あれ・・?丙辰の乱ってなに?・・って思われるでしょう・・・分からないのも当然です。
干支の名から勝手に作ちゃった(*^▽^*)
古代の大乱は壬申の乱がよく知られています。しかしこの丙辰の年(656年)にも大きな戦乱があったのです。656年は斉明天皇の時代とされます。
この時代の大王家と渡来人との戦乱の様子を推測してみます。
孝徳天皇と天智天皇の争いはよく知られています。孝徳天皇の姉は斉明天皇です。蘇我氏と天智天皇との争いである乙巳の変。天武天皇と天智天皇の争い、後の壬申の乱もそうです。
すべて大王家と、渡来人である天智(秦氏)、藤原氏との争いである。
つまり敵は渡来人である。この争いは、孝徳大王の時代から長屋大王の時代、そして桓武天皇の時代にまで続くことになる。桓武天皇は百済からの渡来人である天智系天皇である。この天智系天皇とは秦氏である。
斉明天皇の時代には多くの土木工事が行われたということは、よく知られていますよね。何故に多くの土木工事を行ったのだろうか?・・・それは、斉明天皇は土木工事が好きだったから・・・こんなバカな答えしかできない歴史学者は失格ですよこんなの。何故にこうも大規模な土木工事をおこなったかまで誰も追及していない。
斉明天皇は、どうしてこれほどの大規模な土木工事を行ったかという理由を考えなければだめです。どういう目的の土木工事であるのかということを考えれば、答えは難しいものではない。
土木工事の内容から、戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めたというのは容易に想像できます。
今回は藤原氏の氏寺である、興福寺や談山神社の創建に関することから、いままで述べてきましたが、大王家と渡来人である天智(秦氏)や藤原氏のと飛鳥京においての、戦乱の様子を推測していきます。
孝徳大王と天智の対立の原因とは、百済救援の出兵に関してことです。
この百済救援に関して、孝徳政権と、百済に関係する渡来人である天智や鎌足のとの争いは、どの様なものであったかを考えます。
まず興福寺創建の謎から
聖徳太子の謎について考えるきっかけにもなった、梅原猛氏の著書、「隠された十字架」において興福寺創建に関しての気になる記述が頭の中に残っていました。
ウイッキペディア・・・興福寺創建の由緒
藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。
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この創建の由来、山階寺が興福寺の起源であるというのは、後の時代に藤原氏による改竄です。興福寺は藤原氏に乗っ取られ、創建の由緒も変更されている。
飛鳥の四大寺は、飛鳥寺(法興寺)、川原寺、大官大寺、薬師寺です。
奈良の四大寺は 、元興寺(法興寺)、大官大寺(大安寺)、薬師寺、そして興福寺です。
この中で、興福寺を除く三寺は寺名は変更していますが、飛鳥の地から奈良の都に移転してきたものです。しかし興福寺だけは飛鳥から移転したものではなく、藤原氏の本拠地ともいえる山科からの移転であるとされます。
何故か川原寺だけ飛鳥の地から奈良京(平城京ではありません)には移転していないとされます。ですが、そんなことはありません。本来は飛鳥から移転したのですが、藤原に乗っ取られている。
実はこの川原寺は、別名では弘福寺と呼ばれていたといことです。この弘福寺は後に「ぐふくじ」と呼ばれるのですが、「こうふくじ」とも読めることから、梅原猛氏は、「こうふくじ」という名前を買収することにより、四大寺の一つの権利をも買収したのではないのかと推測しています。
その通りのように思います。川原寺も飛鳥から移転している。
しかし、名前を買収というような、そんな甘いものではなく、実際は大王家を乗っ取り、寺も乗っ取って由緒を変更し藤原の氏寺にしたということです。
つまり、山階寺の鎌足発願の釈迦三尊像を本尊にして祀ったというのは、藤原氏が寺を乗っ取った時以降の話である。川原寺も同様に飛鳥から移転しているということです。興福寺も他の寺と同様に、本来は飛鳥から移転した川原寺であるというのが起源である。
そして、何故かこの川原寺もまたその起源は明らかではありません。
不思議なことに日本書紀はこの川原寺の起源を一切語らないのです。もちろん、それは明らかにしたくはない由緒があるからだと想像できますよね。
川原寺の本当の起源についても考えてみます。聖徳太子にも関わるところでもあるので以前から気になっていたところでもあるのですが、藤原氏には都合の悪い由緒であるのです。
何度も書いてきたところでもあるのですが、大王家と渡来人との争いの中のこれもまた悲劇である(ノД`)・゜・。
由緒はこの戦乱が関わるため記述できなかたのではないのか?
