聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

天皇とは蘇我の王のこと

2013年08月02日 | 日本書紀の謎


天皇家は古代から続く王家ではない。
天皇と、王や大王とはちがうということ。天皇というのは蘇我の王のこと。
豊御食炊屋姫尊こと推古は天皇だけど、王,大王ではないということ。
つまり、彼女が本当の初代天皇ですよ。ここ理解できない限り古代史の謎は解けない。

隋書に書かれていてバレてるでしょう。すごく簡単なことなのに・・・

開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。
上、所司に其 の風俗を訪わしむ。
使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて
政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便 ち理務(つとめ)を停め、云う、
我弟に委ねん」と。
高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)
と号す。後宮に女 六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。


柿本人麻呂・・・「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも 」
この大君(おおきみ)とは天武天皇のことと言われているのだけど、この時代でも、おおきみ。
天皇ではない。記紀の謎はすべてここから。古事記、日本書紀は偽書。

日本書紀 推古20年春正月7日 酒をお置いて群卿に宴した。
大臣は寿ぎたてまつって歌った・・・
やすみしし わは大王が おかくれになる 天の八十陰 おでかけの・・・

天皇が和して
ま蘇我よ 蘇我の子は 馬なら 日向の駒だ 太刀なら呉の真刀だ
もっともだなあ 大王が 蘇我の子を お使いになるのも
 
天皇と大王を分けて使っているでしょう。これ、重要なとこ。
この天皇というのは、蘇我氏に関係する王の名称です。


この推古天皇と敏達天皇との娘である田眼皇女は舒明天皇の妃であって皇后では
ありません。
何故かっていうと、推古のお母さんが蘇我の娘だったからです。
蘇我氏は、もとは渡来人だからです。
押坂彦人大兄皇子こと聖徳太子が大王だったから、その子の茅渟王と吉備姫王の
娘の寶女王の方が、蘇我の王の推古の娘より身分がうえだからです。

620年に、蘇我馬子は、聖徳太子?と共に・・・「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并
公民等本記」を作ったわけ。
この時ですよ、天皇の名称をつかって歴史を改竄したのは・・・。
記紀編纂に関係する持統天皇と、元明天皇姉妹は蘇我系の天皇。
鸕野讃良皇女のお母さんは、蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘で、同じく娘の姪娘は
阿閇皇女(元明天皇)のお母さん。

蘇我氏は、もとは葛城地方に居住し、この地方を領地としていた
後に葛城氏を名乗った氏族の下にあった、新羅からの渡来人。
馬具や甲冑の生産した技術集団で、かれらは鞍作と呼ばれていた。
葛城襲津彦のはなしが知られますが、この時新羅から多くの渡来人を招いた。
それが後に、さらに渡来人の増加により大きな勢力になった。

この葛城、御所の地に武内宿禰こと(神武)が宮(秋津遺跡)を作ることになりました。
室大墓古墳はこの武内宿禰のお墓であり、神武のお墓。御所の地名はこれが所以。
蘇我氏はこの武内宿禰を始祖とします。雄略天皇により、葛城氏が滅ばされた
後に、飛鳥に移住し蘇我を名乗った。

神武の東征の物語は、4世紀になって奈良盆地から河内に権力が移行した時のおはなし。







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