ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡は楽浪地域でつくられたもので、この鏡は中国国
内ではほとんど出土しない。
おそらく卑弥呼の鏡である三角縁神獣鏡も、魏の支配下となった後に楽浪地域でつくられ
たものだろうと推測できる。
畿内の政権は、景初二年の朝貢以前には、すでに楽浪郡を支配していた公孫氏と繋がりを
持っていたということ。
それと、九州からはこれら画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんどない。
つまり卑弥呼の時代には、すでに畿内の政権が北部九州の国を支配下にいれていたとい
うこと。
畿内説の問題点に、畿内から九州におよぶ広大な地域をこの時代に治めることができたのか?
というのがありますが、おだやかな瀬戸内海の内海を航海できるので、畿内の政権が九州北部を
支配下に入れていたとしても問題ない。倭人伝の問題を考えるときは地形のわかる地図をみながら
考えると謎とける。
この大きな原因は、九州が南北で戦乱状態にあったということ。畿内の政権は北に加担し、北部
九州は畿内の政権の支配下になった。ゆるやかな連合体などではない。
南の勢力はもちろん狗奴国。この北部九州の国を女王国よよんだ。