聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡

2011年09月19日 | 魏志倭人伝の謎


ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡は楽浪地域でつくられたもので、この鏡は中国国
内ではほとんど出土しない。
おそらく卑弥呼の鏡である三角縁神獣鏡も、魏の支配下となった後に楽浪地域でつくられ
たものだろうと推測できる。
畿内の政権は、景初二年の朝貢以前には、すでに楽浪郡を支配していた公孫氏と繋がりを
持っていたということ。

それと、九州からはこれら画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんどない。
つまり卑弥呼の時代には、すでに畿内の政権が北部九州の国を支配下にいれていたとい
うこと。
畿内説の問題点に、畿内から九州におよぶ広大な地域をこの時代に治めることができたのか?
というのがありますが、おだやかな瀬戸内海の内海を航海できるので、畿内の政権が九州北部を
支配下に入れていたとしても問題ない。倭人伝の問題を考えるときは地形のわかる地図をみながら
考えると謎とける。
この大きな原因は、九州が南北で戦乱状態にあったということ。畿内の政権は北に加担し、北部
九州は畿内の政権の支配下になった。ゆるやかな連合体などではない。
南の勢力はもちろん狗奴国。この北部九州の国を女王国よよんだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卑弥呼の墓はホケノ山古墳

2011年09月04日 | 魏志倭人伝の謎


もーーーー、ホケノ山古墳か、箸墓しかないんじゃないの?他ないでしょう?
そんで、・・・わたしもはじめは箸墓が卑弥呼の墓で、ホケノ山古墳が台与の墓だと思って
いました。
でも古墳に関しては余り詳しくわからないわたしでも、もうこれは、もー無理やないの?
って思うのだけど?どうなのでしょう?

それは、・・・このホケノ山古墳の内部が調査されたからです。
このホケノ山古墳は3世紀中葉の最古の前方後円墳であると発表されたわけでしょう?

倭人伝みるとね・・・
卑弥呼は正始8年(247年)に狗奴国との紛争を報告しているわけですよね。
それで、魏の使者の張政が来倭時には、もう亡くなっていたようですよね。
だから、卑弥呼は247年か248年に亡くなったとされているわけですよね。
まーこれ、よくいわれる説ですよね。

ところが、卑弥呼が亡くなってから、男王が立ったけどどうもうまくいかず、同じ王権
内で内紛があったわけでしょう。
それで、もちろん狗奴国との争いもあったわけでしょう。そんななかで卑弥呼の墓が作ら
れてわけですよね。で、魏の使者である張政がこの墓を実際に見ての「徑百餘歩」の記述
なら、たとえ造作中だとしても、それなりの大きさだったわけでしょう。

やっぱり、おかしいやないの?無理やないの?ここおかしいって誰もが思っているところ
でしょう?どうなのでしょう?

これは、二つの可能性がある・・・
一つは・・・景初二年(三年のあやまりでしょうけど・・・)に朝貢して金印もらった
倭の女王とは、すでに卑弥呼の台与だった可能性。。
つまり、倭人伝の最後の方に記述されているけど、卑弥呼が亡くなって後に争いがあって、
台与が共立されたのが、この朝貢以前の話なんじゃないの?
卑弥呼というのは役職名でしょう。台与も卑弥呼の名で朝貢したとすると間違う可能性あ
ると思うけど?
もう一つの可能性は、卑弥呼は景初三年か正始 元年になくなったという可能性。
つまり魏の使者が倭国を訪れて、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた年。
この倭王は卑弥呼ではないでしょう?
だとすると、ホケノ山古墳に卑弥呼の鏡である三角縁神獣鏡が埋葬されていなかったと
しても説明が付くでしょう。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする