今回は、渡来人たちによる孝徳大王やこの有間王子、建王子の殺害についてです。国家転覆の大逆罪である孝徳大王との戦乱を隠蔽している。
許せない(`・ω・´)
有間王子は孝徳大王の王子であり、母は阿倍内麻呂の娘である小足媛です。もちろん正統な次の大王候補である。ですので暗殺されている。そして建王子も孝徳大王の王子です。
孝徳大王は、飛鳥京が危険な状態にあったため子供たちを阿部氏が関わる塩屋連の勢力地である紀南の地に避難させていました。
しかし戦乱はこの紀南の地にも拡大することになります。
写真は、熊野九十九王子社のひとつであり、塩屋連の本拠地にある塩屋王子神社(和歌山県御坊市塩屋町北塩屋)です。
天照大神の御神像が祭られていて別名は「美人王子」といわれます。
絶世の美女、かみなが姫こと、藤原宮子(本当は阿部宮子)の出身地です。宮子は阿部氏と塩屋連の娘との子供です。
祈願すると美しい子どもを授かるという伝説があります。
この地は古代から製塩が行われていて多くの製塩土器が出土しています。
塩屋連は、この地方の製塩や漁業に従事していた豪族です。
有間皇子は孝徳大王を助けるべく、避難していた紀南の地の豪族である塩屋連の協力を得て九州に向かう計画を立てていたのです。
前回に記述しましたが、
日本書紀・・・
或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人一日兩夜邀牟婁津、疾以船師斷淡路國。使如牢圄、其事易成。
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紀南に避難していた有間皇子は、阿部氏に関わるこの地の豪族ある塩屋連の海軍の協力を得て、新田部連とともに淡路島に赴き、この地で畿内からの渡来人の海軍を迎え撃ち、その後九州の孝徳軍に合流する計画を立てていたと推測しています。
九州の地で勢力を回復する計画ではなかったのか?残念ながら事前にこの計画が発覚し先手を打たれ紀南の地で戦争となった。
有間皇子は、この紀南の地の豪族塩屋連の協力を得て戦いましたが、敗れ戦死しました。これが、有間皇子殺害の本来の事柄です。
有間皇子は戦乱の中で亡くなっている。それは孝徳大王の王子であり次期大王候補の人物だったからです。弟の建王子も同様に殺害されている。この事実を変更している。
日本書紀、古事記は天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄された偽書である。
百済が滅亡の危機にあった時に、亡命百済人たちが、頼ったのがすでに倭国内で地盤を築いていた、もとは百済からの渡来人であった秦氏です。天智天皇はこの秦氏の王子です。天智系天皇である桓武天皇もまた秦氏の王である。
系譜を変更する必要があったのです。
孝徳天皇には子供一人、この有間皇子しかいません。そんなことありえません。有間王子のほかにも建王子もまた孝徳大王の王子であり次期有力大王候補である。そして彼も戦乱の中殺害されている。
阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良、建皇子
持統天皇の母親である遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。この阿部氏の系譜を消し去っている。持統天皇は、天智の娘ではなく孝徳大王の娘です。
この3人は大田皇女、鸕野讃良、建皇子は、孝徳大王と阿部氏の子供たちである。大田皇女の子供である大津皇子も大王家の王子である。
藤原氏は、この鸕野讃良こと持統天皇を利用している。
それは系図をたどるのがわかりやすい。
武勇にも秀でて優秀だったとされるこの大津皇子もまた渡来人に暗殺されている。
建皇子は話すことが不自由で夭折したとされますがそうではない。渡来人との戦乱で殺害されたのである。有間皇子暗殺と同様、つまり紀南の地での戦乱で亡くなっている。
有間皇子の崩御年は、斉明天皇4年11月11日(658年12月11日))とされます。建皇子もまた斉明天皇4年、八歳でなくなったとされます。
亡くなったのは同じ年であり、この時に紀南地方で戦争がおきたのです。
ここも干支から名付けるとすると戊午の乱である。
しかし本来の崩御年は以前に書きましたが、662年だろうと思います。
すると孝徳大王の崩御年も、壬申の乱の少し前の662年だと思います。この後九州の地も戦乱になったと推測できます。
この大王殺害の事跡を変更している。
写真は藤並神社です。私の地元である有田川流域にある神社です。吉備郷の古名が今も残ります。武内宿禰が勅命を奉じて水主神を勧請したのが創祀です。
神社には有間皇子が、水神に奉幣(天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献すること)したとの伝説がのこります。おそらく有間皇子が紀南の地に避難するときに立ちより、孝徳大王の命により、渡来人との戦争の勝利を願っての奉幣です。
境内には古墳が一基あります。泣沢女古墳といいます。
この古墳には、斉明天皇がこの建王子の遺骨をこの地に移したとの伝説が語られています。
藤並神社 泣沢女(なきさわめ)の古墳御由来
斉明天皇(女帝)4年5月、御孫建皇子が8歳にて薨去せられ、大和の今来谷の山上に葬り奉つたが、天皇は皇子の御事が忘れられず、果ては御健康を害われ給う御様子なので、有間皇子のお勧めにより、同年秋牟漏温泉へ御湯治の際、那耆野に御駐輦遊ばされ、この地は大和の今来谷に似ていると仰せられて、その名に因んで今城ヶ丘と名付けられ、建皇子の御遺骨を納め給うた墳墓であると伝えられている。
境内東隣の青蓮寺はもと今城寺と称せられ、斉明天皇の勅願寺で、皇子の菩提御祈願のため建立
和歌山県神社庁
ウイッキペディア
『日本書記』持統天皇3(689)年8月の項に、紀伊国阿提郡那耆野2万項(1項は100畝)、田殿丹生神社夏瀬の森から天満宮周辺一帯の有田川流域に互り漁猟禁断の記事が見えるのは、即ち建皇子の塋域だからであると伝えられている。
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古事記 「香久山の畝尾の木本に坐す名は泣沢女の神ぞ」
日本書紀「畝丘の樹本に所居す神なり 啼沢女命と号く」
万葉集 「泣沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご大君は高日知らしぬ」
古墳の名の泣沢女とは、泣沢女の女神ことで、イザナギがイザナミの死を悲しみ、その涙から生まれたとされる女神です。この伝説により、生命復活の神とされています
斉明天皇が、幼くして亡くなった建皇子が新たに生まれ変わるように名付けた古墳名のように思います。
この古墳が建王子のお墓であるとの伝説が残ります。建王子は、話すことが不自由であったとされます。斉明天皇は甥(弟である孝徳大王の子)であり、話すことが不自由であったとされるこの建王子をかわいがったとされます。
由緒によれば、埋葬されていた大和の地からこの地に遺骨を移したとのことです。しかし斉明天皇は自身のお墓に合葬してほしいとの遺言を残しているともされます。
この伝説、由緒は変更されている。話は逆です。遺言どおり、この紀南の地から大和に移葬されたのです。本来の元の建王子のお墓はここです。後に斉明天皇の遺言により斉明天皇陵に合葬されている。
建王子はこの地で殺害され埋葬されていたのです。孝徳大王はこの紀南の地に子供たちを避難させていたのです。しかしこの地でも争いが起き殺害されたのです。
この古墳は調査されてます。建王子のお墓だという由緒があるのに遺骨は12歳前後の少女と考えられています。
それは建王子の遺骨は移葬されたからです。
これは幼くして亡くなった建王子を思い少女を合葬(殉葬ではないと思うのですが?)したのだと思います。
ウイッキペディア・・・
『日本書紀』には建皇子の埋葬に関する記述がないほか、母の遠智娘は大化5年(649年)に蘇我倉山田石川麻呂の死を知って憂死した蘇我造媛(中大兄皇子妃)と同一人物とされ、また憂死したのを遠智娘自身とする所伝(『蘇我石川系図』)もあることから、遠智娘は建皇子(651年出生)の生母になりえないとして、皇子の実在性も含めて説話自体を疑問視する説がある
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日本書紀に埋葬の記述がないのは、殺害したからです。説話は本当なのですが、系図が変更されている。建皇子は孝徳大王の子供です。
ここは何度も記述しているところですが、母の遠智娘は阿部遠智娘であり、蘇我造媛とは別人です。孝徳大王の皇后であり天皇です。
白雉元年(650年)がこの遠智娘が天皇に即位した年であり、白雉はこの、袁智天皇の年号です。
「天皇」の呼称は元は蘇我の王の呼称であり、初代天皇は推古天皇です。
初代が女帝であったため、蘇我氏が滅んだ後、つまり645年の乙巳の変以降は女帝の呼称に変わったのです。この天皇の呼称を使用して歴史を改竄している。
斉明天皇即位年は、655年ですので、遠智天皇の崩御年は、654年である。654年に亡くなったのは孝徳大王ではなく、皇后であるこの袁智天皇です。ですので、651年生まれの建王子の母親として問題はなく、建王子は有間皇子とともに正統な次期大王候補です。幼少の時に母親が亡くなったので、斉明天皇が母親がわりになり建王子を育てたのです。
孝徳天皇は有間皇子しか子供いなかったとされますがそんなことありえません。この建王子も孝徳大王の子供です。
牽牛子塚古墳が斉明天皇お墓であり、いま治定されている越智崗上陵は、その名のとおり、阿部遠智娘、袁智天皇のお墓です。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳における、白雉元年(650年)に難波宮にいる袁智天皇との記述から日本書紀の嘘が分かります。孝徳大王の宮である難波宮にいたとされることから容易に推測できますが、孝徳大王の皇后のことです。天皇とは女帝のことです。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」
この牽牛子塚古墳に建王子の遺骨は移され斉明天皇と合葬されている。
ウイッキペディア 牽牛子塚古墳
石槨内の中央には間仕切りのための壁をともない、その両側に長さ約2メートルの墓室が2つあって、壁面は二重の漆喰が塗られている
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牽牛子塚古墳が斉明天皇お墓であり、この古墳に建王子の遺骨は移され合葬されている。墓室が2つあるのは、斉明天皇と、建王子の墓室です。
斉明天皇が崩御した時に遺言により、紀南のこの古墳から移され合葬されている。建王子の本来のお墓は 泣沢女古墳です。
阿部氏は紀南の豪族と繋がりが深い。紀南の豪族の娘たちを嫁に迎えている。
そしてこの阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王に嫁いでいる・・・
孝徳天皇は有間皇子しか子供がいなかったとされますが、ありえません。
そして以前にも書きましたが系譜変更により、年齢も変更している。
*遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。
阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子
*阿部内麻呂の娘とされる小足媛もまた、阿部内麻呂と紀南の豪族との娘との子供であるように思う。有間皇子の「ありま」の名はイザナミノミコトが葬られたとされる熊野の有馬から名付けられているように思うのですが・・・祖母の出身地からではないのかな?