殺戮の時代ともされますが、この時代の飛鳥京においての、大王家と渡来人との戦乱の様子を推測してみます。
ウイッキペディア・・・川原寺
飛鳥寺(法興寺)・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大寺」の1つに数えられた大寺院であったが、中世以降衰微し廃寺となった。現在は跡地にある真言宗豊山派の弘福寺(ぐふくじ)が法燈を継承する。
天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説が有力となっている。川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。
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斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したという説に関してはいいように思うのですが、秦氏に関わる渡来人の天智の母親は斉明ではありません。ですので、天智が創建というのは私には大いに疑問です。
斉明天皇、諱は寶女王。敏達天皇の第一王子、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王の第一王女。母は吉備姫王です。弟が孝徳天皇です。
斉明天皇の子供とされる天智天皇は孝徳天皇と対立していました。思えばありえないような話です。
斉明天皇は、皇極天皇として即位し、重祚して斉明天皇になりました。
しかし皇極天皇として即位したということは真実ではありません。
この皇極天皇時の本来の天皇は、袁智天皇こと阿倍遠智娘です。袁智天皇の崩御後(654年)、655年に天皇に即位したのが斉明天皇です。
654年に崩御したのはこの王后である袁智天皇の方です。孝徳大王ではありません。この事実を改竄している。
渡来人と対決したのは孝徳大王である。この戦乱が丙辰の乱である。
寶女王は押坂彦人大兄皇子の第一王子である、山背大兄王(山代王)の王后である。山背大兄王(山代王)と斉明天皇との子供が天武天皇である。しかし天智はそうではない。天智系天皇である桓武天皇の系譜改竄箇所、天智を王家に繋ぐ操作のひとつである。
これまで大王家と渡来人との争いを考えてきましたが、この山背大兄王の暗殺の事件や、乙巳の変も本来の理由は、百済救援に関わる渡来人との争いである。
そして、斉明天皇の宮であった、飛鳥板蓋宮が焼失したということも同様の戦乱の中の出来事であるのでは?そして、この戦乱はこの後も続くことになり、戦乱の中で、孝徳大王や斉明天皇は殺害されているのではないのか?
押坂彦人大王の王子である茅渟王の子供たちが、孝徳大王とこの斉明天皇である。何度も書いてきましたが、孝徳大王と天智や藤原氏は百済救援のための朝鮮出兵に関して対立していました。
孝徳大王は唐や新羅と手を結ぼうとしていたからです。倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。結果、国内で百済渡来人との争いがおきました。
この戦乱はどの様なものだったかを考えてみます。
壬申の乱は、記述があるので古代においての大きな内乱として知られますが、この壬申の乱以外にも、記述のない大きな内乱は起っている。
壬申の乱と同様に、干支の名を付けるのなら、656年の丙辰の乱である。この時期は斉明天皇の時代とされますが、孝徳大王の時代であり、百済渡来人との激しい内乱が起きている。
斉明天皇(本来は孝徳大王)の時代には多くの土木工事が行われました。どうしてこれほどの土木工事を行ったかの理由を考えなければだめです。
この時代は殺戮の時代です。渡来人との戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めたのです。
戦乱の要点をまとめている記述であるように思いますので、ウイッキペディアの記事をそのまま参照させてもらいます。宮が焼失したという記述から、飛鳥京においての大王家と渡来人との戦乱の様子が推測していきます。
この時期には、不自然な位に何度も宮は火災にあっています。この宮が焼失したという主な原因は戦乱によるものだろうと思うからです。
ウイッキペディア・・・
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。
川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。
ウイッキペディア・・・岡本宮
655年の冬に板蓋宮が火災に遭い、斉明天皇は川原宮へ遷ったが、並行して新たな宮殿建設地の選定も行っており、翌年(656年)には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮である。斉明天皇は舒明天皇の未亡人であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。
しかし同年、この新しい宮も火災に遭う。当時、斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだが、動員される民衆には非常に不評であった。
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川原寺は、飛鳥板蓋宮が焼失したために移り住んだ斉明天皇の仮宮であった、川原宮の後地に造られたものとされます。
飛鳥板蓋宮が焼失したのは、雷による焼失というのではなく、渡来人との戦乱の結果ともいえるように思うのです。同様にこの川原宮もまた渡来人(秦氏と藤原氏)との戦乱の中で焼失している。
斉明天皇は九州で崩御したとされますが、そのように思えないのです。渡来人のクーデターにより殺害されている。
斉明天皇は天智天皇の先導で、なんと68歳で新羅討伐に出向き、遠征先の筑紫の朝倉宮で崩御したとされます。
女性でしかも高齢(本来の年齢はもっと若い)であったともされる、斉明天皇が、朝鮮出兵のために九州まで出向くというのは考えずらい話ですよね。
川原宮が存在しているのに壊して寺に建て替えるということはありえませんよね。つまり、宮は存在していなかったわけであり、渡来人との戦いの中、川原宮もまた戦乱で焼失したということであるように思うのです。
そして、宮のあった同じ場所に寺を造ったわけですから当然、川原宮に関係するお寺だと推測できます。
創建の由緒は、戦乱で焼失したあとに建てられら川原寺(弘福寺)は、亡くなった斉明天皇の菩提をともらうために、子供である天武が創建した寺である。
天智天皇は、斉明天皇の子供ではなく、殺害した方である。天智の創建という説はありえません。
つまり川原寺の創建年は、壬申の乱に勝利し、天武が大王に即位した673年頃である。天武天皇の宮も飛鳥の地にあり、戦乱によって多くの建物が失われていたとも思われ、天武は飛鳥京を整備しなおしたように思います。
藤原氏による改竄歴史書である日本書紀が川原寺の創建の由緒を語りたくない理由です。斉明天皇を戦乱の中で殺害したのは、渡来人である天智であり藤原氏である。藤原氏にとって都合の悪い歴史である。
そして、ここからが一番に語りたいところであり難しい推測になるのです。
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御したとされますが、そうではない。亡くなったのは孝徳大王の王后である、阿部氏の娘の袁智天皇である。天皇は女帝の呼称である。
何度も参照しているのですが、・・・
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」
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記述にある、袁智天皇が難波宮にいた年である庚戌年(白雉元年)は650年です。654年に孝徳天皇が崩御したとされますが、そうではなく、王后であるるこの袁智天皇が亡くなった年です。
持統天皇の母親であるとされる、蘇我遠智娘は、蘇我氏の娘ではなく阿部氏の娘である阿部遠智娘です。この阿部氏の系譜を消し去っている。
白雉元年はこの阿倍遠智娘が天皇に即位した年です。白雉の年号は袁智天皇の年号である。
この後、654年に袁智天皇が崩御した後、655年に寶女王が斉明天皇として天皇に即位したのです。
あたりまえだけど、寶女王(皇極天皇)が袁智天皇なんて呼ばれるはずはありません。そして、記紀の記述のように寶女王が皇極天皇として即位しているのであれば、阿倍遠智娘が天皇に即位することなんてできないからです。650年というのは、皇極天皇の在位中であり、天皇が二人いることになりますからね。ですので、寶女王が、皇極天皇として即位したというのは真実ではありません。
孝徳大王が崩御して即位したのではなく、袁智天皇が崩御したから、斉明天皇として即位したのです。本来、「天皇」とは女帝のことです。
そしてこれは、孝徳大王殺害の事実を隠すためでもある。
「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで書きましたが、孝徳大王殺害は661年であると推測しています。斉明天皇は、重祚したとされ661年まで生きていたとされるのは、文献上で孝徳大王を実際より早くに崩御したと改竄したからです。孝徳大王の崩御年は654年ではなく、この661年であり渡来人との抗争の中に亡くなっている。654年に崩御したのは孝徳の皇后であり天皇だった、袁智天皇である。国家転覆の大逆罪である孝徳大王との戦乱を隠蔽している。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳に記述されている文は、まさに日本書紀に矛盾点を暴くものです。
白雉元年である、650年には皇極天皇は天皇として在位中なので、この「袁智天皇」」は誰だかわからないということになっています。日本書紀を疑ってください。
