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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

スサノオと出雲神話・・・蘇我氏の謎

2023年02月13日 | 日本書紀の謎


今回からは蘇我氏の謎について考えていきます。
それは、古事記・日本書紀は蘇我氏の歴史を基に作られていると思うからです。
蘇我氏が権力を握った時代、蘇我馬子の時に古代の歴史は変更されている。
古代の歴史を変更したのは、蘇我氏、そして秦氏、藤原氏です。

先ずは、記紀に記載がある「日本神話」の謎についてです。
蘇我馬子と聖徳太子が編纂した、蘇我氏の歴史書と思われる「天皇記」「国記」は、現存する記紀の編纂に大きく影響していると思われるからです。
蘇我氏の歴史書であり、「天皇」の呼称は、本来は蘇我の王の呼称である。


そして出雲神話は、蘇我氏が作り出した神話である。

隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
  
623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十大王 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。

ウイッキペディア・・・武寧王
武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「諱は斯麻王という。これは昆支王の子である。

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蘇我氏でよく知られた人物は蘇我馬子です。馬子に蝦夷、入鹿。これらの名前は、ありえないですよね。
良い名といえない、これらの名は、蘇我氏と対立していた藤原氏によって貶められた名であるように思います。

蘇我馬子は、嶋大臣といわれます。馬子の本当の名は「シマ」、蘇我斯麻です。

この名の「シマ」の由来は、邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれたとされますが、なんともおかしな理由ですよね。

この蘇我馬子の名の「斯麻」は、百済の第25代の王である武寧王に因んで名付けられている。馬子が生まれる少し前の百済の有名な王です。
武寧王、諱は「シマ」斯摩、斯麻、嶋君です。強敵である高句麗を破って百済に安定を取り戻した名君としてしられます。

蘇我馬子の本当の名は、斯麻(シマ)です。
隅田八幡神社人物画像鏡の「斯麻」は、蘇我馬子のことです。
すると銘文の「葵未年」は623年になり、「日十大王 ひとおおきみ」とは押坂彦人大兄皇子のことであり、「男弟王」とは推古の息子の竹田皇子のことです。この「男弟王」の表記は、推古が蘇我の女帝だったからです。押坂彦人大兄皇子の異母弟です。蘇我斯麻の甥であり、聖徳太子のことです。
残念ながら、竹田皇子は翌年の624年の2月22日になくなっています。
本当の聖徳太子である竹田皇子の没年は624年です。

推古天皇時、大王が存在していたのは「隋書」の記述により明らかです。
大王だったのが、日十大王こと押坂彦人大兄皇子(おしさかひこ ひとおおえのみこ)であり、彼も聖徳太子です。
ふたりの聖徳太子です。
聖徳太子が謎となっているのは藤原氏の改竄です。それは、押坂彦人大王と竹田皇子がともに藤原氏に祟ったからです。

隅田八幡神社人物画像鏡は、蘇我の皇子である竹田皇子の、病状回復を願って斯麻(蘇我馬子)が奉納した鏡です。
仏教を興した聖徳太子とは、この推古天皇の息子の竹田皇子のことです。系譜が変更されています。

「天皇記」「国記」は、蘇我馬子と、この竹田皇子が編纂した蘇我の歴史書であり、蘇我氏の主張の歴史とも言えます。
「天皇」の呼称はこの時に作り出されたものであり、本来は蘇我の王の呼称ということです。

現存古事記は、この「国記」を基に編纂されているように思います。
つまり、出雲神話を作り出したのは、大変賢かったとされる蘇我の皇子であるこの竹田皇子が作った物語である。

蘇我氏は、武内宿禰を祖としますが、蘇我馬子の父親である、稲目以前ははっきりとした歴史はわかっていません。
渡来系とも言われますが、これとて確証はありません。
私は古代に朝鮮半島(弁韓  伽耶)から渡来し、出雲を経由し河内、紀伊から奈良盆地に移住した製鉄技術を伝えた部族だったように思います。古代には頻繁に往来がったと思われます。
物部より先に、移住していた先住部族であるように思います。


写真は石上神宮です。

まず、初めは日本神話。これは、蘇我馬子と、竹田皇子が大きく関わる。

スサノオが活躍する出雲神話と、出雲大社の謎についてです。
何故に、神話の舞台は山陰地方の「出雲」の地なのだろうか?おかしいですよね?
最近、出雲大社の境内から巨木を3本を束ねて一柱としただろう、宇豆柱が見つかり注目されました。
古代の出雲大社は、驚くほどの高層建築物であったことが記載されています。

出雲大社には大きな謎があります。
どうして、神様を祭るのに高層建築でなければならないのか?
祟り神を篤く祀るためには、社殿を高く作る必要なんてあるのだろうか?
なにか出雲大社には秘密があるように思う。

古事記は、和銅5年(712年)に、太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたとされます。
この古事記にある日本神話は、一体誰が作り出した物語なのだろうか?

有名な出雲神話は、本当に、山陰地方の「出雲」に伝わる物語なのだろうか?
大国主命が治める葦原中国を天照大神に献上した神話の舞台は、大和政権の本拠地である奈良盆地でなければおかしいと思いませんか?

天つ神が住んでいる高天原と、黄泉の国の間にあるとされる世界が「葦原中国」とされます。人間が生活する地上世界のことです。
天つ神、つまり大和王権が、葦原中国を征服したという物語です。
葦原中国を統べるのは大国主命です。大国主命の国譲り、葦原中国とは大和王権の中心地、つまり本来の舞台は奈良盆地内の物語である。

大和王権とは、物部国であり、この国譲りとは、大和の地に天下った物部がこの地を征服したというのが本来の物語です。神武より先に物部がこの大和の地に降り立っています。
そして先住部族が「出雲族」です。

出雲神話、山陰地方の出雲の地を征服したという物語ではなく、大王家が大和の地を征服したという物語でなくてはおかしい。

この「出雲」は奈良盆地内の出雲のはずです。古代の中心地である邪馬台国の纏向、神様の山である三輪山そばに「出雲」という土地があるのです。
大和の「出雲」から、山陰の「出雲」に、国つ神である大国主命が追放されたというこです。この地名「出雲」も、そうかもしれません。

そして、記紀にある、日本神話、イザナギ・イザナミの二神による、国生みと神生みの物語に始まる日本神話は、聖徳太子の創作による物語です。
この聖徳太子とは、推古天皇の息子である竹田皇子です。
「天皇記」、「国記」は、推古28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書です。蘇我の歴史書ともいえます。

日本神話は、この「国記」に記述されていた物語である。

645年の乙巳の変の際、蘇我蝦夷の邸宅の焼き討ちで天皇記は、焼失したとされますが、「国記」は戦火の中から出され、天智天皇のもとに渡ったとされます。
乙巳の変のクーデタを起こし、蘇我本宗家を滅ぼしたのは、、秦氏の王子である、中大兄皇子と、百済からの渡来人、偽物中臣鎌足です。記紀改竄はこの天智系天皇である桓武天皇の時代、つまり秦氏、藤原氏の時代におこなわれている。

それは、この蘇我氏は葛城系の王家の、配下の氏族です、蘇我氏はこの渡来系氏族を配下にして力を付けてきました。
渡来系氏族である秦氏も、元はこの蘇我氏配下の氏族でした。物部系王家と葛城系王家との争いです。葛城氏が滅んだ後も、物部と蘇我の争いは続いている。

葛城系王家の始祖といえるのが、武内宿禰であり、蘇我氏も秦氏もこの武内宿禰を始祖とします。
ですので、神武天皇とはこの武内宿禰のことです。

「天皇記」、「国記」ー「帝紀」、「旧辞」ー「日本書紀」、「古事記」

古事記は、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂したとされますが、現存する古事記は、620年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「国記」を基に作られている。

今まで何度も記述してきたところです、秦氏の王である桓武天皇時に改竄された記紀は、この蘇我氏の歴史ともいえる、「天皇記」、「国記」を基に変更している。歴史を変更したのは、秦氏、藤原氏です。
それは、「天皇記」、「国記」は蘇我氏の歴史書であり、葛城系の王家の物語です。秦氏もまたこの葛城系の氏族です。

蘇我氏も百済系秦氏も、もとは葛城系王家配下の渡来系氏族です。
蘇我氏も秦氏もともに、武内宿禰を祖とします。神武天皇のことです。
紀氏の人物であり、紀(姫)氏の武、本当の名は「姫 武」、神様の武で「神武」です。
武内宿禰は、蘇我の歴史書である「天皇記」、「国記」において神武天皇として描かれていた人物です。

現存記紀は。この葛城系王家の歴史書です。
武内宿禰は、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖であり、これらの氏族が葛城系氏族です。
渡来系氏族の秦氏もまたこの武内宿禰を始祖とします。
物部系氏族とは、この葛城系以外の大伴氏、阿部氏、佐伯氏、春日氏などの有力豪族です。
邪馬台国はこの物部系大王家の国です。物部系と葛城系、大和王権内の権力争いです。
記紀に邪馬台国、卑弥呼のことが記述されていないのはこれが理由です。


大国主命の国譲り、葦原中国平定において、最後に活躍するのが、建御雷神(タケミカヅチ)という神様です。
この建御雷神を守護神としているのは藤原氏です。
出雲大社造ったのも、この建御雷神とされます。それは、大国主命が藤原氏に祟ったからに他ならない。藤原氏による祟り神追放である。

大国主命から国譲りを成功させ、出雲大社を造ったのは藤原氏であるということを主張しているわけです。
出雲大社は、藤原氏に祟った後に建設されたものである。

ウイッキペディア・・・タケミカヅチ
『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある
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別名の建布都神、豊布都神とは、物部の神様の名前です。物部氏による、葦原中国(奈良盆地)平定の物語を藤原氏による武力平定の話に変更している。
物部系大王家と葛城系大王家の争いが古代から続いているのです。


日本神話が語られ現存する「古事記」は、この蘇我氏の歴史書である「国記」を基に作られているように思う。

古事記は、ほぼこの「国記」そのもであり、出雲神話を重視するこの古事記における神話は、蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)によって作られた物語である。
仏教を興し非常に賢かったとされる聖徳太子とは、この推古天皇の息子の竹田皇子のことです。竹田皇子は蘇我の皇子であり、蘇我氏で初めて大王家と血の繋がりを持った人物です。

日本神話は、主にこの本来の聖徳太子こと竹田皇子の作り出した物語であるように思います。
そして、出雲神話の舞台も、大和政権の中心地である大和盆地内である。
そして、神話は蘇我氏と物部氏の争いが描かれている。

後に蘇我氏と対立するようになった藤原氏により、蘇我の神様を山陰の「出雲」の地に、追放している、それは、この地は、元は蘇我氏が弁韓 (伽耶)?から降り立った場所だからです。
藤原氏による神話の変更箇所です。

そしてこの地は「出雲」という地名ではなかった。蘇我の神様をこの地に追放してから、名付けられた地名である。
蘇我氏もまた、秦氏、藤原氏に祟ったからです。それはいうまでもなく、蘇我本宗家を滅ぼしたからです。蘇我氏も祟ったと思われたのです。



写真、出雲の文字の西側にある山が三輪山です。
古事記にある出雲神話は、もちろん山陰地方の出雲が舞台とされます。
これ誰も?疑わないのですが、そうではない。

これは、スサノオの八岐大蛇退治の物語が、出雲国風土記にないことからも推測できます。オオクニヌシの因幡の白ウサギの物語もありません。
竹田皇子が出雲神話を作る時には、もちろん出雲に伝わる伝説を参照しているはずです。

出雲国風土記にないこのスサノオの八岐大蛇退治の物語は、「国記」編纂時に作り出した物語だからです。出雲に伝わる伝説ではないからです。
実は、大和王権の中心地である奈良盆地内、三輪山そばにも「出雲」の地名があるのです。

特にスサノオがヤマタノロチ(八岐大蛇)を退治し、三種の神器のひとつとなった草那藝之大刀を得た話の舞台は、奈良盆地にある「出雲」が舞台である。この出雲神話」の舞台を、山陰の蘇我氏の出自に関係する土地に移したのです。

スサノオは古事記では、建速須佐之男命、日本書紀では素戔男尊、素戔嗚尊などと表記されています。
この「スサノオ」とは「ソガノオウ」のことであり、蘇我氏の神様のことです。



そしてヤマタノオロチ(八岐大蛇)とは、三輪山の神のことである。
三輪山の主祭神の大物主神とは、大いなる物の神ということであり、もちろん物部氏の神様のことです。

有名な、三輪の大物主大神の化身は白蛇とされます。親しみを込めて「巳さん」と呼ばれていて、いまも蛇の好物である卵がお供えされています。

箸墓古墳に関する、よく知られる倭迹迹日百襲姫命の伝説です。

ウイッキペディア・・・
百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え
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崇神天皇のときに、災害が多く発生し原因を占ったところ、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が憑依して、自分を祀るようにとの託宣をしました。
三輪山に大物主を祭るようになり、これが大神神社の始まりの物語です。

倭人伝にある卑弥呼の「鬼道」という神祭りとは、三輪山の神祭りの事です。
卑弥呼は物部姫である。記紀に卑弥呼のことが記述されない理由です。
記紀は葛城系の王家の歴史書です。蘇我氏はこの葛城系の氏族です。

崇神天皇とは、物部系の王であり、ハツクニシラススメラミコトです。
これは物部がこの地を征服して、物部の神を祭ったということを表しています。

大物主神とは、大いなる物の神。つまり物部の神様のことです。
物部氏の祖であり神様である、邇芸速日命こと「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」のことだともいえます。
本来の「天照大神」のことであり、記紀にある崇神天皇ともいえます。

物部氏は広範囲に分布することから、この物部氏の神様である邇芸速日命を祀る神社が多数あったはずです。
この神様を歴史から抹殺しようしている。
どうして、天照大神は大和の地で祀られていないのか?おかしいですよね。

古代の歴史を改竄した犯罪者達は、葛城系王家の蘇我氏、そして秦氏、藤原氏である。
蘇我の神様ともいえる応神天皇と、神功皇后を祀る神社、つまり八幡神社の多くは元は物部神社である。


邇芸速日命と長髄彦の妹の登美夜毘売こと、三炊屋媛が結婚し、生まれたのが、物部氏の祖である宇摩志麻遅命です。
三炊屋媛は御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命などとも表記されます。
宇摩志麻遅命は、可美麻手命(うましまでのみこと)ともされますが、これはもちろん「カミ」であり「神麻手命」ということです。
物部氏の祖です。

伝説は、物部の神様を蛇だとして貶めています。そしてこの古墳の被葬者は、箸で陰部を突いて死んでしまったとされます。
伝説が変更され、悪く書かれているの、箸墓の被葬者は物部姫だからです。

本来の箸墓の被葬者は魏志倭人伝、卑弥呼である台与です。邪馬台国は物部国です。
葛城系の王である神武天皇より先に、奈良盆地を平定したのは物部氏です。

スサノオは、ヤマタノロチ(八岐大蛇)を退治して、助けた櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚します。
クシナダヒメとは櫛を挿した巫女であるということです。櫛は、「髪し」であり、「霊し」でもあります。

櫛は呪力を持っているとされており、クシナダヒメとは巫女である卑弥呼(台与)のことをいっているのです。
箸で陰部を突いため亡くなったといことは、もちろん真実ではありません。
ですので、彼女のお墓は、「箸墓」ではなく「櫛墓」であったように思います。
卑弥呼である、台与のお墓です。

蘇我氏の祖である神武天皇(武内宿禰 スサノオ)と、卑弥呼(台与 神功皇后 クシナダヒメ)とが結婚し生まれた子供が、これも蘇我の神様である応神天皇としているのです。

記紀に、邪馬台国、卑弥呼の話が語られないのは、物部姫であるからです。
記紀は、蘇我の歴史書である、「天皇記」、「国記」を基に改竄された歴史書であり、この「天皇記」、「国記」が語る王家は、葛城系の王家の物語だからです。物部系と葛城系の王家の争いです。



何度も記述しているところですが、凄く重要なところです。
物部氏は、九州から中国地方、近畿から中部、北陸、関東まで広範囲に分布します。これほど広範囲に分布する氏族は他にありません。

この氏族名は、もちろん後のものです。ですが我々は物部だと主張しているところが重要です。他の氏族を圧倒する勢力地です。
古代は力の時代です。広範囲に分布するということは、つまり広範囲の勢力地を持っていたということです。いうところの大和政権です。

どうして邪馬台国、卑弥呼のことが分からないのか?どうして謎の4世紀となっているのか?
それは、蘇我氏により、物部姫である卑弥呼(台与)を蘇我の女性(神功皇后)として変更しているからです。
古代の大王家は、この物部氏が多く関わるからです。
そして蘇我氏はこの物部系の大王と戦った、葛城系の氏族だからです。

神武天皇(武内宿禰)と卑弥呼(台与 神功皇后)との子供が応神天皇であり、継体天皇はこの応神天皇の五世の孫です。
継体天皇の皇子は欽明天皇だけです。安閑天皇、宣化天皇は、継体天皇の皇子ではなく物部系の王子たちです。

蘇我の女帝である推古天皇の父親はこの欽明天皇であり、欽明天皇の父親はこの継体天皇です。蘇我の女帝である推古天皇の系譜を遡れば容易に推測できます。
蘇我氏の正統性を主張する葛城系の王の系図であり。蘇我氏を大王家と繋げた系図です。
蘇我氏は武内宿禰を祖とし、応神天皇は蘇我の神様とも言えます。

蘇我氏の歴史書である「天皇記」、「国記」において主張していた葛城系の王家の系譜です。

この蘇我氏の祖である、武内宿禰は、孝元天皇から繋がります。

孝元天皇ー彦太忍信命ー屋主忍男武雄心命ー武内宿禰

そうであるなら、蘇我氏の祖は孝元天皇であり、我々は天皇家と繋がると主張すればいいわけですよね。
そうなっていないのは、「天皇記」、「国記」においての始まりの物語は、神武天皇(武内宿禰)と卑弥呼(台与 神功皇后)から記述されていたからです。倭人伝、卑弥呼を蘇我の女性(神功皇后)として変更しているのです。

武内宿禰は紀氏の人物であり、紀武内宿禰ともいわれ、葛城系の王家の始祖です。子供が蘇我の神様といえる応神天皇です。
応神天皇から継体天皇に繋げる蘇我氏の系譜です。

そして渡来系氏族の秦氏もまたこの武内宿禰を始祖とします。葛城系の王家の始祖です。
中大兄皇子は、秦氏の皇子であり、天智系天皇である桓武天皇から繋がる、現天皇家は秦王家です。現存「記紀」はこの葛城系の王家の主張でる。

崇神天皇は物部系の大王です。物部系の系譜に葛城系の系譜を繋げているのです。よくいわれる、欠史八代は、後に加筆修正されたものだからです。



出雲神話、物部の神様である、三輪山の大物主神(ヤマタノロチ)を、蘇我の神様であるスサノオが退治したという物語である。
ヤマタノオロチを退治し、三種の神器である草薙剣を得たという事は、物部から王座を簒奪したということです。

スサノオがヤマタノオロチを退治した時の剣が、布都斯魂大神(天羽々斬剣)です。石上神宮の神剣です。

石上神宮には、三つの神剣が祭られています。

布都御魂大神・・・主祭神とされますが、そうではない。建御雷神(タケミカヅチ)が、葦原中国を平定した時に使用した剣。建御雷神とは藤原氏の神であり、秦氏、藤原氏による記紀改竄時に変更した箇所です。後に神武天皇が大和の征服に使用した剣ともされます。
秦の始皇帝の末裔を主張する秦氏により、徐福伝説を神武の東征の物語に取り入れている。
徐 福の別名は徐巿(じょふつ)です。この布都御魂(ふつのみたま)とは徐巿(じょふつ)のことです。
秦氏による「秦の始皇帝の末裔」の主張が真実(真実ではないでしょうが・・・)であるのなら、現天皇家は秦の始皇帝の末裔です。

布留御魂大神・・・物部の神様である饒速日命が授かった剣。十種神宝の剣です。王位継承のしるしである三種の神器の剣であり、ヤマタノオロチの尾から出てきた草那藝之大刀とはこの剣です。
石上神宮は、地名が布留であり、布留社ともいいます。本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」と称します。石上坐布留御魂神社です。
つまり、この剣こそ本来の主祭神です。物部の神、饒速日命こと、天照大神の剣です。

布都斯魂大神・・・天羽々斬剣ともいいスサノオがヤマタノオロチを退治し時に使用した剣。蘇我氏が草那藝之大刀(布留御魂大神)を得て王位継承の剣を得たということです。物部との争いで勝利したということを云っているわけです。
スサノオのヤマタノオロチ退治の物語であり、この神話は蘇我氏が創作したということです。
蘇我の歴史書である「国記」編纂時に、作り出した神話です。ですので「出雲国風土記」にはないのです。

布都御魂大神とは、御雷神、神武天皇(武内宿禰)、秦氏の祖はこの武内宿禰です。秦氏、藤原氏。
布留御魂大神とは、饒速日命、物部氏。
布都斯魂大神とは、スサノオ、蘇我氏。
物部氏、蘇我氏に秦氏、藤原氏は王位を得た各氏族です。

スサノオがヤマタノオロチを退治した話が、「出雲国風土記」ないことや、神話に登場する剣が、この石上神宮の剣に関することからも、この神話物語の舞台は奈良盆地の「出雲」であるはずです。

本来これらの剣は、卑弥呼(台与)が魏から賜った剣であり、物部の神剣なのですが、最終的に権力を握った、秦氏、藤原氏によって変更されている。
この「フツノミタマ」とは、徐福のことです。秦氏は秦の始皇帝の末裔だということを主張しています。

皇祖神宮とは、伊勢神宮ではなく本来はこの石上神宮ですよ。

出雲神話は、基は蘇我氏の創作神話である。推古の息子の竹田皇子は、蘇我氏の人物で初めて大王家の血が流れる蘇我の皇子です。
スサノオがヤマタノオロチを退治した物語は、この竹田皇子の創作物語である。
推古天皇は蘇我の女性で初めて大王家と婚姻した女性であり、推古は蘇我の女帝です。
推古天皇時、太子だったのはこの息子である竹田皇子であり、賢かったとされる聖徳太子とはこの竹田皇子のことです。

つまりこの出雲神話は、推古28年(620年)に聖徳太子(竹田皇子)と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書「天皇記」、「国記」に記述されていた神話です。古事記が推古天皇までである理由です。
推古は蘇我の王である「天皇」ですが、「大王」ではありません。推古が王でないことは隋書により明らかです。
蘇我の歴史書であり、葛城系の蘇我氏の主張です。
この時代(推古天皇)の本来の王である大王は、押坂彦人大兄大王、日十大王です。

秦氏、藤原氏の都合での変更はありますが、古事記は、この「国記」、ほぼそのものである。

神武天皇とは、この葛城系の大王のことです。物部系の大王は崇神天皇です。
「はつくにしらすすめらみこと」が二人いる理由です。
大和王権内で、物部系と葛城系の争いがあり、蘇我氏はこの葛城系の氏族です。秦氏。藤原氏も葛城系王家側の氏族です。

記紀にある出雲神話の舞台はここ、三輪山そばの出雲です。




そして、このスサノオとヤマタノオロチの戦いの神話が事実に基づいているとしたら、スサノオとは神武天皇であり、ヤマタノオロチとは、神武と戦ったとされる、出雲族の王である、長髄彦のことである。

出雲族とは、山陰の出雲からこの奈良盆地に移住し、銅鐸の祭をしていた出雲族のことであると思われます。大和盆地内の先住部族である。

ウイッキペディア・・・長髄彦
『日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。
長髄とは『日本書紀』では邑の名であるとされている。
長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。
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登美毘古の「とみ」は、奈良市富雄周辺の地のことだとされます。でもここではないように思う。
この地は、邇芸速日命が、河内から大和の地に降り立った場所であり、この奈良盆地に物部が造った国が、邪馬台国、ヤマト国です。

神武天皇の物語は、魏志倭人伝にある卑弥呼以降、4世紀以降の物部と葛城系の争いの話であり、邇芸速日命と神武天皇とは時代が異なります。
この邇芸速日命がナガスネヒコの妹である登美夜須毘売を娶って生まれた子供が物部の祖である宇摩志麻遅命です。
ですので、神武天皇はナガスネヒコと戦うことはあり得ません。時代が異なります。

物語が変更されているのです。本来は、物部の邇芸速日命とナガスネヒコとの争いの物語を、神武天皇との争いに変更しているのです。つまり、神武天皇とは物部の始祖王と葛城の始祖王の物語を纏めたものであるともいえます。
葛城系の王である神武天皇を、物部の王である邇芸速日命と同時代、つまり卑弥呼(台与)の時代に持ってきているのです。
葛城系の神武天皇(武内宿禰)と、物部系の卑弥呼(台与)の子供が、これも蘇我の神様ともいえる応神天皇だとしているのです。

継体天皇は、蘇我の神様ともいえる応神天皇の5世の子孫です。この継体天皇は本来の王ではありません。
蘇我の女帝である、推古天皇の祖父を大王家に繋いでいるのです。
継体天皇が蘇我の王である天皇に即位したというのは、蘇我氏の主張であるのです。

この葛城系氏族は、もとは大和王権内、物部配下の氏族です。大和王権内の権力争い、内乱ということです。

最近、この地の古墳で大きな発見がありました。国内最大級の円墳である、富雄丸山古墳から国宝級の蛇行剣と、盾形銅鏡が発見され話題になりました。この地は物部の支配地であり、この古墳も、物部氏の王のお墓です。

謎の4世紀、この古墳の被葬者は誰なのかの推測は難しいですよね。
この蛇行剣と、盾形銅鏡はともに、石上神宮の宝物庫で祭られていたものであると思います。
ですので、大王から神祇祭祀のことを命じられ、石上神宮の神宝を管理していたという(物部連による石上神宮の神宝管掌の起源譚)、物部十千根、あるいは子供の物部胆咋のお墓ではないのかな?

ナガスネヒコは、天神族の物部が、奈良盆地に来る以前に移住していた、先住部族の王です。物部が天下った後に物部の配下となりました。

神武の東征において、奈良盆地内で最後に戦ったとされるのが、この先住部族の王であるナガスネヒコ(長髄彦)です。
記紀に言う土雲(土蜘蛛)のことです。本来は出る蜘蛛で、出雲(出蜘蛛)ということです。

神武天皇は八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、大和の宇陀に至りました。初瀬街道(国道165号)、この出雲の地から東が、宇陀です。
この宇陀から大和盆地に入ろうとすると、玄関口がこの出雲の地であり、交通の要所でもあります。
神武軍が、紀伊半島を迂回し、長髄彦と再び対峙した場所と思われます。

ナガスネとは地名であると記されています。そしてこの「トミ」も地名であるとされます。
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とあるように、この「トミ」というのが地名であると考えられています
この「トミ」とは、本来は「とみ 鳥見」だったようにも思います。
この鳥見という地名は神武天皇の鳶に由来すると記されてもいます。

この桜井市の出雲の地の近辺にも、ふたつの鳥見山があります。宇陀と桜井の間にある鳥見山と、桜井の出雲にある鳥見山です。
この桜井にある鳥見山の山上には、等彌(とみ)神社が鎮座していたとされ、神武天皇が皇祖天神を祀ったとする鳥見霊畤の伝承地です。

「ナガスネ」もまた地名、邑の名あるとされるのは、この地の地形からの由来ではないかな?
この地は奈良盆地内では最も重要な河川ともいえる。大和川の上流にあたり、ここでは初瀬川と称されます。東から西側へは高低差があり、この地の「長谷」、「初瀬」とは「早瀬」のことであり、東から奈良盆地内に下る急流であったと思われます。

大和川は、貝ヶ平山付近に源であり、西流して桜井市の市街地付近で奈良盆地に入ります。盆地に流れるまで、かなりの高低差があります。
この川によって造られた渓谷、つまり谷間にあるのがこの「出雲」の地です。
この初瀬川(大和川)の流れる地形、長い急流、「ナガイセ」、つまり「長い瀬」から「ナガスネ」に変化したのではないのかな・・・と私は思うのですが?
つまりナガスネヒコの名は、「ナガイセ」から「ナガスネ」に変化した地名からの由来であるということではないのかな?
髄が長いという身体的特徴が地名になることはありません。地形の形状から、地名になる場合が多い。

古代からの中心地とも言え、奈良盆地から東国に通じる、交通の要所であり、重要な場所でもあります。伊勢街道、初瀬街道です。
ナガスネヒコの本来の本拠地ではなかったのかな?
「出雲族」のナガスネヒコということです。出雲の国譲りです。


写真は、泊瀬朝倉宮の伝承の地にある春日神社です。

そしてこの地を舞台にしたもう一つの大きな理由は、この「出雲」の地は、雄略天皇の宮である泊瀬朝倉宮のあった場所です。
出雲の国譲りの神話に関しても凄く重要なところです。以前に記述しましたが、雄略天皇と武烈天皇は同一人物です。
武烈天皇の宮もこの出雲の地にあります。
「出雲の国譲り」はこの雄略天皇の時代の物語を記述したものである。

雄略天皇の同母兄の安康天皇の宮は、 石上穴穂宮です。石上は物部の本地でもあり、弟の雄略天皇も物部系の大王です。
葛城氏を滅ぼしたのは、この雄略天皇です。倭の五王の時代。彼の名も「武」、倭王武です。
葛城系の王家としては憎き大王です。物部系王家と葛城系王家との争いです。

記紀において、この雄略天皇、そして武烈天皇は残酷で悪く描かれているのはこれが理由です。
謎の4世紀となっているのは、物部系と葛城系の争いにおいて、物部系の大王家の勝利の歴史であるからです。



同じく桜井市には相撲発祥の地、大兵主神社神域内小字カタヤケシ(野見宿禰社)があります。

この地で葛城の当麻蹴速と、出雲の野見宿禰が相撲を行いました。戦いの結果は野見宿禰が勝利しました。
この当麻とは、もちろん奈良盆地内の葛城地方ですが、問題は野見宿の出身地であるこの「出雲」です。

この野見宿禰の出身地の「出雲」は、山陰の出雲ではなく、桜井市の「出雲」です。古代、遠方から相撲を取りにはきません。

この相撲の話は、物部の雄略天皇による葛城氏を滅ぼした事を例えているように思う。出雲の野見宿禰と葛城の当麻蹴速が相撲し、勝利した野見宿禰が、葛城の地を得たという話です。物部と葛城の戦いにより物部の勝利となったことの例えです。

この奈良盆地の出雲族が、山陰地方に進出し出雲という地名がついたのか?
山陰地方の「出雲」は、神々を追放するときに、名付けられたもであって、元の地名由来は、この奈良盆地内の「出雲」が由来であるのか?
出る蜘蛛で、出雲(出蜘蛛)、皇祖神武と戦った土蜘蛛がいた場所であるということです。
では、相撲を取った時代には、山陰地方には「出雲」という地名はなかったということなのか?

そうではないと思います。これは銅鐸の分布から推測できるのではないのか?ただ「イズモ」にこの字、「出雲」を充てていたかは疑問です。
山陰地方のイズモ族が、畿内に進出し、「イズモ」という地名がついたように思います。
渡来系である蘇我氏はイズモ族といっていいのか解りませんが。
山陰地方、このイズモの地、日本海ルート、近江からを、河内、紀伊、そして奈良に進出したのが蘇我氏であったように思います。

銅鐸を祭祀に使用する部族であり、物部のがこの地に来る以前に、奈良盆地内で居住していた部族である。


写真は大和、桜井の出雲にある野見宿禰のお墓です。
古代の歴史は、この秦氏、藤原氏と蘇我氏、蘇我馬子による歴史の改竄があります。それは古代の大王家は物部氏が大きく関わるからです。

「天皇記」、「国記」ー「帝紀」、「旧辞」ー「日本書紀」、「古事記」

「天皇記」、「国記」は葛城系の歴史書であり、蘇我氏の王である「天皇」の正統性を主張するものである。
「天皇記」は焼失されたとされますが、「国記」は残っています。

「帝紀」、「旧辞」は、天武天皇が編纂を命じたということからも、物部系の歴史書である。しかしこの「国記」は参照されている。
共に記紀の基本資料とされ、各氏族伝来の歴史を纏めたものだと考えられている。
ですが、秦氏の王である桓武天皇による記紀改竄時には、蘇我氏の歴史書である「国記」を基に変更している。

それは、秦氏は、基は葛城系の王家に使えた蘇我氏配下の渡来人だったからです。
倭の五王の時代は、大和王権内の物部系と葛城系の争いの時代です。神武の東征の畿内での物語はこの物部系と葛城系の争いの物語です。

神武天皇は葛城系の王です。蘇我氏の祖である武内宿禰のことです。
武内宿禰、名前は武内ではなく、武です。武の内宿禰(たけのうちのすくね)です。神様の武で神武天皇ということです。
神武の東征というのは、本来は4世紀、つまり邪馬台国以降における大和王権内の内乱(物部系と葛城系)のことです。倭の五王の時代です。

武内宿禰は、この蘇我氏や紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏など中央有力豪族の祖です。これが葛城系の王家です。
武内宿禰は、八代天皇である孝元天皇から繋がります。それであるなら、蘇我氏の祖をこの孝元天皇に求めればいいわけです。そう主張するはずですよね。
ですがそうなっていないのは、この系譜は後に関連付けられた系図であるからです。

初代天皇はこの、武内宿禰こと神武天皇である。
武内宿禰は、紀氏(姫氏)の人物であり。紀氏は、本来は姫氏であり、武内宿禰の本当の名は、一文字「姫 武 きのたける」であり、神様の武で神武天皇である。天皇家の姓は、「姫」です。

葛城氏を滅ぼした雄略天皇は物部系の大王であり、天武天皇に繋がります。
しかしこの大和王権での内部抗争ともいえるこの争いは、続いている。
そう物部氏と蘇我氏の争いです。

「天皇記」、「国記」は、推古28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書です。蘇我の歴史書であり、葛城系の王家の話です。蘇我氏の祖は、武内宿禰です。

この蘇我馬子とともに編纂した、この聖徳太子とは、推古天皇の息子の竹田皇子のことです。仏教を興し賢かったとされる聖徳太子とはこの竹田皇子です。おそらくですが、神話の物語を作り出したのはこの竹田皇子であるように思います。本来の聖徳太子です。

この竹田皇子は蘇我の皇子であり、蘇我馬子と共に編纂したという、この「天皇記」、「国記」は蘇我の歴史書であり、「天皇」は蘇我の王の呼称です。
この「天皇記」、「国記」共に失われていてその内容は全く不明とされます。
しかし、日本書紀においては、蘇我氏本宗家が滅んだ時に「天皇記」は失われ、国記だけは持ち出されて中大兄皇子に献上されたとされます。

蘇我本宗家を滅ぼしたのはこの秦氏(中大兄皇子)、藤原氏(偽物中臣鎌足)です。

現存する古事記、日本書紀はこの「天皇記」、「国記」を基に改竄されている。
特に古事記なんてこの「国記」そのもののような気がする?

理由は、それは蘇我の王である推古天皇までであるからです。推古天皇は本来の王ではないのです。

古事記」は712年、「日本書紀」は720年の成立したとされます。
和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立します。
そうであるなら、何故に古事記は、元明天皇まででなく、推古天皇までなのでしょうか?
「天皇記」、「国記」は推古天皇の時代に編纂されています。
蘇我氏の歴史書であり、本来は大王家と関係のなかった蘇我氏を大王家と関連づけ、蘇我氏の王である「天皇」の正統性を語る書物です。
現存する「古事記」はこの712年のもではありません。後の時代に編纂されたものです。

何度も記述して来たところです。実際の初代天皇はこの推古天皇であり蘇我の女帝です。本当の「大王」ではありません。
「天皇記」、「国記」はこの推古天皇時に編纂されたものです。天皇とは蘇我の王の呼称です。
ですが、推古天皇時には本来の大王が存在します。押坂彦人大王です。
これは「隋書」の記述により明らかです。天皇の推古天皇と、大王である押坂彦人大王です。隅田八幡の「日十大王」です。

ですので、本来の日本書紀、古事記には推古天皇条なんて存在していません。
推古天皇条が存在するのは、この蘇我の歴史である「天皇記」、「国記」のみです。
つまり、現存「古事記」は、蘇我の歴史を描いた「国記」そのものである。

現存「古事記」は、620年に編纂された「国記」そのものである。
それは、出雲神話を重視していることからも推測できる。
蘇我氏の出自に関係するように思う。
出雲神話にて活躍するのはスサノオです。このスサノオとは、蘇我王、つまりソガノオウであり、蘇我氏の祖先神です。
このスサノオはソガノオであるという事を唱えている学者先生は何人かはいるように思います。その通りであるように思います。

であるならば、出雲神話は、蘇我氏が作り出した神話とも言え、蘇我の歴史書である「天皇記」、「国記」においての神話である。

スサノオは、古事記では建速須佐之男命、日本書紀では素戔男尊、素戔嗚尊等、須佐乃袁尊と記述されます。
素戔とは蘇我である。このことからも蘇我氏の謎は解けるように思う。

蘇我氏は、蘇我稲目以前は不確かなことが多く謎だとされます。
朝鮮半島から山陰の出雲に渡来し、その後日本海側、近江から畿内河内、そして奈良盆地に進出した渡来系氏族であるように思う。
伽耶(加羅)、あるいは新羅?から出雲の地に製鉄の技術を伝えた氏族でもあるのかな?

蘇我氏は出雲族ではないのだろうか?
これは蘇我氏のお墓の形状からも推測できる。蘇我氏が権力を握った時代は、前方後円墳から方墳になっています。

日本海側の山陰地方を主に、出雲地方の古墳は、四隅突出型墳丘墓という特異な形状の古墳が知られます。
この古墳は、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓ですが、この古墳も方墳といえば方墳ですよね。
墳丘墓の上で、葬送の儀式が行われるようになったからでしょうか?

出雲には、造山古墳という古墳時代前期に築造された大きな方墳があります。
出雲地方の古墳の形状は方墳であり、蘇我氏のお墓も方墳である。

前方後円墳といのが特異な形状であり、もともと墳丘墓は、円墳や方墳であったはずです。
スサノオは蘇我の神であり、出自をスサノオの物語として語らせているともいえます。
何故かスサノオは新羅から渡ってきています。
高天原を追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨に降り、その後に息子の五十猛神と共に出雲国に渡っています。蘇我氏は、基は新羅からの渡来系氏族であるということであるということを語っているのですが・・・?
ただしこれは、対立していた百済系渡来人である秦氏によって変更されている可能性はあるように思う。

それでは、蘇我氏はいつ渡来してきたか?これは、卑弥呼による朝鮮半島出兵の後である。
倭の五王の時代、倭国が朝鮮半島南部を支配下とし、影響力があった時代に、任那、つまり伽耶(加羅)や、新羅から渡来してきた部族であるように思います。
蘇我氏は、出雲から近江、そして大和盆地に進出してきた先住部族、出雲族であったように思います。

長文になりますので、出雲大社の謎は次回に続きます。
下の写真1枚目
弥生時代の環濠集落である唐子・鍵遺跡遺跡の楼閣です。この楼閣はここで発見された土器に描かれていたものを再現したものです。
大和盆地内の先住部族の集落跡であり、この集落がすたれ始めたころ、奈良盆地南東部に2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡である纏向遺跡が繫栄していきます。卑弥呼の時代、邪馬台国です。














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牽牛子塚古墳と益田岩船

2022年12月13日 | 日本書紀の謎


飛鳥にある牽牛子塚古墳が綺麗に復元整備されました。この時代の大王家(天皇家ではない)の陵墓に特徴的な八角墳に造り変えられました。
写真のように、八角形を三段重ねた古墳が復元されています。

この古墳は、墳丘が多角形(八角形)で、「あさがお」の花びらに似ていたため「あさがお塚」とも呼ばれていたそうです。

埋葬施設の構造も知られています。二上山の凝灰岩の巨石をくりぬいて二室を作り出しています。横口式石槨をもつ合葬用の古墳として知られていました。

このことからこの古墳は、日本書紀の記述により、合葬され埋葬された真の斉明天皇陵として有力視されています。

この八角墳に関して、私には大きな疑問があります。
牽牛子塚古墳は、二上山の凝灰岩が墳丘の石組みとして使用されていて、今回復元されたように、築造当初は真っ白な墳墓だったと考えられています。
外観を白い石で覆うなんて、ピラミッド見たいですよね。

それで疑問というのはこの外観を覆っていた、凝灰岩は何故になくなっていたのでしょうか?復元する前は外観を覆っていた石は見当たりません?
長い年月を経て崩れてしまうのだろうと想像できますが、崩れて周辺に落ちていた石は誰かが持って行ったのかな?

凝灰岩は、火山灰が固まったもので、やわらかく加工しやすいために使用されているのでしょうが、千年以上たつと風化してなくなるのかな?

どうなのだろうか?私は意図的に壊わされ、覆われた石が撤去された八角墳があると考えています。
現在において覆われている石がなくなっている。元八角墳とされる大王家の古墳は、意図的に取り除かれて形状を変更した墳墓があると考えています。

それは大王ではなかったと改竄した人物が、この時代の大王家の墳墓である八角墳に埋葬されているのは都合が悪いからです。
これら八角墳の被葬者は、秦氏、藤原氏と対立していた大王たちが多い。

八角墳墓は終末期(7世紀半ば)に造られた正八角形の古墳とされますが、そうではない。8世紀の初め、長屋大王の時代に造り始められた大王家の墳墓です。
長屋大王の統治期間は、即位年の701年から729年である。

墳墓の規模などを制限した薄葬令は、「大化の薄葬令」ともいわれます。しかし、この薄葬令は701年の大宝律令制定時に正式に決められたものであり、八角墳はこの時に定められた墓制であるように推測しています。「大宝の薄葬令」ということです。


この牽牛子塚古墳の造られた年代を想定する有力な手掛かりは、横口式石槨らしいのです。
この横口式石槨からの推測においても、日本書紀の記述にある7世紀半ばころより後の、7世紀後半から8世紀初めに造られた古墳であることが想定されています。




今回はこの時代の大王家の陵墓である八角墳の牽牛子塚古墳と益田岩船についてです。

大型の古墳の周囲には、関係者のお墓とおもわれる陪塚があります。大型古墳ではなくても、親族など近縁者のお墓は隣接して造るように思います。

飛鳥の地、天武持統陵南部、「飛鳥の聖なるライン」ともいわれ、天武天皇の関係者だろうとされるの古墳があります。変更されているだろうと思われる系譜から、これらの古墳の被葬者を推理してみます。


この時代は戦乱の時代でした。
ウイッキペディア・・・飛鳥時代
狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間。
  ****************************
蘇我氏が権力を握り本地である飛鳥が中心地となりました。しかしその後の孝徳大王や天武大王の時代も都となりました。

聖徳太子こと、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した、593年(法興元年)から、天武大王が造り始め高市大王の時代に完成した「香具山京」に遷都した、おそらく天武大王没後の、686年頃まです。

ただし、押坂彦人大王の宮である「水派の宮」は、飛鳥の地にはありませんでした。孝徳大王も難波に都を移しています。


何度も何度も記述しているところですが、・・・改竄された歴史書を基に藤原氏の主張通りになっているのが気に入らない。
だから正しい名に変更されるまで何度も書いてやる。

藤原宮、藤原京は、その名どおり、藤原氏が主張する都の名称です。
藤原宮というのは、藤原不比等の邸宅です。
本来の宮の名は、高市大王の「香具山宮」です。

奈良の都も同様です。奈良宮です。平城宮は藤原氏が主張する宮の名です。

奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などとも表記されているとされますが、「平城」だけは「なら」とは読めません。
平城の地が都にふさわしいと記述されているのは続日本紀においての記述です。続日本紀は藤原氏が権力を握った時代の書物であり、藤原氏の主張に他ならない。
長屋王家とされる場所から出土の木簡においては、長屋王の邸宅を「奈良宮」と呼称した木簡が発見されています。本来の大王は高市大王の王子であるこの長屋大王であり、宮の名は「奈良宮」あり、都の名称はもちろん「奈良京」です。
長屋大王や弟の鈴鹿大王没後に、この奈良宮を壊し、隣に建設されたののがこの藤原氏の宮である「平城宮」です。

現在再現されているのは、この渡来人の宮である「平城宮」です。王座を簒奪した渡来人の主張が通り、とんでもないことになっている。
今に残る記紀は渡来人秦氏の王である、桓武天皇の時に改竄された偽書です。
新たに発見された木簡からの記述による矛盾から、記紀の記述の信ぴょう性が問われています。

現存する最古の日本書紀はこの桓武天皇の時代のものです。




牽牛子塚古墳と益田岩船は飛鳥の地にあります。
飛鳥を訪れた人は、どうしてこの場所が古代の都となったのか?という感想を持つと思います。
たしか「ブラタモリ」、タモリさんも同様の感想を述べられたいました。
奈良盆地の南部、東西が山に囲まれ、狭い地域です。
どうして開かれた北部の盆地に都を造らなかったのか?