阿部小足媛・孝徳大王ー有間皇子
*蘇我姪娘は 蘇我倉山田石川麻呂の娘ではなく、阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘との子供である阿部姪娘である。
そしてもちろん天智の后ではない。元明天皇の諱は阿閇、阿部皇女です。
阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女 (高市大王妃)、元明天皇
*阿倍内麻呂と新田部米麻呂の娘との子供が阿部橘娘であり、天智の后ではなく孝徳大王の后である。
これは娘の新田部皇女の名前から容易に推測できます。
阿部橘娘・孝徳大王ー明日香皇女(高市大王皇后)と新田部皇女 (忍壁 皇子妃)
これが天智の娘を天武に嫁がせたという不思議な話の真実です。
天智の血を大王家に繋げるための改竄である。
ここも何度か記述していますが、・・・
孝徳の長男である有間皇子は、640年の生まれだとされます。そして、孝徳天皇は596年の生まれだとされますが、これおかしいでしょう?長男と思われる有間皇子が45歳の時の子供となります。
この時代を考えるとありえません。
そして孝徳には、有間皇子以外には子供がいません?そんなはずはありません。
斉明天皇の年齢に関して書きましたが、同様に弟の孝徳の生年に関してもおかしい。
それは祖父の厩戸王子こと押坂彦人大兄皇子は、572年生まれだからです。
つまり、押坂彦人大兄皇子の子供であり、父親である茅渟王は592年頃の生まれと考えられるからです。
ですので斉明天皇 や、2歳違いの弟の孝徳天皇は615年頃の生まれです。
姉である斉明が613年位で、孝徳は615年位かな?そうすると、長男の有間皇子の生年に関して、
そして斉明天皇として即位した年齢に関しても問題ないでしょう。
天智と天武は兄弟ではない。天武のお母さんは斉明天皇ですが、天智のお母さんは斉明天皇ではない。
天武の生年は不明とされますがそうではなく、天智の生年を変更している。5歳年下とされる天武は631年でいいように思いますが、天智の生年は626年ではなくもう少し前である。天智を王家に繫ぐため斉明の子供としたため、斉明天皇の年齢を変更している。
天智系天皇である渡来人桓武天皇により、天智を大王家に繋ぐ操作が行われている。
孝徳大王時代に渡来人勢力との戦争が起きている。
この有田川流域の部族もまた、塩屋連の支配下にあったとされます。この地でも戦乱が起き、建王子はここで渡来人との戦いの中で亡くなっている。
有間皇子が殺害された時同様に処刑されたとされるのが、塩屋連鯯魚と新田部米麻呂です。ともに孝徳政権において左大臣だった阿部氏が関わる豪族です。有間皇子に味方した豪族であり、水軍を用いたのは塩屋連鯯魚です。
処刑されたとされますが、そうではなく渡来人との戦いの中戦死している。
有間皇子もまた戦乱の中で亡くなっている。
孝徳大王と、天智(秦氏)百済渡来人とは百済復興の協力に関して決別していました。孝徳大王は唐、新羅と三国同盟を結んでいたからです。
有間皇子が処刑された話は不思議な話ですよね。
万葉集に有間皇子の有名な歌があります。
万葉集 有間皇子 自傷結松枝歌二首
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
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これらの歌は既に多くの指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌であるとされます。
詞書(有間皇子 自傷結松枝歌二首)があるのでこれららの歌は挽歌とされますが、処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。万葉集もまた都合の悪い箇所は改竄さている。改竄の手口はこの詞書を使ってのものです・・万葉集の謎はいづれ書きます。
天智との争いを避けるため、有間皇子は心の病を装い、紀南の地(牟婁の湯)にに逃れていたとされます。しかし有間皇子は紀南の地から戻り飛鳥で捕まっているとされます。その後紀南の地に護送するときに藤白の地で殺害されたということです。
蘇我赤兄による密告により、天皇に対する謀反を計画したとして悪く書かれていますが、これは天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄された嘘話である。渡来人による大王家の王子たち殺害のクーデタ、大逆罪です。
