖須良夜】此寺將荒滅汝命以至心奉爲(斯が脱)歸嶋宮天下天皇勳(懃?)
作奉也 然我者此等由良宮者寺成念故 宮門遷入急速作也 今不知 我子急速可仕奉 
爲我者小治田宮作告 又尼等爲白羯磨 法師寺急速作齋告 以是癸丑年宮内遷入 
先金堂禮佛堂等略作 等由良宮成寺 故名等由良寺 

   ************************
推古が、聰耳皇子に語りかけているのですが、この聰耳皇子を、我が子と表現している
「我子急速可仕奉」。これ、なんか豊浦寺の縁起を引用しているようにも思える箇所です。
推古の豊浦宮(等由良宮)を寺(等由良寺)にしたという由緒です。参照した、縁起そのまま
写して訂正しわすれていると思われる箇所です。問題箇所とされるところですが、そうではありません。
本当の聖徳太子のことを語っている箇所です。

厩戸皇子とは、押坂彦人大兄皇子であり、聰耳皇子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
斑鳩宮に住み、斑鳩寺を建て、仏教を興したのは推古の息子の竹田皇子です。
推古が天皇のときに、大王だったのが、厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子です。
押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の、ふたりの皇太子が聖徳太子の名称で纏められてしまったのです。

聖徳太子はふたりいたのです。




写真は、ならまちの名刹、元興寺と、明日香にある高源寺です。
推古の豊浦寺の後身とされます。

日本書紀、欽明天皇13年・・・
大臣(蘇我稲目)跪受而忻悅。安置小墾田家、懃修出世業爲因。淨捨向原家、爲寺。

仏教を受け入れるかどうかに関して、欽明天皇は、仏像を蘇我稲目に授けて礼拝するように
命じました。稲目は、小墾田の家に安置し、向原の家を寺 としたとされます。仏像はこの
小墾田の家に安置されたとされます。
日本書紀の記述の仕方は、向原の家と小墾田の家は異なるというような記述です。
百済から献上された仏像が安置されたのが、蘇我稲目の家とされる小墾田の家であり、
向原の家ではない。ですが、隣接していたものと思われます。
この小墾田の家というのが、従来から宮の比定地とされている、隣接する古宮土壇の場所で
いいように思うのですが?どうなのかな?
この向原の家が寺となり、桜井道場 呼ばれ、善信尼 など三人の尼が住持となったとされます。
後に推古の豊浦の宮となりました。

そして、稲目の小墾田の家が小墾田の宮になったのだと思うのです・・・?
推古の宮は、お隣の稲目の小墾田の家を再利用したようにも思うのですが?

推古が天皇の時代、記紀においては、押坂彦人大兄皇子が大王だったことがけされています。
この時代の本来の宮は、彼の宮である桜井市大福にある 「水派の宮」 です。
しかし、宮は、大王である押坂彦人大王の「水派の宮」とは書けないのです。
ですので推古の宮の「小墾田宮」の名称を使用したのです。宮の伝承が混乱している理由です。

仏教の受容にかんして、欽明が稲目に命じたという記述です。王(天皇)が、命じて仏教を
受け入れたという記述ですが、そうではありません。

この欽明は、王ではありません、後に繋がる蘇我の王たちを、古来から繋がる王家と関係
していたとするための改竄です。初代天皇である、推古のお父さんを遡って王にしたのです。
蘇我氏が歴史を改竄するために、蘇我氏と関係していた、畿内北部の王である 継体の皇子を、
王、つまり天皇の呼称を使用して改竄したのです。
過去にさかのぼって、継体と欽明を、王(天皇)だったとしているわけです。
この改竄は、蘇我馬子によって編纂された、天皇記・国記の編纂時においてです。
仏教を受け入れるかどうかを欽明が、稲目に命じたという記述ですがそうではなく、欽明で
はなく、大王の宣化です。 この宣化は継体の皇子ではない。

日本書紀においては仏教伝来は552年とされます。これは欽明天皇の即位を539年としたため
だろうと考えられますが、本来の仏教伝来の記述がこの元興寺伽藍縁起并流記資財帳の銘文
に残ってしまっていて矛盾しているわけです。
欽明の時代に大王だったのが、宣化の王子の誰かです。宅部王子かな?
欽明天皇の時代に、物部尾興と中臣の鎌子らの廃仏派により、 仏像が廃棄され寺が焼却さ
れたことを黙認 したとされますが、これは欽明ではない。
彼は王ではない。蘇我の王である天皇だったと、天皇記・国記の編纂時において改竄され
たということです。

それでは、なぜ日本書紀においては仏教伝来が552年だとされるのでしょうか?
それは、奈良の大仏さんと関係します。大仏さんの開眼供養会が実施されたのが、
天平勝宝4年(752年)だからです。
大仏さんが完成したのが、仏教伝来200年目の記念の年であるとするために、552年に仏教が公伝
したと日本書紀を後に改竄したのです。
通説は逆ですが、この552年の公伝は無理があるとされています。
つまり、仏教伝来200年目の記念の年であるので、開眼供養会が実施されたのではなく、開眼式を752年
に実施したからです。
では何故、伝来を552年にしたのだろうか?という問題は、ウイッキベディアにあります・・・
伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦
入滅後1501年目にあたり末法元年となる ・・・
   **************************
これらの説がいいように思うのですが、・・・ここ何が言いたいのかというと、古事記、日本書紀は編纂
後に改竄されているということです。
この大仏建立には、光明皇后が大きく関わりました。仏教の力で、怨霊を封じようとしたともさ
れます。記紀を改竄したのは彼女です。
つまり、仏教伝来に関しては、日本書紀が編纂されたとする720年以降・・・大仏さんの開眼供養会が実施された
この752年に改竄されたのです。
しかし、日本書紀は改竄したのだけど、この元興寺伽藍縁起并流記資財帳の銘文に、
本来の公伝の記述が残っていて仏教公伝の年が混乱しているのです。 









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