この飛鳥の地は蘇我氏の本地でありました。ですので蘇我氏が権力を握ったためこの地が中心になりました。
しかし問題は蘇我氏没落後です。斉明天皇、孝徳大王の時代にも、ここ飛鳥が都になりました。これは大王家と渡来人勢力の対立からです。

この飛鳥の地に都が造られたのは、東西が山に囲まれ、北部の渡来人勢力の脅威から防御しやすい地形にあったからです。渡来人勢力の本地は奈良盆地北部の山城、近江です。

この孝徳大王の時代に、激しく渡来人勢力との争いがありました。
朝鮮半島の動乱に、唐という巨大な国家が関わることになり、倭国にも大きな影響を及ぼすことになりました。この時代は戦乱の時代です。
孝徳政権は、唐と手を結ぶ方針だったのです。強大な唐と敵対する判断をするはずはない。倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。
唐が新羅側についたことにより、百済を助けることが出来なかったのです。

これに反対したのが、百済からの亡命渡来人勢力や、元はは百済からの渡来人であり、この時代には大きな勢力に拡大していた秦氏です。
亡命百済人(偽物中臣鎌足、後の藤原鎌足)が頼ったのが、この秦氏であり、中大兄は秦氏の皇子です。天智と天武は兄弟ではありません。
日本書紀、天智は「中大兄」と表現されています。何故か「中大兄皇子」ではないのです。これ実際には、大王家の王子じゃなかったからかな?日本書紀の天智天皇条は、天智系天皇である桓武天皇時に付け加えられたものである。天智天皇は本来の大王ではありません。

天智系天皇である桓武天皇も秦氏の王です。王位を簒奪した桓武天皇は自身の正統性を主張するため系譜を変更する必要があったのです。

亡命百済人勢力に、秦氏が加勢することになり、大王家の方針と対立することになりました。
飛鳥を都としたとされる皇極天皇は、土木工事が好きで、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄されたとされます。
しかし皇極天皇は天皇ですが本来の王ではありません。土木工事を行ったのは本来の大王である孝徳大王です。
北方の渡来人勢力との戦争に備え、石垣や溝を造ったのです。
孝徳大王は、この渡来人との戦乱に備え、飛鳥京を守るために大規模な土木工事を行い、飛鳥京の防御を固めました。


この孝徳大王や、後の天武大王が、奈良盆地の中央部ではなく、南に位置する飛鳥の地を都としたのは、複数の丘陵に囲まれ、特に北からの攻撃に対して防御しやすい地形だったからです。そう、敵(秦氏、藤原氏)の本拠地は山城の地です。北部の盆地に進出することが出来たのは壬申の乱以降です。

この時期の戦乱が古墳造成にも影響していると思われます。飛鳥の地は渡来人勢力に奪われていたのです。ですので没後に相応しい古墳に造りなおされていると推測しています。巨大な前方後円墳が造られなくなった理由でもあります。
飛鳥の地を手にしたのは、白村江の戦に敗北し渡来人勢力が弱体化した天武の時代、壬申の乱以降である。

孝徳大王も難波に都を移しています。益田岩船に関してはこの孝徳大王時代に激しく渡来人勢力と争ったことが関係しているように思います。
大きな前方後円墳を造らなくなったのは、この戦乱が大きく影響している。

これらの古墳は渡来人勢力との争いが落ち着いた時代に造られたものです。
渡来人勢力との争いであった壬申の乱以降から、長屋王の時代の初期、8世紀初めに造られた古墳です。

以前に書きましたが、牽牛子塚古墳は姉の斉明天皇のお墓です。
そしてこの益田岩船の地には飛鳥を都とした弟の孝徳大王が、自身のお墓を造ろとしていたのではないのかな?
北部の盆地、そして飛鳥の地を見下ろす丘陵にあり、お墓を造るのには非常にいい場所のように思います。

これらの古墳牽牛子塚古墳などの八角墳墓を造ろうとしたのは、長屋大王ではないのかな?

牽牛子塚古墳は斉明天皇と建皇子の合葬墳墓です。
そして益田岩船は、・・・・?わかりません。
これは推測するしかないのですが、ここに弟である孝徳大王のお墓を築こうとしていたのではないのか?・・・と思うのですが?




まず牽牛子塚古墳から・・・

この牽牛子塚古墳の内部は巨大な凝灰石をくりぬいて、左右2室になった石室を作り出しています。その構造から合葬古墳とされます。築造時より、合葬することが計画されていた古墳です。
また大王家の墳墓である八角墳であるということがわかりました。

日本書紀の記述から、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の合葬墓とされます。
しかしこの日本書紀の記述が信用できない。

斉明天皇とその娘(間人皇女)が眠っている?この説が有力とされますが、間違っているように思う。それは、孝徳大王の王后は、この天智天皇の妹とされる間人皇女ではないからです。


何度も参照しているところですが・・・この大安寺伽藍縁起并流記資材帳の記述により、日本書紀の改竄箇所は暴けます。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」との記述があるそうです。

日本書紀、孝徳条
是月、始造丈六繡像・侠侍・八部等卌六像。

本文と合致する繡仏等36像が、天平19年大安寺資材帳に記録。

      ***********************

大安寺伽藍縁起并流記資材帳に、白雉元年(650年)に難波宮にいた袁智天皇との表記があります。難波宮は孝徳大王の宮であり、そこにいた袁智天皇とは、王后(皇后)の遠智娘のことです。持統天皇の母親である遠智娘のことです。
持統天皇は孝徳大王の娘です。渡来人である天智の娘ではありません。

この遠智娘は、蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿の従兄弟)の娘とされますが、そうではなく、孝徳大王の時に左大臣だった阿倍内麻呂の娘です。阿倍遠智娘です。
記紀には「袁智天皇」なんて名の天皇はいません。「大王」と「天皇」はことなるということが理解できていないことも謎となっている理由です。

天智系天皇である桓武天皇時の、系譜の改竄箇所である。
孝徳大王の王后(皇后)は、天智天皇の同母妹の間人皇女ではなく、阿倍内麻呂の娘である、阿部遠智娘。袁智天皇です。

もとは「天皇」は蘇我の王の呼称でした。実際の初代天皇は推古天皇です。蘇我氏本宗家が没落後も、この「天皇」の呼称は使用されました。初代が女帝であったため、後に女帝、王后の呼称になったのです。
推古天皇から称徳天皇までです。

推古天皇ー遠智天皇ー斉明天皇ー額田天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー吉備天皇ー称徳天皇

何度も記述しているところですが・・・
持統天皇は孝徳大王の娘です。阿部氏の系譜が変更されています。

孝徳大王の皇后は、天智天皇の同母妹の間人皇女とされますが、事実ではないということです。この大安寺伽藍縁起并流記資材帳の文章が証拠です。
この女性、間人皇女はおそらく架空の人物です。秦氏、藤原氏と対立していた阿部氏の女性を消し去る人物です。

孝徳大王の王后(皇后)は、この「袁智天皇」こと阿部遠智娘のことです。持統天皇の母親です。
日本書紀の記述は真実ではない。



ウイッキペディア牽牛子塚古墳・・・
飛鳥地方の横口式石槨墳については、益田岩船(橿原市白橿町)や鬼の爼・鬼の雪隠(明日香村野口・同平田)の遺構が知られ、前者は本古墳と同じく刳り抜き式の横口式石槨、後二者は床石と蓋石が別々に構成されるタイプの石槨と考えられる
石槨の幅は5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートルの規模を有し、石槨内は中央部に幅44.7センチメートル、長さ152.5センチメートルの仕切り壁によって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明した。
  
以前より知られていた夾紵棺や臼歯の存在、また『日本書紀』における斉明天皇・間人皇女合葬の記述とあわせて、本古墳が斉明天皇陵である可能性はさらに高まった。

新発見の越塚御門古墳は、斉明陵墓の前に孫の大田皇女を葬ったという『日本書紀』の記載より、大田皇女の墓である可能性が高い
   ****************************
上記しましたが、この間人皇女というのは、孝徳大王の皇后ではありません。架空の女性の可能性があります。ですのでこの日本書紀の記述は事実ではありません。

系譜を変更したため、斉明天皇と間人皇女との合葬墓とする必要があったのです。

牽牛子塚古墳は斉明天皇と建王子との合葬墳墓です。長屋大王によって造られた8世紀初めの古墳です。越塚御門古墳は、記述どおり孫の大田皇女です。斉明天皇の遺言に従って建設された建王子との合葬墳墓です。


日本書記 天智天皇条・・・
六年春二月壬辰朔戊午、合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。
    ************************
この記述は真実ではない。天智6年(667年)斉明天皇と娘の間人皇女を小市岡上陵に合葬したとされます。すると八角墳墓である牽牛子塚古墳7世紀半ばころに造られた古墳ということになります。
ですが、そんなはずない。八角墳墓は8世紀初めに造られた墳墓であり形状である。

この日本書紀の記述は真実ではない。もともと本来の日本書紀には渡来人の王である天智天皇条なんてありません。桓武天皇時に改竄された記事である。
天智の妹であり孝徳大王の皇后とされるこの間人皇女という女性は架空の人物です。

この天智天皇の妹とされる間人皇女は、孝徳天皇の皇后とされますがそうではない。孝徳大王の王后は、持統天皇や建皇子の母親である阿部遠智娘、「袁智天皇」です。斉明天皇と合葬されていたのはこの袁智天皇です。

牽牛子塚古墳は斉明天皇と建皇子のお墓であり、隣に新たに発見された越塚御門古墳が大田皇女のお墓です。
そしてこの八角墳墓の牽牛子塚古墳は8世紀に初めに、長屋大王によって造られたお墓です。

「古代の悲劇 有間皇子、建皇子暗殺の謎」のところで記述しています・・・
牽牛子塚古墳は、斉明天皇の遺言により、甥(弟の孝徳大王の王子)の建皇子との合葬墓です。建皇子は話すことが不自由であったとされ特に斉明天皇は可愛がったとされます。
建皇子の遺骨は紀南の地からこの牽牛子塚古墳に移葬されている。
大宝元年(701年)は長屋王が大王に即位した年であり、紀伊国に行幸したのはこの長屋大王です。文武天皇は王ではありません。

紀南にある道成寺は大宝元年の創建です。長屋大王がこの地で渡来人との戦乱により亡くなった有間皇子などの人々の菩提を弔うために創建したお寺です。

この紀南行幸時に、戦死した紀南の地に埋葬されていた有間皇子や建王子を飛鳥の地に改葬している。
改装されたのは、長屋大王による紀南行幸(701年)の後である。牽牛子塚古墳は、8世紀初めにに造られた古墳である。

大宝元年(701年)から崩御したした729年までが、長屋王の大王としての在位期間です。

古事記は712年、日本書紀は720年に編纂されました。この時代、大王として統治していたのは長屋大王です。
古事記・日本書紀は長屋王が編纂した歴史書です。大宝律令も、この長屋王が制定した律令です。長屋王家から出土した木簡から、長屋王は大王だったことは明らかです。
この長屋大王と対立していた藤原氏はこれらの事跡を変更している。
現存する記紀は桓武天皇時に、秦氏、藤原氏にとって都合の悪い箇所を変更した偽書である。




藤並神社 泣沢女(なきさわめ)の古墳御由来  有田郡有田川町天満722番地.
斉明天皇(女帝)4年5月、御孫建皇子が8歳にて薨去せられ、大和の今来谷の山上に葬り奉つたが、天皇は皇子の御事が忘れられず、果ては御健康を害われ給う御様子なので、有間皇子のお勧めにより、同年秋牟漏温泉へ御湯治の際、那耆野に御駐輦遊ばされ、この地は大和の今来谷に似ていると仰せられて、その名に因んで今城ヶ丘と名付けられ、建皇子の御遺骨を納め給うた墳墓であると伝えられている。       
境内東隣の青蓮寺はもと今城寺と称せられ、斉明天皇の勅願寺で、皇子の菩提御祈願のため建立
                        和歌山県神社庁

万葉集・・・
山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の内は 忘らゆましじ

水門の 潮のくだり 海くだり 後も暗に 置きてか行かむ

愛しき 吾が若き子を 置きてか行かむ

     ***********************
建王子はこの紀南の地で殺害され、この古墳に埋葬されていたのです。飛鳥の都が渡来人勢力との争いで危険な状態であったため、孝徳大王はこの紀南の地に子供たちを避難させていたのです。しかしこの地でも争いが起き殺害されたのです。孝徳大王の王子であるこの建王子もまた有間皇子とともに次期王位継承者の一人です。
この伝説、由緒は変更されています。話は逆です。斉明天皇の遺言どおり、長屋大王によりこの紀南の地(泣沢女古墳)から飛鳥(牽牛子塚古墳)に移葬されたのです

系譜改竄箇所です。
阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子

上記の歌は、斉明天皇が殺害された紀南の地に埋葬されていた、建王子が眠る泣沢女古墳を訪れた時に詠んだ歌です。
後に長屋大王により、牽牛子塚古墳が造られ、建皇子の遺骸は飛鳥に移され、遺言通り斉明天皇と合葬されたのです。これが、牽牛子塚古墳です。

斉明天皇陵は越智崗上陵とされています。この古墳は改葬する前、最初に埋葬されていた古墳です。
この古墳は持統天皇の母親であり、孝徳大王皇后である袁智天皇こと遠智娘と斉明天皇の合葬墳墓です。
「天皇」は皇后の呼称でもあるわけです。
越智崗上陵に斉明天皇と合葬されていたのは、弟の孝徳大王の王后である遠智娘です。斉明天皇の最初のお墓こそこの越智崗上陵です。

越智崗上陵は、元は斉明天皇と袁智天皇との合葬墳であり、後に斉明天皇の遺言(建王子との合葬)に沿って、牽牛子塚古墳が造られ、斉明天皇だけこの牽牛子塚古墳に建王子とともに改葬されたのです。

ですので越智崗上陵は袁智天皇だけのお墓になり、牽牛子塚古墳は斉明天皇と、建王子との合葬墳墓です。


以下が、渡来人天智を大王家に繋げる重要な改竄箇所です。
日本書紀、孝徳天皇条、天智天皇条

大化元年(645年)秋七月丁卯朔戊辰、立息長足日廣額天皇女間人皇女、爲皇后

まず、斉明天皇の娘であるというのは真実ではありません。そして兄とされる天智と天武は兄弟ではありません。

系譜の変更箇所です。重要人物である押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女との皇子とされますがそうではない。ここお母さんが変更されている。
押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女との子供たちが、宝皇女(皇極、斉明天皇)・孝徳天皇の父とされる茅渟王、そして桑田王(くわたのみこ、女性)です。押坂彦人大王とこの茅渟王も本来の大王です。

押坂彦人大王と、妃の漢王の妹とされる大俣女王との子供たちが、田村王こと舒明天皇、中津王、多良王(百済王)です。
この渡来人の女性と思われる、漢王の妹とされる大俣女王が押坂彦人大王の后だったというところが改竄箇所です。

舒明天皇は 和風諡号は息長足日広額天皇とされます。この息長とは蘇我氏のことであり、蘇我の歴史書である「天皇記」「国紀」あった蘇我の王のことです。本来の王ではありません。改竄には蘇我氏の歴史書である「天皇記」「国紀」を使用している。

天智天皇はこの本来の王ではない舒明天皇と、斉明天皇の王子とされます。
天智天皇は、本来の王である天武大王と同母兄弟です。天智天皇を大王家に繋げたのです。
天武の系譜の変更箇所です。
直系で天武大王を押坂彦人大王に繋げたくはないのです。それは長屋大王に繋がります。殺害した長屋王が本来の大王では都合が悪いのです。

茅渟王の母親は、大俣王ではありません。押坂彦人大王の后であり、大伴皇女の娘の糠手姫皇女です。系図の変更箇所です。

「額田王の謎と推古天皇」のところで記述していますが・・・
額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王(茅渟王の妹 母親)・鏡王(額田鏡王 父親)ー鏡王女?(姉)、額田王(妹)

額田王の系譜が変更されています。
この鏡王は額田鏡王とも記されていて、額田王の父親です。母親は桑田王です。額田王は歌人としてよく知られ、采女や巫女だったのではとされますが、そうではありません。
額田王は名前通り大王家の女性であり、天武大王の王后です。
娘の額田姫王というのが額田王のことです。姉とされる鏡王女は額田王自身のことだともいわれます。

大伴皇女は欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との娘とされますが、そうではなく、大伴氏が関係する娘である。
額田王は、大伴皇女(額田部皇女)から繋がる、藤原氏と対立していた、大伴氏の女性です。
敏達天皇の本来の皇后は、推古天皇ではなく、大伴皇女であり、額田部皇女とはこの大伴皇女のことです。

系譜の変更は、彼女たちのお墓から推測できます。
この大伴皇女が眠る墓域である押坂陵内は、大伴氏関係の女性のお墓であり、陵墓内には糠手姫皇女の押坂墓、大伴皇女の押坂内墓、鏡女王の押坂墓があるとされます。
糠手姫皇女、大伴皇女、鏡女王、3人の女性が眠るお墓が、隣接して同じ領内あります。

そして額田王の姉とされる鏡女王とは、実は額田王自身のことだともいわれます。
これが事実だとすると、長屋大王の時代に、押坂内陵を八角墳に造りなおす時に、ここから額田王は野口王墓古墳に改葬されている。
野口王墓古墳は天武・額田王の合葬墓である。

ウイッキペディア・・・
『日本書紀』天武天皇2年2月27日条、『日本書紀』の記載から鏡王の娘に額田姫王がいて、この女性は天武大王の后になったとされます。

天武大王と王后の額田王の子供が、「市」の文字が共通する高市大王と十市皇女です。姉と弟です。このふたりは、もちろん恋愛関係にありません。
万葉集、高市大王が亡くなった実の姉の十市皇女を偲んで作った歌です。
万葉集・・・
三諸の神の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き

三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき

山振の 立ちよそひたる山清水 くみに行かめど 道の知らなく


そして、高市大王と阿部明日香の子供が長屋大王です。ですので系譜が改竄され、阿部氏の女性を消し去られています。高市大王の后、恋人はこの阿部明日香です

万葉集、柿本人麻呂による長文の挽歌からの推測では、高市大王の王后は阿部明日香だというのは容易に分かります。
柿本人麻呂が、長文の挽歌を贈っているのはこの二人の人物です。歌の内容を調べれば容易にこの二人は夫婦だったことが分かります。
柿本人麻呂は大王家に使えた歌人です。渡来人が権力を握る時代になって失脚しました。

孝徳天皇と天智天皇の争いはよく知られる所ですが、孝徳天皇時代に左大臣だったのが阿部内麻呂です。
この阿部氏や大伴氏は秦氏、藤原氏の大きな敵対勢力でした。

長屋王は左大臣などではありません。木簡からの推測では、父親の高市大王、や長屋王自身も大王に即位していました。長屋王を殺害したのは藤原氏です。

殺害した人物が本来の大王では都合が悪いため系譜を改竄している。

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー茅渟王・吉備姫王(吉備島皇祖母命)ー宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)

そしてもちろん、本来の日本書紀には、渡来人秦氏の王である天智天皇条なんてありません。この記述は、天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄されたものです。


孝徳大王の王后(皇后)はこの阿部遠智娘です。孝徳政権時に左大臣だった阿部内麻呂の娘です。「天皇」の呼称は王后の呼称でもあるのです。阿部氏の女性が消されている。

皇極天皇(642~649)ー袁智天皇(650~654)ー斉明天皇(655~(661)

押坂彦人大王ー茅渟大王ー山代大王(山背大兄王)、彼らが本来の大王です。643年に山代大王が殺害された後、645年(おそらく644年)に大王に即位したのが孝徳大王です。

押坂彦人大兄皇子ー舒明天皇ー天智天皇・・・これが、天智系天皇である桓武天皇の時に変更された系図です。舒明天皇は王ではありません。
渡来人秦氏の王子であった中大兄皇子は、本来の大王家とは何ら関係のない人物です。
桓武天皇もまた渡来人秦氏の人物であり、自身が王に即位するには系譜を改竄し大王家と繋げる必要があったのです。
天智が天皇に即位したというのも、もちろん秦氏、藤原氏の主張です。

蘇我氏が使用した系譜を利用している。それは蘇我氏の王である「天皇」の系譜ともいえます。舒明天皇というのはいわば蘇我の王です。


阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇(持統天皇)、建皇子

茅渟王・吉備姫王(吉備島皇祖母命)ー宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)

大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子は弟の孝徳大王の子供です。
大田皇女、鸕野讃良、建皇子は、孝徳大王と阿部氏の子供たちである。

ですので、持統天皇は大王家の女性ではあるのですが、天武の皇后ではない。
本来の大王だった長屋大王や、弟の鈴鹿大王の時代に、対立する藤原氏が擁立したのは、この持統天皇から繋がる傍系の王である聖武天皇です。

天武大王と持統天皇の息子が草壁皇子です。草壁皇子と元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である、文武天皇です。
持統を天武大王の皇后とした理由です。天武の皇后は額田王です。
聖武天皇や、文武天皇は本来の大王ではない。

この阿部氏の女性であるということが消され蘇我の女性に変更されている。
母親は蘇我遠智娘ではなく、阿部氏の娘、阿倍遠智娘です。大安寺伽藍縁起并流記資材帳にある「遠智天皇」です。


大田皇女の子供である大津皇子も大王家の王子である。建皇子、有間皇子もそうです。彼らは本来の大王家の王子たちです。次期大王候補です。ですので殺害された。
本来の大王家の人物を多数殺害し王座を簒奪しています。許せません(`・ω・´)
孝徳大王は有間皇子しか子供いないとされますがそんなことありません。
この建皇子も孝徳大王の子供です。

「白雉」はこの遠智娘が天皇に即位したからの年号であり、袁智天皇、つまり「天皇」とは皇后のことでもあります。「大王」の呼称が「天皇」にかわったのではありません。孝徳大王と袁智天皇、大王と天皇が存在しています。
越智崗上陵は、元はこの袁智天皇と斉明天皇の合葬墳墓であり、後に牽牛子塚古墳が造られ斉明天皇の遺骸だけ改葬されたのです。


ウイッキペディア・・・
『日本書紀』には建皇子の埋葬に関する記述がないほか、母の遠智娘は大化5年(649年)に蘇我倉山田石川麻呂の死を知って憂死した蘇我造媛(中大兄皇子妃)と同一人物とされ、また憂死したのを遠智娘自身とする所伝(『蘇我石川系図』)もあることから、遠智娘は建皇子(651年出生)の生母になりえないとして、皇子の実在性も含めて説話自体を疑問視する説がある

ウイッキペディア・・・
孝徳天皇が崩御したあと、間人皇女が一時的に天皇の役割を背負ったという説もある。『万葉集』に「中皇命(「なかつすめらみこと」の訓が一般的)」とある人物が間人皇女のことを指すのではないかとする説

『万葉集』の「中皇命」作とされる歌の註には、斉明天皇作との旨が記され

    ************************
「天皇」の呼称で系譜が変更されているため矛盾することになっている。
蘇我造媛と阿部遠智娘は同一人物ではありません。

斉明天皇即位年は、655年ですので、遠智天皇の崩御年は、654年である。654年に亡くなったのは孝徳大王ではなく、皇后であるこの袁智天皇です。白雉はこの袁智天皇の年号です。
万葉集の歌の註どおり、この「中皇命」とは斉明天皇のことです。間人皇女は実在の人物ではない。「中皇命」の名称はいうなれば「中継ぎ天皇」の意味です。
654年、袁智天皇没後に、天皇に即位したのが斉明天皇です。戦乱時に次の王后(天皇)が決まらなかったからです。

ですので、袁智天皇は651年生まれの建王子の母親として問題はなく、建王子は有間皇子とともに正統な次期大王候補です。幼少の時に母親が亡くなったので、斉明天皇が母親がわりになり建王子を育てたのです。
建王子は甥(弟である孝徳大王の子)であり、話すことが不自由であったとされるこの建王子を可愛がったのはよく知られています。

次期王継承者の一人である建皇子の墓の所在が分からないのは、建王子を殺害したのはいうまでもなく藤原氏だからです。
孝徳大王の時代は、渡来人勢力との争いが激烈な時期でした。この争いの問題は朝鮮出兵の問題です。

牽牛子塚古墳に、斉明天皇と合葬されているのは建王子です。

渡来人秦氏の王である天智天皇の系譜改竄箇所です。天智系天皇である渡来人桓武天皇時の記紀改竄箇所はこの、天智天皇を大王家繋ぐことです。
ここが系譜改竄において重要箇所です。

天智の后とされる蘇我倉山田石川麻呂の娘とされる蘇我遠智娘は、阿部遠智娘であり、蘇我姪娘も阿部姪娘であり孝徳大王の后です。阿倍橘娘もまた孝徳大王の后です。天智天皇の系譜改竄箇所です。
渡来人と対立していた阿部氏の娘が渡来人天智の后になることはりません。

孝徳大王は有間皇子しか子供がいません。そんなことありえません。孝徳大王の后を天智の后として取り込んでいる。孝徳大王政権において左大臣だったのは阿倍内麻呂です。阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王の后です。
渡来人勢力と対立していた、この阿部氏や大伴氏の系図が消されている。


天智天皇の系譜においてひとり気になる人物がいます。
詳しくは書きませんが・・・
それが、天智天皇の第一皇子とされる大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇)です。お母さんは伊賀宅子娘とされます。后は十市皇女です。

ここも大伴氏の女性が消されているように思う。大友皇子は大伴氏の王子であり、もちろん、孝徳大王の王子です。

大友皇子の名の由来は、大友村主が養育したためであるとされる説があるようですが、天智と大友村主氏の娘との子供が大友皇子というのならわかりますが、これはおかしい。

后とされる十市皇女は、天武と額田王の娘です。この十市皇女は、長屋王の父親でもある高市大王とは姉弟です。恋人ではありません。天武と天智は敵対していたことは知られています。
天武と額田王の娘が、敵対する渡来人秦氏の王である天智の息子に嫁ぐわけない。渡来人、天智の系図が変更されているように思います。天智と額田王も恋人ではありませんよ。

額田王も大伴氏の女性であり、娘の十市皇女もまた大伴氏が関わる女性になります。
名前に氏族名を付ける場合は、母親の氏族名を付ける場合が多いように思う。
大友皇子も、本当は大伴王子であり、もちろん大伴氏の王子であり、大伴氏関係の婚姻であるように思います。

大伴氏の女性が消されているので難しい推測ですが、おそらくなのですが、孝徳大王の時に右大臣だった、大伴 長徳の娘と孝徳大王との子供がこの大友皇子だと思います。

大友皇子は弘文天皇として即位したとされます。天智の皇子というのならあり得ませんが、孝徳大王と大伴氏の女性との王子ということならありえます。
そしてもちろん天武側の人物であり、残念ながら壬申の乱において渡来人との争いで戦死したのです。

孝徳大王の時代に、大王家と関係が深く、渡来人勢力と対立関係にあった、これら大伴氏や阿部氏の系譜が変更されている。




それではこの八角墳墓はいつ頃から造られたのでしょうか?
上記してきましたが、日本書紀の記述から7世紀の半ばころとされますが、そうではないように思う。

牽牛子塚古墳は、この時代の大王家の陵墓に特徴的な八角墳です。この地の大王陵とされる八角墳は、北部の脅威が去った天武大王以降に造り始められた古墳です。おそらく長屋大王の時代に多く造られた大王家の墳墓です。

ウイッキペディア・・・
八角墳(はっかくふん)は古墳時代の終末期(7世紀半ば)に造られた正八角形の古墳。京都市の御廟野古墳(現・天智天皇陵)や奈良県高市郡明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)などが有名。

日本書記 天智天皇条・・・
六年春二月壬辰朔戊午、合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。
  

段ノ塚古墳(現・舒明天皇陵) - 奈良県桜井市
御廟野古墳(現・天智天皇陵) - 京都市
野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵) - 奈良県高市郡明日香村・7世紀後半(上八角下方墳)
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性高い) - 奈良県明日香村・8世紀初頭
束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜の蓋然性が高く、八角墳の可能性がある。奈良県高市郡高取町)
岩屋山古墳(斉明陵の可能性。方形墳の上に八角形の墳丘を営んでいた可能性が強い。
牽牛子塚古墳(斉明陵の可能性)奈良県明日香村越、2010年9月斉明陵の可能性強まるとの報道
    ***********************
日本書紀の記述によって、この八角墳は7世紀半ばに造り始められたとされますが、そうではない。


御廟野古墳(現・天智天皇陵)・・・
天智天皇陵である御廟野古墳は、天智系天皇である桓武天皇が天皇に即位した後(8世紀半ば以降)につくられた、八角墳墓の中では最後に造られたものです。7世紀半ばの初期の八角墳ではない。

渡来人、秦氏の王である桓武天皇の時代に、秦氏の王である天智天皇を大王家の人物として変更したため、この時代の大王家の墳墓である八角墳に造りなおす必要があったからです。ここはもう既に何度か書いていますが、この古墳に天智天皇の遺骸が埋葬されているかは疑問である。

天智天皇は渡来人秦氏の人物であり、本来の王ではありません。もちろん天皇にも即位していません。天智天皇から繋がる桓武天皇時、自身の正統性を主張するるため、天智は天皇に即位していたとする必要があったのです。

この本来の王でない天智天皇陵を八角墳で造っているということは、この時代の系譜を改竄し、大王(天皇)ではなかったとする人物のお墓の形状を変更している可能性がある。
八角墳を覆う石が撤去され、墳墓の形状を変更しているお墓があるように感じた理由です。

最初の八角墳墓とされる段ノ塚古墳も、舒明天皇のお墓ではなく、8世紀初めに八角に造りなおされた古墳です。

八角墳墓は長屋王の時代の墳墓形体です。長屋大王によって、戦乱の中、相応しい古墳に祭れなかった大王家の人々のお墓を造りなおしている。
8世紀初期の墳墓の形状です。


前方後円墳ー方墳ー基部方墳の八角墳ー八角墳

こう移っていったとされます。この基部が方墳で上部が八角っていうのはおかしいでしょう?最初から八角で造ればいいのにって私なんかは思うのですが?方墳は蘇我の時代の墳墓ともいえます。

これは、長屋王の時代(大宝律令制定時かな?)に、大王家の墳墓を八角墳にすることを決定したので、以前に方墳に埋葬されていた関係者の古墳、つまり方墳の上部を八角墳に造りなおしたからですよ。

薄葬令はこの701年の大宝律令制定時に決められたものである推測しています。「大化の薄葬令」ともいわれますが、大化の改新なんてありません。
7世紀半ばにはまだ大きな古墳は造られています。

ですので、天武・持統天皇陵である、野口王墓古墳や、岩屋山古墳(おそらく孝徳大王陵)は、元は方墳であったのですが、長屋大王の時代に八角墳墓に造りなおされたものです。これらも8世紀に造りなおされた古墳です。

日本書紀においては天智天皇の時だとされます。しかし渡来人天智は王には即位していません。この御廟野古墳は、天智を天武の兄弟とし、天皇に即位したと変更した、8世紀半ばの以降に造られている。
王座を簒奪した渡来人、秦氏の王である桓武天皇即位後に造られた古墳です。この時代の大王家と同じ形状の古墳にする必要があったのです。


段ノ塚古墳・・・
この古墳にかんしては既に「額田王の謎と推古天皇」のところで記述しています。この古墳は舒明天皇陵ではありません。

この古墳は台形状の方形壇の上に八角形の墳丘を造っています。上八角下方墳といわれます。これも野口王墓古墳や、岩屋山古墳と同様です。
もともと方墳だったものに、長屋大王の時代に八角墳に造りなおしたものです。

額田王の祖母のお墓に、母親が合葬され、八角墳に造りなおされたものです。
段ノ塚古墳は、額田王の祖母の糠手姫皇女と母親の桑田王(茅渟王の妹)との合葬墳墓です。
糠手姫皇女は、皇祖とされる押坂彦人大王の皇后です。
ですので八角墳は、大王家の関係者のお墓であるのは間違いありませんが、大王の墓にかぎった型式の陵墓ではありません。


系図が変更されています。
孝徳大王、斉明天皇の父親である茅渟王の母親は、大俣王ではありません。押坂彦人大王の后であり、大伴皇女の娘の糠手姫皇女です。系図の変更箇所です。額田王は大伴氏の女性である。

「額田王の謎と推古天皇」のところで記述していますが・・・
額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王(茅渟王の妹 母親)・鏡王(額田鏡王 父親)ー鏡王女?(姉)、額田王(妹)

額田王の系譜が変更されています。額田王は、秦氏、藤原氏と対立していた大伴氏に関係する女性です。この系図が変更されている。阿部氏と大伴氏、蘇我氏は、秦氏、藤原氏に対抗する大きな勢力でした。

この鏡王は額田鏡王とも記されていて、額田王の父親です。母親は桑田王です。額田王は歌人としてよく知られ、采女や巫女だったのではとされますが、そうではありません。
額田王は名前通り大伴氏に関係する大王家の女性であり、天武大王の王后です。娘の額田姫王というのが額田王のことです。

ウイッキペディア・・・
『日本書紀』天武天皇2年2月27日条、『日本書紀』の記載から鏡王の娘に額田姫王がいて、この女性は天武大王の后になったとされます。

天武大王と王后の額田王の子供が、「市」の文字が共通する高市大王と十市皇女です。高市大王の子供が長屋大王です。
長屋王は左大臣などではありません。木簡からの推測では、父親の高市大王、や長屋王自身も大王に即位していました。長屋王を殺害したのは藤原氏です。

殺害した人物が本来の大王では都合が悪いため系譜を改竄している。


押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー茅渟王・吉備姫王(吉備島皇祖母命)ー宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)




野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)・・・
天武持統陵も八角墳とされます。しかしこの天武持統陵も、やはり長屋大王によって造られた8世紀初めの古墳です。
天皇陵の中で、被葬者が特定できる数少ない古墳のひとつとされます。
天武天皇と皇后の持統天皇の合葬墓であるということは確実とされます。

しかしそうではないように思う。以前にも少し触れましたが・・・
もともと、天武天皇の御陵であり、方墳だったものです。長屋大王により、八角墳墓に造りなおされる時に、ここに王后だった額田王を合葬している。天武大王の王后は、この額田王である。
大伴氏の女性である額田王は、長屋大王の祖母であり、天武は祖父です。この系図が変行されている。

天武・持統合葬陵ではなく、天武・額田王の合葬陵です。後に藤原氏によって暴かれ怨霊封じが行われている。
持統天皇は初めて火葬され骨は銀の骨壺に収められとされますがそうではないように思う。額田王は長屋大王の祖母であり遺骨が火葬されたのは、怨霊封じだろうと思います。持統天皇は天武の皇后だというのは藤原氏の主張です。藤原氏が擁立する天皇はこの持統天皇から繋がります。

天武大王の、王后は額田王です。次の王后が持統天皇?だと思いますが、この長屋大王の時代に、天武持統陵に合葬されたのは、額田王の方だと思います。
長屋大王の祖母ということで、天武の王后だったことが変更されている。

理由は、上記の系図です。天武大王・額田王ー高市大王・阿部明日香ー長屋大王
額田王は大伴氏の女性であり長屋大王の祖母です。
長屋大王に繋がる彼らは全員、藤原氏に祟った大王家の人物です。何度も記述していますが、この系譜も変更されています。
下記の山代大、茅渟王以降の人物が八角墳墓に埋葬されている。

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子

上記の人物は全員、藤原氏に祟っている。少なくとも藤原氏はそう感じて怨霊封じを行っている。
法隆寺は彼ら、押坂彦人大王、山代大王、茅渟王を祀るお寺です。この法隆寺もまた怨霊封じが行われている。
そして埋葬されていた古墳を暴き、遺骸に対しても怨霊封じが行われている。

この系図の、押坂彦人大王の王子たちである、山代大王と茅渟大王までは大きな前方後円墳である。


額田王自身のお墓に関してですが、もとはこの押坂内陵域にあったともされます。この押坂内陵は大伴氏関係の女性のお墓です。
後に孫である葛野王により天武・持統天皇陵の傍に移葬されたそうです。この葛野王 は額田王の娘の十市皇女の子供です。

上記しましたが、大友(大伴)王子と十市皇女の子供が葛野王です。額田王の娘である十市皇女は大伴氏の娘です。大友(大伴)王子ももちろん大伴氏の王子であり、ともに大伴氏が関わる。
大友(大伴)王子は天智の子供ではなく、孝徳大王の子供です。系譜改竄箇所です。

この時に、天武天皇陵が八角墳に造りなおされ、天武と額田王が合葬されたのだと思います。野口王墓古墳は、天武・額田陵である。



中尾山古墳・・・
高松塚古墳は長屋大王の父親である高市大王のお墓です。そして傍にあるこの中尾山古墳こそ長屋大王のお墓ではないのかな?
この古墳も八角墳だったと考えられています。
上の写真が、中尾山古墳ですが、今は八角形に外観を覆っていただろうと思われる石は見あたりません。

しかし八角墳墓だったことが推測されています。重要な人物のお墓であることは間違いありません。
しかも高松塚古墳の傍の八角墳です。これは、高松塚古墳の被葬者の関係者と考えられます。

被葬者に関しては、八角墳であることから大王だった人物の可能性が高い・・・などのことからの推測です。

この中尾山古墳は文武天皇陵だというのが有力とされますが、これは間違っています。上記しましたが文武天皇は本来の大王ではありません。

長屋大王が、大王に即位したのは701年です。大宝は長屋王の年号です。
大宝律令を制定したのはこの長屋王の時代です。おそらく元は八角墳だったと思うのですが?
おそらく火葬されて埋葬されていた?と思うのですが、長屋大王が藤原氏に祟った後に、怨霊封じが行われ、外観を覆っていた石は取り除かれているように思う。
そして火葬されていた遺骨は飛鳥の地から、島流しにあっている。火葬は祟らないようにとの怨霊封じの意味があったと考えています。

聖武天皇の父親であるこの文武天皇も大王家の人物ではあるのですが、本来の王ではありません。王でない人物が八角墳墓に埋葬されることはないとは言えませんが、この時代の大王はこの長屋大王です。
藤原氏は擁立する聖武天皇は天皇(王)だと主張するため、また対立して殺害した長屋王は大王ではなかったとするため、この時代に別の人物が天皇だったする必要があったのです。



牽牛子塚古墳は、長屋大王の時代に造られた墳墓です。
ではそれまで、斉明天皇はどこに埋葬されていたのでしょうか?
孝徳大王の王后は、袁智天皇です。ですので、斉明天皇と孝徳大王の皇后とされる間人皇女合葬との合葬ではなく、斉明天皇と袁智天皇の合葬です。

もともとは、越智崗上陵に、斉明天皇と袁智天皇が合葬されていて、長屋王により新たに牽牛子塚古墳建設され、遺言通り斉明天皇だけ改葬され、建王子とともに埋葬されたのではないのかな?
そして傍の越塚御門古墳は、大田皇女のお墓です。大田皇女は建皇子の姉です。孝徳大王と阿部氏の子供たちです。

孝徳大王、阿部遠智娘ー大田皇女、持統天皇、建皇子


ウイッキペディア・・・
斉明天皇皇孫の建王は8才で薨去し、今城谷の上に殯を起こし納められた。その際に天皇は深く悲しみ、将来的に自らの陵への合葬を命じるとともに、次の歌3首を詠んでいる。
万葉集・・・
今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か歎かむ

射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに

飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
     *******************

ですので、この牽牛子塚古墳は、8世紀の初めに造られた古墳です。長屋大王により紀伊国行幸時(701年)以降に造られた古墳です。
長屋大王は、紀南の戦乱で亡くなった、この建王子や有間皇子などのお墓を造りなおしています。有間皇子のお墓も飛鳥の地の移している。


由緒によれば、埋葬されていた大和の地からこの地に遺骨を移したとのことです。しかし斉明天皇は自身のお墓に合葬してほしいとの遺言を残しているともされます。
この伝説、由緒は変更されている。話は逆です。遺言どおり、この紀南の地から大和に移葬されたのです。本来の元の建王子のお墓はここ泣沢女(なきさわめ)の古墳です。後に斉明天皇の遺言により斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)に合葬されている。墓室が2つあるのは、斉明天皇と、建王子の墓室です。

建王子はこの紀南の地で殺害され埋葬されていたのです。孝徳大王はこの紀南の地に子供たちを避難させていたのです。しかしこの地でも争いが起き殺害されたのです。


岩屋山古墳・・・
岩屋山古墳も、もちろん大王家の人物のお墓です。元は方墳でした。ですので、元は7世紀の中から後半位に造られた古墳です。
長屋王の時代に、上部を八角形に形作ったものです。
この古墳は元の斉明天皇陵だという説もありますがそうではない。
その位置から斉明天皇の弟の孝徳大王のお墓だと思います。

孝徳のお墓は、大阪磯長陵に治定されています。円丘であるとされますが、これは絶対にありえません。
孝徳が、蘇我氏の墓域である、磯長に葬られることはありえません。
渡来人、秦氏、藤原氏と激しく対立したのはこの孝徳大王の時代です。ですのでこの古墳も暴かれて怨霊封じが行われている、上部を覆っていた石は取り除かれているように思う。



上の写真は梅山古墳です。
欽明天皇の陵に治定されているこの梅山古墳は大きな前方後円墳です。
しかし、この古墳は、斉明天皇、孝徳大王の父親である茅渟王のお墓である。

茅渟王
桜井皇子の女の吉備姫王(吉備島皇祖母命)を妃とし、宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)を儲けた。茅渟皇子、智奴王とも。
押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王・斉明天皇
押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎」のところで記述していますが・・・
この梅山古墳は、元はこんなに大きな古墳ではなかったと思う。
見瀬丸山古墳が大きな前方後円墳に造り変えられた時、同じく大きな古墳に造り変えられている。
見瀬丸山古墳は、元は山代大王のお墓であり、後に押坂彦人大王が合葬され巨大な古墳に造り変えられたものです。


実は、この欽明天皇陵は、どこか分からなくなっていました。梅山古墳を欽明天皇陵と決めたのは江戸時代後期になってからです。ですがこの治定は間違っています。

推古天皇の父親である欽明天皇は、蘇我氏、蘇我馬子が主張する蘇我の王である天皇であり、本来の王ではありません。「天皇」は蘇我の王のことです。
その本来の王ではない欽明天皇が、大きな前方後円墳に埋葬されることはありえません。

梅山古墳に隣接する吉備姫王墓に猿石と呼ばれる石像物が置かれていて、こちらの方が有名で訪れる人もこちらの方が目当てです。
この吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓は、明らかに梅山古墳の陪塚です。
当然、梅山古墳は夫である茅渟王のお墓です。そう茅渟王は大王でした。
孝徳大王、斉明天皇の父親です。しかし大王だったことが消されている。

茅渟王・吉備姫王ー孝徳大王・斉明天皇です。吉備姫王は孝徳大王・斉明天皇の母親です。

梅山古墳の被葬者こそ、押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王であり、そばに后の吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓、そして子供たち、斉明天皇(牽牛子塚古墳)と孝徳天皇(岩屋山古墳 )のお墓です。

牽牛子塚古墳、岩屋山古墳は、ともに八角墳とされます。
この牽牛子塚古墳もまた、梅山古墳の近くにあり陪塚といってもいいと思います。
そう、斉明天皇のお父さんは、茅渟王であり、お母さんは吉備姫王です。
梅山古墳の被葬者こそお父さんの茅渟王です。



束明神古墳
墳丘は、斜面を大きく削り直径40メートルの平坦地を整地したうえで、版築によって構築される。墳形は八角形で、対角長約30メートルを測る。埋葬施設は横口式石槨で、南方向に開口する。凝灰岩の切石を積み上げた特殊な石槨で、平面形は長方形、断面形は家形(台形)を呈し、石槨内部には漆塗木棺が据えられたと見られる。

束明神古墳の実際の被葬者は明らかでないが、草壁皇子(くさかべのみこ、岡宮天皇)に比定する説が知られる。
    *********************
この古墳の被葬者は誰なのだろうか?八角墳墓であるなら大王家の有力人物であるのは間違いありません。候補はそう多数はいない。

わたしの推測では、この八角墳墓の被葬者に相応しい人物は、有間皇子であるように思います。
これは消去法みたいのものですが、束明神古墳が紀南から改葬された有間皇子の墓だとの推測です。

草壁皇子が有力な被葬者とされます。この草壁皇子は天武天皇と持統天皇の息子です。皇位に就くことなく、持統天皇3年の689年に27歳で早世しています。
しかし持統天皇は、大王家の女性ですが天武の皇后だと主張しているのは藤原氏の主張です。本来の王后は、額田王です。

この古墳も八角墳墓であるなら8世紀初めに造られたものです。被葬者の有力候補は有間王子です。

草壁皇子のお墓は、この束明神古墳の南にある現陵地の円墳(高取町森)に眞弓丘陵に定められています。この治定はあっているように思います。

有間皇子は紀南の地で戦死しそこで埋葬されていたのです。長屋大王の紀南行幸の時に飛鳥の地に改装されています。


「檜隈安古岡上陵」・・・
この古墳は、文武天皇の「檜隈安古岡上陵」と治定されていますが、今は八角墳墓ではないとのことで、中尾山古墳の方が相応しいとされています。
いかに古墳の治定がいい加減なものかわかりますよね。

文武天皇は藤原氏が擁立する聖武天皇の父親です。大王家に人物ですが、大王に即位していません。
この古墳、聖なるラインとされる位置にある古墳であり、八角墳墓ではなくても重要な人物が埋葬されている。
天武の王子である、高市大王の関係する人物であるように思います。

文武天皇は本来の王ではありません。ですので八角墳に埋葬されていなくても問題ありません。ですがこの古墳は天武天皇の第一皇女である十市皇女のお墓ではないのかな?