日本書紀の改竄箇所が、この大安寺伽藍縁起并流記資材帳などの他の文献などから推測できます。650年には、袁智天皇という天皇が存在していますから、寶女王が皇極天皇として即位したというのは真実ではない。
推古天皇ー袁智天皇ー斉明天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇である。
この時代は女帝が続くとされますが、「天皇」とは本来は蘇我氏の呼称であり、女帝の呼称である。蘇我馬子によって、そして後に桓武天皇の時代になってこの「天皇」の呼称を使用して改竄されたのです。
聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山背大兄王が殺害されたのは643年の12月です。この時期から争いは激化している。もちろん殺害したのは蘇我入鹿などではなく、百済からの渡来人たちです。この山背大兄王(山代王)も、もちろん大王に即位していました。
そして645年には乙巳の変がおきます。この乙巳の変とは、渡来人たち(天智や鎌足)による百済救援のための朝鮮出兵に反対の立場であった蘇我入鹿、蝦夷の殺害事件です。これもまさしく大王家転覆のクーデターでもある。
大王家と渡来人は朝鮮出兵に関して対立していました。孝徳大王は唐、新羅と同盟関係を結んでいたのです。飛鳥京は危険な状態にありました。
645年にはすでに孝徳大王は、都が危険な状態にあったので、関係していた阿部氏の領地である難波に王后の袁智天皇を避難させていたのです。
もう何度も記述しているところでもありますが、持統天皇の母親はこの阿倍遠智娘であり、孝徳大王の王后です。ですので阿部氏の領地である難波にいたのです。
しかし孝徳大王と姉である斉明天皇は飛鳥にいました。654年に袁智天皇が崩御したため、655年に斉明天皇として飛鳥の地で天皇に即位しました。
実際に大規模な土木工事を行ったのはもちろんこの時の大王である孝徳大王です。
孝徳政権と渡来人との飛鳥京にての争いは、654年に板蓋宮は火災に遭い、焼失して以降にさらに激化する。宮である板蓋宮に火をつけたのは渡来人である。
そしてウイッキペディアの岡本宮の気になる記述で・・・
「斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだ」
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この記述にあるように、斉明天皇(本来は孝徳大王である)は多くの土木工事を行ったとされます。何故にこのような土木工事を行ったかの推測は、この時代は渡来人との戦争中であるということを考慮すれば容易ですよね。
日本書紀 斉明天皇条・・・
斉明天皇二年・・・時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。若據未成之時作此謗乎。又作吉野宮。西海使佐伯連𣑥繩闕位階級・小山下難波吉士國勝等、自百濟還、獻鸚鵡一隻。災岡本宮。
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「狂心渠」・・・斉明天皇の土木工事は、多くの労力を必要とし「たぶれごころのみぞ」と呼んで非難したとされます。
もちろん言うまでもないですが。日本書紀の記述は敵対側の記述であるのです。日本書紀が非難する理由は防御設備の工事だったからです。
日本書紀や古事記は、後の時代に天智系天皇や藤原氏によって改竄された偽書である。
なんと、香久山の西から石上山まで渠(みぞ)を掘って舟二百隻を使って「石上山」の石を運んで「宮の東山」に石垣を築いたとされます。この渠の掘削にはおよそ3万人、そして石垣の建設には7万人もの労力を使い、当時の人々はこの渠を「狂心ノ渠 たぶれごころのみぞ」と呼んで非難したともされます。
日本書紀の記述は敵側、つまり秦氏、藤原氏側の視点からのものである。
そして、何故にこんな土木工事を行ったのかということを考えなければだめです。石を運び防御用の石塁を造っている。
川原宮の東の山に、石塁を造り、ここに戦闘に耐えうる、そして避難用でもあると思いますが新たな宮を築いたわけです。多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのも同様のことです。戦闘用の城でもある。
於宮東山累石爲垣・・・これが後飛鳥岡本宮を守るための石塁である。
酒船石がある丘陵、酒船石遺跡では、その中腹から裾にかけて大規模な造成がおこなわれ石垣が発見されています。これは、宮を守るための戦闘用の城の造成であるように思います。
宮を守るため戦闘用の城を築いたわけです。宮の北側の防御用の出城でもある。城においての堀と同様に、相手に攻め込まれないように運河を築いたわけです。飛鳥近くの多武峰に、石塁や高殿を築いたというのも同様に戦乱に備えてですよね。山城は攻めにくいわけです。
そして656年に新たに岡本に新宮殿が建てられたとされる後飛鳥岡本宮とは、この川原宮の東側の、これも石垣に守られた防御用の宮である。