この時の大王は孝徳大王であり、斉明天皇は天皇ですが王ではありません。
天皇とは女帝のことです。
孝徳大王は崩御していません。孝徳大王の王子はこの有間皇子であり、斉明天皇は孝徳大王の姉です。
斉明天皇に対する謀反なのではなく、孝徳大王と天智(渡来人)の争いは続いていました。百済復興のための出兵に反対の立場であった孝徳大王の子供であり次期大王です。ですので狙われ殺害されたのです。
有間皇子は藤白坂で絞首刑に処せられたとされます。写真、は和歌山県海南市にある藤白神社と有間皇子のお墓です。このお墓は近年に造られたものであり、本当の有間皇子のお墓ではありません。
ウイッキペディア・・・
有間皇子の死後、大宝元年(701年)の紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が『万葉集』に残されている。
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もう何度も書いているところですが、文武天皇の紀伊国行幸時とされますが間違っています。文武天皇は天皇ではありません。
大宝元年は長屋王が大王に即位した年であり、紀伊国に行幸したのはこの長屋大王です。
「かみなが姫の物語 藤原宮子の謎」のころで指摘しましたが、・・・
道成寺創建の由緒については、私は藤原氏によって殺害された先祖の霊を供養するお寺であり、本来の由緒は母親である阿部明日香の遺言により、長屋大王が創建したお寺であるように思います。
大宝元年創建の道成寺は、長屋王がこの地で渡来人との戦乱により亡くなった有間皇子などの人々の菩提を弔うために創建したお寺です。
写真は塩屋連の本拠地、御坊市にある岩内古墳です。道成寺の近くに位置し海を見下ろせる少し高台の上にあります。
この古墳は、調査されています。
地方豪族ではありえない、木棺に塗られていただろう漆の破片や銀線蛭巻太刀、六花形の鉄製棺飾金具などが発見されているのが特徴です。
これらの豪華な副葬品などから身分の高い人物のものであり、有間皇子のお墓だという説があります。
被葬者の候補はふたり、有間皇子とこの地域の豪族であり孝徳大王や有間皇子に協力し戦争で亡くなった塩屋鯯魚です。
私はこの地の豪族であった、塩屋鯯魚のお墓のように思います。孝徳大王に協力し多大な功績があったからです。実はこの古墳は後に改装されています。改装したときにこれら豪華な品々は副葬されたのです。この地は塩屋鯯魚の本拠地です。いまも塩屋の地名は残ります。
塩屋鯯魚のお墓だとすると、亡くなったとされる658年(本当は662年)に造られているわけです。
ところが何故か半世紀後に造営されている可能性が指摘されています。
豪華な副葬品はこの時に埋葬されたものです。
つまり701年に長屋大王が、紀伊国に行幸したときに、功績のあった塩屋 鯯魚のお墓を豪華に造りなおすように命じているということです。
道成寺創建の由緒も同様です。大宝元年(701年)の創建です。
この時に有間皇子や、この塩屋鯯魚など戦争で亡くなった人々を祀るために建てたお寺です。
談山神社も同様です。大宝元年(701年)の創建であり、長屋大王が、渡来人との戦争でこの地で亡くなった本来の中臣鎌足を祀るために建てたものです。
長屋大王は渡来人との戦乱の中で亡くなった人々を祀っている。
大宝元年(701年)というのは、長屋王が大王に即位した年です。
この大宝元年(701年)から崩御したした729年までが、長屋王の大王としての在位期間です。
古事記は712年、日本書紀は720年に編纂されました。この時代、大王として統治していたのは長屋大王です。
古事記・日本書紀は長屋王が編纂した歴史書です。大宝律令も、この長屋王が制定した律令です。長屋王家から出土した木簡から、長屋王は大王だったことは明らかです。
この長屋大王と対立していた藤原氏はこれらの事跡を変更している。
万葉集 有間皇子の歌
有間皇子の歌は既に指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌である。処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。孝徳大王は都が危険な状態にあったため。子供たちを阿部氏が関わる、紀南の豪族である塩屋連の支配地に避難させていたのです。
有間皇子の歌はこの紀南の地に避難するときの旅路の歌である。