ウイッキペディア・・・十市皇女
日本書紀によれば、十市皇女のなきがらは天武天皇7年(678年)4月14日に赤穂に葬られたとあるが、赤穂という地名が奈良県内のどこにあたるかという解釈には諸説あり、いまだ定説は明らかになっていない。

天武・持統陵、中尾山古墳から高松塚古墳、文武天皇陵までを含む檜隈の大内・安古とよばれる一帯があり、その安古が「赤穂」に通じることから、このあたりに十市皇女の墓を想定している説もある
   ***************************
上記の説が正解のように思います。この「檜隈安古岡上陵」は十市皇女のお墓です(檜隈の大内・安古とよばれる一帯が、「赤穂」)
天武・持統陵(本当は天武・額田王陵)、中尾山古墳から高松塚古墳、文武天皇陵までが聖なるラインとされ、関係者のお墓です。

高松塚古墳が兄の高市大王のお墓であり、傍に子供の長屋大王の中尾山古墳、そして姉の十市皇女のお墓がこの「檜隈安古岡上陵」である。高市大王と十市皇女は姉弟であり、共に天武と皇后であった額田王の子供たちである。
そしてキトラ古墳は、高市大王の王后である阿部明日香のお墓である。

天武大王ー高市大王ー長屋大王 彼らは全員大王でした。この系図の大王たちに関するお墓です。



高松塚古墳とキトラ古墳・・・
問題はこのふたつの古墳です。長屋大王の両親のお墓です。
「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところでふれています。
両古墳は八角墳だったはずです。
高松塚古墳は、長屋大王の父親である、高市大王のお墓です。キトラ古墳
はお母さんの阿部明日香のお墓です。

高市大王崩御は、696年であり、明日香皇女は700年に亡くなっています。殯の期間はどれほどだかわかりませんが、墳墓の造り始められた年は、高松塚古墳は、696年、キトラ古墳は700年に以降造られたたものです。

当然ですが両親が眠るこのふたつの古墳は八角墳墓に造っているはずです・・・というか最初の八角墳はこの高松塚古墳である。

この両古墳は、明らかに怨霊封じがなされています。
「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところで書きましたが・・・
高松塚古墳の遺骨は何故か頭部がありません。本来は残るはずの頭蓋骨がありません。これは意図的に取り除かれているとしか考えられない。
そしてキトラ古墳から出土した人骨は頭部の骨と、歯でした。そう頭蓋骨です。何故に体の部分の骨が出土しないのでしょうか?
これも不思議ですよね。
高松塚古墳の出土人骨の頭蓋骨がない、キトラ古墳からは、頭蓋骨だけが発見され、しかもこの頭蓋骨は、
・・・「40歳から60歳代のがっしりした体つきの男性」・・・ともに同年代の男性の人骨ですよね。

そう、キトラ古墳の頭部の人骨は、高松塚古墳から取り出された高市皇子の頭蓋骨です。

高松塚古墳は、高市大王のお墓であり、キチラ古墳は后の阿部明日香のお墓です。この二人の子供が長屋大王です。
どういう怨霊封じが行われたのか?明らかに遺骸を損傷している。そしてその後に火葬しているように思う。

まずキトラ古墳に埋葬されていた、阿部明日香の遺骸は取り出され火葬されている。火葬は怨霊封じの意味があったように思う。
その後高松塚古墳から、高市大王の頭部だけ取り出し、キトラ古墳内で、この頭蓋骨は粉々に壊されている。これは古墳内の副葬品もまたこなごなに壊されているところからも推測できる。おそらく、その後とりだされ火葬されているように思う。
この粉砕された骨を取り除くときに、少量の骨が残ったものが、今出土した人骨である。

長屋王を大王だったとしたくないために、父親も大王に即位したことが消されている。大王でなかったと変更した人物が、八角墳に埋葬されているのはおかしいわけです。
高松塚古墳は、高市皇子を大王としたくないために、元は八角墳墓だけど、円墳に作り直された可能性はあると思います。キトラ古墳も同様です。
怨霊封じの際に八角形は取り壊されている。

天武大王・額田天皇の合葬陵である野口王墓古墳より南部、聖なるライン上にある、この高松塚古墳は、この天武大王と、額田王の子供である、高市大王のお墓です。
この高松塚古墳の傍にあり、元は八角墳墓とされる、中尾山古墳は高市大王と阿部明日香の王子である長屋大王のお墓である。
同じくライン上にある、「檜隈安古岡上陵」は、高市大王の姉である十市皇女のお墓であり、キトラ古墳は高市大王の后の阿部明日香のお墓である。

聖なるライン上にある古墳は、天武大王と額田王から繋がる本来の大王家のお墓です。





ウイッキペディア・・・益田岩船
現在有力視されている説。南東500mほどの場所にある牽牛子塚古墳は横口式石槨であるが、岩船の穴の形状もこれと似ているため、同じように古墳として造られ、完成時には現在の北壁面を下に横転させ古墳石室とする予定だった。また東側の穴と違い、西側の穴には水が溜まらないことから、後者にはひびが入っていることが分かっている。このため、建造途中で破損が判明し、放棄したのではないかとの説がある

猪熊兼勝は、益田岩船は大阪府寝屋川市の石室の露出した石宝殿古墳に酷似し、この2つの石造物と同様な構造をもつ完成品は、牽牛子塚古墳石室しかないので、牽牛子塚古墳石室の完成までに益田岩船、石宝殿古墳で二度の失敗を繰り返した後、軟質の凝灰岩の石室で完成させたものが、牽牛子塚古墳であるという説を提唱している。
   *********************
この推測が有名ですよね。そして猪熊兼勝さんの説はなるほどと思いますよね。
ただ、建造途中で破損が判明し、放棄したのではないかとの説は賛同できない。そして、埋葬されるに相応しい場所がある。
牽牛子塚古墳と、益田岩船は隣接していて飛鳥にあります。斉明天皇のお墓の場所として相応しい場所です。ですが、石宝殿古墳は、遠方にあり関係ない。

この益田岩船の場所を訪れた時の印象は、「ここ、お墓を建てるにはいい場所だなー」という印象でした。
この益田岩船は、岩船山の頂上付近にあります。東に飛鳥の地を見下ろし、しかも北部の盆地まで見渡せる絶好の立地です。大和三山、畝傍山の南部に位置します。

写真のように外観からは全く破損は解りません。この巨石を横転させるて石室とするには何ら問題ないように感じました。

私の感想は水が抜けるくらいのひびなんて何ら問題ないようにも思うのですが?しかも横転して使うわけでしょう?ですので下に、水が抜けることに関して問題があるのだろうか?




この益田岩船は硬い花崗岩です。凝灰岩で石室を造っている牽牛子塚古墳よりも、以前に造ろうとしていたお墓だということは推測できます。

飛鳥の石造物として知られる鬼の俎(おにのまないた)・鬼の雪隠なども花崗岩です。これは、檜隈坂合陵の陪冢に治定されていています。上記しましたが、この檜隈坂合陵は、孝徳大王の父親の茅渟王のお墓です。

ですので、凝灰岩で石室を造っている牽牛子塚古墳のほうが後の時代のお墓です。

私は孝徳大王自身が、ここ益田岩船の場所に自身の墓を造ろうとしていたと思っています。しかし破損が判明し、放棄したのではないように思う。
ここももう何度も記述しているところです。渡来人勢力との争いがあったのは、この孝徳大王の時代です。都を飛鳥から、難波に移しました。

激しい戦乱で、飛鳥の地を奪われ、自身の在位中には造ることができなかったと推測しています。
この益田岩船は、岩船山の頂上付近にあります。孝徳大王は自分のお墓をこの飛鳥を見下ろし北方にもにらみを利かす絶好の立地に造ろうとしていたと思っています。
お墓を造るには絶好の場所とも言えます。戦乱で造ることができなかったと推測しています。







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「日出處天子致書日没處天子無恙云云」・・・遣隋使

2021年06月12日 | 日本書紀の謎


推古天皇15年(本当は押坂彦人大王15年)である607年に聖徳太子(押坂彦人大王)は、小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送っています。

隋書の「東夷傳俀國傳」に記述があります。有名な「日出處天子致書日没處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)の記載があった国書です。

この「日出處天子」とは大王だった聖徳太子ことであり、押坂彦人大王のことです。本来、大王と天皇は異なります。これが解らない限り古代の歴史は謎解けません。


この国書を見て隋の煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたと記述されています。

聖徳太子の事跡を語る上では外せないエピソードです。

強大な統一王朝である隋に対して、対等な立場での外交を望んだと云われますが、少々挑戦的とも思われる、・・・いやこれは喧嘩を売っているような国書といえるように思います。

聖徳太子の十七条憲法の第一条冒頭において「和をもって貴しとなす」という文をかかげている聖徳太子たろうものが、どうしてこのような挑戦的な国書を持たせて隋に遣使したのだろうか?何故にこの年に遣使したのだろうか?
今回はこの遣隋使についてです。この時代もやはり朝鮮半島情勢が関わることになるように思います。
以下はこの国際情勢を考慮しての推測になります。


実はこの607年の遣隋使は、第二回遣隋使であり、最初の遣隋使は、日本書紀に記載がなく隋書にあるのみです。もちろん隋書の方が信頼でき、事実であると思われます。日本書紀は信用できません。

それが、開口二十年(600年)の遣使であり、煬帝の前の隋の初代皇帝である文皇帝の時代です。およそ120年ぶりの遣使になります。
隋が建国したからでの遣使ではなく、この年に遣使を行ったのはやはり何らかの理由があるわけです。

隋という巨大な統一王朝成立することになると朝鮮半島に進出を企て、やがてそれが倭国にも影響を受けることになります。
この時期も朝鮮半島情勢が倭国に大きく関わる。
高句麗と倭国は同盟関係にあったのです。

この600年の突然ともいえる遣使は、高句麗の要望により、悪化していた隋と高句麗の仲を取り持つための遣使であったろうとも推測もできますが・・・これはそうではなく隋と敵対する行動をしていたからである。

朝鮮半島情勢に倭国が関わっていたからである。
この時代、倭国と高句麗は同盟関係にあっただろうと思われます。国が滅ぶ緊急事態において高句麗は、倭国に援助を要請するために貢物を送っている。
いわば倭国の属国になるという決断を下しているともいえます。

隣同士の国は仲が悪くなります。海を隔てた倭国は、これら朝鮮半島の三国にとっては頼りになる存在だとも言えます。

倭国、高句麗の同盟関係が成立している。高句麗を助けるべく?新羅遠征を行っている。高句麗征服を画策している隋にとっては見過ごせない事実です。

『隋書』東夷伝倭国条

「開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕」

600年の遣使の記事です。隋書によると、倭国の王はおおきみと呼称され、男の王であり后もいるとの記述です。この記述に対応するのが、607年の遣使の記述です。
 

まず、言いたいところは、本来、大王とはこの時の王である推古天皇でなければならないのです。
何度も記述しているところですが、天皇と大王は異なる。国書を送っているのは本来の王である大王であるということです。

推古天皇は、天皇ですが倭国のトップである王ではないということです。
日本書紀の改竄箇所です。「天皇」の呼称は本来は蘇我馬子によって作られた蘇我の王の呼称です。
日本書紀がこの年の遣使を消し去った理由のように思います。


何故に開口二十年(600年)の遣使がなされたのかというところから考えてみます。

卑弥呼が魏に朝貢した時、後の時代に唐が朝鮮半島の内乱に干渉した時と同様の理由である。大陸において巨大な統一王朝が、朝鮮半島に進出することに関係する。
隋が建国した時、高句麗、百済、新羅は朝貢し、冊封体制に入っていました。しかしこの時、隋という巨大な統一王朝が朝鮮半島を征服する行動を開始した影響が倭国に及んでいる。

607年の遣使は隋が朝鮮征服を企て高句麗と戦乱の中にあることが関係する。600年の遣使も同様です。598年、文帝の時代に、高句麗遠征を行っています。
煬帝は高句麗を征服しようと計画していました。

しかしこの598年の隋による高句麗遠征は失敗に終わっています。
隋の文帝の時代です。30万の大軍を派遣しましたが撤退しています。

ウイッキペディア・・・
598年、高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃した。隋の文帝は、30万の大軍で陸海両面で高句麗に侵攻したが、周羅睺が率いる海軍は暴風に遭い撤退した。陸軍も十分な戦果を挙げられないまま、伝染病や補給不足のため撤退した。
   **********************
隋による第一次国利遠征は失敗に終わっています。しかし当然近いうちにふたたび攻めてくるだろうという危機感を高句麗は持っていただろうと考えられます。


高句麗はなかなかの強敵でした。
じゃー隋とすればどうしたらいいのでしょうか?それは高句麗と敵対していた国を利用すればいいわけです。遠交近攻という戦法です。
これ誰にでも想像できる戦法といってもいいわけであり、戦争においての常套手段でもあります。

この時代、朝鮮半島には主に高句麗、百済、新羅の三国なのですが、中でも高句麗はもともと領土が大きく三国中では大きな存在でした。
百済や新羅は常に高句麗による圧迫を受け敵対していました。もともと国境を接するこの三国は仲が良くなかったわけです。
隋の高句麗遠征は、この百済や新羅の訴えを聞いての遠征だともされます。

隋とすれば、高句麗と敵対していた百済、新羅と同盟関係(支配下に置き)を結び、挟み撃ちにすれば高句麗攻略は容易です。

で、この戦法はこの時代でも常套手段ですので、当然ながら緊急事態下の高句麗も同様にこの手段を用いることを考えますよね。しかし隣国の百済、新羅とは仲が悪く同盟関係を結べません。

そう、倭国しかありませんよね。高句麗は倭国と同盟関係を結ぼうとするわけです。百済、新羅に頼ることができない、窮地の高句麗は倭国を頼って友好関係を結ぼうとしたのです。この時代、倭国は相当大きな力を持つ国に成長していました。
広開土王碑にあるように、以前には倭国と高句麗は敵対していました。しかしこの時代には友好関係にありました。

隋とすれば高句麗と倭国が手を結べば厄介なことになります。どちらも倭国を味方に付けたいわけです。
実に120年ぶりの遣使である600年の遣隋使は、隋から朝貢に来るようにとの国書が届いたからの遣使である。
それは、どうも倭国と高句麗、そして百済は手を結び、倭国は新羅に軍を派遣するという行動を起こしているからです。新羅遠征の真意を問いただすことも目的である。

そう、倭国と高句麗、百済との同盟関係は成立しているともいえます。
倭国は新羅を征服しようとするような軍事行動をおこしている。


隋は大国であり、古代から中国の近隣諸国はその冊封体制にありました。隋とすれば近隣諸国とは同盟関係というよりは、隋の支配下に入るようにとのいわば強制的な要求だと思われます。これは、同盟国という対等な立場でのものではありません。

対して高句麗は倭国に協力を仰ぐことに関しては、朝貢的な外交を行い、金銭的な面を含め多くの貢物ともいえる協力をすることになります。倭国の属国になるような対応で接している。
倭国にすれば、威圧的なこの隋からの要求に比べ高句麗に味方する方に傾くのは当然のことのように思われます。

600年の遣隋使に関しても倭国と高句麗が同盟関係を結んでいるのではということに関しての危機感からの、隋から倭国に対する国書を送られたからの遣使であると推測しています。それは新羅に対して軍事的な行動を起こしているからである。

この年、日本書紀によると朝鮮半島に出兵し新羅と戦っています。事実かどうかは疑わしい記事ではあるともされますが、これは事実のように思われます。
562年に任那日本府が新羅によって滅ばされたとされます。任那日本府の回復するための軍事行動が推古朝に三度も計画されています。
一度目は新羅まで侵攻し、新羅は降伏したとされます。

日本書紀によると、新羅に出兵した理由は任那を助けるためとの記述がされていますが、高句麗にとって隋との戦乱の中、南から新羅によって攻められると対応できません。高句麗は隋に攻められる前に南の新羅をたたきたいわけです。それはこの時代には新羅も相当の国力を持つ国に成長していました。

これは、高句麗の要望により倭国による新羅を牽制するための出兵であるといえます。
つまり倭国、高句麗は同盟関係にありました。そして高句麗と百済も接近していました。もともと倭国と百済は友好関係にありました。
つまり倭国、高句麗、百済の三国同盟が成立している。

600年の遣使は、この倭国の軍事遠征に関しての委細を問いただすための隋からの国書が届いたからの遣使である。


日本書記 推古八年(600年)

八年春二月、新羅與任那相攻。天皇欲救任那。是歲、命境部臣爲大將軍、以穗積臣爲副將軍並闕名、則將萬餘衆爲任那擊新羅。於是、直指新羅、以泛海往之、乃到于新羅、攻五城而拔。於是、新羅王、惶之舉白旗、到于將軍之麾下而立。割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々六城以請服。時、將軍共議曰、新羅知罪服之、强擊不可。則奏上。爰、天皇更遣難波吉師神於新羅、復遣難波吉士木蓮子於任那、並檢校事狀。
爰、新羅・任那二國遣使、貢調。仍奏表之曰「天上有神、地有天皇。除是二神、何亦有畏乎。自今以後、不有相攻。且不乾般柁、毎歲必朝。」則遣使、以召還將軍。將軍等至自新羅。卽新羅亦侵任那。
   ***************************
600年の春2月とされます。新羅と任那が戦になった時に、任那に援軍を送ったという記述です。いまさらともいえる任那の問題を持ち出してはいますが、本来は中国(隋)と敵対していた行動をとったとは記述できないのでこのような書記の記述になっている。
日本書紀編纂(改竄)時には、唐の冊封体制のもとにあったからである。これは書記の記述において、隋とすべきところを「大唐」と記述しているところからも推測できるように思います。

当然ながら隋は、この倭国による新羅への軍事行動は、隋に対する敵対行為とも思われ倭国と高句麗、百済は同盟関係にあるのではとの推測をしたのだろうと思われます。

おそらくこの新羅への遠征の事実を憂慮しての、隋からの国書が届いたからの遣使である。隋書にはこういう内容は記述されていませんが、遣使の隋側の真の目的は倭国を冊封体制に入れることを目的としたものであるということは間違いないように思います。

本来は朝鮮半島内の、新羅と百済でいいわけですが、倭国も遣使を行っているのは、高句麗と同盟関係にあるのでは?という行動を起こしたからである。
これら近隣諸国が隋の支配下にあれば高句麗制圧も容易です。
隋はもちろん倭国、百済を味方に付けたいわけです。

これも以前に書きましたが遠交近攻という戦略です。隋の煬帝は、高句麗を攻めるために、南部に位置しもともと仲の悪かった新羅と同盟関係を結び、挟み撃ちにすれば攻略は容易になります。
これ誰もが容易に思いつく戦略ではあるのですが、高句麗も同様の戦略を用いている。
つまり、倭国と同盟関係を結び、新羅を牽制している。

さらに倭国、高句麗連合は百済を同盟関係に取り込もうと行動を起こしている。もともと百済とは友好関係にありました。


日本書紀 推古九年・・・
三月甲申朔戊子、遣大伴連囓于高麗、遺坂本臣糠手于百濟、以詔之曰、急救任那。
       ********************
高句麗には大伴連囓、百済には坂本臣糠手を使わしたのは、任那を救うためであるということですが、これはそうではなく、新羅攻略のための派遣である。倭国、高句麗、百済の三国同盟で、新羅遠征を計画していたのです。
倭国による新羅征服計画でもあるようにも思う。

これは大国隋を無視した形の行動でもあり、書記を改竄した時には、唐の冊封体制下にあり、隋と敵対関係にあったような事実を記述できないため、配慮して任那救出を理由に挙げている。


ウイッキペディア・・・
推古天皇10年(602年)2月、任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画の際、征新羅大将軍として軍二万五千を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山:桑山塔ノ尾古墳参照)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。
  ************************
そして、翌年新羅遠征計画を実行しようとします。
この602年の遠征計画は中止となりましたが、三国同盟が締結されている。
三国同盟を結成したことにより、翌年に新羅遠征する計画があったのです。


ウイッキペディア・・・
推古11年(603年)4月、来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が征討将軍に任命される[1]。推古11年(603年)7月3日、難波より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の舎人皇女が明石に薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた[1]。
 *****************************
この602年、そして603年の遠征計画は中止となりましたが、三国同盟が締結されている。おそらくこれらの計画中止は、隋による横槍であるように思います???

三国同盟を結成したことにより、翌年に新羅遠征する計画があったのです。
倭国は新羅を征服しようとする計画があったのです。おそらくこれは、高句麗による要望でもあった計画である。敵対するであろう新羅を倭国の力で抑え込もうとしていたわけです。
これら倭国の協力に対し高句麗は多額の貢物をおこなっています。



隋の煬帝は604年に皇帝に即位します。国内を安定させ、十分な兵力を準備し、他国(倭国、百済、新羅)も高句麗に味方することないとの確信を持って、高句麗に大軍を送ることになります。


607年の遣使についても倭国、高句麗、百済の三国同盟を牽制するための隋からの国書が届いたからの遣使である。そして高句麗は突厥とも手を結ぼうとしていました。
これらの状況に危機感を感じて煬帝はそれぞれの国に国書を送っている。倭国の遣使もこの国書に応じての遣使である。
隋とすれば冊封体制下にあると思われていた、これら国々が同盟を結んだことの関しての憂慮からの国書を送っている。

それは、煬帝(604年即位)の時代になり、再び高句麗遠征を計画しようとしていたからである。当然冊封体制の下にあった考えていた倭国と百済がどうも高句麗と関係を結んでいたからである。
607年の遣使を送った時には、倭国、高句麗、百済連合に対し隋、新羅連合の対立の構図になっている。高句麗と敵対していた百済や倭国はこの時代には接近し友好関係にありました。高句麗が隋によって滅ぼされると、次は百済や新羅に矛先が向けられるのは容易に予測できます。そして最後は倭国です。


この607年の遣使は、この情勢を察した煬帝からの命令ともいえる手紙に応じる遣使である。それは倭国、百済は高句麗側に付く行動を起こしていたからです。
記録にはありませんが、この時も冊封体制に入るようにとの命令の書が届いたからの遣使である。つまり朝貢に来いということです。
これは同じ年に百済も遣使していることからの推測です。百済にも同様の書が届いたからの遣使である。

隋にとっては、周辺国の中でも特に倭国は高句麗との関係を結ばせてはいけない存在でした。この時代には倭国は朝鮮半島の国々も認める大きな国家に成長していました。

隋書倭国伝開皇二十年・・・新羅、百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし並びにこれを敬仰し恒に通史往来す。

隋は高句麗との争いに倭国、百済が加わわらないように、そしてそれまでの中国の近隣諸国がそうだったように、煬帝は隋の支配下になるようにとの、いわば脅かしの国書をこの年に送っている。607年の遣使はこの国書に応じての遣使である。


ウイッキペディア・・・
冊封(さくほう、さっぽう)又册封とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。
  *************************
「日出處天子致書日没處天子無恙云云」は、冊封体制に入るようにとの煬帝からの国書に対しての、やんわり?とした拒否の手紙である。
この文章以降は記述されていませんが、問題はこの「天子」です。これは対等の立場での国書であるともいえます。

ウイッキペディアにあるように、・・・冊封とは「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係ということです。

隋書にある607年の聖徳太子による遣使が持参した国書は、煬帝がこの脅かしともいえる国書において自身を「天子」と自称した事に対する返答の国書であるように思います。

つまり、聖徳太子自身も「天子」と表現していることからも冊封体制に入ることに関しては拒否したという内容です。ふたりの「天子」とは冊封体制においてはありえないということです。隋と倭国は対等だという内容です。

煬帝が激怒したのは、この文章・・「日出處天子致書日没處天子無恙云云」で、冊封体制に入ることを拒否したということがわかるからです。

そしてこの国書は聖徳太子が作文したのではなく、聖徳太子の仏教の師匠である、高句麗の僧である慧慈の作った文章であるように思う。
僧であるので、仏教の師であるのですが、本来の目的は倭国を高句麗側に付くように密命を受けている。
隋による高句麗への遠征が失敗に終わった後に、高句麗に帰っている。

この国書、つまり倭国は高句麗とは友好関係にあるため、隋側には付かないということに煬帝は激怒したということであると推測しています。

そして、使者は、こういったとされます・・・
大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法
        ***********************
隋書には、倭王は朝貢にきたと記述されていますが、そうではないことがこの使者の言葉から分かります。

使者曰く・・・海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。

これは、朝貢に来たのではなく、仏法を学ぶために来たということを云っています。冊封体制には入らないとのことであるとも受け取れます。
朝貢とは貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品を渡すということです。
菩薩のような皇帝、これは、朝貢に来いとの命令文にたいする、うまい逃げ口上だと思います。
つまり、隋の臣下として従属することに関しては拒否しているという内容にになっている。

これに激怒した煬帝は、いまにも大軍を持って倭国に攻め込むといったような脅迫的な内容の国書を送ったのだと思います。


この時の使者であるとされる小野妹子は、この煬帝の返書を紛失するという事件をおこします。不思議な、そしてありえない話です。

小野妹子は、608年の4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国したが、隋の皇帝煬帝からの返書を経由地の百済において紛失したと報告しました。

これは、日本書紀にはあるが隋書にはありません。事実ではないからです。

日本書紀の記述では遣隋使は607年、翌年の608年、そして614年のの三度の遣使とされます。

隋書によると、倭国からの遣使は、開皇二十年の600年と、煬帝の時代である、大業三年(607年)、翌年の608年、そして、大業六年(610年)の遣使の四度ということになります。

隋書や日本書紀には607年の秋七月、そして翌年の608年の夏四月の遣使との記述があるのですが、続けての遣使であるので疑問がなげかけられています。
小野妹子は607年7月に隋にわたり、翌年608年の4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国したというのが定説になっています。しかしこれはそうではないように思う。

この時代の情勢を考えれば、悠長に長期間滞在することなどありえない。
隋書や日本書紀の記述どおり、小野妹子は607年、そして翌年の608年の二度にわたり続けて遣使している。それは緊急の国書であったからです。

日本書紀 推古天皇
十五年・・・
秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。

爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」

秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京・・・時、使主裴世淸、親持書兩度再拜、言上使旨而立之。

其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘德化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、遠脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世淸等、稍宣往意、幷送物如別」時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。

   ****************************
まず、「皇帝問倭皇」の記述に関してですが、隋書では倭王と記述されています。この時代の本来の大王の呼称を消し去って天皇である推古が王であると改竄したため矛盾したものになっている。日本書紀の改竄時に、「王」の文字を「皇」の文字に変更されたものです。

推古天皇は、天皇ですが倭国のトップである王ではないということです。
日本書紀の改竄箇所です。「天皇」の呼称は本来は蘇我馬子によって作られた蘇我の王の呼称です。
日本書紀が600年の遣使を消し去った理由のように思います。

「倭皇」、この時代の王を推古天皇に変更していますからね。隋書倭国伝では「倭王」です。日本書紀の改竄箇所が他国の文献により暴かれている。本来の王は「天皇」ではなく「大王」であるということです。

そして、これら文章からわかるように、自分自身を天子と表現しているように、聖徳太子は大王に即位していたということです。推古は天皇ですが、他に大王が存在していたということです。

この大王とは、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある、日十大王こと押坂彦人大王のことです。

推古天皇は、天皇ですが倭国のトップである王ではないということです。
日本書紀の改竄箇所です。天皇の呼称は本来は蘇我の王の呼称です。


使者の小野妹子による、国書紛失事件の不思議な話からも推測できる。
ここは既に指摘のあるところですが、・・・。
日本書紀によると、608年の4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国したが、隋から帰国するときに、経由地である百済において国書を奪われたということが記述されています。

しかし、隋の使者である裴世清が同行しているわけですから、国書はこの裴世清が持参しているはずです。八月には国書を上程していると日本書紀にも記述されています。
これ日本書紀自体矛盾する記述ですよね(*^▽^*)

これ単純に文章改竄時のミスだと思のですが、・・・
推古天皇は、倭国の王ではありません。本来の王は、隋書にあるように大王である、聖徳太子こと押坂彦人大王です。ですので本来の日本書紀には、推古天皇条なんてありませんでした。改竄時に新たに推古天皇条を作成したのです。

日本書紀 推古天皇条
秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐・・・亦毎國置屯倉
の記事の後に、
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上・・・
この文章を入れなければ行けないのに、十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐・・・の文章の後に挿入したので矛盾するものになっている。二度遣使していることによる間違いである。紛失したとされる国書は十五年秋七月(607年)の遣使時のものである。

国書を失ったという事件は、この607年の国書である。しかしこの事件は作り話である。あたりまえだけど、608年の国書は、裴世清が持参している。隋書や日本書紀の記述通り、607年、そして608年の二度にわたり、隋に遣使している。

続けての遣使は、607年の国書が脅迫的な国書だからです。百済が国書を奪ったというのも信じがたい話ですが、国書の内容を記述できないため、紛失したということになっている。
それは、高句麗と同盟関係にあり隋と敵対しようする行動を起こしていたからである。

隋の冊封体制にはいるように、重ねて要求する高圧的な内容の国書であると推測できます。
さらに、戦争下になれば隋に援軍を送り、高句麗に出兵するようにとの内容が記述されている国書であるように思えるのです。隋側に付けということです。

これは、百済も、607年に二度遣使を行っていることからも推測できる。百済も同様のことであるように思う。倭国、高句麗、百済の三国同盟の絆を崩そうとしたのです。

倭国に対して、いまにも軍事行動を起こすという内容の国書をみて驚いた倭国は、続けての遣使を行ったのです。百済も同様です。
ただし高句麗とは友好関係にあり、出兵に関しては難しいとの国書を持っての遣使であるように思います。

それで、煬帝は使者である裴世清を派遣したのだと思います。

これは、隋書の煬帝紀には大業四年(608)三月に「百済、倭、赤土、迦邏舎国、並びて使を遣し、方物を貢ぐ。」
大業六年(610)正月に「倭国は使を遣し、方物を貢ぐ」と記されている。
つまり、隋の冊封体制にはいることを受け入れたということである。

ただし、煬帝はこれからおこるであろう隋と高句麗との戦いにおいては、倭国は高句麗側としては参戦しないとのことで妥協している。

610年、倭国が隋の冊封体制に入ったことにより、612年の正月、隋の煬帝は、なんと113万もの大軍で高句麗に侵攻します。

隋による高句麗遠征は、598年から614年まで4回にわたって行われます。
隋による最初の高句麗遠征は598年、そして第二次高句麗遠征は612年です。
この複雑な国際情勢の中、倭国の外交政策も大きく変わることになる。








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東大寺創建の謎と孝謙、称徳天皇

2020年06月08日 | 日本書紀の謎


今回は奈良の大仏さんについてです。
これまで記述してきましたが、聖武天皇は藤原の操る王であり、本来の王ではありません。対立して殺害した大王家の人物を大王に即位していたことを消し去るために系譜を改竄し歴史を変更している。

奈良の大仏さん、東大寺は、聖武天皇や皇后である光明皇后が造った寺院ではない。東大寺創建の功績を変更している。
少しばかり大胆な推測とも思えるのですが、聖武天皇は本来の王ではないとする私には当然の推測ともいえます。

続日本紀は、藤原の時代の藤原の主張する書物に他ならない。歴史を改竄するための偽書である。

聖武天皇は、大王家の人物であるのですが、本来の大王を消し去るための人物でもある。そして皇后の光明皇后も同様であるように思う。

この本来の大王とは、天武系の大王たち、長屋大王や弟の鈴鹿大王である。そして、この鈴鹿大王の王后は阿部氏の女性である。ですので、この阿部氏の女性の事跡を消し去るための、藤原の娘、光明皇后である。

藤原不比等の娘とされる二人の女性、文武天皇妃の宮子と聖武天皇妃の光明子は、実は不比等の娘ではないとの伝説が今も語られています。


長屋王家とされる場所から出土した木簡に記述されている文字からの推測によると、長屋王や父親である高市大王は明らかに大王でした。
今回は、この長屋大王以降の話になります。
系譜改竄による推測から、東大寺の大仏さんの建立の謎についても考えてみます。

聖武天皇に時代には、本来の大王が存在しています。つまり、大仏建立のような大事業は、藤原氏が主張する聖武天皇ではありえないということです。

聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは、天平15年(743年)であるとされます。大仏建立には、この聖武天皇と后である光明皇后が大きく関わったとされます。
特に藤原不比等の娘とされる光明皇后は仏教に篤く帰依し東大寺、そして国分寺の設立を夫に進言したと伝えられていますが、これは事実ではないと思う。阿部氏の女性の功績を消し去っている。

この時の本来の大王は、奈良京にいた長屋大王の弟である鈴鹿大王である。大仏造立の詔を発したのは鈴鹿大王である。鈴鹿大王崩御年は、745年であるとされます。
つまり、東大寺や、国分寺の設立を夫に進言したのは、この鈴鹿大王の王后であるわけです。この王后とは阿部氏の娘である。
この阿部氏の女性とは誰であるのかも推測してみます。

何度も記述しているところですが、この阿部氏の系譜を改竄し消し去っている。それは藤原氏に祟って被害を及ぼしたからです。藤原四兄弟を死に追いやった祟りは阿部氏が関わるからです。


そして今回記述する、孝謙、称徳天皇も東大寺建立に大きく関わっている。

東大寺に対をなす西大寺はこの孝謙、称徳天皇が発願し建立したお寺です。そして東大寺もまたこの孝謙、称徳天皇が建立に関わるのではないのだろうか?

それはこの孝謙、称徳天皇は、鈴鹿大王の娘だからです。
東大寺は父親の鈴鹿王、対する西大寺は娘の孝謙、称徳天皇の発願のお寺である。

孝謙、称徳天皇の系譜改竄の謎についても推測してみます(*^▽^*)

先ずは孝謙、称徳天皇について・・・
以下は称徳天皇で記述していきます。この称徳天皇の名も気になるところですが・・・。
系譜を変更しているのですが、名前は変更していない。改竄箇所の謎解きの手掛かりになります。

孝謙天皇、重祚して称徳天皇は、父親は聖武天皇、母親は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后とされます。「高野天皇」とも呼ばれていたようです。
ですが、即位前の名は「阿倍内親王」です。これは阿部氏の娘であるということです。

聖武天皇の母親である藤原宮子は、本来は阿部宮子である。その聖武天皇の娘が「阿倍内親王」というのはもちろんあり得るのですが、藤原不比等の娘である、光明皇后の娘の名が、敵対してきた阿部氏の名、「阿倍内親王」というのはありえません。

藤原四兄弟を死に追いやった長屋大王は阿部氏が関わります。藤原氏にとっては阿部氏は憎き相手です。長屋王の母親は阿部氏の娘、阿部明日香です。
称徳天皇は光明皇后の娘ではありえません。

藤原氏にとって大きな敵対勢力だったこの阿部氏の系譜を消し去っている。
聖武天皇時に利用したのが藤原不比等の娘に取り込んだ、二人の女性、宮子と光明子です。
系譜を改竄し、阿部氏の女性の功績を消し去るための、人物がこの光明皇后である。光明皇后伝説として伝わるものは、実はこの阿部氏の女性の功績である。
この阿部氏の女性とは誰なのかも考えてみます。

孝謙、称徳天皇は、この光明皇后の娘ではないように思います。
つまり、称徳天皇こと「阿倍内親王」は、光明皇后の娘ではなく、藤原が関係する女性ではない。ですのでこの称徳天皇は藤原氏と敵対するようになります。大王家と阿部氏が関わる女性である。称徳天皇が悪く書かれているのはこれが理由です。
藤原の娘ではなく、阿部氏の娘です。


称徳天皇は弓削道鏡との関係が話題になる女帝です。
悪く描かれている人物は、渡来人、藤原氏と対立していた人物といえます。
弓削道鏡も、弓削氏は物部系に豪族であり、本来の大王家に関わる人物です。
皇位を簒奪しようとしたとして悪く描かれていますが、渡来人、秦氏の王である桓武天皇なんかよりはるかに王座にふさわしい人物です。

称徳天皇がこの弓削道鏡を頼ったのは、大王家、天武系の人物が次々に暗殺されてしまったからです。特に、弟と息子を殺されたからです
次期大王候補がいなくなったからです。

称徳天皇は結婚をしていないとされますが、そうではない。「天皇」とは皇后の呼称でもある。
天皇に即位しているのが事実なら、彼女は結婚しています。

ここも何度も記述してきましたが、「天皇」とは蘇我の王の呼称であり。本来の初代天皇は推古天皇です。
蘇我氏が滅んだ後に、初代が女帝だったこともあり、後に女帝の呼称に変更されている。王后(皇后)のことである。
この「天皇」の呼称を利用し、蘇我氏により変更された歴史を基に、藤原氏によって桓武天皇の時代に歴史を改竄している。
蘇我氏、蘇我馬子の時代、そして、藤原氏、秦氏の王である桓武天皇の時代に古代の歴史は変更されている。

孝謙、称徳天皇から譲位を受け践祚した淳仁天皇は、称徳天皇の王子である。つまり称徳天皇は舎人親王の后である。
淳仁天皇の娘は、称徳天皇(阿倍内親王 あべないしんのう)と同じ名前、「安倍内親王 あべないしんのう」であり孫娘です。
この淳仁天皇を殺害したのは藤原である。称徳天皇の恨みをこの文章で晴らします。

阿倍内親王こと、称徳天皇は、聖武天皇の娘でもないし、光明皇后の娘でもありません。
ではだれの娘なのでしょうか?
壬申の乱の勝利により、本来の大王家である天武大王が、王座の地位を挽回していました。称徳天皇はこの天武系の女帝です。
藤原氏が主張する聖武天皇に時代に、本来の都である奈良京において、大王だった人物です。

それは長屋大王の弟である鈴鹿大王の娘です。

「長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎」のところでもう既に記述してきましたが、・・・

聖武天皇と県犬養広刀自との子供たち、井上内親王・不破内親王・安積親王は殺害されるなど何故か悲劇的な運命を辿ることになります。
特に井上内親王、その子供(他戸親王、早良大王)たちは殺害され怨霊として恐れられています。

怨霊を恐れるのは殺害した方、つまり藤原氏であるのです。この藤原氏が自らが関わる聖武天皇に関係する人物を殺害するわけない。系譜が変更されています。

井上内親王・不破内親王・安積親王は聖武天皇の子供たちではない。

井上内親王は、鈴鹿大王と阿部広刀自との娘であり、天武の次男である刑部大王の後胤である葦原王の皇后だったのではないのか?
天武ー刑部ー山前ー葦原王

ウイッキペディア・・・葦原王
天平宝字5年(761年)御使麻呂と賭博・飲酒中に、俄に怒りを発し麻呂を刺殺した。そして、その胸を俎にして股肉を膾に切り刻み食してしまった。

生まれつき凶悪な性格で、好んで酒を飲ませる店で遊んだという
             『続日本紀』天平宝字5年3月24日条
   ****************************

葦原王は非常に悪く書かれています。殺害した人間を食べたという記述がされています。悪く描かれている理由は簡単なものです。秦氏、藤原氏の対抗勢力であり、そして藤原氏に祟り被害を及ぼしたからです。

それは、大怨霊である早良大王の父親だからです。秦氏の王である桓武天皇は怨霊を恐れました、それは自らが王になるために殺害したからです。
そして桓武天皇は、この早良大王の怨霊に苦しむこととなります。桓武天皇は怨霊に呪い殺されたと思われていました。

葦原王と井上内親王との子供が他戸親王、そして早良大王です。
この三人は大怨霊です。それはもちろん大王家の人物だからです。そして阿部氏が関わります。

東大寺に西大寺は、藤原氏による怨霊撲滅のお寺だと考えていましたが、そうではなく、奈良の大仏さんは、これら殺害され祟った、長屋大王や早良大王たちの御霊を祭るお寺である。


藤原氏はこの3人、井上内親王と子供の他戸親王、そして早良大王を殺害しました。この三人は祟りました。祟り神として御霊神社に祀られています。

井上内親王は葦原王の后であり、子供たちが他戸親王、早良大王です。
だから葦原王は悪く書かれているのです。

本来の大王だった、早良大王は桓武天皇の弟ではありません。系譜が改竄されています。この葦原王と井上内親王の子供である。

そして、この井上内親王の妹が称徳天皇であり、長屋大王の弟である、鈴鹿大王の娘であり阿部氏の娘である。鈴鹿大王と母親は消されていますが、推測してみます。

聖武天皇の后である、県犬養広刀自とは、実は阿部広庭の娘である阿部広刀自であり、鈴鹿大王の王后である。称徳天皇の母親である。娘とされる井上内親王も鈴鹿王大王の娘である。
東大寺建立に深くかかわったのはこの、阿部氏の娘、阿部広刀自である。
何度も記述してきたところですが、聖武天皇の系譜に取り込み、そしてこの阿部氏の系図を消し去っている。