斉明天皇はこの時、九州の地ではなく飛鳥の地で渡来人との戦乱で殺害されたように思います。
この後飛鳥岡本宮の場所はおそらく、川原宮の東側、いまの岡寺の場所です。地形のわかる地図を見てください。地形的にはおそらくここしかありません。南北と東側は山に囲まれている地形であり、開けている西側だけ防御すればいい「コの字」型の地形です。この開けている西側に石塁を造ったのです。それが記述にある、川原宮の東(宮東山累石爲垣)であり、新しく建設した後飛鳥岡本宮を防御する石塁である。
地図を見ればわかりますが、川原宮の跡地から、岡寺は東の位置になり、酒船石のある丘陵は北東に位置になります。
岡寺は天武天皇の皇子である草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされますが、本来は孝徳大王、斉明天皇の後飛鳥岡本宮である。
渡来人たちの本拠地はやまのうしろ、そう奈良盆地の山の向こう側の山城です。酒船石遺跡周辺の石垣は、この新しく造った後飛鳥岡本宮の北側に位置します。酒船石遺跡周辺の石垣は、宮を守るための、出城でもである。
飛鳥は山に囲まれた狭い地域でもあるので石塁を造れば、宮の北面に対しての防御ができ攻撃から守れる。
天武の時代、壬申の乱以降は、渡来人勢力は弱体化し開けた奈良盆地に進出するのですが、それまで、この山に囲まれた飛鳥の地を都にしたのは、渡来人の脅威から防御しやすい地形にあるからです。
さらに、宮に攻め込まれた場合、地形的に見れば、飛鳥の地において北部から攻め込まれた場合、この多武峰をこえ東部に行き、そこから南に向かって山を越え吉野に逃れるルートを作ったのです。吉野宮滝宮です。吉野にも宮を造ったのは避難場所であるわけです。
戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めるという大規模な土木工事を行いました日本書紀がこの土木工事を非難する理由です。しかしながら戦乱は続くことになります。孝徳大王が、百済救援ではなく、百済討伐の兵を出そうとしていた時に、クーデターが起きます。この時、661年に斉明天皇、そして孝徳大王は殺害されている。
川原寺はこの斉明天皇の菩提を弔うために川原宮の跡地に天武が建てたお寺であるというのが創建の由緒であるように考えています。
藤原氏には都合の悪い由緒である。日本書紀が創建の由来を語らないのはこれが理由だと思います。
これはもちろん、本来の大王だった孝徳大王と渡来人との争いである656年の丙辰の乱である。この戦いの後に孝徳大王は難波に遷都したのです。難波の宮遷都は657年である。
そして難波に遷都する前の、飛鳥京においての本来の孝徳大王の宮こそ後飛鳥岡本宮である。飛鳥京で大きな戦乱が起きたので、難波に遷都、つまり避難したという推測はごく自然な推測のように思うのですが?
それでないと孝徳が難波に遷都した理由がみあたらない。
次回に続きます・・・
最後に、この「狂心渠」、つまり運河というのはどんなものだろうか?地図を見ながらどういう運河だったのかを推測するのは楽しい作業です(*^▽^*)
この「石上山」とは、飛鳥近くの山ではなく、材質から天理市の石上山であるとされます。もちろん近場からも石を調達しているはずです。
石を天理の石上山から飛鳥まで運ばなければならないわけです。重い石を運ぶには水を利用する方法がいいわけですが、記述のように香久山から石上山まで運河を造るのは大変な労力がいるわけで、この時代には難しい作業のように思います。
ですので川を利用するのがいい方法ですよね。ところが、川が目的の場所近くまで流れていれば問題ないのですがそううまくはいきません。
それでは川を利用して出来るだけ目的場所の近くに運ぶにはどうしたらよいのか?
香久山西麓において運河状大溝が発見されています。ここからの推測ですし、古代の川の流れがどの様なものだったのかはわかりませんが・・・?
大和川は上流部では初瀬川といわれ、奈良盆地内の主要な川になり多くの川とも繋がります。この大和川は、初瀬から西に流れ、桜井市を通り北上し、奈良盆地東側の山々から流れる支流をあつめ、もちろん天理の方から流れる支流にも合流し大阪湾の方まで流れます。
古代の都、卑弥呼の都である巻向、桜井から天理というのは古代の中心地でもあり、その中心部を流れ、物流においても古代から最も利用された重要な川です。
ですので、この大和川を利用するのがいいのですが、桜井から東の初瀬が源流となりますので、南の飛鳥方面までは流れていません。
香久山西麓において運河状大溝が発見されているというのなら、この運河に関しては、天理からこの大和川利用して南下し、桜井から飛鳥板蓋宮のそばを流れる飛鳥川に繋ぐための運河だろうと思います。
二つの大きな川を繋ぐ運河を造り石上から飛鳥まで石を運んでいる。
それでも大変な作業です。飛鳥に都を移した時代からすでに工事はおこなわれていたようにも思うのですが?
写真、一枚目、談山神社の十三重塔、二枚目真言宗弘福寺、そして下の写真は、川原寺跡と飛鳥板蓋宮跡、大和川です。