有間皇子は飛鳥の地で捕らえられ、再び牟婁の地に護送されるという奇妙な話はこの追悼歌が残っているための創作話であるともいえます。
うまく騙したつもりでも私は騙されません。この有間皇子や大津皇子、そして長屋王もそうです。謀反の起こしたとの嘘話で事実を変更している。
これらの歌は渡来人との争いで亡くなった有間皇子への追悼歌である。つまり殺害したのは渡来人たちである。この事実を消すための、有間皇子謀反のでっち上げの物語です。
有間皇子は、海人族ともされる塩屋連の協力のもと渡来人との戦いに立ち上がったのです。残念ながら戦いに敗れこの地で亡くなっているのです。
戦死した地も推測できます。いまにの藤白神社の地は処刑場所ではありません。謀反を企み処刑されたというのは、渡来人、秦氏藤原氏の言い分です。
塩屋連の本拠地ともいえる和歌山県日高郡にあった村、切目には有間皇子社が存在していました。おそらく戦死した地に社を作り祀っていたのです。
そうでないと存在理由が見当たりません。処刑地ではなく、戦死した場所です。
巻二(一四一) 有間皇子
盤代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む
巻二(一四二) 有間皇子
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあらば椎の葉に盛る
巻二(一四三) 長忌寸意吉麿
磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも
巻二(一四四) 長忌寸意吉麿
磐代の野中に立てる結び松情も解けず古思ほゆ
巻二(一四五) 山上憶良
天翔りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
巻二(一四六)柿本朝臣人麿
後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも
巻一 (三十四) 川島皇子 山上憶良代作
白波の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ
この柿本朝臣人麿や、山上憶良、長忌寸意吉麿は、701年の長屋大王の、紀伊国行幸時に随行した人々です。この地で戦死した有間皇子を偲んで詠んだ歌です。
柿本人麻呂は、天武や高市大王、そして長屋大王に仕えていた人物です。持統天皇や元明天皇に仕えていた下級官吏などではありません。
すると、柿本人麻呂の関する謎も容易に解けるでしょう。
有間皇子は、海人族ともされる塩屋連の協力のもと渡来人との戦いに立ち上がったのです。父親である孝徳大王を助けるべく戦いに挑んだのです。
残念ながら戦いに敗れこの地で亡くなっているのです。
戦死した地も推測できます。写真は切目神社(和歌山県日高郡印南町にある神社。九十九王子の一つ、五体王子の一社)です。この近くに有間皇子を祭る有間皇子社が存在していました。
塩屋連の本拠地から少し南方に位置し、おそらくこの有間皇子が祭られている神社の場所で亡くなって埋葬されていたように思います。
それが、この701年の長屋大王の、紀伊国行幸時に、この地から明日香に移葬されているように思うのですが・・・建王子と同様に大王家の埋葬の地に移されているように推測しています。
じゃー埋葬されている古墳はどこにあるのでしょうか?
文武天皇陵とされる檜隈安古岡上陵のように思うのですが・・・私の推測ですが候補としてはこの古墳以外ないかな?
この文武天皇は、王家の人物ですが、本来の王ではありません。改竄時に天皇だったとしているわけです。それは、藤原氏が関わる人物だからです。夫人を藤原不比等の、娘の宮子だとして変更しているからでもあります。
そして、この文武天皇と宮子との子供が聖武天皇であり、皇后が藤原不比等の本来の娘の光明子だからです。
藤原氏は、文武天皇を天皇だったとしたい理由です。本来の大王は長屋大王です。
この時代、王の古墳は八角墳の形状となっていて、文武天皇陵はこの檜隈安古岡上陵ではなく中尾山古墳の方が有力とされますが、私はどちらも違うように思うのですが?大王ではないので、八角墳には埋葬されていないということと、孝徳大王の王子であり、次期大王であった有間皇子と比べると身分的には少し劣り、聖なるライン上に埋葬されることはないように思うからです?
檜隈安古岡上陵の被葬者は、初めは天武大王と額田王との娘の十市皇女のお墓だと考えていましたが、この有間皇子の方がふさわしいかな?