この時代、阿部氏は大王家と深く関わっている。
刀自の名が共通する三人の女性、大刀自、広刀自、殿刀自は阿倍広庭の娘たち、三姉妹であり、大刀自は長屋王妃、そして広刀自は長屋王の弟の鈴鹿王の妃である。
藤原不比等の五女とされ、大伴古慈斐の妻とされる、藤原殿刀自は阿部殿刀自である。
藤原氏の娘が対立する大伴氏の妻になることはない。阿部氏の系譜を消し去っている。
阿倍広庭は天智天皇(秦氏)、藤原氏と対立していた、孝徳大王の時に右大臣だった阿部内麻呂の孫、阿倍御主人の子です。

聖武天皇の后として取り込んでいますが、この時代の本来の大王だった鈴鹿大王の后です。系譜改竄の手口です。
阿部広刀自は、本来の大王である長屋王の弟である鈴鹿王の后です。
聖武天皇の后ではない。
系譜を改竄し本来の王家の女性である称徳天皇を、聖武天皇の娘として変更している。

鈴鹿大王、阿部広刀自ー姉、井上内親王、妹、称徳天皇こと「阿倍内親王」

鈴鹿王は、聖武天皇時本来の大王だった人物です。

この鈴鹿王と阿部広刀自との娘が称徳天皇こと「阿倍内親王」である。
称徳天皇は天武大王から繋がる、本来の大王家の女性である。

長屋大王と鈴鹿大王の母親に関して・・・
阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女(高市大王妃)元明天皇(阿部皇女)

高市大王と阿部明日香の子供が長屋大王です。
高市大王と御名部皇女の子供が、長屋王の弟の鈴鹿王である。

この御名部皇女は、高市大王妃として長屋王の母親とされますが、間違っています。何度も記述しているところですが、万葉集、柿本人麻呂の挽歌から推測できますが、長屋王の母親は阿部氏の姫王、阿部明日香です。

この元明天皇の姉と思われる、御名部皇女こそが、鈴鹿大王の母親である。

そして、鈴鹿大王と阿部広刀自との娘が阿倍内親王こと称徳天皇である。

高市大王と御名部皇女ー鈴鹿王と阿部広刀自ー称徳天皇(阿倍内親王)

称徳天皇は、その名の通り阿部氏の女性です。
藤原氏にとっては、藤原四兄弟を死に追いやった、長屋王の母親が阿部氏の娘、阿部明日香ということで、阿部氏は憎き相手です。

しかし、万葉集における柿本人麻呂の挽歌から、父親である高市大王の王后は、この阿部明日香あるとの推測は容易です。この時代、阿部氏は大王家と密接な関係にありました。

元明天皇もそうです。阿倍皇女という阿部の名がつくはもちろん阿部氏の女性だからです。
系譜改竄の常套手段です。大王家の人物を自家の系譜に組み入れている。

長屋大王の暗殺以降、秦氏の王である桓武天皇が即位するまでの大王家と渡来人秦氏、藤原氏との争いです。

聖武天皇と県犬養広刀自(本当は阿部広刀自)との間には安積親王が生まれたとされますが、これも違います。これは藤原氏に暗殺されていることからも推測できます。系譜が変更されている。

ウイッキペディア・・・安積親王
天平16年(744年)閏1月11日、難波宮に行啓の際、その途中に桜井頓宮で脚気になり恭仁京に引き返すが、2日後の閏1月13日に17歳で死去した。その死があまりにも急で不自然なところもあったことから、藤原仲麻呂に毒殺されたという説も根強い。
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この毒殺されたという説はこの通りのように思います。理由は本来の大王家の人物であったのと、阿部氏が関わる人物であったため、大王に即位することを恐れた藤原仲麻呂に暗殺されたのです。
聖武天皇と県犬養広刀自の皇子ではなく、鈴鹿王と阿部広刀自との子供が安積親王、そして称徳天皇です。
安積親王は称徳天皇の弟になります。
藤原仲麻呂が、聖武天皇と県犬養広刀自との子供を殺すはずはない。

そして、聖武天皇と光明皇后の皇子とされ、本来、称徳天皇の同母の弟される基王は、称徳天皇の弟ではない。

ウイッキペディア・・・
基王(もといおう)は、奈良時代の皇族。聖武天皇の第1皇子。基皇子とも。また『本朝皇胤紹運録』にはただ「親王」とのみ掲げられており、その説明書きとして「諱基王」と記されていることから、これは「諱某王」の誤記であり、実名は不明であるとする説もある。「基」と命名されたのであれば、まだ親王宣下の慣行が存在しない当時、誕生とともに自動的に「基親王」とされたはずだからである。
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聖武天皇と藤原の娘の光明皇后との唯一の皇子であるのに、名前が不明だという説があります。上記の説明どおりです。
聖武天皇の皇子の名前が不明、しかも光明子との皇子が・・・本来はありえません。
それは、聖武天皇も光明皇后も藤原が関わる人物ではないからであり、聖武天皇は本来の王ではないからです。

藤原氏の皇子といえるこの基王を、長屋王が呪詛したので、基王は亡くなったとしたいわけです。
藤原氏は、長屋王殺害を正当化したいわけです。藤原の皇子を呪い殺したので、復讐をしたと・・・。
基王は生後一年に満たずに亡くなっていて、本当にこの基王というのが存在していたかは不明のように思います。

基王は727年11月生まれ、728年の10月に亡くなっています。
翌年の729年に、長屋王の変が起きます。
「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」・・・この長屋王の変は、この基王を呪い殺したのが原因とされます。
長屋王暗殺を正当化したいわけです。つまり、基王というのは存在していません。後の作り話である。
ですので、東大寺創建に関わり、起源とされる金鐘寺は、この基王を祀るためのお寺ではない。
続日本紀は、藤原の時代に編纂された歴史を変えるための書物である。

これは聖徳太子一族が滅亡したとされる山背大兄王殺害も同様の手法です。
聖人である聖徳太子一族を滅亡させたとして、蘇我氏を悪者に仕立てることにより、後の蘇我氏との争い、乙巳の変クーデターを正当化できます。

桓武天皇時に歴史を改竄した時に、聖武天皇は天皇だと改竄しているのです。
藤原と対立し、殺害した本来の大王たちの事跡を消し去るためです。
聖武天皇の母親である、藤原宮子も、聖武天皇の皇后の光明子も、不比等の娘ではないのです。

阿部氏憎しの藤原氏はこの阿部氏の女性、阿部広刀自の事跡を改竄している。
仏教に篤く帰依し、東大寺や国分寺の設立を夫に進言し、そして貧しい人に施しをするための施設である「悲田院」や医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行ったのは、この鈴鹿大王の王后である、阿部広刀自の事跡である。

阿部広刀自はこの時代に大王だった鈴鹿王の后です。称徳天皇の母親である。阿部氏の娘たちは大王家の王たちに嫁いでいる。この阿部氏の系図を消し去っている。

鈴鹿大王崩御後、横暴を極める藤原氏に対抗したのがこの女性、称徳天皇である。
藤原四兄弟が天然痘で死亡し、藤原氏の力は衰えたともされますが、安積親王の暗殺以降、大王家と藤原氏の争いが再発激化します。

橘奈良麻呂の乱

ウイッキペディア・・・
橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。

仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂だった。皇太子廃立をうけて奈良麻呂は大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる皇族を擁立する反乱を企てるが、はやくも同年6月に上道斐太都らの密告により計画が露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂と古麻呂をはじめ、新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や黄文王も捕縛され拷問を受けて獄死、反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も左遷された(橘奈良麻呂の乱)。    
    ***********************
殺害された人物から推測できますが、大王家と争ったとはかけないので、首謀者のひとりである橘奈良麻呂の乱として話は変更されていますが、これまで通り本来は大王家と渡来人秦氏、藤原氏との争いである。渡来人による反乱です。

これも、本来の大王家である、天武系の長屋大王の王子たち、黄文王や安宿王と、渡来人との争いである。
安宿王と黄文王は、阿倍広庭の娘の安倍大刀自の王子たちです。

称徳天皇の姉であり、怨霊として恐れられる井上内親王は鈴鹿王と、阿倍広庭の娘である阿部広刀自との娘であり、葦原王の妃である。彼女もまた藤原氏と対立する阿部氏が関わる女性である、その子供である早良親王と他戸親王は本来の王家の人物でありこの時代の王位継承において筆頭である。

ウイッキペディア・・・早良親王
天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺で良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた
   ***************************
早良親王は、桓武天皇の同母の弟ではなく、葦原王と井上内親王との子供であり、井上内親王の妹は称徳天皇である。
東大寺は、鈴鹿大王が建立した寺院であり、娘の称徳天皇も関わることになります。完成したのはこの称徳天皇の時代です。
そしてこの早良親王は、東大寺と深く関わります。それは、母親の井上内親王の妹が称徳天皇であるからです。
井上内親王と妹の称徳天皇は阿部氏の娘です。

阿倍内親王こと、称徳天皇は、聖武天皇の娘でもないし、光明皇后の娘でもありません。長屋大王の弟である鈴鹿大王の娘です。
これは、称徳天皇のお墓が、この鈴鹿王の邸宅跡に造られたことからも推測できます。鈴鹿王の関係者であるはずです。称徳天皇は、鈴鹿王の娘です。
他人の邸宅跡にお墓を作るはずありません。

この時代は、多くの暗殺により、大王家の王位継承者が暗殺されていた時代、です。大王家が存続の危機にあり、藤原氏が秦氏の武力を背景に権力をほしいままにしている時代でもあります。
称徳天皇は、渡来人である藤原氏が権力を簒奪しようと横暴を極めた宮廷内で、女性ながら大王家存続のため大きな敵に立ち向かった勇気ある大王家の女性です。

記紀は桓武天皇の時代、つまり秦氏、藤原氏の時代に改竄されている。記紀において悪く書かれている人物は、秦氏、藤原氏と敵対していた人物です。

佐紀にあったとされる元の鈴鹿王邸に称徳天皇の御陵が造営されたということからも容易に推測できます。他人の家にお墓を作ることなんてありえません。
称徳天皇はこの時代の本来の大王だった鈴鹿大王の娘です。

称徳天皇は、藤原氏の娘である光明皇后の娘であるのに、藤原氏と対立していたともされますが、そうではありません。系譜が改竄されています。
ですので藤原氏と対立したのです。

ただし今治定されている佐紀高塚古墳は、時代が大きく異なるため御陵はここではありません。




写真は称徳天皇の御陵とされる、佐紀盾列古墳群にある高野陵です。
遺跡名は「佐紀高塚古墳」で、墳丘長127メートルの前方後円墳です。
およそ4世紀ころの古墳とされます。称徳天皇の崩御年は770年とされますので、あきらかに称徳天皇の御陵の治定は間違っています。考古学的には四百年程の開きがあります。宮内庁よこれでいいのか?

御陵が分からなくなっているのは、光明皇后の娘ではなく、敵対していた阿部氏の女性だからです。秦氏、藤原氏と敵対し藤原四兄弟を死に追いやった阿部氏の系譜を消し去っている。
この称徳天皇のお墓だけでなく、ほとんどの古代の大王の古墳の治定は間違っています。それは敵対していた渡来人により変更されているからです。

それでは、称徳天皇のお墓はどこなのだろう?今に残る佐紀の地にある、王にふさわしいと思われる古墳はどれも前方後円墳など、時代が古いものばかりです。
治定が混乱する理由です。ふさわしい古墳がありません。

私は藤原氏と対決した勇敢な大王家の女性である、この称徳天皇が好きなのです。
ですので、なんとしても、この女性のお墓を見つけてあげたい。

それで、なのですが、ここしかないだろうと思われるところが簡単に見つかりました。
鈴鹿大王の娘であるとする私には容易な推測でした。称徳天皇が創建に関わった西大寺の近くだろうと思い検索するとすぐに見つかりました。



ウイッキペディア・・・西大寺
宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は同年10月重祚している(称徳天皇)。翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建された。

伝称徳天皇山荘跡(奈良市西大寺宝ヶ丘)を含む

ウイッキペディア・・・
称徳天皇の真陵については、『西大寺資財流記帳』の記述を基にすると、この佐紀高塚古墳ではなく西大寺の寺域西限の地に存在したと推定される。しかし後世に陵に関する所伝は失われ、鎌倉時代の「大和国西大寺往古敷地図」(徳治2年(1307年)以前成立)を初見として西大寺の東方に位置する本古墳に比定する説が生じた。江戸時代には、さらに北方の五社神古墳を称徳天皇陵にあてた説も生じている。その後、幕末の文久の修陵に際し、「大和国西大寺往古敷地図」等を基に本古墳が改めて称徳天皇陵に比定され、これが現在に踏襲されている。
   ***********************
このウイッキペディアの文章からの推測になりますが、西大寺はこの称徳天皇発願のお寺である。ですので、西大寺に眠っているのではと思い、「西大寺 称徳天皇」で検索したら案外簡単に見つかりました。

西大寺は、すでに鎌倉時代において伽藍の配置が変えらていたようです。
もとの西大寺の境内、その西側には称徳天皇山荘という場所(池と中島)があったらしいのです。西大寺は本来もっと大きな規模のお寺でした。

「称徳天皇は鈴鹿王の旧邸に眠る」ということからもここです。長屋大王の後、弟である鈴鹿王は、大王に即位しました。
大王に即位したということで、もちろん移住し、「奈良宮」が新たな住居になっていました。
そして、父親であるもとの鈴鹿王邸宅が、鈴鹿王の崩御の後、娘である
称徳天皇の山荘という名称になったと推測しています。この二人は親子です。
他人の家に埋葬されるわけありません。

『西大寺資財流記帳』にある、西大寺の寺域西限の地という文章にも合致します。断定しませんが、おそらくここしかないだろうと思います。
西大寺境内、伝称徳天皇山荘跡という場所が、称徳天皇のお墓である。
今治定されている佐紀高塚古墳は築造時期が大きく異なるうえ、西大寺から北東方向に位置し文献の記述とは異なります。

写真が、伝称徳天皇山荘跡(奈良市西大寺宝ヶ丘)だろうと思われる場所です。今に残る西大寺中心部から北西に直線距離でおよそ500m位に位置します。奥の院から200m程です。近くに高塚という地名も存在します。本来の西大寺は、現存西大寺よりもっと大きな規模のお寺でした。
池もいまだに存在しています。竹が生い茂っていますが、ここが池の中島であり、この中島こそ称徳天皇の埋葬地です。










東大寺 大仏さんについて・・・
聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発したとされます。続日本紀にあるのですが、信用できません。続日本紀は藤原の主張する歴史書です。真実は語られていません。

この時代の本来の王は鈴鹿大王であり、聖武天皇ではありません。
ですので大仏造立の詔を発したのはこの鈴鹿大王ではなかろうか?

これは、完成したのは藤原の時代になってはいましたが、奈良の大仏さんを造ろうとしていたのは、この鈴鹿大王である。聖武天皇は、本来はいまだ即位していません。
天平13年(741年)における、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じたというのも、本来の大王であるこの鈴鹿王である。

聖武天皇は724年に即位したとされますが、これは藤原の主張であり、これらの功績を聖武天皇の功績として取り込んでいる。

長屋大王や鈴鹿大王が大王として在位中に、天皇だとされる、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇は本来の王ではない。
藤原氏と対立していた長屋大王や鈴鹿大王が大王に即位していた事実を消している。そしてその功績までをも取り込んでいる。

鈴鹿大王は、藤原四兄弟を死に追いやった長屋大王の弟です。
この鈴鹿王が大王に即位していたことが消されている。
大仏は、鈴鹿大王による戦乱ににおいて殺害された人々の御霊を鎮めるためのものである。
東大寺の起源に関わる金鐘寺は、本来の大王である長屋王その王子たちを祀るためのお寺であり、東大寺も同様に大王家の人物を祀るためのお寺である。

そしてこの長屋大王の弟である鈴鹿大王こそ、孝謙、称徳天皇の父親である。

つまり、大仏建立に大きく関わったのは、光明皇后ではなく、阿部広刀自と、娘である称徳天皇である。
大仏さんの開眼式は752年に執り行われました。この時、天皇(女帝)だったのは、天武系天皇であるこの称徳天皇である。


ウイッキペディア・・・光明皇后
書をよくし、奈良時代の能書家として聖武天皇とともに有名であり・・・

「藤三娘」と、年紀と署名があり、光明皇后が44歳の時の書だと分かる。かつては署名部分に別紙を継いでおり、本文とやや書風が異なると見なされた事などから皇后の自筆でないという説もあった
    *********************
この「藤三娘」の署名は有名ですよね。私には藤原の娘として取り込んだ時の系譜改竄の証拠づくりように思います(*^。^*)
藤原不比等の娘とされる、この光明皇后も、同じく不比等の娘とされる姉の宮子と同様に、不比等の娘ではないとの伝説が語られています。

お母さんは鹿だというお話も伝えられています。本当に鹿というのはあり得ませんが、動物の名を付けることもあるので、鹿という名前だったかもしれませんね。
神武天皇を大和の地に導いた八咫烏もカラスではなく、人間の名前だったかもしれません(*^▽^*)

今も地名に残りますが、大阪府和泉市に生まれた女性だとされます。
不比等は槇尾山(大阪府和泉市)参詣の帰り、この美少女を見つけ養子としたという伝説が今も残ります。

私は騙されないよ。指摘があるように、明らかに別紙を継いでおり、書風も異なります。
「藤三娘」との年紀と署名は、藤原の娘として系譜を改竄した時の別人のものだよ。
余計なことをしたので、かえって系譜を変更した嘘がばれているように思う。
事実は藤原の娘ではないということです。

藤原不比等の娘として変更し、鈴鹿大王の王后である、阿部広刀自の事跡を光明皇后の事跡として取り込んだ時の、いわば証拠づくりのものであるのだけど、なんか拙劣な変更ですよね。でも、・・・皆騙されている・・・。
この光明皇后も伝説どおり、不比等の娘ではない。姉の宮子も同様に不比等の娘ではない。

聖武天皇は王(天皇)だという主張は藤原氏の主張に他ならない。事実ではない。本来の王でないものが東大寺を造れるはずもない。

聖武天皇陵は佐保山南陵に治定されています、となりに皇后の光明皇后のお墓である佐保山東陵があります。しかしそうでないように思う。
佐保山南陵は、この時代の本来の大王だった鈴鹿大王のお墓であり、佐保山東陵は王后である、阿部広刀自のお墓である。

光明皇后のお墓は生誕の地との伝説が残る大阪府岸和田、久米田寺そばにある「光明(光明皇后)塚古墳」である。
光明皇后のお墓であるとの伝説通り、この光明塚古墳が光明皇后のお墓である。

奈良の大仏さんは、これら殺害され祟った、長屋大王、その子供たちの御霊を祭るお寺である。
正倉院の宝物も大王である長屋大王や、鈴鹿大王の宝物である。
これらの事実が対立して殺害した藤原氏によって変更されているように思う。

797年に編纂された続日本紀は、藤原の時代の藤原の主張する歴史書である。
秦氏、藤原氏の時代になるのは、桓武天皇が即位した794年以降であるとも言えます。




恭仁京と山城国分寺について・・・
東大寺建立と同じことが、この山城国分寺についてもいえる。
山城国分寺の創建については、続日本紀などによると、天平13年(741年)に国分寺建立の詔が出されたのち、恭仁京廃都後の天平18年(746年)に恭仁宮大極殿を国分寺に施入したとされます。

この国分寺建立の詔を出したのは、東大寺と同様に称徳天皇の父親であり長屋大王の弟である、鈴鹿王である。聖武天皇ではない。
この時代、本来の大王はこの鈴鹿大王である。長屋大王の弟である鈴鹿大王が大王に即位したことが消されている。もちろん、長屋大王も同様である。

恭仁宮の大極殿が、後に国分寺の金堂になったということですが、そうではない。続日本紀なんて信用できない。真実は逆である。

今、恭仁京跡とされている場所は、もともと山城国分寺であって、その山城国分寺を乗っ取って恭仁京だと主張している。藤原四兄弟が天然痘で亡くなり弱体化し、藤原氏は奈良の都を追い出され逃げ込んだのが、山城国分寺であるということです。この国分寺を宮に造りなおそうとしたのです。
藤原側の主張では、聖武天皇は王であるので、王の居場所が宮となっているということです。ですが適当な工事である。



この恭仁京の宮を発掘しようと、もう何度も調査されているようです。ご苦労様ですが、想定される場所に想定された建物跡が発見されていません。
それは宮ではなかったからです。宮として想定して発掘を行っているので何も見つかっていないのです。宮ではなく山城国分寺です。

恭仁京跡とされる場所には、特に重要な施設であるはずの天皇の住まいである内裏が発見されていません。聖武天皇はどこに住んでいたというのでしょうか?

大極殿の北側に接して内裏がなくてはおかしいはずです。内裏がないのは宮ではないからです。
内裏から大極に出御して、謁見するといいうことです。ですので想定されている宮の形自体が間違っている。
もう何度も記述しているところですが、本来宮は、北から南に内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形になるはずです。
高市大王の香久山宮(藤原宮)もこの並びになっています。
天皇はどこから大極殿に入るというのでしょうか?天皇の住まいである内裏がありません。

堀で囲まれた大極殿院内には、内裏と大極殿の建物がなければおかしい。
北たから、内裏、大極殿、朝堂院が並ぶ形が宮の形状である。

その証拠に、調査の結果、大極殿の北端に接するはずの天皇が政務・儀式を行う、あるはずの大極殿院の南端の塀跡は確認できていません。ですので未完成だったともされます。
しかし未完成ではない。あろうはずの、塀跡がないのは大極殿ではないからです。
大極殿院南面区画施設は重要な施設とみなされますが、大極殿院であるなら、格式の高い築地回廊であろうはずが、調査の結果は簡素な掘立柱塀だということが判明しています。

これはもちろん大極殿院ではないからです。続日本紀においては平城宮の大極殿は移築されたとされますが事実ではないということです。

聖武天皇の恭仁宮なんて存在しない。藤原の主張に他ならない。
さすがに、本来の王がこんな場所に宮を造るはずはないでしょうに。
行政機関に関する建物がまったくありません。恭仁京は政治を行えるような場所ではない。

恭仁京は741年から造り始められとされますが、造り始められたのは、山城国分寺である。この山城国分寺を利用している。
恭仁宮の大極殿というのは、長屋大王の弟であり、この時代の本来の大王である鈴鹿大王が建立した、山城国分寺(大養徳国金光明寺)の金堂である。

この建設途中であった山城国分寺を、宮に作り変えようとしているということです。ですので適当な工事でもあり、宮としてはおかしな点も多数見つかっているようです。

恭仁宮の大極殿を国分寺に施入したのではなく、初めから山城国分寺の金堂である。この金堂は743年に完成しています。

紫香楽宮は、東大寺に先だって大仏を建立しようとした場所として知られるところです。鈴鹿大王は当初ここに大仏を建立しようと計画していたのです。
大仏を建立しようと計画していたのは聖武天皇ではなく、この時代の本来の大王である鈴鹿王である。

平城京の大極殿(第一次大極殿)は、745年以降に平城京に戻ってから、下ツ道を中心に都を作り変えた時に、長屋大王の奈良宮の大極殿を移築して造られたもである。





写真は、大阪府岸和田にある、久米田寺にある光明塚古墳です。およそ30m程の円墳とされます。
光明皇后の生誕地とされる地域にある古墳であり、光明皇后のお墓であると伝えられています。
しかし、光明皇后の古墳は、聖武天皇陵とされる佐保山南陵そばの佐保山東陵に治定されています。

これら古墳もまた、藤原氏によって歴史を改竄された時に変更されている。これまで記述してきましたが、大王だということを変更した人物が、大きなお墓に眠るというわけにはいかないからです。

東大寺建立を、聖武天皇と、光明皇后の功績として塗り替えたため、東大寺傍にあるこれらの古墳の被葬者も変更する必要があったのです。
佐保山南陵は、この時代の本来の大王だった鈴鹿大王のお墓であり、佐保山東陵は王后である、阿部広刀自のお墓です。
この阿部氏の系譜を消し去っている。

聖武天皇は大王家の人物でが、藤原氏が擁立する人物でもある。その后の光明子ももちろん実在の人物ですが、伝説どおり不比等の娘ではない。
阿部氏の娘である阿部広刀自の事跡を取り込むための人物である。

藤原不比等の娘とされる、五人の女性、宮子、 長娥子、光明子、多比能、殿刀自は全て不比等の娘ではない。
これらは、渡来人、藤原氏を大王家に繋ぐ操作である。

まだまだ、続きます・・・














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古代の悲劇 有間皇子、建皇子暗殺の謎

2020年03月14日 | 日本書紀の謎


今回は、渡来人たちによる孝徳大王やこの有間王子、建王子の殺害についてです。国家転覆の大逆罪である孝徳大王との戦乱を隠蔽している。
許せない(`・ω・´)

有間王子は孝徳大王の王子であり、母は阿倍内麻呂の娘である小足媛です。もちろん正統な次の大王候補である。ですので暗殺されている。そして建王子も孝徳大王の王子です。

孝徳大王は、飛鳥京が危険な状態にあったため子供たちを阿部氏が関わる塩屋連の勢力地である紀南の地に避難させていました。
しかし戦乱はこの紀南の地にも拡大することになります。

写真は、熊野九十九王子社のひとつであり、塩屋連の本拠地にある塩屋王子神社(和歌山県御坊市塩屋町北塩屋)です。
天照大神の御神像が祭られていて別名は「美人王子」といわれます。
絶世の美女、かみなが姫こと、藤原宮子(本当は阿部宮子)の出身地です。宮子は阿部氏と塩屋連の娘との子供です。
祈願すると美しい子どもを授かるという伝説があります。
この地は古代から製塩が行われていて多くの製塩土器が出土しています。
塩屋連は、この地方の製塩や漁業に従事していた豪族です。



有間皇子は孝徳大王を助けるべく、避難していた紀南の地の豪族である塩屋連の協力を得て九州に向かう計画を立てていたのです。

前回に記述しましたが、
日本書紀・・・
或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人一日兩夜邀牟婁津、疾以船師斷淡路國。使如牢圄、其事易成。
   ************************
紀南に避難していた有間皇子は、阿部氏に関わるこの地の豪族ある塩屋連の海軍の協力を得て、新田部連とともに淡路島に赴き、この地で畿内からの渡来人の海軍を迎え撃ち、その後九州の孝徳軍に合流する計画を立てていたと推測しています。
九州の地で勢力を回復する計画ではなかったのか?残念ながら事前にこの計画が発覚し先手を打たれ紀南の地で戦争となった。

有間皇子は、この紀南の地の豪族塩屋連の協力を得て戦いましたが、敗れ戦死しました。これが、有間皇子殺害の本来の事柄です。

有間皇子は戦乱の中で亡くなっている。それは孝徳大王の王子であり次期大王候補の人物だったからです。弟の建王子も同様に殺害されている。この事実を変更している。

日本書紀、古事記は天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄された偽書である。
百済が滅亡の危機にあった時に、亡命百済人たちが、頼ったのがすでに倭国内で地盤を築いていた、もとは百済からの渡来人であった秦氏です。天智天皇はこの秦氏の王子です。天智系天皇である桓武天皇もまた秦氏の王である。
系譜を変更する必要があったのです。

孝徳天皇には子供一人、この有間皇子しかいません。そんなことありえません。有間王子のほかにも建王子もまた孝徳大王の王子であり次期有力大王候補である。そして彼も戦乱の中殺害されている。

 阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良、建皇子

持統天皇の母親である遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。この阿部氏の系譜を消し去っている。持統天皇は、天智の娘ではなく孝徳大王の娘です。

この3人は大田皇女、鸕野讃良、建皇子は、孝徳大王と阿部氏の子供たちである。大田皇女の子供である大津皇子も大王家の王子である。

藤原氏は、この鸕野讃良こと持統天皇を利用している。
それは系図をたどるのがわかりやすい。

武勇にも秀でて優秀だったとされるこの大津皇子もまた渡来人に暗殺されている。

建皇子は話すことが不自由で夭折したとされますがそうではない。渡来人との戦乱で殺害されたのである。有間皇子暗殺と同様、つまり紀南の地での戦乱で亡くなっている。

有間皇子の崩御年は、斉明天皇4年11月11日(658年12月11日))とされます。建皇子もまた斉明天皇4年、八歳でなくなったとされます。

亡くなったのは同じ年であり、この時に紀南地方で戦争がおきたのです。
ここも干支から名付けるとすると戊午の乱である。
しかし本来の崩御年は以前に書きましたが、662年だろうと思います。

すると孝徳大王の崩御年も、壬申の乱の少し前の662年だと思います。この後九州の地も戦乱になったと推測できます。
この大王殺害の事跡を変更している。



写真は藤並神社です。私の地元である有田川流域にある神社です。吉備郷の古名が今も残ります。武内宿禰が勅命を奉じて水主神を勧請したのが創祀です。

神社には有間皇子が、水神に奉幣(天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献すること)したとの伝説がのこります。おそらく有間皇子が紀南の地に避難するときに立ちより、孝徳大王の命により、渡来人との戦争の勝利を願っての奉幣です。

境内には古墳が一基あります。泣沢女古墳といいます。
この古墳には、斉明天皇がこの建王子の遺骨をこの地に移したとの伝説が語られています。



藤並神社 泣沢女(なきさわめ)の古墳御由来
斉明天皇(女帝)4年5月、御孫建皇子が8歳にて薨去せられ、大和の今来谷の山上に葬り奉つたが、天皇は皇子の御事が忘れられず、果ては御健康を害われ給う御様子なので、有間皇子のお勧めにより、同年秋牟漏温泉へ御湯治の際、那耆野に御駐輦遊ばされ、この地は大和の今来谷に似ていると仰せられて、その名に因んで今城ヶ丘と名付けられ、建皇子の御遺骨を納め給うた墳墓であると伝えられている。       
境内東隣の青蓮寺はもと今城寺と称せられ、斉明天皇の勅願寺で、皇子の菩提御祈願のため建立
                        和歌山県神社庁

ウイッキペディア                          
『日本書記』持統天皇3(689)年8月の項に、紀伊国阿提郡那耆野2万項(1項は100畝)、田殿丹生神社夏瀬の森から天満宮周辺一帯の有田川流域に互り漁猟禁断の記事が見えるのは、即ち建皇子の塋域だからであると伝えられている。
  
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古事記 「香久山の畝尾の木本に坐す名は泣沢女の神ぞ」
日本書紀「畝丘の樹本に所居す神なり 啼沢女命と号く」

万葉集 「泣沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご大君は高日知らしぬ」

古墳の名の泣沢女とは、泣沢女の女神ことで、イザナギがイザナミの死を悲しみ、その涙から生まれたとされる女神です。この伝説により、生命復活の神とされています
斉明天皇が、幼くして亡くなった建皇子が新たに生まれ変わるように名付けた古墳名のように思います。

この古墳が建王子のお墓であるとの伝説が残ります。建王子は、話すことが不自由であったとされます。斉明天皇は甥(弟である孝徳大王の子)であり、話すことが不自由であったとされるこの建王子をかわいがったとされます。

由緒によれば、埋葬されていた大和の地からこの地に遺骨を移したとのことです。しかし斉明天皇は自身のお墓に合葬してほしいとの遺言を残しているともされます。
この伝説、由緒は変更されている。話は逆です。遺言どおり、この紀南の地から大和に移葬されたのです。本来の元の建王子のお墓はここです。後に斉明天皇の遺言により斉明天皇陵に合葬されている。
建王子はこの地で殺害され埋葬されていたのです。孝徳大王はこの紀南の地に子供たちを避難させていたのです。しかしこの地でも争いが起き殺害されたのです。

この古墳は調査されてます。建王子のお墓だという由緒があるのに遺骨は12歳前後の少女と考えられています。
それは建王子の遺骨は移葬されたからです。
これは幼くして亡くなった建王子を思い少女を合葬(殉葬ではないと思うのですが?)したのだと思います。

ウイッキペディア・・・

『日本書紀』には建皇子の埋葬に関する記述がないほか、母の遠智娘は大化5年(649年)に蘇我倉山田石川麻呂の死を知って憂死した蘇我造媛(中大兄皇子妃)と同一人物とされ、また憂死したのを遠智娘自身とする所伝(『蘇我石川系図』)もあることから、遠智娘は建皇子(651年出生)の生母になりえないとして、皇子の実在性も含めて説話自体を疑問視する説がある
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日本書紀に埋葬の記述がないのは、殺害したからです。説話は本当なのですが、系図が変更されている。建皇子は孝徳大王の子供です。
ここは何度も記述しているところですが、母の遠智娘は阿部遠智娘であり、蘇我造媛とは別人です。孝徳大王の皇后であり天皇です。
白雉元年(650年)がこの遠智娘が天皇に即位した年であり、白雉はこの、袁智天皇の年号です。

「天皇」の呼称は元は蘇我の王の呼称であり、初代天皇は推古天皇です。
初代が女帝であったため、蘇我氏が滅んだ後、つまり645年の乙巳の変以降は女帝の呼称に変わったのです。この天皇の呼称を使用して歴史を改竄している。

斉明天皇即位年は、655年ですので、遠智天皇の崩御年は、654年である。654年に亡くなったのは孝徳大王ではなく、皇后であるこの袁智天皇です。ですので、651年生まれの建王子の母親として問題はなく、建王子は有間皇子とともに正統な次期大王候補です。幼少の時に母親が亡くなったので、斉明天皇が母親がわりになり建王子を育てたのです。

孝徳天皇は有間皇子しか子供いなかったとされますがそんなことありえません。この建王子も孝徳大王の子供です。

牽牛子塚古墳が斉明天皇お墓であり、いま治定されている越智崗上陵は、その名のとおり、阿部遠智娘、袁智天皇のお墓です。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳における、白雉元年(650年)に難波宮にいる袁智天皇との記述から日本書紀の嘘が分かります。孝徳大王の宮である難波宮にいたとされることから容易に推測できますが、孝徳大王の皇后のことです。天皇とは女帝のことです。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」

この牽牛子塚古墳に建王子の遺骨は移され斉明天皇と合葬されている。

ウイッキペディア 牽牛子塚古墳
石槨内の中央には間仕切りのための壁をともない、その両側に長さ約2メートルの墓室が2つあって、壁面は二重の漆喰が塗られている
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牽牛子塚古墳が斉明天皇お墓であり、この古墳に建王子の遺骨は移され合葬されている。墓室が2つあるのは、斉明天皇と、建王子の墓室です。
斉明天皇が崩御した時に遺言により、紀南のこの古墳から移され合葬されている。建王子の本来のお墓は 泣沢女古墳です。

阿部氏は紀南の豪族と繋がりが深い。紀南の豪族の娘たちを嫁に迎えている。

そしてこの阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王に嫁いでいる・・・
孝徳天皇は有間皇子しか子供がいなかったとされますが、ありえません。
そして以前にも書きましたが系譜変更により、年齢も変更している。

*遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。

 阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子

*阿部内麻呂の娘とされる小足媛もまた、阿部内麻呂と紀南の豪族との娘との子供であるように思う。有間皇子の「ありま」の名はイザナミノミコトが葬られたとされる熊野の有馬から名付けられているように思うのですが・・・祖母の出身地からではないのかな?
 
阿部小足媛・孝徳大王ー有間皇子

*蘇我姪娘は 蘇我倉山田石川麻呂の娘ではなく、阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘との子供である阿部姪娘である。
そしてもちろん天智の后ではない。元明天皇の諱は阿閇、阿部皇女です。

阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女 (高市大王妃)、元明天皇

*阿倍内麻呂と新田部米麻呂の娘との子供が阿部橘娘であり、天智の后ではなく孝徳大王の后である。
これは娘の新田部皇女の名前から容易に推測できます。

阿部橘娘・孝徳大王ー明日香皇女(高市大王皇后)と新田部皇女 (忍壁 皇子妃)

これが天智の娘を天武に嫁がせたという不思議な話の真実です。
天智の血を大王家に繋げるための改竄である。

ここも何度か記述していますが、・・・
孝徳の長男である有間皇子は、640年の生まれだとされます。そして、孝徳天皇は596年の生まれだとされますが、これおかしいでしょう?長男と思われる有間皇子が45歳の時の子供となります。
この時代を考えるとありえません。
そして孝徳には、有間皇子以外には子供がいません?そんなはずはありません。

斉明天皇の年齢に関して書きましたが、同様に弟の孝徳の生年に関してもおかしい。
それは祖父の厩戸王子こと押坂彦人大兄皇子は、572年生まれだからです。
つまり、押坂彦人大兄皇子の子供であり、父親である茅渟王は592年頃の生まれと考えられるからです。

ですので斉明天皇 や、2歳違いの弟の孝徳天皇は615年頃の生まれです。
姉である斉明が613年位で、孝徳は615年位かな?そうすると、長男の有間皇子の生年に関して、
そして斉明天皇として即位した年齢に関しても問題ないでしょう。

天智と天武は兄弟ではない。天武のお母さんは斉明天皇ですが、天智のお母さんは斉明天皇ではない。
天武の生年は不明とされますがそうではなく、天智の生年を変更している。5歳年下とされる天武は631年でいいように思いますが、天智の生年は626年ではなくもう少し前である。天智を王家に繫ぐため斉明の子供としたため、斉明天皇の年齢を変更している。
天智系天皇である渡来人桓武天皇により、天智を大王家に繋ぐ操作が行われている。

孝徳大王時代に渡来人勢力との戦争が起きている。
この有田川流域の部族もまた、塩屋連の支配下にあったとされます。この地でも戦乱が起き、建王子はここで渡来人との戦いの中で亡くなっている。

有間皇子が殺害された時同様に処刑されたとされるのが、塩屋連鯯魚と新田部米麻呂です。ともに孝徳政権において左大臣だった阿部氏が関わる豪族です。有間皇子に味方した豪族であり、水軍を用いたのは塩屋連鯯魚です。
処刑されたとされますが、そうではなく渡来人との戦いの中戦死している。



有間皇子もまた戦乱の中で亡くなっている。
孝徳大王と、天智(秦氏)百済渡来人とは百済復興の協力に関して決別していました。孝徳大王は唐、新羅と三国同盟を結んでいたからです。

有間皇子が処刑された話は不思議な話ですよね。

万葉集に有間皇子の有名な歌があります。

万葉集 有間皇子 自傷結松枝歌二首

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
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これらの歌は既に多くの指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌であるとされます。

詞書(有間皇子 自傷結松枝歌二首)があるのでこれららの歌は挽歌とされますが、処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。万葉集もまた都合の悪い箇所は改竄さている。改竄の手口はこの詞書を使ってのものです・・万葉集の謎はいづれ書きます。

天智との争いを避けるため、有間皇子は心の病を装い、紀南の地(牟婁の湯)にに逃れていたとされます。しかし有間皇子は紀南の地から戻り飛鳥で捕まっているとされます。その後紀南の地に護送するときに藤白の地で殺害されたということです。

蘇我赤兄による密告により、天皇に対する謀反を計画したとして悪く書かれていますが、これは天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄された嘘話である。渡来人による大王家の王子たち殺害のクーデタ、大逆罪です。

この時の大王は孝徳大王であり、斉明天皇は天皇ですが王ではありません。
天皇とは女帝のことです。
孝徳大王は崩御していません。孝徳大王の王子はこの有間皇子であり、斉明天皇は孝徳大王の姉です。
斉明天皇に対する謀反なのではなく、孝徳大王と天智(渡来人)の争いは続いていました。百済復興のための出兵に反対の立場であった孝徳大王の子供であり次期大王です。ですので狙われ殺害されたのです。





有間皇子は藤白坂で絞首刑に処せられたとされます。写真、は和歌山県海南市にある藤白神社と有間皇子のお墓です。このお墓は近年に造られたものであり、本当の有間皇子のお墓ではありません。


ウイッキペディア・・・
有間皇子の死後、大宝元年(701年)の紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が『万葉集』に残されている。
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もう何度も書いているところですが、文武天皇の紀伊国行幸時とされますが間違っています。文武天皇は天皇ではありません。

大宝元年は長屋王が大王に即位した年であり、紀伊国に行幸したのはこの長屋大王です。

「かみなが姫の物語 藤原宮子の謎」のころで指摘しましたが、・・・
道成寺創建の由緒については、私は藤原氏によって殺害された先祖の霊を供養するお寺であり、本来の由緒は母親である阿部明日香の遺言により、長屋大王が創建したお寺であるように思います。

大宝元年創建の道成寺は、長屋王がこの地で渡来人との戦乱により亡くなった有間皇子などの人々の菩提を弔うために創建したお寺です。



写真は塩屋連の本拠地、御坊市にある岩内古墳です。道成寺の近くに位置し海を見下ろせる少し高台の上にあります。
この古墳は、調査されています。
地方豪族ではありえない、木棺に塗られていただろう漆の破片や銀線蛭巻太刀、六花形の鉄製棺飾金具などが発見されているのが特徴です。

これらの豪華な副葬品などから身分の高い人物のものであり、有間皇子のお墓だという説があります。
被葬者の候補はふたり、有間皇子とこの地域の豪族であり孝徳大王や有間皇子に協力し戦争で亡くなった塩屋鯯魚です。

私はこの地の豪族であった、塩屋鯯魚のお墓のように思います。孝徳大王に協力し多大な功績があったからです。実はこの古墳は後に改装されています。改装したときにこれら豪華な品々は副葬されたのです。この地は塩屋鯯魚の本拠地です。いまも塩屋の地名は残ります。
塩屋鯯魚のお墓だとすると、亡くなったとされる658年(本当は662年)に造られているわけです。
ところが何故か半世紀後に造営されている可能性が指摘されています。
豪華な副葬品はこの時に埋葬されたものです。

つまり701年に長屋大王が、紀伊国に行幸したときに、功績のあった塩屋 鯯魚のお墓を豪華に造りなおすように命じているということです。
道成寺創建の由緒も同様です。大宝元年(701年)の創建です。
この時に有間皇子や、この塩屋鯯魚など戦争で亡くなった人々を祀るために建てたお寺です。

談山神社も同様です。大宝元年(701年)の創建であり、長屋大王が、渡来人との戦争でこの地で亡くなった本来の中臣鎌足を祀るために建てたものです。
長屋大王は渡来人との戦乱の中で亡くなった人々を祀っている。
大宝元年(701年)というのは、長屋王が大王に即位した年です。
この大宝元年(701年)から崩御したした729年までが、長屋王の大王としての在位期間です。
古事記は712年、日本書紀は720年に編纂されました。この時代、大王として統治していたのは長屋大王です。
古事記・日本書紀は長屋王が編纂した歴史書です。大宝律令も、この長屋王が制定した律令です。長屋王家から出土した木簡から、長屋王は大王だったことは明らかです。
この長屋大王と対立していた藤原氏はこれらの事跡を変更している。


万葉集 有間皇子の歌
有間皇子の歌は既に指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌である。処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。孝徳大王は都が危険な状態にあったため。子供たちを阿部氏が関わる、紀南の豪族である塩屋連の支配地に避難させていたのです。
有間皇子の歌はこの紀南の地に避難するときの旅路の歌である。

有間皇子は飛鳥の地で捕らえられ、再び牟婁の地に護送されるという奇妙な話はこの追悼歌が残っているための創作話であるともいえます。

うまく騙したつもりでも私は騙されません。この有間皇子や大津皇子、そして長屋王もそうです。謀反の起こしたとの嘘話で事実を変更している。

これらの歌は渡来人との争いで亡くなった有間皇子への追悼歌である。つまり殺害したのは渡来人たちである。この事実を消すための、有間皇子謀反のでっち上げの物語です。
有間皇子は、海人族ともされる塩屋連の協力のもと渡来人との戦いに立ち上がったのです。残念ながら戦いに敗れこの地で亡くなっているのです。

戦死した地も推測できます。いまにの藤白神社の地は処刑場所ではありません。謀反を企み処刑されたというのは、渡来人、秦氏藤原氏の言い分です。

塩屋連の本拠地ともいえる和歌山県日高郡にあった村、切目には有間皇子社が存在していました。おそらく戦死した地に社を作り祀っていたのです。
そうでないと存在理由が見当たりません。処刑地ではなく、戦死した場所です。



巻二(一四一) 有間皇子
盤代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む

巻二(一四二) 有間皇子
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあらば椎の葉に盛る

巻二(一四三) 長忌寸意吉麿
磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも

巻二(一四四) 長忌寸意吉麿
磐代の野中に立てる結び松情も解けず古思ほゆ

巻二(一四五) 山上憶良
天翔りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

巻二(一四六)柿本朝臣人麿
後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも

巻一 (三十四)  川島皇子  山上憶良代作
白波の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ

この柿本朝臣人麿や、山上憶良、長忌寸意吉麿は、701年の長屋大王の、紀伊国行幸時に随行した人々です。この地で戦死した有間皇子を偲んで詠んだ歌です。
柿本人麻呂は、天武や高市大王、そして長屋大王に仕えていた人物です。持統天皇や元明天皇に仕えていた下級官吏などではありません。
すると、柿本人麻呂の関する謎も容易に解けるでしょう。

有間皇子は、海人族ともされる塩屋連の協力のもと渡来人との戦いに立ち上がったのです。父親である孝徳大王を助けるべく戦いに挑んだのです。
残念ながら戦いに敗れこの地で亡くなっているのです。




戦死した地も推測できます。写真は切目神社(和歌山県日高郡印南町にある神社。九十九王子の一つ、五体王子の一社)です。この近くに有間皇子を祭る有間皇子社が存在していました。
塩屋連の本拠地から少し南方に位置し、おそらくこの有間皇子が祭られている神社の場所で亡くなって埋葬されていたように思います。

それが、この701年の長屋大王の、紀伊国行幸時に、この地から明日香に移葬されているように思うのですが・・・建王子と同様に大王家の埋葬の地に移されているように推測しています。
じゃー埋葬されている古墳はどこにあるのでしょうか?
文武天皇陵とされる檜隈安古岡上陵のように思うのですが・・・私の推測ですが候補としてはこの古墳以外ないかな?

この文武天皇は、王家の人物ですが、本来の王ではありません。改竄時に天皇だったとしているわけです。それは、藤原氏が関わる人物だからです。夫人を藤原不比等の、娘の宮子だとして変更しているからでもあります。
そして、この文武天皇と宮子との子供が聖武天皇であり、皇后が藤原不比等の本来の娘の光明子だからです。
藤原氏は、文武天皇を天皇だったとしたい理由です。本来の大王は長屋大王です。

この時代、王の古墳は八角墳の形状となっていて、文武天皇陵はこの檜隈安古岡上陵ではなく中尾山古墳の方が有力とされますが、私はどちらも違うように思うのですが?大王ではないので、八角墳には埋葬されていないということと、孝徳大王の王子であり、次期大王であった有間皇子と比べると身分的には少し劣り、聖なるライン上に埋葬されることはないように思うからです?
檜隈安古岡上陵の被葬者は、初めは天武大王と額田王との娘の十市皇女のお墓だと考えていましたが、この有間皇子の方がふさわしいかな?



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倭国、唐、新羅三国同盟と孝徳大王

2020年03月02日 | 日本書紀の謎


日本書紀は、720年に編纂されたとされ、今年は編纂1300年の記念の年になります。しかしながら今に残る日本書紀は、平安時代のものです。
それは、大王家と対立していた渡来人、秦氏の王である桓武天皇時代に、この秦氏や藤原氏の都合により内容を変更したからです。古事記もまた後の時代に改竄されている。

古事記・日本書紀は正史とされますが、歴史書は信用できません。
この改竄された箇所を暴いてやる(*^▽^*)凸
特に大王家との権力争いにより古代から繋がる王座を簒奪したという事実と、自らの正当性を主張するための歴史の改竄である。

朝鮮半島の動乱に、唐という巨大な国家が関わることになり、倭国にも大きな影響を及ぼすことになりました。この時代は戦乱の時代です。
孝徳政権は、唐と手を結ぶ方針だったのです。強大な唐と敵対する判断をするはずはない。倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。

結果は倭国内の渡来人との争いに発展することになります。秦氏の協力のもと、百済復興を画策する百済渡来人勢力は巨大なものとなっていました。

対立は孝徳政権以前からです。聖徳太子(押坂彦人大兄皇子)の王子である山背大兄王(山代王)の暗殺事件。そして645年の乙巳の変も、蘇我氏の専横が理由ではなく、唐と敵対することになる百済救援に対して反対の立場であった蘇我氏との対立であり、原因は全て朝鮮半島出兵に関わることです。

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところでも記述してきましたが、倭国、孝徳大王は唐と手を結ぶ方針を選択していました。当然ながら百済復興を願う百済渡来人勢力とは対立するようになり、戦乱へと繋がります。
663年の白村江の戦に出兵するまでの期間に、大王家と渡来人勢力の間で大きな戦乱が起きている。


今回は「殺戮の時代・・・丙辰の乱」「談山神社創建の謎と中臣鎌足」からの渡来人との戦乱の続きになります。
百済救援のために出兵した、白村江の戦いに関することです。これは王座を簒奪した渡来人勢力が行ったことです。

孝徳大王は、この渡来人との戦乱に備え、飛鳥京を守るために大規模な土木工事を行い、飛鳥京の防御を固めました。
この孝徳大王や、後の天武大王が、奈良盆地の中央部ではなく、南に位置する飛鳥の地を都としたのは、複数の丘陵に囲まれ、特に北からの攻撃に対して防御しやすい地形だったからです。そう、敵(秦氏)の本拠地は山城の地です。

新たに石塁で守られた後飛鳥岡本宮を建設し、多武峰にも新たに宮を造っていました。これが斉明天皇(本来は孝徳大王)の宮とされる両槻宮である。
多武峰の山頂付近に石垣や高殿を築いたととされる、この高殿こそが、両槻宮のことである。
今もこの石垣は山頂に残っています。この石垣とは、もちろん城を守る石垣であり、斉明天皇の両槻宮とは、戦乱に備えての避難用の山城である。

しかし戦乱の結果は、飛鳥京を守ることができず、避難用に作っていた多武峰の両槻宮に撤退することになります。ここでも戦いは起き、この地で、孝徳政権において左大臣だった、本来の中臣鎌足が戦死している。
戦死した地に、葬ってお墓を作っているのです。

お墓は両槻宮の傍にあることからも、この地で戦死したと推測できます。
この中臣鎌足を祀るためお寺が、妙楽寺(後の談山神社)である。

談山神社本来の発祥の由来は、この655年か、656年に、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのが発祥の由来であり、この時にこの城で、孝徳大王と側近だった本来の中臣鎌足が渡来人との戦争に関しての軍議をおこなったというのが談山の名の由来である。
654年に孝徳大王は崩御したとされますが、これは事実ではない。

藤原不比等は後に中臣氏と関係を持つことになります。中臣氏の本拠地は山科ということから、山城や近江を勢力地とする渡来人勢力の中に取り込まれる状態、つまり支配下にありました。
この時に、中臣鎌足の名を騙って系譜を改竄している。それは、渡来人であることを隠蔽するためです。
中臣鎌足と渡来人である藤原鎌足は別人です。

さらに孝徳大王は、避難用に吉野にも宮を建設していました。これが、吉野宮滝宮です。



飛鳥から吉野に行く場合は、稲淵、栢森から妹坂(芋坂)峠を越えて吉野に出るのが便利でいいのですが(実際に持統天皇はこのルートを使いなんども飛鳥と吉野を往来している)、この吉野宮滝宮は何故か峠を越えて吉野川に至り、そからさらに東に4km程の位置になります。たしかに景色のいい場所であるのですが、少し遠方です。

これは、多武峰を越え東部に脱出し、そこから南に向かって山を越え吉野に逃れるルートを作ったからです。
吉野にも宮を造ったのは避難場所であるわけで少しでも遠方に造ったのです。

残念ながら孝徳大王は、明日香での戦いに敗れ、多武峰の両槻宮へ、そして吉野宮への逃走ということになりました。しかしここ吉野宮にも戦地になり追手がせまりました。
大海人皇子(天武)は、この吉野宮よりさらに東に逃亡しました。この伝説は今も残ります。
写真は吉野宮より東に7km程ですが、大海人皇子が逃れ村人がかくまったとの伝説が残る場所にある神社です。おそらくこの伝説はこの戦乱時のものです。国栖奏で有名な吉野町の浄御原神社です。天武天皇を祭っています。





国栖奏のこと
大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に見方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月十四日に天武天皇を祀る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
                           吉野町観光課

大海人皇子はなんとか逃避することができました。壬申の乱へと繋がります。
白村江の戦の敗北により渡来人勢力は弱体化しました。この機会をとらえ大王家、大海人皇子は戦いを挑んだのです。
多くの豪族は大海人皇子側に付き、渡来人勢力と戦いました。
これが壬申の乱の真実です。


孝徳大王たちは、吉野川(紀ノ川)を使い、紀ノ國へ逃れることになります。孝徳大王自身は、唐との交渉ということもあり、阿部氏の領地である難波宮を建設していてひとまずはこの地に逃れました。
孝徳大王は、利便性を考え阿部氏の本拠地でもある難波にも宮を建設していました。
しかし難波は都に近く決して安全とはいえません。子供はさらに安全な紀南の地に避難させることになります。


倭国は百済救援のための出兵はしていない。出兵したのは百済渡来人たちである。倭国、孝徳政権は唐、新羅との三国同盟を結んでいる。
663年、渡来人勢力による白村江の戦に出兵するまでに、孝徳大王と渡来人の争いがおきている。この時孝徳大王は殺害されたのです。

この事実が変更されている。渡来人側の勝利により、百済討伐の軍が百済救援の軍に変わってしまっている。
660年百済は滅亡したとされますが、そうではない。この後、倭国(日本)は唐を敵に回し朝鮮に軍を三度派遣したとされます。百済の役です。
第一波は661年、第二波は662年。そして、天智2年(663年)に白村江の戦いで敗れます。
しかし、これは百済復興を目指す渡来人が行ったことです。この時代、戦乱を逃れるために、百済から亡命してきた人々が多数いました。
この渡来百済人と、以前から渡来していた渡来人が百済復興の兵をあげたのです。

百済救援のための出兵は、この時に大王だった孝徳大王が行ったことではなく渡来人勢力が行ったことです。
百済救援の出兵を実行した天智天皇は、百済からの渡来人である秦氏の王子です。百済復興を目指す亡命渡来人たちは、倭国で基盤を築いていた秦氏を頼ったのです。秦氏の本拠地である山城の地に都を移した、天智天皇から繋がる桓武天皇は秦氏の王です。
桓武天皇以降は、藤原氏の娘との皇子が天皇に即位することになります。藤原摂関政治です。

秦氏は壬申の乱以降、表舞台から消えてしまったとされますが、そうではありません。いまの天皇家とは秦氏のことです。
天智系天皇である桓武天皇が、歴史を変更しなければならない大きな理由です。

実際に朝鮮半島での戦乱になった、663年の白村江の戦までの間の大王家と渡来人との争いの経緯をを続けて考えていきます。
難しい推測なのですが・・・。


この動乱期の日本書紀の不思議な話について・・・

ウイッキペディア・・・阿倍 比羅夫
斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

四年春正月甲申朔丙申、左大臣巨勢德太臣薨。夏四月、阿陪臣闕名率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降・・・五月、皇孫建王、年八歲薨・・・絞有間皇子於藤白坂。是日、斬鹽屋連鯯魚・舍人新田部連米麻呂於藤白坂。

     ************************
もう何度も記述してところですが、阿部氏は孝徳政権における重要な豪族であり、秦氏、藤原氏にとっても大きな反対勢力でした。
日本書紀、斉明天皇条には、実に11回もの蝦夷記事があり、そのうちの6回は阿部臣、阿倍比羅夫の蝦夷討伐の記事です。
阿部氏が戦ったのは渡来人である。それを蝦夷討伐の記事に変更している。

ここは、私の推測ですが、間違ってはいないように思うのですが・・・。
この時期(朝鮮半島動乱期、大王家と渡来人との戦乱期)に、関係のない北方の蝦夷討伐に軍をだすなんてありえないように思います。朝鮮半島に出兵するための軍事力が必要な時期に、蝦夷討伐なんてありえません。

この話は真実ではない。蝦夷討伐ではなく、九州における渡来人勢力との戦いを記述していたものを変更しているように推測します。

「秦の始皇帝と天皇家、秦氏の謎」のところで記述しましたが、この九州の渡来人勢力とは、新羅によって国を滅ぼされた秦韓から渡来した人々だろうとおもいます。隋の国書を持参していた裴世清の見聞録にある、九州北東部、豊前地方にあった秦王國です。新羅憎しの秦韓から渡来した人々はもちろん百済救援に賛成の渡来人側の勢力です。

つまり孝徳大王の命のもと阿部氏による九州の渡来人勢力を制圧し孝徳大王は九州に移ったのだと思います。
孝徳大王は畿内が渡来人勢力にのため危険な状態にあったため九州の地に逃れることになる。

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで、書きましたが、この斉明天皇四年とは、本来は662年のことです。この年に大きな戦乱となっている。
同じ内容ですが、重要ですのでもう一度書きます。

ウイッキペディア・・・巨勢 徳多
斉明天皇4年(658年)1月13日左大臣在任中に病没した。冠位が大繍であったことが子孫の薨伝で知られる。
『公卿補任』では没年齢を66歳としているが、大化5年(649年)時には50歳としており、矛盾している
   ***********************
この巨勢 徳多 は孝徳の側近なので、死亡した年齢の矛盾点から改竄した箇所を推測してみます。この巨勢 徳多も王家と百済渡来人の争いの中亡くっている。

大化の改新・・・この「大化」は日本最初の元号であとされますが、そうではない。大化なんて年号はありませんでした。最初の元号でもないし、「大化」ではなく「大和」だったのではないのか?孝徳大王の元号はこの「大和」である。国名を大和にし、年号も大和にしている。

この大化は645年から650年とされますがこれもそうではない。もう何度も云いますが斉明(皇極)天皇は天皇であるのですが、本来の王である大王ではない。つまり、もとの日本書紀には、皇極・斉明条なんてありませんでした。

押坂彦人大兄皇子ー茅渟王ー山代大王ー孝徳大王

皇極天皇が即位したという、642年です。本来は孝徳天皇が即位した年、644年が大和元年です。これは押坂彦人大兄皇子の王子であり大王に即位していた、山代大王が暗殺された翌年です。
聖徳太子の王子である山背大兄王一族の暗殺事件の翌年である。

ですが、この年齢の矛盾に関しては、皇極元年から数えている。元年が642年なら5年というのは、この646年である。この年50歳であるなら、没年66歳というのは、662年のことになります。

そして、日本書紀においては、この巨勢 徳多が亡くなるという記事は、斉明天皇条4年正月にあり、5月には建王が八歳でなくなり、そのあとに有間皇子の事件が続きます。亡くなったのは同じ年、斉明4年のことであるとされます。それはこの時に王家と渡来人による戦いが起きたからである。
つまり巨勢 徳多の没年が662年であるのなら、建王、有間皇子の没年も同年である662年である。渡来人と王家との戦乱の期間である。
有間皇子暗殺事件も、この662年に起こったもです。これは百済渡来人と王家とが争っていた時期である。白村江の戦に出兵の一年前です。
有間皇子の謀反というのは、あくまで天智側の主張である。本来は孝徳天皇の後、正統な大王に即位すべき第一王子である。王家と天智、藤原との対立であり、これもまた、陰謀である。


斉明天皇の筑紫の朝倉宮というのは、本当は孝徳大王の宮である。662年に都は九州に存在していたのです。しかしながらすぐに戦乱になっている。

ウイッキペディア 斉明天皇
百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。

斉明天皇6年(660年)7月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は難波などを経て斉明天皇7年(661年)3月25日に娜大津(諸説あり後述)より磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入り、さらに5月9日に朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えた。しかし、7月24日に同地で死去した。
    ************************

斉明天皇7年は、なんと年齢68歳の時に百済出兵にために九州は朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えたとされますが、これは事実ではない。
年齢に関してはすでに書いてきましたが、朝倉宮に遷幸したのは斉明天皇ではなく、孝徳大王です。斉明天皇は天皇ですが大王ではない。本来の王は孝徳大王です。大王殺害を隠蔽するための斉明天皇の重祚の記述である。
何度も主張しているところですが、斉明天皇は天皇ですが、大王ではない。
斉明天皇が九州の地に赴いたとは思えないのですが・・・?

この孝徳軍は百済救援の軍ではなく、百済討伐軍である。660年百済は滅んだとされますが、そうではありません。

孝徳大王は九州の地にも宮を建設していました。しかし662年に大王家と渡来人との戦争がこの九州の地と畿内で起きている。干支から名付けるなら壬戌の変である。

残念ながら渡来人側の勝利により、百済討伐軍が百済救援軍になっている。663年に百済救援のための出兵は渡来人勢力が行ったことです。
百済討伐の兵が、百済復興の出兵に変わってしまった。これが白村江の戦の真実である。
この時、百済出兵時の孝徳大王殺害の事実を消している。九州の地で国家転覆のクーデターが起きている。

日本書紀・・・
或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人一日兩夜邀牟婁津、疾以船師斷淡路國。使如牢圄、其事易成。
   ************************
紀南に避難していた有間皇子は、阿部氏に関わるこの地の豪族ある塩屋連の海軍の協力を得て、新田部連とともに淡路島に赴き、この地で畿内からの渡来人の海軍を迎え撃ち、その後九州の孝徳軍に合流する計画を立てていたと推測しています。
九州の地で勢力を回復する計画ではなかったのか?残念ながら事前にこの計画が発覚し先手を打たれ紀南の地で戦争となった。

この有間皇子や建皇子が亡くなるという記事は、斉明天皇の四年にありますが、これはつまり662年のことです。

孝徳大王は畿内が危険な状態にあったため子供たちを、安全であろうと思われる紀南の地に避難させていました。
しかしこの地にも追手がせまり、次期大王候補である有間王子、建王子は殺害されることになります。
次回に続きます・・・

有間皇子が療養と称して赴いたとされるのが牟婁の湯です。写真は南紀白浜の景勝地である、円月島に千畳敷、三段壁の写真です。









万葉集に孝徳大王の王子である有間皇子の有名な歌があります。
磐代(和歌山県日高郡みなべ町西岩代)の地で皇子が詠んだ2首の辞世歌とされます。
有間皇子は天皇への謀反計画が発覚し処刑されたとされますが、そうではない。万葉集は歌の内容は変更していませんが、前書きといわれる題詞を変更している。

万葉集・・・
二巻 百四十一
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

二巻 百四十二
家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
     **********************

これらの歌は、既に指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌である。処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。明日香で戦争が起き都周辺は危険な状態にあったのです。
この磐代とは、今の和歌山県日高郡みなべ町西岩代とされます。この地を支配する豪族は、塩屋連です。阿部氏が関わるこの紀南の豪族である塩屋連を頼って危険な都から避難していたのです。弟の建王子も同様に避難していました。
これらの歌は紀南の地に避難するときに詠まれた歌である。
避難したところは紀南の有間村(今はこの地名は残っていません)かな???
避難場所に有間皇子に名が残っているようにも思うのですが・・・?

孝徳大王は、飛鳥京が危険な状態にあったため子供たちを阿部氏が関わる塩屋連の勢力地である紀南の地に避難させていました。
しかし計画が発覚し、戦乱はこの紀南の地にも拡大することになります。



写真は和歌山県海南市にある藤白神社です。境内には有間皇子を祀る神社があります。処刑の地とされ近くの藤白坂にはお墓があります。このお墓は近年に造られたもので、有間皇子はここで処刑されたものではなく、この地で埋葬もされてはいません。

藤白神社は、鈴木姓発祥の地とされます。境内には何本かのクスノキの巨木があります。天然記念物になっていて、南方熊楠の名はこの藤白神社の「楠」と子守楠神社の「熊」の二文字を授かったという話は良く知られています。
観光地というわけでもないので訪れる機会はあまりないでしょうから簡単な動画を撮影しました。

https://www.youtube.com/watch?v=WnBt4J2CQkk&t=15s







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長屋大王と吉備天皇 「長屋親王」出土木簡

2020年01月27日 | 日本書紀の謎


正史とされる、古事記は712年、日本書紀は720年に編纂されました。この時代、大王として統治していたのは長屋大王です。

記紀は長屋大王が編纂した歴史書です。この功績が変更されている。

秦氏、藤原氏が王座を簒奪した時代、秦氏の王である桓武天皇の時代に記紀は改竄されました。
なぜにこういう歴史になってしまっているのだろうか・・・日本書紀、古事記、そして続日本紀は、秦氏、藤原氏によって改竄された偽書です。

長屋王家とされる場所から多数の木簡が出土しています。木簡は貴重な歴史資料です。
今回はこの木簡の話ですが、これら正史とされる歴史書とは矛盾する記述がある木簡が多数出土しています(*^▽^*)
いうまでもありませんが、木簡の方が一次資料ともいえ真実を語っています。
歴史書とは勝者の歴史であり、勝者の都合で変更されています。


もうすでに何度も記述してきたところですが、本当に容易な推測ですよ。もうそろそろ改竄された日本の歴史を見直す時期に来ています。

真の歴史、そして本来の大王たちは誰なのか?
なぜにこういう歴史になってしまっているか許せません

問題は、今の天皇家に関係することになります。皇統は途切れることなく二千年以上続いていて、それが私たちの誇りでもありました。残念ながらそうではありません。現天皇家は百済王家です。


長屋王は、天武天皇の第一王子である、太政大臣であったとされる高市皇子の長男です。その官位は正二位・左大臣です。
ところが木簡の記述が私たちに語るのは、長屋王は大王だということです。大王だとしか推測できないのです。つまり歴史が変わります。

「長屋王はひそかに左道を学びて国家を傾けんとしている。」・・・
長屋王の変とされますが、そうではなく、渡来人である秦氏や藤原氏による国家転覆のクーデターです。

大王である長屋王を殺害したのは、渡来人である秦氏や藤原氏です。

古事記や日本書紀は、渡来人であり天智系天皇(秦氏)である桓武天皇により改竄されている偽書である。それは古代から続く大王家から王座を簒奪したからです。

一次資料といえる木簡から、「長屋親王」との記述がある木簡が発見されました。これはこれまでの歴史が変わる世紀の大発見です。
今の天皇家に関わりますので、歴史が変わるどころか、いままでの価値観が変わります。
長屋王家とされる所からは、多くの木簡が出土しています。もうすでに記紀などの書物の記述と矛盾する記述の木簡が多数出土しています。

親王とはお父さんか、兄弟が天皇(王)でないと付けられない呼称とされます。この「親王」とは「大王」の「王子」(天皇の皇子)という意味です。次の王位継承者、皇太子ということです。父親である高市王子が大王に即位していなければ、「親王」と呼称されることはありません。
つまり高市皇子は大王でした。長屋王も大王に即位していました。
この高市大王や、長屋大王と対立していたのは藤原氏です。しかし、藤原氏は対立していていて死に追いやった長屋王を大王であるとできないために系譜を改竄して、歴史書を作成したのです。

日本書紀の記述通りなら、長屋王が「長屋親王」と呼称されることはありえません。

この木簡が出土したかぎり、古事記、日本書紀の、そして続日本紀を方を疑わなければならないはずです。
ところがそうはなっていません。現天皇家と関係してくるからです。

長屋王は大王だったとする証拠の木簡は他にも沢山あります。木簡の記述においては、長屋王は明らかに大王です。

以下はもうすでに問題あるとの指摘がされているところを、私の意見を書いています。

木簡から推測では歴史が変わります。

*最も衝撃的な記述は「長屋親王宮」です。長屋親王と表記があります。この「親王」と呼称されるのは、父親か、兄弟が天皇(王)でないと付けられない呼称とされます。
高市皇子は第一王子ですし、もちろん兄弟に誰も天皇に即位した人物はいません。
つまり、父親である高市皇子は大王でした。これ以外は考えられません。
長屋王も、もちろん大王に即位していました。長屋王が大王に即位したときに、この「長屋親王宮」は、「奈良宮」と呼称されたということです。

この長屋王を殺害したのが、渡来人である秦氏や藤原氏です。本来は国家転覆の大逆罪です。藤原氏には都合の悪い事跡です。
藤原氏は系譜を改竄し、高市大王や長屋王が大王だったことを消し去る必要があったのです。

高市大王や長屋大王が大王だとすると、この時代に天皇だったとされる、持統天皇や元明天皇は本来の王ではないのです。
「天皇」と「大王」は異なります。「天皇」とは、もとは蘇我の王のことであり、後に女帝の呼称になりました。

そして、持統天皇、元明天皇に関しては天皇に即位していたという事実も疑わしいように思う。それは、この持統から藤原に関する天皇に繋がるからです。

持統天皇の系譜を辿れば容易に推測できます。

天武天皇と持統天皇の子供は草壁皇子です。この草壁皇子と、天智の娘であり、持統天皇の妹である、元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である文武天皇です。文武天皇の后は藤原不比等の娘である藤原宮子とされます。
そして聖武天皇の后も藤原氏、不比等の娘である光明子です。

藤原が関係した天皇は持統天皇から繋がります。藤原氏は持統天皇を天武の皇后にしたい理由です。
そして、持統や元明を天智の娘として、天智の血を王家に入れる操作がなされている。持統天皇は天智の娘ではなく孝徳大王の娘である。
つまり、持統は天皇だったと改竄している可能性もある。

長屋王が大王に即位していたということを消すためには、父親である高市王子が大王に即位していなかったとすることです。
天武大王の第一王子であるのに、高市王子が大王に即位していないとするには、母親の身分を下げることです。胸形徳善女の尼子娘という地方豪族の娘ということに変更されている。藤原氏による系譜改竄箇所です。

天武の本来の王后は額田王です。天皇とは王后(皇后)の呼称である。
つまり額田天皇です。額田王は大王家の女性です。采女や巫女などの低い身分の女性ではありません。
天武大王と額田天皇の子供が、「市」の文字が共通する、高市王子、十市皇女です。
長屋王の父親である高市王子は、天武の第一王子であり、当然のことですが大王に即位していました。

*「吉備内親王大命」という記述の木簡も出土しています。この「大命」とは大王(天皇)の命令を表します。長屋王の王后に「大命」という言葉が使われていることからも、長屋王が大王であったとの推測は容易です。

そして重要なところであり「天皇」の呼称に関係するところなのですが、長屋王が大王に即位した時には、吉備内親王は「天皇」に即位した可能性がある。つまり吉備天皇だったということです。

重祚したという女帝。寶女王は皇極天皇として即位し後に重祚し斉明天皇として即位したとされます。
しかしこれは事実ではないということが、大安寺伽藍縁起并流記資材帳における、白雉元年(650年)に難波宮にいる袁智天皇との記述から矛盾点が暴かれています。難波宮は孝徳大王の宮です。
孝徳大王の宮にいる袁智天皇、つまり孝徳大王の王后のことです。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」

この袁智天皇とは、持統天皇の母親であるとされる遠智娘のことです。
しかしこの系譜が改竄されています。蘇我氏の娘、蘇我遠智娘ではなく、阿部氏の娘である阿部遠智娘です。孝徳政権時に左大臣だった阿倍内麻呂の娘です。
孝徳天皇の王后であり、持統天皇はこの孝徳大王の娘です。「天皇」とは王后の呼称だという証拠の文章です。

秦氏、藤原氏による系譜改竄に関して重要なことは、渡来人、秦氏の王子である天智を大王家の系譜に組み入れることです。本来の大王である天武と、渡来人天智を兄弟にし、天智の血を系図に入れるため、娘4人を天武の后にしたという不思議な話が改竄箇所です。

*長屋王は、大宝4年(704年)無位から正四位上に直叙され、そして、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられるとされます。つまり、高市大王の長男であるのに長屋王は臣籍降下しているという記述です。

これは、もちろん殺害した藤原氏による変更です。殺害した人物が大王だったとできないわけです。

しかし、木簡はこれがおかしいと主張しています。木簡からの推測では長屋王は大王です。

以下も決定的な証拠といっていいものです。

長屋王家木簡には、従三位の家政機関にはあたえられない「大書吏」と「小書吏」の記述のある木簡が出土しています。さらに、「家扶」と「家従」といった従者がいたとの記述もあります。
これが長屋王の身分からは矛盾するのです。令の規定においては、これらの従者が仕えるのは、親王や内親王らの「二品」の皇族のみとされます。臣下に下った長屋王家にはありえない人事ということになります。

さらに木簡の記述においては、臣下にあたえられるはずの「資人」は登場しなく、親王や内親王らの従者を表す「帳内」の文字が頻繁にあらわれるそうです。もちろん、これは木簡の記述通り、「長屋親王」だからです。
父親である高市王子も大王だったということです。

記紀や続日本紀の記述の方を疑いもせずに真に受けて、長屋王が特別な扱いを受けていたのでは?とする学者も多くいますが、そんなことあるわけありません。続日本紀なんて、藤原氏が権力を握った時代の書物です。

これらも問題の箇所とされます。それは、日本書紀に記述されている内容とはことなるからです。ですが、こんなの問題でもなんでもない。
簡単なことです。木簡の記述どおり、父親である高市王子は大王であり、長屋王は親王だったからに他なりません。

そして、記紀や続日本紀は偽書ということです。
これ以外、ありえません。

*「長屋親王宮鮑大贄十編」、この 大贄とは、天皇の食物を表す言葉だそうです。
もちろんこれは、父親である高市王子が大王だったことに他ならない。
長屋王も、もちろん大王に即位することになります。

木簡に記述になる、長屋王家に配達された食料に関しては・・・

地元である大和やその周辺に広大な田や菜園を所有していました。
なんと木簡による荷札から、実に三十九か国からの広範囲から、食材がもたらされていることがわかっています。「御田」、「御薗」との記述もあります。この時代の大王の食生活がうかがい知れます。

興味深いことに、なんと氷室を所有し、夏に食していた事が判明しています。氷室とは夏まで氷を保存する貯蔵庫です。
「牛乳持参人」の木簡、牛乳は大変貴重な食材とされます。牛乳配達人にお米を支給した木簡も見つかっています。

他にも鯖、鰯、水母、若海藻などの海産物、柿、橘、伊知比古(イチゴ)などの果物も各地から運ばれてきているようです。
この「鰯」という文字なのですが、実はこの「鰯」の文字は本家である中国にはない漢字で、日本で作られた和製漢字であり、最古のものであるそうです。木簡は当時の貴重な情報を知らせてくれます。

木簡は非常に貴重な歴史資料ですよね。

*長屋王の言葉に「勅旨」が使わています。勅旨とは、律令制における天皇の命令書である勅書の一種である公文書とされます。
長屋王の言葉に「勅旨」が使われているのは、もちろん大王の言葉だからです。これも王位についていた証拠です。
何度も言いますが、これ以外は考えられません。

*「長屋王」と「吉備内親王」の子供達が「二世王」の待遇を受けています。これは長屋王が、親王の時代のもであり、天武の第一王子であった高市王子が大王に即位していたことに他なりません。これ以外ありえません。
子供たちは長屋王の次の大王候補ですが、藤原は彼らも殺害しています。

渡来人である、秦氏や藤原氏は長屋大王の王后である、吉備内親王とその子供たち、膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王など、本来の大王家の直系の子孫たちを殺害している。

藤原によって改竄された歴史のままでいいのか。
渡来人秦氏の王である桓武天皇の后たち、ほとんど藤原の娘か渡来人の娘たちばかりです。私は許せません( `ー´)凸

つまり古代から続く大王家を滅ぼしたのが、現天皇家、渡来人たちである。

*木簡には、長屋王と吉備内親王の子供である、膳夫王は、「膳若翁」と表記されています。この「若翁」は「わかみふたり」と読まれ、長屋王の子供たちの呼称に使われています。
「円方若翁」、「忍海若翁」、「紀若翁」などです。いずれも母親は不明となっていますが、藤原氏と対立していた長屋王側の地方豪族の娘の子供たちです。この「若翁 わかみふたり」は、大王の子供たちを表す言葉だったともされます。長屋王と王后である吉備内親王の長男である膳夫王は、本来は次の大王候補でした。
藤原氏は長屋王の変において(本来は藤原氏の起こしたクーデタです)、長屋王や王子のこの膳夫王も殺害している。

*長屋王の后は、わかっているだけですが、吉備内親王、安倍大刀自、そして藤原不比等の娘の藤原長娥子がいます。
木簡からあともう一人、石川夫人という女性が后とされます。桑田王の母親ともされます。文献においては、「本朝後胤紹運録」には長屋王の子であり、母親は石川虫丸女と記されています。
この桑田王の子孫が高階氏です。高市皇子を祖とする氏族であり本来の王家の血が繋がる氏族です。

木簡においても、吉備内親王、安倍大刀自は登場します。しかしながら文献にあるので長屋王の后とされる、藤原不比等の娘とされる、藤原長娥子の名のある記述の木簡は出土していません。子供たちである安宿王・黄文王・山背王(藤原弟貞)・教勝の名の記述のある木簡も出土していません。

以前に書きましたが、藤原の娘、つまり渡来人の娘が敵対する本来の大王である長屋王に嫁ぐことはありえないように思う。これは藤原氏を大王家に繋ぐ操作でしょうか?
後に長娥子の子供である安宿王も、高階真人姓を賜ったとされますので、長娥子の子供とされているのは、石川虫丸女の子供ではないのか?

藤原不比等の娘とされる、五人の女性、宮子、 長娥子、光明子、多比能、殿刀自は全て不比等の娘ではない。
これらは、渡来人、藤原氏を大王家に繋ぐ操作である。

*728年に新たに「中衛府」が設けられました。この「中衛府」とは大王を護衛する親衛隊です。この「中衛府」の兵士が長屋王邸を守っていたのが不思議なことだとされますが、それはもちろん本当の大王だったからです。そしてこの場所は本来の宮である「奈良宮」だからです。
渡来人との争いが激化したための警備の強化の処置です。
残念ながら渡来人秦氏、藤原氏によるクーデターは翌年の729年におき長屋王やその子供たちは殺害されました。


*「白鳳-朱鳥-朱雀-大宝・・・九州年号の謎」のところで記述しましたが、木簡の話であるのと重要なのでもう一度書きます。

大化の改新についてですが、・・・
ウイッキベディア・・・
『日本書紀』によれば、大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。

藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確と
なったとされている

発掘結果から「評」と表現される地方行政組織が存在したとは確実であるが、『日本書紀』や『万葉集』では一貫して「郡」となっており「評」については一切記されていない。『日本書紀』や『万葉集』では故意に「評」を「郡」に置き換えてあることが明らかになったがその目的や理由については判っていない。
   ****************************

「評」を「郡」に置き換えた目的や理由については、判っていないとされますが、大宝は長屋王の年号であり、長屋王が大王に即位していて、大宝律令はこの長屋王の時代に制定された律令だとすると、こんなの謎でも何でもないですよね。 

秦氏、藤原氏は、乙巳の変において蘇我氏を滅ぼし、改革を行ったとしたいわけです。天智天皇や藤原鎌足によって、新たな政治改革が行われたという功績を作りたかったわけです。
秦氏、藤原氏の時代の始まりとしてこの「大化」を日本最初の元号とし。また日本という国号、天皇の称号の使用が始まったとしたのです。

本来は、秦氏、藤原氏と対立していた長屋王や忍壁大王の大宝律令時の改革の功績を、取り込んだということに他ならない。養老律令に関しても同様である。その改竄が、木簡などからばれちゃっただけです。それだけです。

日本書紀は偽書です。この箇所だけでなく他にもたくさんあります。後世の潤色だらけです。つまり歴史を改竄したのは、王家と対立していた秦氏、藤原氏です。

天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
つまり、改革を行ったのは長屋大王だということになります。大化の改新ではなく、本来は、長屋大王や忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。
701年は長屋王が大王に即位した年です。大宝律令はこの年に制定されました。この年以降に「評」を「郡」に変更したのです。

孝徳の年号は「大化」ではなく、本来は「大和」ではなかったのか?これはこの時代の新羅の年号が「大和」だということから推測できます。
新羅は同盟の証として、孝徳大王の年号である「大和」を使用している。

大化の改新なんてなかったわけです。この「大化」との記述のある木簡も発見されていません。これは、乙巳の変のクーデターのあと、秦氏の皇子である天智と中臣鎌足が改革を行ったとして、本来の年号である「大和」を、天智系天皇や藤原氏によって、乙巳の変以降の年号を「大化」の年号に変更して改革を行ったと改竄しているのです。
天智系天皇である、渡来人桓武天皇の時代に記紀は改竄されている。
いま現存する最古の日本書紀は、この桓武天皇の時代のものです。古事記に至っては14世紀のもです。

*何度も記述していますが、奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などとも表記されているとされますが、「平城」は「なら」とは読めない。平城の地が都にふさわしいと記述されているのは続日本紀においての記述です。
この続日本紀は藤原氏が権力を握った時代の書物であり、藤原氏の主張に他ならない。
長屋王家木簡においては、長屋王の邸宅を「奈良宮」と呼称した木簡が発見されています。本来の大王はこの長屋王であり、本来の都の名称はもちろん「奈良京」です。「奈良京」と「平城京」は異なります。「平城宮」は藤原が主張する都の名称です。「藤原宮」も同様です。
万葉集
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり

*藤原宮(本当は高市大王の香久山宮)は、わずか16年ほどで、平城宮(これも本当は長屋大王奈良宮)に移転したしたのが謎だともいわれますが、これも謎でもなんでもない。長屋王が大王に即位したので、宮が長屋王の宮である奈良宮に移っただけです。木簡に記述のある「北宮」とは、高市大王の宮である香久山宮の真北に位置する「奈良宮」のことです。

*高市大王の宮は、万葉集、柿本人麻呂の挽歌にあるように「香久山宮」です。木簡からの推測においても高市王子はもちろん大王に即位していました。
本来の宮の名は、「香久山宮」です。
「藤原宮」なんて、宮の名に臣下の名である「藤原」を付けるはずありません。「藤原宮」というのは藤原氏の宮のことで、本来の大王家の宮ではありません。これは変更すべきです。

この「香久山宮」の真北の位置、にあったのが、長屋王の「奈良宮」です。


「奈良京遷都と平城京遷都の謎」のところで詳しく書いていますが、・・・
香久山宮(藤原宮)は、下ツ道、中ツ道の中央に位置します、同様に、王子である長屋王の宮、奈良宮も、東西は下ツ道、中ツ道の間、その中央に位置していたのです。「北宮」との記載されている木簡が出土していますが、
これはもちろん香久山京の真北に長屋王の奈良京のことです。
平城宮と奈良宮もまた異なります。平城宮は藤原の宮です。


*木簡は荷札に使用されることが多くあります。これら木簡が出土したところは長屋王家とされますが、そうではありません。
様々な荷物の集配場所ともいえるように思います。長屋王の宮である、「奈良宮」の西側に位置する、西方官衙とされる場所です。

今邸宅跡とされる場所は、宮の西側の地域になります。木簡は荷札に使用されることが多くあるようです。木簡の宛先の記述で多いのは、「務所」だそうです。
奈良務所、奈良宮務所、務所、政所、司所、などの記述です。どれも「つかさどころ」と読むようです。奈良宮の行政機関です。

出土した木簡の記述通り、奈良宮の務所、行政の実務をおこなう官庁があったところです。宛先が「務所」だとされているのに、何故に長屋王邸と治定されるのでしょうか?おかしいでしょうに。

*長屋王邸宅には多くの技術者や工人が働いていたとの記述があります。「鍛冶」「鋳物師」「轆轤師」「椅子作」「木履作人」「矢作」「弓作」「太刀作」「要帯師」「染女」「縫殿女」「障子作画師」など・・・これらの人々が長屋王宮(奈良宮)傍に居住していました。。
「春日旦臣米半升受宿奈女」「式部省人米一升受宿奈女九月十四日綱万呂」

この「式部省」に「兵部省」の記述のある木簡も発見されています。
そして彼ら役人は、なぜか長屋王邸宅において食料の供給を受けてるとされますが、そうではありません。いま長屋王邸宅と推測されている場所は、長屋王邸ではなく、木簡の記述通り、宮の西側の地域にあたる奈良宮の務所、行政機関です。ここで食料の供給を受けているのです。
この式部省や兵部省のあった場所もこの、西方官衙とされる場所です。


*高市大王の香久山宮(持統の藤原宮)は、中央、北から内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形です。東側、西側には、それどれ東方官衙、西方官衙 (これは仮称のようですが)、様々な官庁が存在していたとされます。
宮は、この東西官衙の中央に内裏、大極殿、朝堂院が存在する形である。
長屋王の奈良宮は、この高市大王の香久山宮と同様の作りである。



写真は高市大王の香久山宮(藤原宮)です。宮の西南部部にあるのが西方官衙とされる行政機関の建物が会った場所です。長屋王の奈良宮はこの高市大王の香久山宮(藤原宮)と同様の作りであり、今長屋王邸宅とされている場所はこの行政機関の建物があったところです。
今に残る「東院庭園」の東側に本来の大王である長屋王の内裏が存在していました。その南にはもちろん大極殿も建てられていたのですが、移築されている。それが第一次大極殿とされている大極殿です。藤原氏が権力を握った時代に、藤原氏の宮(平城宮)として、下ツ道を中心にして、宮をつくり変えている。その時に大極殿も移築されている。

*新たに「長屋皇宮」という木簡も見つかっています。
この「長屋皇宮」の名称からも推測できることですが、「皇宮」でしょう。「皇」の文字が使用されていますよね。
長屋王の皇后(王后)である、吉備天皇の宮という意味です。
皇后である吉備内親王の宮であり、吉備内親王は天皇に即位していたということです。

吉備天皇であり、天皇とは女帝のことであり、つまり皇后のことです。この吉備天皇の宮が「「長屋皇宮」ということです。
ここも詳しくは「平城京遷都と大極殿再建の謎」のところで書いてきましたが、これこそ平城宮の第二次大極殿のあったとされる場所にあった宮のことです。
藤原氏の宮である、平城宮は本来は奈良宮の一部ということです。つまり、これ「長屋皇宮」というのが本来の呼称である。
長屋王の王后(皇后)である、吉備天皇の住まいであると推測できます。
「西宮」というのがこの「長屋皇宮」のことであり、「東宮」というのが「奈良宮」のことです。

平城宮の第一次大極殿と、第二次大極殿の治定が逆です。第二次大極殿というのが、最初に造られた大極殿であり、この時内裏、大極殿が、古墳を壊して造られたのです。
ここは治定が逆だという、私の推測通りなのですが、第二次大極殿あとから、奈良時代前半の遺構が発見されていますv(*^▽^*)v
この遺構の場所が、「長屋皇宮」であり、もとは元明天皇の宮であるのですが、後に娘の吉備天皇の宮になったのです。

本来は、北から南に内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形になるはずです。高市大王の香久山宮(藤原宮)もこの並びになっています。
ですが、平城宮の第一次大極殿の方が最初に造られたとするとこうはなりません。内裏の西側に大極殿が存在した形になりおかしい。
これは宮の形としてありえません。間違っています。



写真は、平城宮跡歴史公園MAPのパンフレットです。
ブラウン色、第一次大極殿から、朱雀門が平城宮の中心とされます。
しかし、本来、宮は北から南に内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形です。第一次大極殿の北側に内裏が存在していなければならないはずです。奈良宮と平城宮は異なります。この平城宮は渡来人の宮です。
そして、平城宮は香久山宮(藤原宮)のように、東西に「東方官衛」、「西方官衛」とされる、政治を行う役所などの施設がありません。これもありえることではない。平城宮は本来の宮ではないとの証拠です。

この本来の宮である長屋大王の奈良宮には、「東方官衛」、「西方官衛」が存在していました。木簡の出土されている場所は、奈良宮の「西方官衛」の側にあるゴミ捨て場です。
いま長屋王邸宅とされている場所は、この「西方官衛」と呼ばれる場所です。長屋王邸宅、つまり奈良宮の内裏ではありません。

しかしながら、本来の奈良宮の内裏の場所の推定は容易です。それは父親である高市大王の「香久山宮」と同規模と思われるからです。
今に残る東院庭園の東側に内裏はありました。この東院庭園は奈良宮の内裏の庭園です。長屋大王が曲水の宴を催したのはこの庭園です。



木簡に記述のある、本来の宮である長屋大王の「奈良宮」の位置に関して・・・
奈良市役所東の交差点付近が、南北に通る下ツ道と中ツ道の中間地点になります。黒い線で囲っているのが、およそですが本来の宮である長屋大王の奈良宮です。
父親である高市大王の香久山宮(藤原宮)もまた、下ツ道と中ツ道の中間地点に造られています。
王子である長屋王の奈良宮もまた、下ツ道と中ツ道の中間地点が中心地となり、その規模も父親である香久山宮(藤原宮)と同規模の宮である。ですので奈良宮の位置と、宮の規模や造りは容易に推測できます。


パンフレットの写真のグリーン色が、「長屋皇宮」であり、木簡にある「西宮」のことであり、東側には本来の宮、奈良宮があったのです。この内裏が、元明天皇崩御後に「長屋皇宮」となったのではないのかな?吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の娘です。ただし元明は天皇だったかはあやしいように思います。

「吉備内親王大命」との記述がある木簡が出土しているわけですので、長屋皇宮とは長屋王の王后であった吉備内親王の住まいのように思います。
吉備内親王の言葉が、王の言葉である「大命」が使われていることからも推測できると思いますが「吉備天皇」であったのでは?
これは、「長屋皇宮」の記述からも「吉備天皇」であったとの推測ができます。「吉備天皇」であるので、「皇宮」であるわけで、「天皇」の呼称は皇后のことである

「天皇」とは蘇我の王のことだったのですが、後に女帝の呼称になりました。皇后のことです。
母親である元明天皇?の後はこの吉備天皇であったということを推測していますが、本来は元明は天皇ではなく娘の吉備内親王が天皇に即位したのだと思います。
長屋王は大王でした、この事実を変更したのは藤原氏です。同様に、長屋王の王后だった、吉備内親王が天皇に即位した事実も変更している。

*平城京遷都は710年(和銅三年)です。平城宮(本当は奈良宮)の第一次大極殿院の南回廊の敷地内から、この年号、「和銅三年正月」と記述された木簡が発見されています。
「続日本紀」には、この年に元明天皇は大極殿に出御したとの記述があります。大極殿が完成しているのなら、同じ年、「和銅三年」の年号のある木簡が地下から出土するわけないのです。矛盾します。
つまり、元明天皇が出御したという大極殿は、この第一次大極殿ではありえないということです。

何度も記述しますが、いま第一次大極殿とされる大極殿は最初に造られた大極殿ではないということです。第一次大極殿と第二次大極殿の治定が逆です。
第二次大極殿とされる大極殿が最初に造られた大極殿であり、元明が出御したという大極殿はこの第二次大極殿とされる方です。これが長屋皇宮です。元明天皇は、707年に天皇に即位したとされますが、これは真実ではないように思います。
つまり、710年に大極殿に出御したという人物は、この吉備天皇のように思います。
藤原氏は、殺害した長屋大王の王后である、この吉備内親王が天皇に即位したことを消している。
奈良宮の西側、木簡にある「西宮」こそ長屋皇后である。

大極殿は長屋大王の奈良宮の大極殿、この長屋皇宮の大極殿、そして後の時代の聖武天皇の大極殿と三つ造られている。この長屋大王の奈良宮の大極殿は取り壊されている。
聖武天皇が恭仁京から戻り、長屋大王の大極殿を取り壊して移転したのが、第一次大極殿である。
長屋大王の弟である鈴鹿大王が崩御した745年以降に、奈良宮を平城宮として作り変えている。

*「平城京遷都と大極殿再建の謎」で記述しましたが、・・・
平城京の第一次大極殿が、恭仁京に移築されたとするなら、平城京には大極殿がなかったはずです。ですので、そこに建て直したらいいわけです。なのに、何故に、第二次大極殿は、中心地、つまり、第一次大極殿から南の朱雀門までが宮の中心であるのに、第二次大極殿は、宮の中心を外して東側に建設したのでしょうか?おかしいですよね?

第一次大極殿跡地に建物がないのなら、そこに建てなおしたらいいわけですよね。
ここが宮の中心であるわけです。それがどうして、古墳のあった場所、そして中央から外れる位置に建て直さなければならないのか?
朱雀門は、平城宮の正門です。大極殿から朱雀門、その中心位置を外して何故に東側に再建する必要があったのでしょうか?何らかの理由があったとでもいうのでしょうか?治定が間違っています。

最初に、長屋王の奈良宮(木簡にある「長屋親王宮」)の大極殿が造られ、710年には、長屋皇宮の大極殿(第二次大極殿)が完成し、745年、藤原氏が権力を握る時代になって、下ツ道を中心にして宮を作り変えた時に奈良宮の長屋大王の大極殿は移築されたのです。
これが平城宮であり、第一次大極殿というのは、奈良宮、長屋大王の大極殿を移築したものである。
平城宮は渡来人の宮であり、本来の宮ではありません。

*長屋大王の奈良宮は、後に藤原の関係する聖武天皇の時代、藤原氏の宮(平城宮)として、下ツ道を中心にして、宮をつくり変えているのです。そして、こちらの方が本来の宮であると改竄しているのです。本来は平城宮は奈良宮の一部ということです。
対立していた長屋王を本来の大王としたくないため、地位を落とし宮の存在も消し去っている。これが理解できていないため大極殿の治定も間違ったものになっていて、矛盾だらけになっている。
しかし日本書紀の記述の嘘を暴く木簡が多数出土しています。平城宮は本来の宮ではありません。
いま平城宮跡には、大王家を滅ぼしたこの渡来人の宮を再現しようとしています。
もう千年以上も、正史とされる記紀や、続日本紀などの歴史書により騙され続けている。
歴史は権力者の都合により変更される。

木簡からの推測では長屋王や父親である、高市大王はもちろん大王でした。するとその時代に天皇だったとされる、持統天皇や元明天皇は本来の王ではないのです。おそらくこの二人は天皇にも即位していない。
本来は天武大王の王后である額田天皇に、長屋大王の王后である吉備天皇である。
これが大問題でもあります。歴史が変わります。

藤原氏は系譜を改竄するとき、この天皇の呼称を、そして持統天皇を利用しました、それは藤原が関係する人物はこの持統天皇から繋がるからです。
持統を天智の娘としたのはこれが理由です。これも何度も書いていますが、持統天皇の母親である、袁智天皇こと遠智娘は、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘である阿倍遠智娘であり孝徳大王の后です。
持統天皇は本来の大王である孝徳天皇の娘である。藤原氏はこの敵対していた阿部氏の系譜を消し去っている。

持統天皇からの系譜を見れば容易な推測です。藤原氏が関わる聖武天皇に繋がるからです。聖武天皇の皇后は藤原不比等の娘の光明子です。

*万葉集・・・巻二(一九九)柿本人麻呂 高市大王への挽歌

我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・ 

わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香具山の宮」は、万年の世を過ぎてもなくなることは考えられない。

天武大王が新たに造り始め、後に王子である高市大王が受け継ぎ造りはじめた宮を、「香具山の宮」と表現しているでしょう?
あたりまえだけど、「藤原宮」なんて、宮の名を臣下の名で呼んでいたはずはない。ありえません。
この「香具山の宮」は高市大王の宮であり本来の宮です。都城の名を宮の名からとるのであれば、 「香具山京」です。
持統天皇が天皇に即位したという「藤原宮」とは、藤原不比等の邸宅のことです。

万葉集・巻一(二八)
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山
                 持統天皇
有名な持統天皇の歌です。
この「天の香具山」とは、高市大王の宮である「香具山宮」のことです。春が過ぎ夏に備えて、夏用の衣を宮中にて洗濯して干している情景を歌ったものです。神の山である香具山に衣を干すわけありません。

*本来曲水の宴は、王が催したわけです。このことからも長屋王が大王だったということがわかります。
長屋王は大王に即位していました。つまり長屋王邸というのは、都の中心である奈良宮の内裏のことです。
平城宮は四角い形ではなく、東側に出っ張りがある、あるは東南部分が欠けたような不思議な形状であるとされます。これも本来はありえません。
これはこの部分(東院庭園部分も含む)が長屋王の宮の北西部分だったからです。曲水の宴が行われたのはこの庭園です。

奈良宮の内裏、長屋王邸は、奈良市役所の北、「東院庭園」の東側の地域です。この庭園は長屋王邸の庭園です。
これは今に残る「東院庭園」の不思議な形状(池を鑑賞するのではなく、塀を鑑賞するような作りになっている。正面が塀なのです。)からも推測できます。本来は塀なんてありませんでした。塀の向こうにも庭園があり池があったのです。
これ誰も疑問に思わないのでしょうか?不思議としかいいようがありません。

東院庭園の東側にも庭園があり、さらにこの庭園の向こう側、つまり東側が長屋大王の宮、内裏です。
長屋王の宮である、本来の宮、奈良宮もまた壊されている。

*天武の後、持統天皇が藤原京に遷都、その後、元明天皇が平城京に遷都したということと同様で、聖武天皇の遷都の謎も藤原氏の主張でしかない。持統天皇、元明天皇は王家の女性ですが天皇には即位していない。藤原氏に関係する天皇は持統天皇から繋がります。

*いつの日にか変更されるまで、何度も書いてやる・・・
都の表記において、現在と同様の「奈良」の文字が記されている木簡が発見されています。「奈良務所」、「奈良宮」、そして「自奈良京申」という木簡も見つかっています。長屋王の屋敷を奈良宮と表していて、都の呼称を「奈良京」と表しています。長屋王は大王です。

木簡の記述通り、本来の都の名称は「奈良京」です。「平城」は、渡来人の主張する都の名称であり「なら」とは読めません。
「奈良京」と「平城京」は異なります。
「藤原宮」も同様です。藤原氏の宮の名称です。特にこの藤原の名そのままの「藤原宮」の名称が気に入りません。本来の宮の名称は万葉集にあるように、「高市大王の香久山宮」です。

今、平城宮跡地に新たに再現しようとしているのは、この渡来人の宮の方である。記紀は正史であるということで、矛盾する記述があっても、記紀の主張を採用しているため、とんでもないことになっている。本来の大王家を滅ぼした渡来人の宮を再現しようとしています。




写真は、長屋王とその后である吉備内親王のお墓です。
高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎のところでも書きましたが、・・・
高松塚古墳の被葬者は高市大王であり、キトラ古墳は、后の阿部明日香のお墓です。高松塚古墳は、高市皇子を大王としたくないために、元は八角墳墓だけど、円墳に作り直されていると思う。

このふたりは長屋王の両親です。「聖なるライン」上にあり、王家の墓域とされます。
ですので、高市大王の王子である長屋王のお墓も、本来はこのライン上、高松塚古墳のそばにあったはずです。

天武大王ー高市大王ー長屋大王である。
天武大王が新たに造り始め、王子である高市大王が受け継いでつくった宮は、柿野本人麻呂の挽歌にあるように「香久山の宮(藤原宮)」です。
この「香久山の宮(藤原宮)」のほぼ南の位置にあるのが、天武大王陵である檜隈大内陵です。檜隈大内陵の南にあるのが、高市大王の高松塚古墳。
高松塚古墳の傍、北に位置すのがこの中尾山古墳であり聖なるライン上にあります。

高松塚古墳傍にあり、本来は八角墳とされる中尾山古墳こそ高市皇子の王子である長屋王の本来のお墓ではなかったのか?
長屋王が祟り、藤原四兄弟は亡くなります。祟った後に、長屋王の遺骨は怨霊封じのために焼かれ、さらにこの地から追放される形で移葬されたのではないだろうか?

写真は中尾山古墳です。この時代の大王家の墳墓である八角墳です。
被葬者は第42代天皇の文武天皇だとする説が有力らしいのですが、聖武天皇の父親である、この文武天皇は王家の人物ですが、本来の大王ではありません。
文武天皇が天皇に即位していたというのは事実ではない。藤原氏の主張に他ならない。聖武天皇が天皇だと主張するには、父親であるこの文武も天皇に即位していたとする必要があったのです。聖武天皇も、もちろん本来の王ではありません。
この時代の本来の大王は、高市大王、長屋大王、鈴鹿大王です。




実は、私の地元、和歌山県有田市初島町(現在はENEOS和歌山製油所の敷地内)に、長屋王のお墓だという伝説のお墓、椒古墳が存在します。小型の前方後円墳であり、およそ5世紀頃の古墳だとされます。

この伝説に関しては、平安時代の仏教話集である「日本霊異記」において、紀伊国椒村(現初島町)に葬りなおしたという記述があるからです。
藤原氏に祟った後に、この中尾山古墳から追放する形で遠方に葬りなおしている。

ですのでこの記述から、この前方後円墳が、長屋王のお墓ではないのだろうかと考えられているのです。
しかし築造時代が異なるこの古墳ではありません。
沖合に地の島、沖ノ島とうい二つの島があります。藤原氏に祟った長屋王の遺骨は、中尾山古墳から島流しにあっている。


仏教説話集 日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)

聖武天皇が元興寺で大法会を行った時に、長屋親王が、僧侶に食事を捧げる役割を受けます。その時にみすぼらしい姿の僧侶の頭を象牙の笏をもって打ちました。その後、僧侶は長屋王が謀反を企てているとの密告をすることになります。これが聖武天皇の怒りに触れ長屋王は一族共々に自害することになります。
親王の骨は土佐の国に流されたが、親王の霊気により多くの百姓が亡くなるという事態が起きます。聖武天皇は、霊気を都に近づけないようにするため紀伊国海部郡椒の奥ノ島に遺骨を遷しました・・・たとえどのようなみすぼらしい姿をしていても尊敬しなければ仏法の報いを受けるという仏教説話です。
     ********************
平安時代初期の説話集とされる、この日本霊異記に記述されていることは事実ではありません。事実は渡来人秦氏、藤原氏による、長屋大王殺害、国家転覆の大逆罪です。そして長屋王は、藤原氏に祟ります。

藤原氏はこの長屋王や、その父親である高市大王、天武大王、山代大王(山背大兄王)、押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)などに対しても怨霊封じを行っている。高松塚古墳など彼らが葬られているお墓が暴かれている。そして彼らを祀る法隆寺も怨霊封じのお寺になってしまっています。
ですので、長屋王のお墓を暴き、遺骨を遠方に遷したということに関しては事実のように思うのですが・・・?

写真、よく散歩に出向く初島港から、右が地の島、左が遺骨を遷したとされる沖ノ島です。


下の写真にある生駒郡平群町の長屋王のお墓は、直径15m、高さ1.5m程の小さな円墳とされます。こんな小さな円墳が、長屋王のお墓であるというのは疑問です。お墓の規模や、大王家の埋葬地とはかけはなれた場所からも推測できるように思います。藤原氏により本来の大王家の埋葬地から移葬されています。長屋王の王后や子供たちの可能性はありますが、この小さなお墓が本来の大王である長屋王のお墓であるわけない。







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秦の始皇帝と天皇家、秦氏の謎

2019年12月05日 | 日本書紀の謎


天皇家とは百済王家である。日本史においての最大のタブーであり問題点です。
天智系天皇である桓武天皇は、秦氏、藤原氏の王である。その桓武天皇から繋がるとされる、今の天皇家は、百済王家、百済渡来人である藤原氏と秦氏の王である。平安京はこの秦氏の本拠地である。
百済は475年に滅亡しました。しかし、この後に倭国の力で復活します。
この復活百済は朝鮮半島における倭国です。

今回は、もしかしたらですが、・・・
いまの天皇家は秦の始皇帝と繋がるという話です(*^▽^*)
トンデモ話に思われるでしょうが、古代の文献が真実を語っているのならこうなります。それは、今の天皇家は秦王家だからです。

まず、藤原氏。藤原氏の祖である藤原鎌足は百済からの渡来人であるという説は以前からあります。
百済最後の王である義慈王の王子とされる豊璋ではないのかという説です。
私は豊璋の弟の翹岐の方だと思うのですが?どちらでもいいですが、百済王家の人物だということです。この説を支持する学者先生は多くいて有力な説です。
この後の歴史の流れを考えても百済からの渡来人であるということは間違いないように思います。

藤原氏は、天皇家と関わることになります。藤原摂関政治です。藤原氏の娘を天皇の后にして、生まれてきた子供を次の天皇に即位させ天皇家と関係をもち権力を維持してきました。
つまり、藤原鎌足が、百済王家の人物であるのなら、天皇家は百済王家と関わるということです。

桓武天皇の母親は、百済系渡来人である和氏の娘、高野 新笠です。和氏は続日本紀においては、百済武寧王の子孫とされます。このことからも天皇家は百済と関わります。これは、続日本紀に記述があるということで誰も否定しない事実ともいえます。
本来は渡来人の娘が后になるなんてこともありえないし、その渡来人の娘の子供が王に即位するなんてこともはありえません。

今の天皇家はこの桓武天皇から繋がります。天皇家は秦氏、百済王家です。
桓武天皇の后たちは本来は全て渡来人の娘です。渡来人である藤原の娘や百済関係の氏族の娘です。
あたりまえの話ですが、渡来人の娘が后になれるわけありません。
そして渡来人の娘以外は早良大王の后です。桓武天皇を大王家の系図に組み入れています。
桓武天皇は秦氏の王であり、平安京は秦氏の本拠地です。

新撰姓氏録によれば、秦氏の祖とされる弓月君は、秦の始皇帝の三世の孫であるとされます。孝武帝の子孫であると称していますが、これは信じがたい話ですよね。

この新撰姓氏録は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑です。これもすでに記述してきましたが、嵯峨天皇は桓武天皇の皇子です。桓武天皇は秦氏の王であり藤原氏が関わることになります。

藤原氏が権力を握るようになったのは、秦氏と関わったからです。
この秦氏の謎を考えてみます。

天智系天皇である桓武天皇は秦氏の王である。


ウイッキペディア・・・秦氏
いくつかの説があります。ウイッキペディアを参照させてもらいます。
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって、真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。

秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)。

新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である(平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)。

百済系渡来氏族。「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する(笠井倭人・佐伯有清)。

中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄)。

景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。(佐伯好郎)。

    ****************************
始祖、ルーツを有名な人物にするという操作はよくあることなので秦の始皇帝の末裔というのは確かに怪しい話ですが、これが真実なら、今の天皇家は秦の始皇帝から繋がることになります。桓武天皇は秦氏の王だからです。

応神天皇の時代、3世紀に渡来というのは真実ではないようにも思われますよね?だってこれ卑弥呼の時代ですよね。ですが、卑弥呼の時代にも内乱はありました。卑弥呼(台与)が、魏に朝貢したのも朝鮮半島の内乱が関係します。しかし百済は建国していませんよね。

日本書紀は卑弥呼の時代、卑弥呼を神功皇后として描いているので応神天皇の時代は3世紀になっていますが、本来はもう少し後、倭の五王の時代、高句麗の南下政策により、百済が滅亡の危機にあった時の話です。


秦の始皇帝の後胤だとするのであれば、この秦韓(辰韓)からの渡来という説がいいように思うのですが?そうであれば、5世紀末から6世紀はじめのころ秦韓(辰韓)が新羅に滅ぼされる時期に渡来して来たのだろうとも推測できます。

ただし、百済からの渡来であると明記がされていてこれは真実だろうと思います。

478年の倭王武の上奏文において「都督倭 百濟 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 七國諸軍事安東大將軍 倭國王」・・・と百済と秦韓の名がでてきます。秦韓と百済は異なります。

ウイッキペディア・・・辰韓
国が滅びるとき、この辰韓からも多数の人々が渡来してきたのではないのか?ですが秦氏ではない。

『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、これは代々相承(親から子へ受け継がれる)のものであった。


『三国志』魏書巻30辰韓伝

辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。

辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと称している。城柵を立て、言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と呼ぶ。
    ***************************
『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝に記載があります。
後漢書が最も古い文献ですので、後の文献はこの後漢書を参照したと思われます。後漢時代は、時代的にも近いものであり真実味があります。

使われていた言語においても、秦人に類似しているため、秦韓と呼ばれたともされます。
この辰韓の国土の位置は、新羅と重なる位置にあります。「新羅」を国号にしたのは6世紀はじめ、503年とされ、この時代に朝鮮半島南東部にあったとされる、斯蘆国(後の新羅)が辰韓を滅ぼし新たに国を建てたいうことが推測できます。
秦の時代に圧政に苦しんでいた人々が朝鮮半島に移住し、秦韓を名乗ったとされるのは、これら中国の歴史書に記載があり有力な説ともされます。

古代から、朝鮮半島と、特に九州は海によって隔てられていますが、距離的には近く、交流は頻繁にあったとも考えられます。

秦韓の人々は祖国滅亡時に倭国に渡来したと考えられます。
これは隋書に記載があります。

上遣文林郎裴清使於國 度百濟行至竹南望羅國經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也
   ************************
聖徳太子の時代、小野妹子を隋に派遣し、その答礼として使節、隋の国書を持参していた裴世清の見聞録です。九州北東部、豊前地方と思われる地域に、秦王國があったとされます。その風俗が「華夏」、中国と同じだということで使者である裴世清は驚いています。

この九州に居住した一族が、新羅によって国を滅ぼされた秦韓から渡来した人々だろうとも思えます。

この滅亡時に倭国に多数の亡命渡来人がいただろうと推測できますが、秦韓と百済は異なります。だからこの説は正しくないようにも思います。

秦韓から渡来人ついて少し書いたのは、これまで大王家と渡来人の争いについて書いてきましたが、この秦韓からの渡来人は百済救援の朝鮮出兵に賛成の立場の人々だったと思われるからです。後の戦乱に大きく関わるようになると思います。ここは次回に続きます。


「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録決定・・・へ(^o^)丿のところで書きましたが、秦氏は倭の五王の時代の朝鮮半島の戦乱時に百済から渡来してきたのではないのかな?「百舌鳥」は本来は「百済 モズ」であり、百済渡来人が多く居住していたところです。

478年の倭王武の上奏文において「都督倭 百濟 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 七國諸軍事安東大將軍 倭國王」・・・との記述文です。
百済と秦韓は異なる国です。  

この478年は、おそらく倭王武が大王に即位した年です。倭王の五王の時代にはこれら朝鮮半島の国々はすでに倭国の影響下にありました。
438年、「宋書」夷蛮伝において、倭王珍は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求めています。この時期にはすでにこれら朝鮮半島の国々は倭国の支配下にあったと思われます。

任那に拠点を置き、朝鮮半島のこれらの国々をを支配下に置いていた時代に秦氏は渡来している。

475年、高句麗の攻撃によって王都漢城を包囲され百済は破れます。この時、一時的に百済は滅んだとされます。高句麗によって領土が占領された戦乱期に、倭国に多数の亡命してきたのでは?

秦氏が渡来してきたのは倭の五王の時代、これは百済が倭国の勢力下にある時代ともいえますが、高句麗の攻撃によって百済が滅んだ、この5世紀中頃であると思います。

渡来人が倭国に多く亡命する事態になるのは、いつの時代においても大きな戦乱が関係します。祖国を捨て渡来してきているということは、他国に侵略され国が亡ぶという危機にあったからです。120県の人民という表現は、広範囲の地域からの、かなり多数の亡命渡来人であったと思われます。
国そのものが渡来してきたような記述であり、これは国が滅ぶ時期にしかありえないように思う。

日本書紀は、桓武天皇(秦氏)に時代、秦氏、藤原氏(百済)によって改竄されている。それは天智から繋がる桓武天皇は秦氏の王であり、本来の大王家の人物ではなく、もちろん大王に即位することなんてできない人物だからです。

新撰姓氏録にある、弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝は信じていいように思います。新羅からの渡来という説がありますが、これは歴史の流れからもありえません。
来朝を妨害した新羅に対して兵を派遣してその罪を問うた、とも記述されています。この後に弓月君の子孫たちは秦氏を名乗ることになります。
新撰姓氏録は嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑です。
桓武天皇の皇子である嵯峨天皇は秦氏の王です。秦氏の根源に関しては嘘を書く必要なんてありませんので、秦氏は百済からの渡来人です。


秦氏は非常に広範囲に勢力地を広げ、巨大な勢力になっていました。この秦氏が、百済出兵に関して大王家と対立するようになりました。
それは、孝徳大王は、強大な唐とは敵対する道を選ばず、唐や新羅と結ぶ道を選んだからです。
倭国、唐、新羅の三国同盟です。
 

百済が、滅亡の危機にあった時に百済救援の出兵に協力したのはこの秦氏である。そして秦韓からの渡来人も秦氏に協力している。それは、秦韓を滅ぼしたのは斯蘆(後の新羅)だからです。
新羅が国号を「斯蘆」から「新羅」としたのは503年とされ、およそ150年位前の出来事であり、そう遠い昔の話ではありません。秦韓の人々にとっては、祖国を滅ぼした憎き新羅ということになります。


秦氏、祖先である弓月君は秦の始皇帝の三世の孫であるという主張が正しいものなら、今の天皇家は始皇帝と関係するということです。
それは天智系天皇である桓武天は秦氏の王だからです。秦氏の祖先を始皇帝に繋げる改竄をしている。本来は百済からの渡来人である。

この秦氏は、本拠地ともいえる山背国(今の京都)以外にも近畿周辺、近江、河内、摂津、大和などから中国、四国、東海、北陸にまでも進出し大きな勢力となっていました。
百済が滅亡の危機にあった時、亡命渡来人たちが協力を仰いだのがこの秦氏である。そして秦氏の皇子が天智です。

天智系天皇である桓武天皇の都であった平安京の地、山城はこの秦氏が開拓した土地であり本拠地である。この地を都としたのはもちろん、桓武天皇は秦氏の王だからです。遷都の理由はこれ以外はありえませんが・・・。
ですが本来は遷都なんてもちろんしていません。桓武天皇は渡来人である秦氏の王であり、本来の王ではありません。

ですので平安京は本来の都ではないのです。天智天皇の近江京も同様、渡来人の都です。
残念ながら最終的には渡来人の勝利となり、渡来人の都の方が本来の都のように書き換えられているのです。
歴史書を改竄し渡来人側の主張の方が正義となっている。

桓武天皇の平安京や、天智天皇の近江京が、本来の都だと主張しているのは、これら渡来人、秦氏や藤原氏です。
聖武天皇の平城京、さらに持統天皇の藤原京も同様です、これら秦氏、藤原氏が主張する方の都です。

本来は、藤原京は、万葉集にあるように高市大王の香久山京です。
そして、平城京も秦氏、藤原氏の都の名称です。本来は長屋王の奈良京です。

日本書紀や古事記、続日本紀は、秦氏、藤原氏が権力を握った時代に改竄された偽書です。
もう千年以上もこれら改竄された偽書によって私たちは騙され続けている。


百済が滅亡の危機にあった7世紀、実際には滅亡するということになるのですが、この時期にも多数の渡来人が亡命してきました。
その中には王族関係の人物も多くいました。この亡命渡来人たちが頼ったのが既に倭国において地盤を築いていたこの秦氏です。

亡命渡来人の中心人物が、百済最後の王である義慈王の王子とされる、豊璋や弟とされる翹岐です。中臣鎌足こと、百済渡来人です。この秦氏の王子が中大兄皇子、後の天智天皇である。

秦河勝の妹の孫、大甥にあたるのが天智である。高向王の子供の漢皇子というのが天智天皇の正体です。ただし、斉明天皇の子供ではありません。


百済救援のための出兵は強大な唐と敵対することになるため、大王家はもちろん蘇我氏、阿部氏、大伴氏など有力豪族も、百済側に付くことに関しては反対の立場であったのです。

聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山背大兄王の殺害、蘇我氏本宗家滅亡に追い込んだ乙巳の変、孝徳天皇と天智天皇との争い、天武天皇と天智天皇の争い。これらは全て、朝鮮半島出兵に関しての争いです。

多くの殺戮を繰り返し、百済救援のために、巨大な唐と敵対する政策を行った天智天皇は渡来人である秦氏の人物です。天智から繋がる桓武天皇は、本来の王家とは何ら関係のない人物である。これらの悪行を隠蔽するための日本書紀の改竄である。

その桓武天皇から繋がるとされる、今の天皇家は秦氏、百済王家ともいえます。

天智系天皇である桓武天皇は自らの即位の正統性を述べるために、本来の大王である天武と天智を兄弟とし、大王家に繋ぐ操作をしている。敵対していた天智と天武は兄弟ではありません。

そして天智の血を大王家に入れるための操作、天智の4人の娘を、弟である天武に嫁がせたという不思議なはなしです。本来の王家の系譜を改竄している。
日本書紀はこの桓武天皇の時代に改竄されている。




天智天皇は、中大兄皇子として知られますが、本来の名、諱は「葛城」です。
何故に、中大兄皇子の名が「葛城」なのか?皆様は不思議に思われたことはないでしょうか?
私は以前から大きな謎でした。だって中大兄皇子が葛城に関係するとは思えないからです。
「葛城」という有名な地名が存在するわけですから、この「葛城」は、地名にちなむものと思われるからです。

今回、秦氏のことを調べていてやっと謎解けました。秦氏の畿内においての初めての居住地が、葛城なのです。新撰姓氏録に記述されていますが、葛城地方、大和の朝妻の掖上です。

だから秦氏の王子である中大兄皇子の諱が「葛城」なのです。

神武天皇と崇神天皇は、ともに「ハツクニシラススメラミコト」とされ、初めて国を治めた天皇といわれます。
この初代神武天皇と10代崇神天皇の間の、2代から9代は欠史八代ともされ、後世に創作された天皇とされます。皇室の起源の古さと権威を示すための後の改竄です。讖緯説が有名で定説になっています。

これらの人物は、天皇としては存在していない人物ですが、ではまったく実在していない人物なのか?と問われるとそうでもないようにも思います。
この欠史八代の天皇たちは、葛城に関係する人物が多いことから、崇神王朝以前に葛城王朝が存在していたという説があります。

これ、秦氏の居住地が葛城であるので、問題とされているこの欠史八代の謎も解けるように思います。欠史八代の天皇たち(すべてではない)ですが、この秦氏の人物でもあるのでは?

秦氏による、ご先祖様を、本来の大王である、崇神天皇より早くに、この大和の地を治めていたとする改竄であるように思うのですが・・・?

つまり、蘇我氏(新羅)も、この秦氏(百済)も元は葛城氏配下の渡来人であるということです。
蘇我氏は、武内宿禰を祖とすることからも推測できますが、神武天皇というのはこの武内宿禰のことであり、葛城氏の祖です。
武内宿禰、名前は武内ではなく、武です。武の内宿禰(たけのうちのすくね)です。神様の武で神武天皇ということです。
神武の東征というのは、本来は4世紀以降における大和王権内の内乱(物部系と葛城系)のことです。

いままで何度も記述してきたところですが、初代の天皇を本来の大王家である物部系ではなく葛城系を始祖として描いているのはこれが理由のように思います。
古代の歴史は、2度変更されている。権力を握った蘇我氏、蘇我馬子と、秦氏の王である桓武天皇の時代に自家を大王家に繋ぐ操作がなされている。
秦氏、藤原氏は、葛城系である蘇我氏、蘇我馬子と聖徳太子が編纂した、蘇我氏の歴史書である天皇記・国紀を参照して、日本書紀、古事記を改竄している。本来「天皇」とは蘇我の王の呼称である。

秦氏は何故か歴史の表舞台から消えたとされますが、とんでもない消えるはずはない。秦氏というのは今の天皇家のことです。

平安京の大内裏(天皇の住居)は、秦氏の族長であった秦河勝の邸宅跡に建設されていたという伝説が存在します。
村上天皇御記
「大内裏は秦河勝の宅なり。橘はもとの太夫の宅なり。南殿前庭の橘の樹は旧跡によってこれを植う」

天智天皇はこの秦河勝の妹の孫であり、秦氏の皇子である。大王家の人物ではない。
つまり、天智系天皇である桓武天皇もまた秦氏の王であり、天智天皇は大王家の人物であり、天皇に即位したいうことはこの桓武天皇による改竄である。渡来人である天智は、もちろん王(天皇)に即位していません。
桓武天皇は天智が大王家の人物であり、天皇に即位したと改竄する必要があったのです。

秦氏は平安京造成に大きな役割を果たしたとされますがそうではない。
平安京こそ秦氏の都であり、渡来人の都である。天智天皇の近江京も同様。渡来人の都である。

最後に・・・
何度か書いてきましたが、何回も書いてやるぅぅぅ(ーー;)凸
殺戮を繰り返し、大王家を滅ぼした、渡来人を私は許しません。

有名な扶桑略記の記述です・・・
扶桑略記
 同月五日,大友皇太子,即為帝位。【生年廿五。】一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。
永交山林,不知崩所。【只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。】山陵,山城國宇治郡山科鄉北山。

天智天皇は、戦争責任を問われ、暗殺されたのではないのだろうか?という記述です。
白村江の戦いの後、唐の使者である郭務悰は、使者といえないような人数、これは軍といってもいい人数をを率いて来日します。
唐の要求は、唐と敵対する政策を行った戦争責任者である、天智の首です。
扶桑略記の記述にあるように、靴だけ残っていたのは、処刑し遺体を郭務悰のもとに、運んだからです。
唐の使者である、郭務悰は天智の死を確認してから帰国しています。ざまあみろです。

日本書紀 天智天皇条
唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻

天武天皇条
元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。
      **********************
日本書紀は天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄されている。ですので、もちろん真実が語られているわけありません。郭務悰は、天智の死を告げられ、東に向かって三度頭を下げて哀悼の意を表したと記述されていますが、そんなわけありません。

唐の使者である郭務悰は、白村江の戦以前にも何度か倭国を訪れています。
これはいうまでもなく、唐と敵対するのではなく、同盟を結ぶように要求してきたのです。
孝徳政権は、もちろん唐と手を結ぶ道を選んでいます。倭国、唐、新羅の三国同盟です。

しかし、百済からの渡来人である天智天皇(秦氏)や藤原氏はクーデターを起こし唐と敵対するという政策を行いました。
唐の使者である郭務悰の要求は、いうまでもないですが、戦争責任者の追及です。天智天皇の遺体を確認してから帰国しています。
唐は朝鮮半島を手中にし、その後に倭国を支配下にするという計画だろうと考えられています。
強大な唐との力の差は歴然であり、本来は唐に攻め滅ぼされる危機にありました。
全く愚かな政策としかいいようがありません。


ここ・・・以往諸皇,不知因果,恒事殺害。・・・問題箇所とされているそうですが、ここは、もちろん天智天皇が、常に殺害をこととしてきたことの因果(暗殺された)だということを諸侯はしらないという意味です。

日本書紀は、この天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄されているので不都合な事実は隠しています。
720年に編纂されたとされますが、現存する最古の日本書紀はこの桓武天皇の時代のものです。この時代以前の日本書紀は存在しません。
それは、もちろん内容を秦氏、藤原氏の都合により変更しているからです。
古事記も712年に編纂されたとされますが、続日本紀において古事記への言及がないことが疑問視されています。
現存する古事記は14世紀のものです。
古事記と日本書紀は、ともに藤原の歴史書ともいえる続日本紀編纂後に改竄された歴史書である。

暗殺を繰り返してきたのは、渡来人である、天智(秦氏)や藤原氏の祖とされる藤原鎌足(百済渡来人翹岐)です。
対立していた、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、 蘇我倉山田 石川麻呂、古人大兄皇子 、有間皇子や大王である孝徳天皇や山代王、斉明天皇たちも彼らによって殺害されています。
古代から続く本来の大王家を滅ぼしたのは、渡来人である。



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酒船石と亀形石造物の謎

2019年11月29日 | 日本書紀の謎


飛鳥には沢山の石造物があります。飛鳥観光ではこの石造物も人気のスポットになっています。用途の不明なものが多く、謎の石造物とされます。
一番人気は何といっても亀石でしょうかね?
亀かどうかはわかりませんが、なんかカワイイ造形ですよね。
この亀石の他にも、今回書くつもりである、酒船石や、亀形石造物、そして橘寺の中にある二面石、吉備姫王のお墓にある猿石も人気です。
あと弥勒石、須弥山石など・・・そしてマラ石も(*^▽^*)

石造物とはいえないけれども、古墳で使用されていた石舞台古墳や鬼の俎・鬼の雪隠なども石で造られた遺構である。
石舞台古墳は飛鳥では一番の観光名所です。
これらの石造物を訪れるのもいいですよ。ただ、車で回ると、止めた場所から少し歩かないと行けなくなるところもありますので、季節的に良い気候であれば、飛鳥観光はレンタサイクルで巡るのがお勧めです。

もう一つお勧めの石造物が・・・すこし離れていることもあり、飛鳥観光においてもあまり訪れる人が少ないのが益田岩船です。近くで見るとその大きさにびっくりしますよ。
ぜひ訪れて下さい。ただし、夏場は蚊が多いのと、私はここでマムシに遭遇しました。要注意です。しかし一見の価値のある石造物ですよ。



今回はこの酒船石や関係すると思われるの亀形石造物に関する謎です。酒船石の上部に彫られた不思議な形状から、いろいろ説が存在します。清酒を作る施設なのでは?という説から、この石は酒船石と名付けられています。

有力な説は酒船石は祭祀用の施設だろうということです。ですが一体どんな祭祀をおこなったのというのでしょうか?
説明できるのなら説明してみなさいよ・・・って言いたいのですが・・・。
それはないだろうと私は思うのですが・・・?
祭祀用の施設なんかではなく、実用的な施設だったように思います。


私は酒船石の謎ときに関しては、そんなに難しいものではないように思うのですが・・・?(*^▽^*)

古代の施設ですし、案外簡単なものですよ。どうして複雑に考えるのか私には理解できない。
酒船石の下には、水をためる亀形石造物があるわけですから、上部から水を流して下部の受け皿にたまる時間を計ったものですよ。
こんなの凄く簡単な推測ではないのか?

酒船石から流した水を下の受け皿(亀形石造物)に流すということは、時間を計っているのです。酒船石、亀形石造物のある施設は漏刻(水時計)であるという推測ををもう少し詳しく書いていきます。

飛鳥水落遺跡は、斉明天皇6年、皇太子であった中大兄皇子が作ったと伝えられる「漏刻」台の跡であるとされています。しかしそうではない。
もう何度も書いてきましたが、天智系天皇である桓武天皇により、孝徳大王の功績を天智の功績として改竄している。天智が天皇に即位したというのも桓武天皇による改竄である。

飛鳥水落遺跡はこの時に大王だった孝徳大王により造られたものである。天智系天皇である桓武天皇により、孝徳大王の功績を天智の功績として改竄している。

そしてこの酒船石、亀形石造物の施設もまた、孝徳大王によって造られた飛鳥水落遺跡に先立つ漏刻だったのではないのかな?




上の酒船石の写真をを見て下さい。水は手前、頭のような円形部分から中央の楕円形の部分を通り向こう側に流れる傾斜になっています。下部の設置面に石を置き意図的に傾斜を作っています。傾斜になっているということは下に水を流すためです。そして、その下には受け皿の形状になっている亀形石造物があります。
この傾斜を利用して、下の亀形石造物に水を流していると推測できますよね。

この頭のようなところから水を流して、なんか手を広げているような2本の溝があるでしょう。この左右に流す二本の溝は、流れる水の量を調整するものである。石の上部の形状は、下に流す水の量を一定にする働きをしている。

水を頭の円形部分から流すと、小判型の中央部分をも通るのですが、水量が多くならないように左右に水を逃がすようになっている。つまり下に流す水の量はそんなに多いものではないと思われます。

この頭の円形部分や中央の小判型の部分は、溝よりも深く掘られていて水が溜まるようになっています。これも重要であるように思う。これによって流れる水の量を調整している。つまり、溝の底辺部分の高さまでは、円形部分や小判型の部分には常に水が溜められる状態にあるわけです。これによって下に流す水の量を調整するようにできている。

そして広げた手のような溝の付け根の部分にも左右、外側に向いた溝があります。これも余分な水を左右に流して、下に流す水の量を調整し一定にするためのものである。この左右にある丸く掘られた部分も、中央の小判型の部分と同様である。溝よりも深く掘られていて水を溜めることができます。下に流す水以外は再利用したのです。

手前から向こうにかけて傾斜になっています。水は少しづつこの傾斜を利用して流している。流れる水の量が多くなった場合に余分な水を外に流れるように二方向の溝が掘られている。酒船石の上部の形状は、下に流れる水の量を調整するためのものである。流す水は少量です。

流す水を一定にするには難しい問題ですが、これで、頭のような部分から流す水が、多少多くても少なくても、つまり流す水の量が一定でなくても、余分な水を外に流し、下に流れる量を一定に調節できます。

単に下に水を流すだけならこんな複雑な形状にしなくていいわけです。
酒船石の上部の複雑な形は、水の量と流れを一定にする、つまり下に流す水の降下速度を一定にするものである。
漏刻(水時計)は、この水を流す速度を一定にすることが重要です。流れる水の量が一定なら、速度も一定になり下の受け皿に水が溜まる時間も一定になる。
亀形石造物は水がたまるような形状になっています。最後の受け皿ともいえるこの亀形石造物に水がたまる時間を一定にするためのものである。



そしてこの亀形石造物は、尻尾の部分から水を抜くようにできていることからも推測できる。水を抜かないと続けて時間を計れないからです。酒船石、亀形石造物が水時計だろうと思う大きな理由です。

亀形石造物は重い石でできていますので、水を抜くのには下部から抜く必要があるのです。水がいっぱいに溜まれば尻尾の部分の栓を抜いて水を抜くわけです。これを繰り返すことで時間を計ったのです。時間を連続で計る、つまり計りなおすのは、たまった水を抜く必要があります。砂時計が身近にありますのでわかりやすいですが、砂が下にたまればひっくり返して計りなおすわけです。

亀形石造物の受け皿は大きいため、水が満杯にたまったという状態を知るのは難しいことです。受け皿に水が満たされた状態を知るための細工もしている。尻尾の部分の上部の縁に小さな溝を作っています。この溝から水が流れはじめると、受け皿に水が満たされたことが分かります。このように精巧に作られていることからも、時間を計ったものだと推測できます。

亀形石造物の手前には楕円形の水槽があります。これは亀形石造物の水を抜いている時間に流れてきている水を溜めるものです。
亀形石造物から水を抜いている時間は、その前にある水槽から、亀形石造物に流れる水を栓を使っていったん止めて、抜いている時間に流れてきた水を手前のこの水槽に溜めます。
そして亀形石造物の水抜きが終わったら、水槽から亀形石造物にふたたび水を流せば、抜いている時間に流れていた水を亀形石造物に流すことができます。
これで正確に連続して時間を計ることができます。

前回に書きましたが、亀形石のある高台の施設は戦乱に備えての防御用の城である。この城の内部から下の亀形石造物・小判形石造物のある施設に水を流して時間を知らせていたように思うのですが?

酒船石、亀形石造物のある施設は、時間を計る施設、漏刻である。難しく考える必要はないように思います。

この施設はこの後も、使用されていたことからも、祭祀用の施設なのではなく、実用的なものであったということが推測できます。
この酒船石、亀形石造物こそ日本で最初の漏刻、水時計だったのでは?渡来人との戦乱に備えて、斉明天皇(本来は孝徳大王)が行ったとされる土木工事、亀形石造物のある丘陵を防御用に整備しなおした時期、655年頃に造られたものである。

四天王寺にある亀形石も、この酒船石遺跡と同構造だともいうことからも祭祀用の施設なんかじゃないことがわかる。四天王寺に天皇が住まいしているわけもなく、つまり祭祀とは何ら関係ないことがわかる。
四天王寺でも時間を計ったのです。時間がわかるということは重要ですよね。









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談山神社創建の謎と中臣鎌足

2019年11月23日 | 日本書紀の謎


今回は、前回からの続きの話です・・・
飛鳥京においての渡来人との戦乱についてです。戦乱はこの飛鳥の地から逃亡先まで広がっている。

写真を無くしてしまったので、飛鳥まで写真を撮りに行ってきました。談山神社は紅葉の名所として知られます。訪れた時は少し紅葉には早い時期でしたが、談山神社は多武峰の山頂にありますので、少しばかり紅葉を見ることができました。神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺といったとされます。

今年、2019年は、669年に亡くなった藤原鎌足公没後1350年にあたるとされます。なんか紅葉期間中には特別展示があるようです。

ですが、残念ながら間違っています。ここに祀られているのは本来の中臣鎌足です。偽物である藤原鎌足とは同一人物ではありません。ですので、没後1350年というのは間違っています(+_+)


写真は談山神社の本殿です。パンフレットによると、大宝元年(701)の創建 で、現存は嘉永3年(1850)に建て替えられたものです。

大宝元年(701)の創建というのなら、長屋王が大王に即位した年であり、創建の由来は、長屋大王が、おそらくこの地で戦死した、孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足をまつるお寺である。
「かみなが姫の物語、藤原宮子の謎」において書きましたが、道成寺も同様に、大宝元年(701)の創建です。この地で亡くなった、有間皇子を祀るために長屋王が大王に即位したときに創建されたお寺である。戦争で亡くなった人々の菩提を弔うためのお寺である。つまり戦乱は拡大している。

これらの由緒を変更したのは、長屋王と対立していた憎き藤原である。
私は、古代の大王家を滅ぼしたといえる秦氏や藤原氏を許せません。その悪事を暴いてやる( ̄ー ̄)凸
教科書に書いているから、日本書紀や古事記は正史だからとして信用してはいけません。特に歴史書は信用できません。歴史は勝者の歴史です。
残念ながら勝者は藤原です。記紀や続日本紀は藤原の歴史書です。


拝殿の中には、「多武峰縁起絵巻」の写本が展示されています。乙巳の変においての蘇我入鹿殺害の場面の絵はよく知られています。
しかし、これも天智(秦氏)や藤原氏によって変更された作り話です。
沢山の人々を殺害し、百済救援のため強大な唐と敵対するという無謀な政策を行った、天智や藤原は、百済からの渡来人である。

ウイッキペディア・・・談山神社

鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。後に本尊として釈迦三尊像が安置される。
     *************************

藤原鎌足の没年は、669年とされます。この鎌倉時代に成立した寺伝においては、・・・長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥であるとされます。ところが、長男である定恵の没年は666年です。ですので、定恵の方が早くに亡くなっていることになり、寺伝に矛盾が生じていてます。
定恵が父親である鎌足のお墓を、摂津からこの地の移したという話は真実ではないわけです。大和の地に移葬した理由も定かではありません。

なぜにこのような矛盾が生じたのかというと・・・改竄された歴史書である日本書紀を基にして後に時代に作られた由緒であるからです。
もうすでに「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで記述してきましたが、定恵の父親の中臣鎌足は、藤原鎌足とは別人だということです。本来の中臣鎌足は長男の定恵より以前に亡くなっているということです。

そして、中臣鎌足の長男の中臣真人は、僧などにはなっていなくて、孝徳政権においての外交使節である。

おそらく、659年の遣唐使で唐に渡り、660年の百済滅亡の翌年661年の帰国の便で帰っているはずです。本来の中臣鎌足の没年はこの661年より以前であるように思います。

孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足は、渡来人である藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)とは別人である。孝徳大王と渡来人である天智や鎌足は敵対していました。ですので藤原鎌足が孝徳政権の左大臣であるはずはない。
渡来人であるとの身分を変更するため、後に、不比等の時代に、関係した中臣氏、実在の中臣鎌足の名を騙ったため由緒が混乱する形になっている。

さらに談山の名の由来に関しては、意図的に変更しているように思います。

前回に書きましたが、654年から656年ころまで続いた戦乱が関係する。斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたとされます。これは防御用の城であり、実際に城を築いたのは大王である孝徳大王である。

656年に、この城において、孝徳大王と左大臣だった本当の中臣鎌足が、渡来人との戦争についての軍議を行ったのが本来の由来であるように思います。

談山神社発祥の由来は、天武天皇7年(678年)とされます。ですので、645年の大化の改新の談合時に、この多武峰に何らかの建物があったということは考えられない。それはわざわざ不便な山頂になんて造る必要がないからです。何もない山中で談合なんてするわけがない。

多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのは、戦争に備えての逃走用でもあり防御用の城であるからです。戦乱時には必要な建物だったのでこの時に初めて山頂に造ったのです。ですので、この時以前に何らかの建物があったとは考えずらい。

談山神社の名称の由来は、この655年か、656年に、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたという両槻宮での軍議が発祥の由来であり、この時にこの城で、孝徳大王と中臣鎌足が渡来人との戦争に関しての軍議をおこなったというのが談山の名の由来であるのでは?

白村江の戦いの敗戦や、その後の壬申の乱により渡来人勢力は弱体化しました。
天武天皇は飛鳥の地を整備し直し、新たな都の建設を始めます。680年に、天武天皇により講堂(現在の拝殿)が創建され、701年に長屋大王により本殿を創建し、孝徳政権において功績のあった中臣鎌足を祀ったのが由来のように推測しています。

何故にこの地に中臣鎌足が祀られているのだろう?という疑問は、前回に書いた丙辰の年(656年)に起きたであろう戦乱が関係する。
中臣鎌足はこの城で、渡来人との戦いにおいて戦死したのだと思います。つまり、戦死した地で長男の中臣真人により埋葬されていて、お墓はもともとこの地にあったのではないのか?この談山神社に祀られているのは、孝徳政権において重要人物だった本来の中臣鎌足であり、長屋大王の時代になってお寺を造り祀られたのでは?この時に同時に長男である中臣真人も、祀られるようになったのではないのかな?


由緒が混乱している理由は、藤原不比等が、この中臣鎌足の名と地位を利用したからです。
渡来人である、藤原不比等は、父親である。藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)の地位(不比等本人の地位も上げることになる)を上げるために、不比等の時代に関係した中臣氏、孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足の名を騙って改竄している。後に中臣の名を藤原に変更しているのもこれが理由です。もともと中臣氏ではなかったのです。
藤原鎌足の父親は、中臣 御食子、母親は大伴智仙娘とされます。何度も記述してきたところですが、大伴氏は大王家と深く関係し、藤原氏と対立していた反藤原の豪族です。孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足と不比等の父親である藤原鎌足は別人です。


のちに系譜を改竄したことにより、由来に混乱が生じています。ですので、ここに藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)や不比等を祀るのはよくない。

藤原鎌足は渡来人であるとの説は以前からあります。この時代、殺戮の時代ともいわれます。多くの暗殺が行われました。関わるのはすべて百済からの渡来人であるこの藤原鎌足や天智(秦氏)です。
大化の改新とされますが、とんでもない。大王家転覆の大逆罪です。

蘇我氏本宗家滅亡に追い込んだ、乙巳の変。この乙巳の変 が分かりやすい例ですが、権力を握り専横を極める蘇我氏は悪であり、この蘇我氏から大王家に権力を取り戻すために起こしたこのクーデターは正当なものだとして改竄している。

本来は、百済出兵に反対の立場であった、蘇我入鹿、蝦夷暗殺のクーデターである。日本書紀は、藤原氏による自らを正当化するための書物に他ならない。事実は逆である。
いつまでもこの偽書である日本書紀を、正史として扱う限り本来の歴史はみえない。


渡来人との争いはこの後もまだまだ続くことになります・・・



写真は酒船石です。

ウイッキペディア・・・
酒船石遺跡
亀形石造物と小判形石造物および砂岩石垣・版築などの周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。

この遺跡は、田身嶺(多武峰〈とうのみね〉とは場所・範囲が違い読み方も不明)にあった両槻宮の一部、あるいは両槻宮への入り口施設だとの論議があるが、考古学的には否定されている。

亀形石造物・小判形石造物
砂岩でできた湧水設備とそれに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見された。これら2つは水槽になっており水を溜めたと推定される。さらにそれに続いて石を並べた溝や石段があり、全体を囲むように石垣や石敷がある。

酒船石の乗る丘陵全域は自然のままではなく、版築と石上豊田山の砂岩の切石で改造した人工的な丘であり延長700メートルまで確認されている。

   **************************
この 田身嶺(多武峰)にあった両槻宮とは、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたととされる、この高殿こそが、両槻宮である。これはこうとしか考えられないようにも思うのですが?
戦乱に備えての高台の宮であり、避難用の建物である。この両槻宮こそが、
談山神社の発祥の由来であるともいえるのでは?



写真は談山神社、談山に、背後には、御破裂山という名の山があります。
御破裂山という、恐ろし気な山の名はこの地で戦乱があったための山の呼称とも思えます。
この山頂に中臣鎌足のお墓があります。中臣鎌足のお墓近くに、「根槻」という場所があります。
「両槻」が「二槻」となり、「根槻」に転じたとされます。
両槻宮(ふたつきのみや)の、「両 ふたつ」の文字に「二」の漢字が使用され、「二槻」になり、「二槻」は、「にき」と読めるので、「根槻」に転じたということです。

多武峰中興の祖とされる増賀上人の大きなお墓もあるのですが、ここいらへんは「念誦崛(ねずき)」といわれる所です。「根槻」が、「念誦崛」になったということですが、江戸時代には紫蓋寺というお寺があり、この近くには今も石垣が残っています。
この石垣こそが両槻宮の跡だという伝説が今も語り継がれています。

斉明天皇(本来は孝徳大王)は、多武峰に石垣を造ったという記述があります。
この石垣とは城を守る石垣であり、斉明天皇の両槻宮とは戦乱に備えての避難用の山城である。





写真は酒船石の近くの石垣です。
この酒船石の乗る丘陵全域人工的な丘だということが判明しています。この酒船石遺跡周辺は、この地に造った石塁で守られた戦闘用の出城のようなものであったように思います。人工的に丘陵を造り、そこに戦闘に備えて石垣で守られた、いわば出城を造ったのではないのか?そして、この場所の石塁は、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がっていたものである。

「石上山」の石を運んで「宮の東山」に石垣を築いたとされます。位置的にはこの丘陵は、川原宮の東という位置ではなく、北東に位置します。ですので、「宮の東山」に石垣ではないのですが、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がるものである。
前回に書きましたが、後飛鳥岡本宮は、川原宮の東、今の岡寺の場所であり、コの字に開けたの西側の部分を守るための石塁である。

酒船石遺跡にある、石塁は、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がっていたものである。開けていた部分の周囲を巡らしていた石塁だったように思います。

それで、この酒船石は何に使用されたのでしょうか?いろいろ説があるようですが?わかりませんよねこんなの。
以下はもちろん私の推測ですが・・・
私は戦闘用の出城だったということから、時間を計算した漏刻、水時計の一部だったのではとも思います。戦にも時間は重要ですよね。



写真は飛鳥水落遺跡です。
ウイッキペディア・・・
この場所が『日本書紀』に登場する天智天皇10年4月25日(辛卯:671年6月7日)条に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。

中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り
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飛鳥水落遺跡は天智天皇が作ったとされますが、この時期、朝鮮出兵を画策していた天智が作るわけがない。さらに造る権力もありません。これまで記述してきましたが、天智は天皇ではありません。

飛鳥水落遺跡はこの時に大王だった孝徳大王により造られたものである。天智系天皇である桓武天皇により、孝徳大王の功績を天智の功績として改竄している。天智が天皇に即位したというのも桓武天皇による改竄である。

酒船石遺跡は、祭祀用の施設だっとされますが、時期的にも重なりますので飛鳥水落遺跡に先立つ漏刻だったのではないのかな?

酒船石の上部の形状からは水を四方に分配するような溝になっています。高台にある城の内部、酒船石から下の亀形石造物・小判形石造物に水を流して時間を知らせるもののように思うのですが?例えば城の周囲の警備の交代時間を知らせるものだとかです。
祭祀用の施設だっとされますが、案外実用的な施設だったかもです。





















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殺戮の時代・・・丙辰の乱

2019年11月17日 | 日本書紀の謎


あれ・・?丙辰の乱ってなに?・・って思われるでしょう・・・分からないのも当然です。
干支の名から勝手に作ちゃった(*^▽^*)

古代の大乱は壬申の乱がよく知られています。しかしこの丙辰の年(656年)にも大きな戦乱があったのです。656年は斉明天皇の時代とされます。
この時代の大王家と渡来人との戦乱の様子を推測してみます。

孝徳天皇と天智天皇の争いはよく知られています。孝徳天皇の姉は斉明天皇です。蘇我氏と天智天皇との争いである乙巳の変。天武天皇と天智天皇の争い、後の壬申の乱もそうです。
すべて大王家と、渡来人である天智(秦氏)、藤原氏との争いである。
つまり敵は渡来人である。この争いは、孝徳大王の時代から長屋大王の時代、そして桓武天皇の時代にまで続くことになる。桓武天皇は百済からの渡来人である天智系天皇である。この天智系天皇とは秦氏である。

斉明天皇の時代には多くの土木工事が行われたということは、よく知られていますよね。何故に多くの土木工事を行ったのだろうか?・・・それは、斉明天皇は土木工事が好きだったから・・・こんなバカな答えしかできない歴史学者は失格ですよこんなの。何故にこうも大規模な土木工事をおこなったかまで誰も追及していない。

斉明天皇は、どうしてこれほどの大規模な土木工事を行ったかという理由を考えなければだめです。どういう目的の土木工事であるのかということを考えれば、答えは難しいものではない。
土木工事の内容から、戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めたというのは容易に想像できます。

今回は藤原氏の氏寺である、興福寺や談山神社の創建に関することから、いままで述べてきましたが、大王家と渡来人である天智(秦氏)や藤原氏のと飛鳥京においての、戦乱の様子を推測していきます。
孝徳大王と天智の対立の原因とは、百済救援の出兵に関してことです。
この百済救援に関して、孝徳政権と、百済に関係する渡来人である天智や鎌足のとの争いは、どの様なものであったかを考えます。

まず興福寺創建の謎から
聖徳太子の謎について考えるきっかけにもなった、梅原猛氏の著書、「隠された十字架」において興福寺創建に関しての気になる記述が頭の中に残っていました。

ウイッキペディア・・・興福寺創建の由緒

藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。
        ********************
この創建の由来、山階寺が興福寺の起源であるというのは、後の時代に藤原氏による改竄です。興福寺は藤原氏に乗っ取られ、創建の由緒も変更されている。

飛鳥の四大寺は、飛鳥寺(法興寺)、川原寺、大官大寺、薬師寺です。
奈良の四大寺は 、元興寺(法興寺)、大官大寺(大安寺)、薬師寺、そして興福寺です。

この中で、興福寺を除く三寺は寺名は変更していますが、飛鳥の地から奈良の都に移転してきたものです。しかし興福寺だけは飛鳥から移転したものではなく、藤原氏の本拠地ともいえる山科からの移転であるとされます。
何故か川原寺だけ飛鳥の地から奈良京(平城京ではありません)には移転していないとされます。ですが、そんなことはありません。本来は飛鳥から移転したのですが、藤原に乗っ取られている。

実はこの川原寺は、別名では弘福寺と呼ばれていたといことです。この弘福寺は後に「ぐふくじ」と呼ばれるのですが、「こうふくじ」とも読めることから、梅原猛氏は、「こうふくじ」という名前を買収することにより、四大寺の一つの権利をも買収したのではないのかと推測しています。
その通りのように思います。川原寺も飛鳥から移転している。
しかし、名前を買収というような、そんな甘いものではなく、実際は大王家を乗っ取り、寺も乗っ取って由緒を変更し藤原の氏寺にしたということです。

つまり、山階寺の鎌足発願の釈迦三尊像を本尊にして祀ったというのは、藤原氏が寺を乗っ取った時以降の話である。川原寺も同様に飛鳥から移転しているということです。興福寺も他の寺と同様に、本来は飛鳥から移転した川原寺であるというのが起源である。
そして、何故かこの川原寺もまたその起源は明らかではありません。
不思議なことに日本書紀はこの川原寺の起源を一切語らないのです。もちろん、それは明らかにしたくはない由緒があるからだと想像できますよね。

川原寺の本当の起源についても考えてみます。聖徳太子にも関わるところでもあるので以前から気になっていたところでもあるのですが、藤原氏には都合の悪い由緒であるのです。

何度も書いてきたところでもあるのですが、大王家と渡来人との争いの中のこれもまた悲劇である(ノД`)・゜・。
由緒はこの戦乱が関わるため記述できなかたのではないのか?

殺戮の時代ともされますが、この時代の飛鳥京においての、大王家と渡来人との戦乱の様子を推測してみます。

ウイッキペディア・・・川原寺
飛鳥寺(法興寺)・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大寺」の1つに数えられた大寺院であったが、中世以降衰微し廃寺となった。現在は跡地にある真言宗豊山派の弘福寺(ぐふくじ)が法燈を継承する。

天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説が有力となっている。川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。
    **************************
斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したという説に関してはいいように思うのですが、秦氏に関わる渡来人の天智の母親は斉明ではありません。ですので、天智が創建というのは私には大いに疑問です。

斉明天皇、諱は寶女王。敏達天皇の第一王子、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王の第一王女。母は吉備姫王です。弟が孝徳天皇です。
斉明天皇の子供とされる天智天皇は孝徳天皇と対立していました。思えばありえないような話です。

斉明天皇は、皇極天皇として即位し、重祚して斉明天皇になりました。
しかし皇極天皇として即位したということは真実ではありません。
この皇極天皇時の本来の天皇は、袁智天皇こと阿倍遠智娘です。袁智天皇の崩御後(654年)、655年に天皇に即位したのが斉明天皇です。
654年に崩御したのはこの王后である袁智天皇の方です。孝徳大王ではありません。この事実を改竄している。

渡来人と対決したのは孝徳大王である。この戦乱が丙辰の乱である。

寶女王は押坂彦人大兄皇子の第一王子である、山背大兄王(山代王)の王后である。山背大兄王(山代王)と斉明天皇との子供が天武天皇である。しかし天智はそうではない。天智系天皇である桓武天皇の系譜改竄箇所、天智を王家に繋ぐ操作のひとつである。


これまで大王家と渡来人との争いを考えてきましたが、この山背大兄王の暗殺の事件や、乙巳の変も本来の理由は、百済救援に関わる渡来人との争いである。

そして、斉明天皇の宮であった、飛鳥板蓋宮が焼失したということも同様の戦乱の中の出来事であるのでは?そして、この戦乱はこの後も続くことになり、戦乱の中で、孝徳大王や斉明天皇は殺害されているのではないのか?
押坂彦人大王の王子である茅渟王の子供たちが、孝徳大王とこの斉明天皇である。何度も書いてきましたが、孝徳大王と天智や藤原氏は百済救援のための朝鮮出兵に関して対立していました。
孝徳大王は唐や新羅と手を結ぼうとしていたからです。倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。結果、国内で百済渡来人との争いがおきました。
この戦乱はどの様なものだったかを考えてみます。

壬申の乱は、記述があるので古代においての大きな内乱として知られますが、この壬申の乱以外にも、記述のない大きな内乱は起っている。
壬申の乱と同様に、干支の名を付けるのなら、656年の丙辰の乱である。この時期は斉明天皇の時代とされますが、孝徳大王の時代であり、百済渡来人との激しい内乱が起きている。

斉明天皇(本来は孝徳大王)の時代には多くの土木工事が行われました。どうしてこれほどの土木工事を行ったかの理由を考えなければだめです。
この時代は殺戮の時代です。渡来人との戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めたのです。


戦乱の要点をまとめている記述であるように思いますので、ウイッキペディアの記事をそのまま参照させてもらいます。宮が焼失したという記述から、飛鳥京においての大王家と渡来人との戦乱の様子が推測していきます。

この時期には、不自然な位に何度も宮は火災にあっています。この宮が焼失したという主な原因は戦乱によるものだろうと思うからです。

ウイッキペディア・・・
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。

川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。

ウイッキペディア・・・岡本宮
655年の冬に板蓋宮が火災に遭い、斉明天皇は川原宮へ遷ったが、並行して新たな宮殿建設地の選定も行っており、翌年(656年)には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮である。斉明天皇は舒明天皇の未亡人であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。

しかし同年、この新しい宮も火災に遭う。当時、斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだが、動員される民衆には非常に不評であった。

   *************************
川原寺は、飛鳥板蓋宮が焼失したために移り住んだ斉明天皇の仮宮であった、川原宮の後地に造られたものとされます。

飛鳥板蓋宮が焼失したのは、雷による焼失というのではなく、渡来人との戦乱の結果ともいえるように思うのです。同様にこの川原宮もまた渡来人(秦氏と藤原氏)との戦乱の中で焼失している。
斉明天皇は九州で崩御したとされますが、そのように思えないのです。渡来人のクーデターにより殺害されている。
斉明天皇は天智天皇の先導で、なんと68歳で新羅討伐に出向き、遠征先の筑紫の朝倉宮で崩御したとされます。
女性でしかも高齢(本来の年齢はもっと若い)であったともされる、斉明天皇が、朝鮮出兵のために九州まで出向くというのは考えずらい話ですよね。

川原宮が存在しているのに壊して寺に建て替えるということはありえませんよね。つまり、宮は存在していなかったわけであり、渡来人との戦いの中、川原宮もまた戦乱で焼失したということであるように思うのです。

そして、宮のあった同じ場所に寺を造ったわけですから当然、川原宮に関係するお寺だと推測できます。

創建の由緒は、戦乱で焼失したあとに建てられら川原寺(弘福寺)は、亡くなった斉明天皇の菩提をともらうために、子供である天武が創建した寺である。
天智天皇は、斉明天皇の子供ではなく、殺害した方である。天智の創建という説はありえません。

つまり川原寺の創建年は、壬申の乱に勝利し、天武が大王に即位した673年頃である。天武天皇の宮も飛鳥の地にあり、戦乱によって多くの建物が失われていたとも思われ、天武は飛鳥京を整備しなおしたように思います。

藤原氏による改竄歴史書である日本書紀が川原寺の創建の由緒を語りたくない理由です。斉明天皇を戦乱の中で殺害したのは、渡来人である天智であり藤原氏である。藤原氏にとって都合の悪い歴史である。


そして、ここからが一番に語りたいところであり難しい推測になるのです。
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御したとされますが、そうではない。亡くなったのは孝徳大王の王后である、阿部氏の娘の袁智天皇である。天皇は女帝の呼称である。

何度も参照しているのですが、・・・
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」
  ***************************

記述にある、袁智天皇が難波宮にいた年である庚戌年(白雉元年)は650年です。654年に孝徳天皇が崩御したとされますが、そうではなく、王后であるるこの袁智天皇が亡くなった年です。

持統天皇の母親であるとされる、蘇我遠智娘は、蘇我氏の娘ではなく阿部氏の娘である阿部遠智娘です。この阿部氏の系譜を消し去っている。
白雉元年はこの阿倍遠智娘が天皇に即位した年です。白雉の年号は袁智天皇の年号である。
この後、654年に袁智天皇が崩御した後、655年に寶女王が斉明天皇として天皇に即位したのです。

あたりまえだけど、寶女王(皇極天皇)が袁智天皇なんて呼ばれるはずはありません。そして、記紀の記述のように寶女王が皇極天皇として即位しているのであれば、阿倍遠智娘が天皇に即位することなんてできないからです。650年というのは、皇極天皇の在位中であり、天皇が二人いることになりますからね。ですので、寶女王が、皇極天皇として即位したというのは真実ではありません。
孝徳大王が崩御して即位したのではなく、袁智天皇が崩御したから、斉明天皇として即位したのです。本来、「天皇」とは女帝のことです。

そしてこれは、孝徳大王殺害の事実を隠すためでもある。

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで書きましたが、孝徳大王殺害は661年であると推測しています。斉明天皇は、重祚したとされ661年まで生きていたとされるのは、文献上で孝徳大王を実際より早くに崩御したと改竄したからです。孝徳大王の崩御年は654年ではなく、この661年であり渡来人との抗争の中に亡くなっている。654年に崩御したのは孝徳の皇后であり天皇だった、袁智天皇である。国家転覆の大逆罪である孝徳大王との戦乱を隠蔽している。


大安寺伽藍縁起并流記資材帳に記述されている文は、まさに日本書紀に矛盾点を暴くものです。
白雉元年である、650年には皇極天皇は天皇として在位中なので、この「袁智天皇」」は誰だかわからないということになっています。日本書紀を疑ってください。
日本書紀の改竄箇所が、この大安寺伽藍縁起并流記資材帳などの他の文献などから推測できます。650年には、袁智天皇という天皇が存在していますから、寶女王が皇極天皇として即位したというのは真実ではない。

推古天皇ー袁智天皇ー斉明天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇である。

この時代は女帝が続くとされますが、「天皇」とは本来は蘇我氏の呼称であり、女帝の呼称である。蘇我馬子によって、そして後に桓武天皇の時代になってこの「天皇」の呼称を使用して改竄されたのです。

聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山背大兄王が殺害されたのは643年の12月です。この時期から争いは激化している。もちろん殺害したのは蘇我入鹿などではなく、百済からの渡来人たちです。この山背大兄王(山代王)も、もちろん大王に即位していました。


そして645年には乙巳の変がおきます。この乙巳の変とは、渡来人たち(天智や鎌足)による百済救援のための朝鮮出兵に反対の立場であった蘇我入鹿、蝦夷の殺害事件です。これもまさしく大王家転覆のクーデターでもある。
大王家と渡来人は朝鮮出兵に関して対立していました。孝徳大王は唐、新羅と同盟関係を結んでいたのです。飛鳥京は危険な状態にありました。

645年にはすでに孝徳大王は、都が危険な状態にあったので、関係していた阿部氏の領地である難波に王后の袁智天皇を避難させていたのです。
もう何度も記述しているところでもありますが、持統天皇の母親はこの阿倍遠智娘であり、孝徳大王の王后です。ですので阿部氏の領地である難波にいたのです。

しかし孝徳大王と姉である斉明天皇は飛鳥にいました。654年に袁智天皇が崩御したため、655年に斉明天皇として飛鳥の地で天皇に即位しました。
実際に大規模な土木工事を行ったのはもちろんこの時の大王である孝徳大王です。

孝徳政権と渡来人との飛鳥京にての争いは、654年に板蓋宮は火災に遭い、焼失して以降にさらに激化する。宮である板蓋宮に火をつけたのは渡来人である。


そしてウイッキペディアの岡本宮の気になる記述で・・・
「斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだ」
  *******************************
この記述にあるように、斉明天皇(本来は孝徳大王である)は多くの土木工事を行ったとされます。何故にこのような土木工事を行ったかの推測は、この時代は渡来人との戦争中であるということを考慮すれば容易ですよね。


日本書紀 斉明天皇条・・・
斉明天皇二年・・・時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。若據未成之時作此謗乎。又作吉野宮。西海使佐伯連𣑥繩闕位階級・小山下難波吉士國勝等、自百濟還、獻鸚鵡一隻。災岡本宮。
  **************************

「狂心渠」・・・斉明天皇の土木工事は、多くの労力を必要とし「たぶれごころのみぞ」と呼んで非難したとされます。
もちろん言うまでもないですが。日本書紀の記述は敵対側の記述であるのです。日本書紀が非難する理由は防御設備の工事だったからです。
日本書紀や古事記は、後の時代に天智系天皇や藤原氏によって改竄された偽書である。

なんと、香久山の西から石上山まで渠(みぞ)を掘って舟二百隻を使って「石上山」の石を運んで「宮の東山」に石垣を築いたとされます。この渠の掘削にはおよそ3万人、そして石垣の建設には7万人もの労力を使い、当時の人々はこの渠を「狂心ノ渠 たぶれごころのみぞ」と呼んで非難したともされます。

日本書紀の記述は敵側、つまり秦氏、藤原氏側の視点からのものである。
そして、何故にこんな土木工事を行ったのかということを考えなければだめです。石を運び防御用の石塁を造っている。

川原宮の東の山に、石塁を造り、ここに戦闘に耐えうる、そして避難用でもあると思いますが新たな宮を築いたわけです。多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのも同様のことです。戦闘用の城でもある。

於宮東山累石爲垣・・・これが後飛鳥岡本宮を守るための石塁である。

酒船石がある丘陵、酒船石遺跡では、その中腹から裾にかけて大規模な造成がおこなわれ石垣が発見されています。これは、宮を守るための戦闘用の城の造成であるように思います。

宮を守るため戦闘用の城を築いたわけです。宮の北側の防御用の出城でもある。城においての堀と同様に、相手に攻め込まれないように運河を築いたわけです。飛鳥近くの多武峰に、石塁や高殿を築いたというのも同様に戦乱に備えてですよね。山城は攻めにくいわけです。

そして656年に新たに岡本に新宮殿が建てられたとされる後飛鳥岡本宮とは、この川原宮の東側の、これも石垣に守られた防御用の宮である。
斉明天皇はこの時、九州の地ではなく飛鳥の地で渡来人との戦乱で殺害されたように思います。

この後飛鳥岡本宮の場所はおそらく、川原宮の東側、いまの岡寺の場所です。地形のわかる地図を見てください。地形的にはおそらくここしかありません。南北と東側は山に囲まれている地形であり、開けている西側だけ防御すればいい「コの字」型の地形です。この開けている西側に石塁を造ったのです。それが記述にある、川原宮の東(宮東山累石爲垣)であり、新しく建設した後飛鳥岡本宮を防御する石塁である。



地図を見ればわかりますが、川原宮の跡地から、岡寺は東の位置になり、酒船石のある丘陵は北東に位置になります。
岡寺は天武天皇の皇子である草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされますが、本来は孝徳大王、斉明天皇の後飛鳥岡本宮である。

渡来人たちの本拠地はやまのうしろ、そう奈良盆地の山の向こう側の山城です。酒船石遺跡周辺の石垣は、この新しく造った後飛鳥岡本宮の北側に位置します。酒船石遺跡周辺の石垣は、宮を守るための、出城でもである。
飛鳥は山に囲まれた狭い地域でもあるので石塁を造れば、宮の北面に対しての防御ができ攻撃から守れる。
天武の時代、壬申の乱以降は、渡来人勢力は弱体化し開けた奈良盆地に進出するのですが、それまで、この山に囲まれた飛鳥の地を都にしたのは、渡来人の脅威から防御しやすい地形にあるからです。

さらに、宮に攻め込まれた場合、地形的に見れば、飛鳥の地において北部から攻め込まれた場合、この多武峰をこえ東部に行き、そこから南に向かって山を越え吉野に逃れるルートを作ったのです。吉野宮滝宮です。吉野にも宮を造ったのは避難場所であるわけです。

戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めるという大規模な土木工事を行いました日本書紀がこの土木工事を非難する理由です。しかしながら戦乱は続くことになります。孝徳大王が、百済救援ではなく、百済討伐の兵を出そうとしていた時に、クーデターが起きます。この時、661年に斉明天皇、そして孝徳大王は殺害されている。
川原寺はこの斉明天皇の菩提を弔うために川原宮の跡地に天武が建てたお寺であるというのが創建の由緒であるように考えています。
藤原氏には都合の悪い由緒である。日本書紀が創建の由来を語らないのはこれが理由だと思います。

これはもちろん、本来の大王だった孝徳大王と渡来人との争いである656年の丙辰の乱である。この戦いの後に孝徳大王は難波に遷都したのです。難波の宮遷都は657年である。

そして難波に遷都する前の、飛鳥京においての本来の孝徳大王の宮こそ後飛鳥岡本宮である。飛鳥京で大きな戦乱が起きたので、難波に遷都、つまり避難したという推測はごく自然な推測のように思うのですが?
それでないと孝徳が難波に遷都した理由がみあたらない。

次回に続きます・・・






最後に、この「狂心渠」、つまり運河というのはどんなものだろうか?地図を見ながらどういう運河だったのかを推測するのは楽しい作業です(*^▽^*)

この「石上山」とは、飛鳥近くの山ではなく、材質から天理市の石上山であるとされます。もちろん近場からも石を調達しているはずです。

石を天理の石上山から飛鳥まで運ばなければならないわけです。重い石を運ぶには水を利用する方法がいいわけですが、記述のように香久山から石上山まで運河を造るのは大変な労力がいるわけで、この時代には難しい作業のように思います。
ですので川を利用するのがいい方法ですよね。ところが、川が目的の場所近くまで流れていれば問題ないのですがそううまくはいきません。
それでは川を利用して出来るだけ目的場所の近くに運ぶにはどうしたらよいのか?

香久山西麓において運河状大溝が発見されています。ここからの推測ですし、古代の川の流れがどの様なものだったのかはわかりませんが・・・?

大和川は上流部では初瀬川といわれ、奈良盆地内の主要な川になり多くの川とも繋がります。この大和川は、初瀬から西に流れ、桜井市を通り北上し、奈良盆地東側の山々から流れる支流をあつめ、もちろん天理の方から流れる支流にも合流し大阪湾の方まで流れます。
古代の都、卑弥呼の都である巻向、桜井から天理というのは古代の中心地でもあり、その中心部を流れ、物流においても古代から最も利用された重要な川です。

ですので、この大和川を利用するのがいいのですが、桜井から東の初瀬が源流となりますので、南の飛鳥方面までは流れていません。

香久山西麓において運河状大溝が発見されているというのなら、この運河に関しては、天理からこの大和川利用して南下し、桜井から飛鳥板蓋宮のそばを流れる飛鳥川に繋ぐための運河だろうと思います。
二つの大きな川を繋ぐ運河を造り石上から飛鳥まで石を運んでいる。
それでも大変な作業です。飛鳥に都を移した時代からすでに工事はおこなわれていたようにも思うのですが?

写真、一枚目、談山神社の十三重塔、二枚目真言宗弘福寺、そして下の写真は、川原寺跡と飛鳥板蓋宮跡、大和川です。









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かみなが姫の物語、藤原宮子の謎

2019年10月31日 | 日本書紀の謎


文武天皇の妃である藤原宮子は、藤原不比等の娘とされますが不思議な話が語られています。宮子は藤原不比等の娘であるということが事実なら、宮子は藤原氏の娘で初めて天皇の母となった女性になり藤原氏にとっても重要な人物になります。
藤原氏は天皇家と関りを持ち、子供の聖武天皇を天皇に即位させました。この後、藤原氏は天皇家の外戚となることで権力を得ることになります。藤原摂関政治の始まりです。

しかし、安珍・清姫で有名な、和歌山県御坊市にある道成寺には、藤原不比等の娘とされ文武天皇の妃となったとされる、不比等の長女であるこの藤原宮子は、実はこの地域の漁師の娘であったとの伝説が今も語り継がれています。

今回は、聖武天皇のお母さんである、かみなが姫こと宮子のお話です。かぐや姫のモデルともされる絶世の美女です。
梅原猛氏の著書である「海人と天皇」で有名になりましたが、宮子姫の伝説はあまり知られていないことです。
私も地元ともいえますので、この伝説は小さいころから知っていました。そして「海人と天皇」読んで以来、長らくこの、かみなが姫の物語を考えてきました。

もう1300年程も語り継がれている伝説です。これだけ長くに伝えられているのは真実
だからだろうとも思いますが、どこかにいまだ隠された謎があるのではないのか?

いままで系譜改竄の謎について考えてきました。こういう不思議な話がある箇所が系譜改竄の箇所であるように思えるからです。藤原氏の女性が初めて王家と関わったということになる宮子は、藤原氏にとっても、そして系譜改竄においても重要な人物です。

天武大王の王子の高市大王、その王子である長屋大王が本来の大王家の正統な大王たちだとういうことがわかれば、系譜が変更された箇所について案外容易に推測できます。(*^▽^*)


道成寺に伝わる、かみなが姫の伝説は、藤原氏にとって重要な人物である藤原宮子は不比等の娘ではないとの話です。道成寺の由緒として藤原氏は何故にこの伝承を残したのだろうか?。なにか隠されている真実があるのではないのか?

伝説のおおまかな話です・・・
九海士(くあまの里)今の和歌山県御坊市湯川町下富安。漁師の夫婦(村長ともされます)に娘が生まれました。名前は「宮」といいました。
娘は成長していったのですが、なぜか髪の毛が生えてきませんでした。

海に潜って漁をしていた母親(あるいは娘である宮自身)は、海中で小さな観音様を見つけました。この観音様を毎日拝んでいると、髪が生え始めました。やがて、かみなが姫とよばれる美しい女性に成長していきました。

藤原不比等は、この少女を自身の養女とし、そして宮廷内にいれました。
やがて、この絶世の美女が、文武天皇の妃となり藤原氏の娘で初めて天皇の母となった女性になりました。
聖武天皇のお母さんである、かみなが姫こと藤原宮子です。
道成寺創建の由緒でもあります。
   ************************
藤原不比等は、この美しい少女を見つけ養女とし、天皇の妃にして王家と関りをもったということですが、この伝説においての不思議な話、つまりありえない事柄についてですが・・・
どうして漁師の娘が宮廷に入れたのかというところです。絶世の美女ということだけでは、本来は無理なのです。天皇の妃になるには、それなりの身分。つまり地方の豪族の娘位の身分が必要なわけです。

藤原不比等の娘ということなら、おかしくはないとも言えますが、伝説のように養女ということなら本来ははありえないことです。
だから宮子は地方豪族の娘であるはずです。この豪族の名が消されているのは、藤原氏と敵対していた豪族だからです。

この藤原氏の娘として系図を変更したのは後の話であり、本来の事実はそうではないのではとも思えるのですが?

「尊卑分脈」や続日本紀においては、藤原宮子は、不比等と、賀茂小黒麻呂の女である賀茂比売の娘とされます。これが事実なのだろうか?あるいは伝説の方が事実なのだろうか?
「海人と天皇」において梅原猛氏は、養父が不比等であり、養母がこの賀茂比売であり、この系図に組み入れたと考えられとされます。これはこの通りのように思います。

しかしこの系図を変更したのは、つまり藤原の娘だとしたのは、後の時代、息子の首(おびと)を聖武天皇として天皇に即位させた時だろうと思うわけです。
それは藤原氏、不比等の娘である光明子が、聖武天皇の后になったからです。聖武天皇は、藤原氏が初めて王家と関わる人物であり、藤原氏はこの聖武天皇のほうが正統だと系譜を改竄しています。

つまり、藤原の娘でないのに入宮できたということは本来は宮子はそれなりの身分の女性であるということです。この宮子姫の出自を考えてみます。

藤原宮子は不比等の娘なんかじゃありません。宮子は、やはり地方豪族の娘である。この紀中地方を支配する豪族は、阿部氏に関わる豪族である、塩屋連、塩屋鯯魚である。宮子はこの塩屋連の娘、年齢的には塩屋鯯魚の孫である。そして、何度も記述してきましたが、阿部氏は藤原氏に対抗する大王家側の有力豪族でした。

宮子は阿部氏と 塩屋連との姫王であるという推測をしていきます・・・

不比等による藤原氏を王家の系譜に入れる操作である。
そしてこれは、藤原の操る天皇としての聖武天皇の出自を上げるともいえる操作でもある。

天武天皇と持統天皇の子は草壁皇子です。この草壁皇子と元明天皇の子供が文武天皇です。
ところが不思議なことに文武天皇には正妃がいなとされます。皇后にふさわしい皇族身分の女性が妃の中にいないのです。そんなことは本来ありえません。ですので藤原の娘である宮子が后の中では一番上位に位置します。
ですが、そうなるように本来の后が消されている。

天武大王、第一王子の高市大王、その長男の長屋大王が本来の大王たちでした。藤原氏と敵対していた、高市大王、長屋大王を王に即位していなかったとの操作がなされている。彼らの時代に天皇されている人物は本来の王ではないのです。長屋王の時代、・・・そう聖武天皇もです。

「不改常典」を持ち出して、藤原に繋がる天皇たちのほうが正統だと主張していますが本来は傍系の王たちなのです。

藤原氏が大きく関わる聖武天皇は、直系ではなく傍系の王なのです。この傍系の王の方が正統だとして天智系天皇や藤原氏は系譜を改竄したのです。
改竄のキーマンは持統天皇など天皇に即位したとされるこれら女性たちです。


ウイッキペディア・・・
聖武天皇の即位詔
かつて元明天皇は元正天皇に譲位したとき、天智天皇が「万世に長く改めない常の典として立てたまい敷きたまえる法」に従って、わが子に授けよと命じた。・・・元明は聖武の祖母、元正は聖武の叔母だが、この宣命ではともに聖武を「わが子」と呼んでいる。

孝謙天皇の即位詔(聖武天皇の譲位詔)
詔では、天智天皇が「改めない常の典と初め賜い定め賜える法の随に」天日嗣高御座の業を継げと、元正天皇が聖武に命じたという。自分はこれに従って皇位についたが、身体が耐えないので、「法の随(まにま)に」、すなわち法にしたがって、皇位をわが子に授ける、という。

桓武天皇以降の即位詔
不改常典はこの後しばらく言及されないが、桓武天皇の即位詔で再登場した。その大意は「天皇(具体的には光仁天皇)が天日嗣高座の業を天智天皇の初め定める法に従って受けよと自分に命じた。自分は恐れて進むも退くもできなくなったが、天皇の命なので即位する」というものである。
    ************************

天智が定めたとされるこの「不改常典」。直系の子孫が継ぐという当たり前のことを言っているわけですが、裏を返せば直系ではなかったからです。
これはもちろん天智が定めたのではなく、続日本紀の編纂時に作成されたものです。この元明天皇の即位詔で用いられたのが初めてとされますが、天智系天皇である桓武天皇、藤原氏の時代になって日本書紀を改竄したときに、我々の方が正統だとし取り入れたものです。

系譜を改竄し天智系天皇や藤原氏が関係する天皇たちのほうが正統だとしているのです。実際はそうではなく傍系の人物たちであり、本来の直系の大王たちを滅ぼしたのが藤原氏である。聖武天皇は王ではありません。

天武大王ー高市大王ー長屋大王が本来の大王家の系図です。
この時代に天皇に即位したとされる女性たち、持統、元明、元正は本来の王ではありません。

この元正天皇は、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。とされます。そんなわけありません。皇后でなくては天皇に即位できません。それは、天皇とは皇后ともいえるからですが、元正天皇こそ文武天皇の后であるのでは?
元明天皇に関しては記述してきましたが、彼女の諱である阿部皇女から、阿部氏の関わる女性だと推測してきました。

そしてこの元正天皇もまた阿部氏の関わる女性である。元明の諱の「阿部」、そして、ありえないことに聖武天皇と光明子の娘である称徳天皇の諱も「阿部」なのです。

藤原四兄弟を死に追いやった阿部氏の系譜を消し去っている。長屋王の母親は阿部氏の姫王、阿部明日香である。

聖武天皇と、藤原氏の娘である光明子との娘の諱が「阿部」というのはありえません。
孝謙天皇、重祚して称徳天皇の即位前の名は「阿倍内親王」です。
藤原の娘であるのなら藤原内親王のはずが、なぜか阿部です。藤原の娘なら敵対する「阿部」の名を持つことはありえません。
系図のどこかで阿部氏が関わるはずです。

聖武天皇の父親である文武天皇は、阿部氏の娘である元明天皇との草壁皇子との子供だからともいえますが、やはり聖武天皇の母親である藤原宮子もまた阿部氏の娘、阿部宮子だからではないのか?

元明天皇の諱は阿閇、阿部皇女です。天智の娘とされますが、そうではなく阿部氏の娘である。
蘇我倉山田石川麻呂の娘とされる、遠智娘や姪娘はともに阿部氏の娘であるということです。
天智天皇に嫁いでいるされていますが、そうではなく孝徳大王の后たちである。

つまり彼女たちの娘であるこの元明天皇や、その姉とされる持統天皇は孝徳大王と阿部氏の娘との子供である。
そうでないかぎり、諱が阿部なんてはずがない。


そうすると文武天皇や、聖武天皇も阿部氏が関わる王たちになります。
だから、元明、称徳天皇の諱、本当の名が阿部なのです。

大王家は阿部氏と深く関わってきました。元正天皇と藤原宮子は、阿部氏と塩屋連の娘たちである。孝徳政権において左大臣だった阿倍内麻呂の子である阿倍御主人、年齢的には子供の広庭と塩屋連の娘との子供である。

そして元正天皇の名前からも同様の推測ができます。
元正天皇の諱は氷高(ひだか)・日高ともされます。これも地名から名付けられている。彼女もこの「ひだか」の地で生まれたからです。
すると彼女もまた、かみなが姫なのではないのだろうか?つまり宮子と関係するのではないのか?

この地名である「日高」は今も残っています。かみなが姫の伝説が伝わる道成寺のある御坊市はまさに日高郡の中心地です。そしてこの地を支配する豪族は塩屋連であるわけです。

彼女もまた孝徳政権での有力豪族だった阿部氏と、豪族塩屋連との娘である。
渡来人との争いで都が危険な状態にあったため、孝徳大王は宮を阿部氏の勢力地であった難波に移しています。さらに子供たちを紀南に避難させている。

孝徳政権において左大臣だったのは阿倍内麻呂です。内麻呂の子は阿部御主人です。元正天皇こと、日高と藤原宮子は、この御主人の子供である阿部広庭と塩屋連の娘との子供たちである。阿部御主人の孫娘たちである。
阿部氏と塩屋連は関りがありました。

阿部宮子と、阿部日高である。阿部宮子の子供である聖武天皇は阿部氏の王子なわけです。ですので娘の称徳天皇の名も「阿部」なのです。この阿部氏の系図が変更され消されている。
しかし彼女たちは王家の血がはいっていなく、身分的には高くはありません。この傍系の王、文武天皇と聖武天皇を利用したのが藤原氏です。

有力豪族である阿部氏の娘であることから宮廷にはいれたのです。
長屋王の母親もまた阿部氏の娘である阿部明日香である。
木簡によればこの氷高内親王の、宮は奈良宮の中にありました。
何度も記述してきましたが、藤原氏はこの対立してきた阿部氏の系譜を消し去っている。

ウイッキペディア 元正天皇
聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。
    ************************
阿部氏と塩屋連の娘、母親が異なるかもしれませんが、宮子と元正とは姉妹なのではないのか・・・ここは私の推測ですが、・・・姉が元正天皇こと、氷高、妹が宮子。ともに文武天皇妃であるのですが、本来の皇后はこの元正天皇である。しかし彼女には子供いませんでした。
藤原氏の娘である光明子が、宮子の子供の聖武天皇の后になったので、元正天皇は本来の文武天皇の后であるのですが、藤原氏は宮子の方を后として変えている。そして后だったことを消している。
元正天皇は、結婚経験が無く、独身で即位した初めての女性天皇であるとされますが、これはおかしいように感じます。そうではなく、宮子を后とするために文武天皇の后であったことを変更しているから独身ということになっているように思います。

ウイッキペディア・・・辛巳事件
聖武天皇は生母である藤原宮子を尊んで「大夫人」と称するとした勅を発した
公式令によれば大夫人という称号は存在せず皇太夫人があるのみであること、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になるとして、天皇の判断を仰ぎたいとの上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上の呼称は「皇太夫人」、口頭での語は「大御祖」とする詔を出して事態を収拾した。
    ************************

なんか解りづらい事件ですが、呼称の問題だけではなく、藤原の娘に変更した
のがこの時、つまり藤原の操る王として聖武を天皇に即位させた時であり、
阿部宮子を、藤原宮子に変更し、文武天皇の后にしたからの事件である。

もともと藤原の養女にして文武天皇妃にしたのではなく、聖武を天皇に即位
させた時に母親を藤原の娘に変更したのです。

そして、聖武天皇妃の藤原氏の娘である光明子は、皇族以外で初めて皇后となりました。
臣下である藤原氏の娘ですが、聖武天皇の皇后にするために、宮子の位を上げ、
つまり后にし光明子が聖武天皇の皇后になる先例を作くろうとしたように思う。
つまり宮子は藤原の娘(皇族ではない)であるのですが、すでに文武天皇の皇后
だったとしたいわけです。

「大夫人」なんかより、「皇太夫人」のほうが位が上のようにも感じるのですが、・・・
この勅は撤回したとされますが、もともと「皇太夫人」そして「大御祖」の呼称を
使用したかったのだと思う。それは「天皇」の呼称を使用して歴史を改竄したからです。

長屋大王に対抗して聖武を天皇にしたからです。男性で最初に天皇位に
就いたのはこの聖武天皇かな?しかし天皇は大王ではありません。

推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇

辛巳事件とは、呼称の問題とされますが本来はそうでく系図の変更である。
聖武天皇を天皇に即位させたことにより、母親である宮子もまた天皇の后だったとしたいわけです。宮子を藤原不比等の娘としたことと、本来は皇后ではないのに文武天皇の皇后に変更したことが問題である。

「皇太夫人」の呼称は、天皇の皇后だったという意味でもあり、この呼称を使用したかったのだと思います。
裏を返せば、宮子は文武の皇后ではなかったからです。
文武天皇と后の宮子との子供である聖武天皇の正統性を主張したいわけもあります。
この事件以降に藤原氏と長屋王の対立は激化したとされますが、もともと対立していました。


最後にかみなが姫こと宮子の関する不思議な話について・・・
宮子は大宝元年(701年)に首皇子を出産しましたが心的障害に陥り、なんと、737年にやっと病気は回復し、聖武天皇とは実に36年ぶりに対面したという信じられない話が記述されています。

このありえないような話は、藤原氏と阿部氏に対立によるものだと思います。つまり親子が引き離されていて会えなかったのは敵対関係にあったからです。息子である首皇子は藤原氏の手の中にあったということです。

そして36年ぶりの対面となったのは、長屋王の祟りが関係する。
729年の長屋王の変以降はすでに権力は藤原氏のものでした。
しかし長屋王は祟りました。天平9年(737年)に天然痘により藤原四兄弟は4人とも病死してしまいました。これが長屋王の祟りだということで藤原氏は怨霊を恐れました。
怨霊が祟らないように対立するのではなく、これはいわば懐柔策である。
それは長屋王は高市大王と阿部氏の娘、阿部明日香との子供だからです。
そして宮子も阿部宮子だからです。
737年、長屋王の祟りが大きなものとなった時に、怨霊を鎮めるために36年ぶりの対面となるのです。

写真は道成寺です。


ウイッキペディア・・・道成寺
大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう
  ****************************
かみなが姫の物語は、聖武天皇の母親である藤原宮子は、藤原氏、藤原不比等の娘ではないとの話です。権力を握った藤原氏は、この道成寺創建の由緒を消そうと思えばできたはずです。何故にこの由緒が残ったのだろうか?という大きな疑問を持っていました。
これは本来の由緒を消すためでもあるようにも思います。

創建の由来は二通りあります、いずれも文武天皇が創建したということですが、大宝元年(701年)に創建というのが本来の由緒である。
しかし文武天皇の創建ではない。この由緒(藤原氏にとって都合の悪い由緒)を消し去るための、かみなが姫の物語でもある。

この「大宝」は長屋大王の元号であり、701年から729年まで在位期間である。ですので道成寺を創建したのは長屋王である。
もうすでに記述してきましたが、大王家と藤原氏は対立してきました。とくに孝徳大王時代に百済救援に関することで激しく対立しました。長屋大王政権において、右大臣に就任したのが阿部御主人です。阿倍内麻呂の子が御主人でその子が広庭です。
「大宝元年三月 大納言生従二位阿倍朝臣御主人を右大臣・・・」

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」において書きましたが、戦乱によって、多くの大王家関係の人物が殺害されました。次期大王候補である、有間皇子や建王が殺害されたのもこの時期である、そして殺害された場所がこの道成寺のある紀中地方である。阿部氏が関わる塩屋連の勢力地に孝徳大王は子供たちを避難させていたのです。しかしここでも戦いはおき、多くの人々が亡くなりました。
長屋王のお母さんは阿部氏の娘、阿部明日香である。阿部氏は塩屋連と関係します。

かみなが姫の物語については随分と考えてきましたが、道成寺創建の由緒については、私は藤原氏によって殺害された先祖の霊を供養するお寺であり、本来の由緒は母親である阿部明日香の遺言により、長屋大王が創建したお寺であるように思います。
この由緒、つまり藤原氏が王家の人物を殺害したという事実を消すための、かみなが姫の物語である。











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天武、持統陵・・・檜隈大内陵の治定について

2019年10月24日 | 日本書紀の謎


ブログのテンプレートを変更しました。すると長文だと読みずらいですよね。
この記事も前回の投稿に繋げるつもりでしたが新たな記事として投稿します。
ですので、投稿を多くし記事を短くしていきます。


写真は明日香村にある、天武天皇とその皇后である持統天皇の陵とされる檜隈大内陵です。野口王墓といわれます。
古墳時代終末期の古墳で形状は八角墳です。この時代には、王墓は前方後円墳から八角墳に変わっているとされます。
治定が確実な陵墓とされまが、治定には紆余曲折があったようです。

天武持統陵は、隣にある見瀬丸山古墳との見解もあったようです。この見瀬丸山は最終期の前方後円墳であり、巨大な古墳が多くあり古代の都である、奈良県でも最大の古墳です。

この巨大な古墳の被葬者が、誰かわからないといことは本来あり得ません。天皇より大きな古墳に眠る人物はもちろんいるわけないわけですよね。

ところが、この見瀬丸山古墳の築造時期に天皇だとされている人物のお墓はすでに治定されていますよね。見瀬丸山に治定されている天皇はいなく、今は陵墓参考地ということになっています。

するとね、頂点にいる天皇より大きなお墓に眠る人物が他にいるというこですよね。全くおかしい話ですよね。

この古墳はもちろん大王の古墳です。誰のお墓であるのかわからなくなっているのは系譜を改竄し大王だったことが消されている人物です。
大王だった人物を王だったという事実を消し去ったためこの古墳に眠る人物を治定することができていない。
意図的に変更されているわけですから、藤原の時代の文献を参照する限り治定することはできません。

見瀬丸山古墳関しては、もうすでに「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎」のところで書きましたが、・・・大王であることを消された人物、そして奈良県最大の古墳に眠るにふさわしい人物、・・・それは聖徳太子こと、天武が皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大王です。

見瀬丸山古墳は、元は天武の本来の父親である、聖徳太子の王子である山背大兄王こと山代王のお墓でした。
天武の時代になって、蘇我氏によって磯長に埋葬されていた、押坂彦人大王を、子供であるこの山代王のお墓に移葬し、さらに大きな古墳に造り変えたのです。

天武、持統陵とされる檜隈大内陵に関しては、天武陵との治定はいいように思うのですが、持統天皇の謎を考えていると、・・・つまり天武の本来の皇后は額田王だということを考慮するとですが、この古墳に持統天皇が合葬されているとの話には私には疑問があります。

つまり、合葬されているのであれば本来の皇后である額田王の方ではないのだろうか?という疑問からもう一度この古墳の謎を考えてみます(*^▽^*)

いままでは、「大王」と「天皇」、「王子」と「皇子」、はできるだけ区別しながら書いてきましたが、大王と天皇は異なるとする私にはこの「皇后」の呼称についても気に入らないのですが、「王后」ではわかりにくいかな?ですので使用します。

「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところで書いたことと同様のことが行われているのではないのか?
藤原氏による怨霊封じが行われていたのではないのか?

天武と、天智は兄弟ではありません。天武と天智は対立していました。天武系天皇が滅び、つまり本来の王家が滅び、天智系天皇である桓武天皇、そして藤原氏の天下になったことがこの古墳にも影響している。


天智と対立していたのは天武です。壬申の乱により戦になり、天武側の勝利となり天智側の人物、多くの渡来人たちは戦により殺害されることになったと推測できます。

渡来人である天智系天皇や藤原氏にとってみれば、天武憎しですよね。
この対立はこの壬申の乱で終わったわけではなく、天武以降の時代も続きます。壬申の乱以降の大きな戦いは、長屋王の時代、そして早良大王の時代におきました。

天武天皇ー高市大王ー長屋大王

長屋大王の弟である鈴鹿大王から繋がるのが、本来の大王に即位していた早良大王である。桓武天皇を死に追いやった早良大王もまた天武の後胤、そして聖徳太子こと押坂彦人大王の後胤です。

長屋王ー鈴鹿王、阿部広刀自ー葦原王、井上内親王ー長男が早良親王、次男が他戸親王

長屋王が大王だったという証拠は出土した木簡から明らかです。木簡は一級資料ともいえる物的証拠です。

長屋王は左大臣だったとされますが、そうではなく大王でした。

その木簡には、「長屋親王」との衝撃的な記載のある木簡が出土しました。
長屋王は親王と呼ばれることは本来はありえません。

この「親王」とは「大王」の「王子」(天皇の皇子)という意味です。次の王位継承者ということです。父親である高市王子が大王に即位していなければ、「親王」と呼称されることはありません。

つまり父親である、天武大王の第一王子であった高市王子は大王に即位していたということです。万葉集においても、高市大王のことを、「おおきみ」と呼んでいます。
高市大王の時代に天皇だったとされる持統天皇は本来の王ではありません。「大王」と「天皇」が存在していたのです。「王子」と「皇子」も存在します。


長屋王は大王だったとする証拠の木簡はまだあります。

「長屋親王宮」、親王との衝撃の表記があります。

「吉備内親王大命」この「大命」とは大王(天皇)の命令を表します。
后であった吉備内親王の指示に「大命」が使用されていることからも推測できます。

「長屋親王宮鮑大贄十編」、この 大贄とは、大王(天皇)の食物を表す言葉だそうです。「贄」ではなく「大贄」という記述も重要な意味を持ちます。

「勅旨」と書いた木簡も見つかっている。これも最高位である王位についていた証拠です。勅旨というのは王の命令ということです。「大命」も同様です。これ以外なにものでもない。

「長屋親王宮」と記された木簡が多く出土したため長屋王の邸宅跡とされますが、この地域は本来の大王の宮である「奈良宮」である。
あたりまえですが、「長屋親王宮」の木簡は、父親である高市大王が崩御する以前のものです。高市大王が崩御し、長屋王が大王に即位した後、長屋王の宮は奈良宮になったのです。

「大王」と「天皇」が存在していたように宮も本来の大王の宮である、「奈良宮」と、対立していた藤原氏の宮ともいえる「平城宮」が存在したのです。「平城宮」が本来の宮だというのは藤原氏の主張に他ならない。
平城宮は持統天皇から繋がる元明天皇の宮であるのですが、本来の宮である奈良宮の一部であるのです。

この大王である長屋大王を殺害したのは藤原氏です。藤原氏は長屋王が本来の大王に即位していた事実を変える必要がったのです。早良大王も同様です。
その歴史を変更した書物が、日本書紀である。
現存する最古の日本書紀は平安時代のものです。これ以前の日本書紀が存在しないのは、もちろんこの藤原の時代ともいえる平安時代において内容を変更したからです。古事記も同様です。藤原の都合で変更している。

これだけ物的証拠があるのに、いまだに日本書紀は正史であるとのことで、何ら疑問をもたない学者の多いことか(ノД`)・゜・。


天武と額田王との子供が高市大王であり、高市大王と阿部氏の姫王である阿部明日香姫との子供が長屋大王である。これら系譜が改竄されている。
彼らが大王だった事実が消され、藤原氏と対立し、大王家の系譜に関わった阿部氏の系譜もまた改竄されている。

長屋王は祟り怨霊により、藤原四兄弟は死に追いやられました。この長屋王は、高市大王と阿部氏の娘である阿部明日香との子供である。
この高市大王に仕えていた柿野本人麻呂の挽歌からあきらかです。

恐怖におののく藤原氏は怨霊封じを行いました。彼らの墓が暴かれ、遺体を損傷し怨霊封じが行われている。この藤原の悪逆行為を私は許さない。ここに真実を暴いてやる(~_~;)凸

長屋王のお父さんである高市大王のお墓である高松塚古墳、そしてお母さんである阿部氏の娘、阿部明日香のお墓であるキトラ古墳のことはもうすでに書きましたが同様のことが行われているように思う。


天武陵に皇后である額田王が後に合葬されたとする推測からこの古墳の謎を考えます。

この古墳には不思議な話が残っています。
藤原氏、藤原定家の話は信用できません。ふざけるな藤原、お前たちが盗賊だろう・・・と私は思います。

ウイッキペディア・・・
藤原定家の日記『明月記』の1235年(文暦2年)4月2日・6月6日条に、同年3月20日と21日の両夜に賊が入り、野口王墓が盗掘を受けていることが記録されている。

本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
  ****************************
野口王墓が盗掘を受けたとされる、藤原定家の明月記の記述が事実だとしても、遺体を損傷し副葬品を盗んだのは盗賊ではないと思う。
盗賊たちは何も盗んではない。それはもうすでに藤原氏に手によって怨霊封じが行われ暴かれていたからです。真犯人は藤原氏です。

大王家の系図は
天武大王と額田王ー高市大王と阿部明日香ー長屋大王・・・である。
怨霊封じが行われ彼らのお墓が暴かれている。

*まず、天武の王后は額田王である。額田王が亡くなった後は持統が皇后になったとも思われますが、額田王より天武のほうが先に崩御している。
そして、額田王のほうが持統より先に亡くなっている。
つまり、天武陵に合葬されているのは、額田王のほうである。

*盗賊の目的は副葬品であるわけです。それが、遺体を損傷したりするのだろうか?怨霊の祟りというものが信じられていたと思われるこの時代に、盗賊とはいえ目的である副葬品強奪とは関係のない行為をおこなうのだろうか?
天武憎しの藤原氏には遺体を損傷する理由がある。

*骨壺も奪い去られ、遺骨は近くに遺棄されたという話も疑問があります。
キトラ古墳と同様のことが行われている。額田王の遺体を取り除いている。
そもそも持統天皇が火葬されて、骨壺に収められて合葬されていたとの話自体が信じられない。

*藤原氏にとってはこの天武の皇后は持統天皇である必要がある。それは系図を見れば容易に推測できます。

前回に書きましたが、・・・
天武天皇と持統天皇の子供は草壁皇子です。この草壁皇子と、天智の娘であり、持統天皇の妹である、元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である文武天皇です。文武天皇の后は藤原不比等の娘である藤原宮子とされます。
そして聖武天皇の后も藤原氏、不比等の娘である光明子です。

持統天皇から繋がります。藤原氏は持統天皇を皇后にしたい理由です。
そして、持統や元明を天智の娘として、天智の血を王家に入れる操作がなされている。

*天武大王のあとは、持統天皇ではなく、高市大王である。持統天皇が天皇に即位したというのならそれは、本来の王后である額田王が亡くなって以降であるはずです。持統天皇は690年に天皇に即位したとされます。すると額田王が亡くなったのは689年であると推測できます。

天武の崩御年は、686年です。この686年から、持統が天皇に即位した年の690年までの王位継承問題の話が藤原氏による嘘話である。

天武大王の後は、すでに大王として高市王子は即位していました。この高市大王は、長屋大王の父親です。長屋王を大王だとしたくないための改竄ですが、木簡の出土により嘘がばれています。


*本当に持統天皇は火葬されて合葬されていたのだろうか?私の推測ではそんなはずはないように思う。合葬されていたのなら本来の皇后である額田王である。額田王は天武の本来の皇后であるとの推測は「額田王の謎と推古天皇」の記事を見てください。
持統を天武の皇后として、日本書紀において改竄したため、天武陵に持統を合葬したとのいわば物的証拠づくりである。

*怨霊封じが行われている。天武の遺体を損傷し、合葬されていた額田王の遺体を取り除いている。高市大王の皇后であり、キトラ古墳の被葬者である阿部明日香の遺体を取り除く行為と同様のことがこの野口王墓でも行われている。

キトラ古墳と同様のことがなされている。怨霊封じである。

副葬品を盗み遺体を損傷した真犯人は藤原氏である。

持統天皇時大王だったのは高市大王であり、実際に政治を行ってきた統治者はこの高市大王です。これが全く理解できていない。

大津皇子の謀反の話も同様に思う。

持統天皇は天皇であり統治者であったとされるために、息子である草壁皇子を次期天皇に即位させたいために、ライバル関係にあっただろうとされる、姉の子供である大津皇子を謀反の疑いで殺害したのはこの持統天皇の意向であるともされます。
しかし、持統天皇は、大王ではなく統治者ではありません。ですのでこの憶測は間違っています。天武の后だったのは事実ですので少しばかりの影響力はあったかもしれませんが、指示をして殺害するような力はありません。
まして姉とされる大田皇女の息子です。そんなことするはずありません。

この時の大王は高市大王です。ですので次の王は長屋王です。
大津皇子を殺害しても、草壁皇子が王に即位できません。ですので持統天皇は関係ないし、大津皇子も謀反を起こす理由がない。

しかも大津皇子が謀反のうたがいあるとの密告をしたのが親友である川島皇子だとされます。ありえないように思います。真犯人である藤原氏の嘘話です。

私は天武の王子であり、もちろん天武側の優秀な大津皇子は暗殺されたのだと思います。天武大王以降も大王家と藤原氏の争いは続いています。




写真は、天武9年に天武大王が皇后の病気平癒のため祈願し建立に着手しました。それが本薬師寺です。今は平城京遷都とともに、西ノ京に移転していますが、写真は香久山宮(藤原宮)そばにある本薬師寺跡です。背景の山は畝傍山です。
この薬師寺跡の周辺の休耕田には、ホテイアオイが植えれれています。
普段はほとんど訪れる人もいないのですが、夏場のホテイアオイの開花時期には沢山の観光客で賑わいます。

完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させたとされますが、間違っています。
完成させたのは、天武と皇后である、額田王の王子である高市大王です。

天武大王の本当の皇后は、額田王です。病気で体調を崩していたのは額田王の方です。天武と額田王のお寺であり、「香久山京薬師寺」である。





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天智天皇と持統天皇の謎

2019年10月16日 | 日本書紀の謎


女系天皇、女性天皇が問題視されていますが、
「天皇」は本来女系であり、初代天皇は推古天皇であり、女性です。
天皇家は蘇我家のことであり、古代の王家とは繋がりがりません。
蘇我馬子により、蘇我氏を大王家に繋ぐ改竄がされていました。
この蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる「天皇記」・「国記」を参照し
藤原氏もまた自家を大王家に繋げ、都合の悪い箇所は変更している。
それが、古事記、日本書紀である。

今回は天武の皇后?であるとされる持統天皇の謎から、藤原氏による系譜改竄の謎を考えていきます(*^▽^*)

たくさん訪れてくれるようになったのに、しばらくの間記事を投稿しなかったのは、皇統が二千年の間、
男系で繋がっているというは事実ではありません・・・という内容だったため、時期が時期なので書き込むのを
控えていたという理由があるのですが、・・・

実はパソコンの不調により保存していた記事が消えてしまった(+_+)
USBメモリーにも保存していたのだけど紛失(~_~;)

やってしまった・・・衝撃の内容だったのに・・・天皇家の系譜、万葉集、柿野本人麻呂、
蘇我氏の謎など・・・消えてしまった。写真も( ノД`)シクシク…


古事記、日本書紀は、蘇我氏の歴史書である、蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)が編纂したとされる「天皇記」・「国記」に記述されていた「天皇」とは、蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を使用したものである。本来の呼称ははもちろん「大王」であり、天皇家とは元は蘇我家のことである。
「天皇」の称号は蘇我馬子と蘇我の皇子である竹田皇子が作った蘇我氏の王の呼称である。
蘇我の王の呼称が、蘇我氏が滅んだ後は女帝の呼称になり、その後、秦氏、藤原氏が歴史を改竄するときに王の呼称として使用されたものです。
これ衝撃の事実ですが、ここがわからない限り古代の歴史は謎解けません。

そして天皇の称号は、本来は女帝の名称でもあるともいえます。
初代天皇は神武天皇ではありません、推古天皇です。この「天皇記」・「国記」を参照し
「天皇」の呼称を利用したのが桓武天皇、そして藤原氏である。

ですので、天智天皇なんて存在しません。天智が天皇に即位したというのは、天智系天皇である桓武天皇の改竄です。

推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇


残念ながら、そして非常に都合が悪いことに渡来人であるといってもいい桓武天皇と藤原の娘の後胤が後に繋がるということは、今の天皇家は古代から繋がるとされる本来の大王家とはほぼ繋がりがありません。
つまりここが内容的には衝撃的なわけですし、実は書きたくはなかったところでもあります。

歴史書というのは権力者の都合により改竄されたものである。古事記・日本書紀も例外ではない。
権力を握り歴史を変更したのは蘇我氏であり藤原氏である。

今の残る日本書紀は、藤原氏が権力を握った平安時代ののものである。
さらに。古事記も同様です。

歴史とは権力者の歴史である。つまり藤原氏の歴史である。
古事記、日本書紀は藤原氏の都合で変更された偽書です。

私のブログを訪れてくれている人たちは、もちろん古代史に興味がある人が多いはずですよね。
ですので皆様に問いたいことは、この「藤原宮」の呼称に違和感を感じたことはありませんでしょうか?
「宮」というのは必ずしも王の住居を指す言葉ではありません。
「藤原宮」とは藤原氏の宮ということです。藤原不比等の邸宅のことです。

権力を握ったのは藤原氏だというのは容易な推測ですよね。藤原氏により大王家は乗っ取られたともいえます。
ですので、私はこの「藤原宮」の名称が気に入りません。
いつの日にかこの名称が変更されるまで、ブログで書き続けます。


少し厳しい言い方になりますが、・・・
天武天皇、そして持統天皇(本来は高市大王)が新たに造ろうとした宮の名称が、
「藤原宮」、さらに「藤原京」、これおかしいと思う学者さんたちもいないのでしょうか?
「藤原宮」ですよ・・・大王の宮の名を藤原なんて名付けるはずないでしょうに。

こうもそろいもそろって無能な学者ばかりでは、本来の歴史は闇の中に埋もれたままです。
さらに藤原時代・・・もうバカじゃないかと・・・権力を握った藤原氏によって歴史が変えられただろうとの推測もできないのでしょうか?
古代の大王たちは泣いているよ(ノД`)・゜・。

この日本書紀に関して、よく歴史書などを読んでいると出てくる推測ですが、・・・日本書紀は、天武天皇の皇子である舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成したとされます。ですので天武天皇の意向に沿った天武側の視点で編纂されているのではという推測です。

本来はそのとおり、本来の大王家の人物である天武側の視点での歴史書なのですが、後に藤原氏の都合で変更されている。
今に残る最古の日本書紀は、藤原の時代、桓武天皇時代になって藤原氏の都合にによって変更された偽書である。
古事記も、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたとされますが、この時代のものは現存せず、今に残る最古の古事記は、14世紀のものである。それは、もちろん日本書紀と同様に内容を変更したからです。

内容を変更しなければならない理由、それはもちろん、何度も記述してきましたが、大王家と対立し
多くの人物を殺害してきたからです。
大怨霊となっているのは位が高い人物、長屋王や早良大王も本来は「大王」でした。

キーマンは、聖徳太子こと、天武が皇祖と仰ぐ、そう、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある聖徳太子、日十大王こと、押坂彦人大王である。
藤原氏は、特にこの押坂彦人大王の後胤の系譜を改竄する必要があったのです。それは大王家と対立し多くの大王たちを暗殺してきたからです

押坂彦人大兄大王ー山代王ー天武天皇ー高市皇子ー忍壁皇子ー長屋王ー鈴鹿王ー葦原王ー早良親王

押坂彦人大兄大王ー茅渟王ー孝徳天皇ー有間皇子

この間に天皇だったとされる女帝たちは本来の大王ではありません。
天皇と大王が存在したのです。

この押坂彦人大兄大王の後胤と対立してきたのは藤原氏であり、系譜を大きく改変している。大怨霊である長屋王や早良大王も、本来の古代からの大王であり、聖徳太子ことこの押坂彦人大王の後胤である。

大怨霊として恐れられる人物として思い浮かぶのは、平将門もそうでよね。平将門は、なんかファーストサムライのような人物ですが、実は平安時代中期の人物です。ここも誰も指摘していませんが・・・。

この 平将門は怨霊とされ恐れられたのは、「新皇」を自称し、天皇と対立したからではなく、藤原氏と対立していたからである。
そしてどうしてこうも恐れられているのかというと、平将門こそ本来の王家から繋がる人物であるからです。長屋王や早良大王と同様です。

平将門は、桓武天皇の5世子孫ではなく、本来の大王である早良大王の5世子孫である。
平将門は桓武天皇の5世子孫と称して「新皇」なのったのではなく、早良大王の5世子孫として「新皇」を
名乗ったであり、本来の正統な王家に繋がる人物だからです。だから大怨霊なのです。

本来の王家の血が繋がるのが平氏のほうである。桓武平氏ではなく、早良平氏である。ここも誰も指摘していません。

押坂彦人大王以降の歴史を藤原氏によって変更されている。

「長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎」のところで記述しましたので詳しくは書きませんが、・・・
凄く重要なところなので、もう一度。

桓武天皇の后たちをみれば彼が何者か容易に推測できます。
天智系天皇である桓武天皇は百済と密接な関係を持っています。

桓武天皇の母親は、百済系の渡来人氏族である和氏の女性である高野新笠であるというのはよく知られたことであるのですが、后にした女性たちも渡来人が多い。
それは天智天皇が、百済渡来人である秦氏の王子だからです。

桓武天皇は、后27人に、実に16人の皇子と19人の皇女があるとされますが、これは早良大王の后を桓武の后として取り込んでいるからです。

桓武天皇を王家に繋ぐための改竄であり、蘇我馬子が蘇我氏を王家に繋ぐ改竄と同様の手法を用いている。

多くの系譜の改竄に関しての手口、本来の王家の人物を自家に取り込んでいる。蘇我氏の手法を藤原氏は真似たのです。
系譜改竄の手法である。

藤原種継暗殺事件において、多治比氏、多治比浜人が処罰されていることからも推測できます。
多治比氏は大伴氏などとともに反藤原の豪族である。その多治比氏の娘が桓武天皇の后であるはずはない。
多治比真宗は、本来の大王である早良大王の后である。
長男である葛原親王はこの本来の大王である早良大王の王子である。
つまり、桓武平氏ではなく、早良平氏である。
平将門は、桓武天皇の5世子孫ではなく、早良大王の5世子孫である。

藤原氏の娘と渡来人の娘以外は、早良大王の妃たちである。

それと、藤原の娘とされている、自らの系図に取り込む改竄である、
王家の娘を藤原の娘として取り込んでいる。

皇后とされる藤原乙牟漏も阿部氏の娘、阿部乙牟漏であり早良大王の皇后である。藤原旅子は大伴旅子である。
桓武天皇は、秦氏、藤原氏に関係する渡来人の王である。

これは桓武天皇の妃たちを見れば一目瞭然でしょうに。藤原氏と渡来人の娘ばかりじゃないですか。
なぜかというと、桓武天皇は渡来人である天智から繋がる秦氏の王だからです。
藤原氏は中臣氏なんかではありません。藤原氏の祖、鎌足も百済からの渡来人です。

桓武天皇の都は平安京ですが、なぜに奈良から京都に都を移したかというと、
この平安の地は元は秦氏が開発した秦氏の本拠地だったからです。

天智天皇の近江京もまた同様です。平安京も、近江京も渡来人の都です。
天智は天皇ですが、本来の王ではありません。その天智から繋がる桓武天皇も本来の王ではありません。

天智天皇は長らく即位しなかったのは謎だとされますが、はっきりいって
天智は王(天皇)には即位してません。あたりまえだけど、王に即位できる身分ではない。
天智が天皇に即位したとされるのは、桓武が王座を奪ったからです。

天智天皇から繋がる桓武天皇もまた渡来人、秦氏の関係する王であり、桓武は自らの即位を
正当化するために、天智を天皇に即位していたと歴史を後に改竄したのです。
この歴史を改竄したという歴史書が日本書紀である。
天智と天武は兄弟であり、天智が天皇に即位していたというのは、この桓武天皇による改竄です。


天智天皇は秦氏と関わる渡来人である。
日本書紀、天智天皇条をみれば百済との関係を容易に推測できます。
私なんかこんなこと書かなければいいのに・・・って思うのだけど、もう本当に
天智朝と百済の関係を容易に推測できます。
天智朝は百済国だということです。その天智天皇から繋がる桓武天皇の平安京もまた百済国である。

この時代、多くの渡来人(特に百済から)が朝鮮半島の戦乱の中、倭国に渡ってきています。
そう百済は滅亡の危機にありました。

祖国を捨てて、はるばる倭国に亡命してきたの百済からの渡来人たちの多くは一般の民衆ではありません。彼らは百済の王家に関係する支配層の人々だと推測できます。それは支配階級の人々は殺される運命にあるともいえるからです。

この亡命渡来人たちが頼ったのは、すでに土着し倭国で基盤を築いていた百済からの渡来人集団である秦氏である。そして百済復興のため、彼らは倭国を百済に味方するように画策します。

これが悲劇の始まりである。倭国、孝徳政権は唐、新羅と同盟を結ぼうとしていたのです。秦氏、藤原氏と蘇我氏や王家との対立はこの朝鮮半島の情勢が大きくかかわります。


日本書紀  天智天皇条

四年春・・・是月、勘校百濟國官位階級、仍以佐平福信之功、授鬼室集斯小錦下。其本位達率。復、以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡。三月癸卯朔、爲間人大后、度三百卅人。是月、給神前郡百濟人田。

五年・・・是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車。

八年・・・又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。
     **********************
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたとされますが、必ずしもそうではなく、唐の主力軍が百済の地から離れると、各地で反乱が起きます。最終的には白村江の戦いの後に百済は滅亡します。
以前にも記述しましたがこの戦乱の時期に多数の渡来人が百済から亡命している。
そして天智天皇は彼らを保護し、重要な階級に就けているようなこともしている。それは天智天皇は秦氏の関わる王だからです。
この天智条にある、亡命百済人の大半は百済の王族や貴族などの支配階級の人々だと推測できます。
ここに記述のある数だけでも三千人以上もの人々が亡命してきます。残っている百済の支配層ががそのまま倭国に移ってきたといってもいいくらいです。

そして天智天皇は、自らの都である近江京の近くに亡命渡来人たちを住まわせます。記述にあるように、近江神前郡や近江蒲生郡です。

そして亡命した彼らを重要なポストに用いることもしています。本来はありえません。

十年・・・是月、以大錦下授佐平余自信・沙宅紹明法官大輔、以小錦下授鬼室集斯學職頭、以大山下授達率谷那晉首閑兵法・木素貴子閑兵法・憶禮福留閑兵法・答㶱春初閑兵法・㶱日比子贊波羅金羅金須解藥・鬼室集信解藥、以上小山上授達率德頂上解藥・吉大尚解藥・許率母明五經・角福牟閑於陰陽、以小山下授餘達率等五十餘人。

童謠云、

多致播那播 於能我曳多曳多 那例々騰母 陀麻爾農矩騰岐 於野兒弘儞農倶

     **************************
ここに記述されている人物の多数は百済からの渡来人です。もちろん支配階級であった人物たちであり、
彼らを天智朝の重要なポストに用いている。
そして続いて記述されているこの意味深な歌を見てください。
歌の意味は・・・
「橘の実はべつべつの枝に生っていますが穴をあけて通すときは同じ糸でとおします。」

百済からの渡来人を自らの政権の重要なポストに就ける話の後のこの歌、これ、百済と我々は同胞
だと言っているような歌に思えますよね。
出生地は異なっても同胞は一つに纏まるという意味に私には思えるのですが・・・?
ともかく、天智天皇は百済と深く関わっていることが推測できますよね。

いままで記述してきましたが天智天皇と藤原氏は多くの暗殺を行い、百済を助けるために朝鮮出兵を行っています。
それは天智や藤原氏はこの百済に関係する渡来人だからです。秦氏の王子が天智である。
秦氏の族長である秦河勝の妹の孫が天智天皇である。

これら新たな百済からの渡来人と、以前から渡来していて土着していた渡来人、秦氏が百済復興の兵を倭国で上げたのです。

倭国、孝徳政権は、本来は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。
しかしこの百済復興を目指す渡来人たちのクーデターが勃発したのです。
これが孝徳大王と天智との争いの真実です。

白村江の戦はこの渡来人たちのクーデターによる出兵であり、壬申の乱もまたこれら渡来人と王家との争いである。

壬申の乱は皇位継承の争いとされますが、そうではない。天智は王ではありません。
もちろん皇子である大友皇子も王ではありません。
天智が天皇に即位していたというのは、天智系天皇である桓武天皇による後の改竄です。
天智の近江京は百済国であり、渡来人のによって作られた国である。
こちらのほうが本来の都であると改竄したのは、桓武天皇や藤原氏である。
それは天智が渡来人であるなら、桓武天皇は王に即位できないからです。
書きたくはないところですが、渡来人による王家簒奪である。

改竄された歴史書である、日本書紀・古事記を正史とするかぎり古代の歴史は歪められたままである。

白村江の戦いには、これら多くの渡来人が参戦し敗北のため渡来人勢力は弱体化しました。
この機をとらえ本来の大王である天武は戦いを挑んだのです。逃亡中であるともいえる天武に何万人ともいえる加勢がありました。
多くの豪族が天武に味方したのはこれが理由です。

壬申の乱の主な戦地はこの近江である。この近江は渡来人の国、百済国である。
大王家と渡来人との争いを、皇位継承の問題にすり替えている。
本来の大王家の人物である天武と、渡来人である天智は兄弟ではありません。
ですので天智天皇から繋がる桓武天皇は、この天智の出自を変更する必要があったのです。


この天智天皇の系譜の謎を考えていきます。天智系天皇である桓武天皇は、天智天皇を大王家の系譜に入れる必要があったのです。

系譜変更のキーマンは天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后であったとされる持統天皇です。この持統天皇は天智天皇の娘ではない。
そしてもちろん、天皇は大王ではない。天武は大王であり、天武の後は第一王子である高市王子が大王に即位している。

万葉集、柿野人麻呂の挽歌にあるように、この高市大王の宮の名は「香久山宮」である。「藤原宮」ではなく「香久山宮」である。
藤原宮とは藤原不比等の邸宅のことであり、持統はここで天皇に即位したのです。
でも持統は天皇に即位した・・・これ真実なのだろうか???

この「藤原宮」の方が本来の宮であるとの記述は、もちろん藤原氏による改竄である。

そしてこの高市大王の皇后は同じく柿本人麻呂の挽歌から推測できるのですが、阿部氏の娘である阿部明日香である。

孝徳政権の時に、左大臣だったのが阿倍内麻呂である。
この対立していた阿部氏の系譜を消し去っている。持統天皇はこの阿部氏にかかわる女性である。
持統は天智の娘ではない。この阿倍内麻呂の娘である。

天智天皇の4人の娘を、弟である天武天皇の妃にしたという不思議な話が系譜改竄の重要な箇所である。
これは天智の血を大王家に繋げる操作といえます。

天智の娘とされる、大田皇女・鸕野讃良皇女・大江皇女・新田部皇女の4人の娘は、孝徳天皇と阿部氏の娘たちとの子供である。
天智の娘ではなく、阿部氏の娘たちである。

系譜改竄のキーマンは、長屋王です。藤原氏は本来の大王だったこの長屋大王を殺害しました。
長屋大王は本来の王だったとという証拠は、木簡の出土により明らかです。


藤原氏は、死に追いやった長屋王、そして藤原四兄弟をこの長屋王の怨霊により殺された恨みを持ちました。

この長屋王を大王に即位していたとしたくないのです。藤原氏による系譜改竄は、ここからです。対立していて殺害してきた大王家の人物たちの系譜を変更する必要があったのです。

ここから天武、持統以降の系譜の改竄を考えていきます・・・

この長屋大王を王ではないと系譜を改竄するには、父親である高市王子を大王に即位していないとすることです。
それは高市王子のお母さんの身分を変更することです。
天武天皇の第一王子であるのに、この高市王子は大王に即位したとされていません。そんなはずはありません。
実際に通説は、即位できなかった理由はお母さんの身分が低かったというのが大きな理由とされます。

高市王子のお母さんは、胸形徳善女の尼子娘とされます。ここが系図変更箇所であり身分の低い女性に変更している。

「額田王の謎と推古天皇」のところで書きましたの詳しく書きませんが、高市大王の本来のお母さんは、天武の本来の皇后であり大王家の姫王である額田王です。


この額田王の系図を変更し、天武の皇后を持統天皇にしている。持統は天武の后であるのですが皇后ではない。
藤原氏はこの持統を利用し、本来の大王家の人物の系譜を改竄したのです。

それは、聖武天皇の后が藤原氏の娘、光明子だからです。藤原氏は、持統天皇が天武の皇后であるとする必要があったのです。

系図を遡ってたどれば改竄の推理は容易です。

天武天皇と持統天皇の子供は草壁皇子です。この草壁皇子と、天智の娘であり、持統天皇の妹である、元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である文武天皇です。聖武天皇の后が藤原氏の娘、光明子です。

聖武天皇は持統天皇から繋がります。つまりここです。持統を天武の皇后にする必要があるのです。本来は聖武天皇は傍系の人物です。

聖武天皇は王家の人物であるのですが、彼こそ本来はお母さんの身分の問題で王に即位するのは遠い人物だったのです。
藤原不比等の娘とされる、藤原宮子です。宮子は不比等の娘ではありません。

そしてこの藤原不比等は、天智天皇の落胤という説も桓武天皇による改竄である。

つまり、聖武天皇を正統な王位継承者とするには、持統を天武の皇后にすることです。
そして額田王の身分を下げることです。そして彼女たちを天皇に即位したとの操作がなされている。

持統天皇は本当に天皇に即位したのだろうかという謎まで考えてみます。
これも桓武天皇による改竄ではないのか?

もうすでに記述してきましたが、持統天皇もまた孝徳天皇の娘である。
ですので持統は本来天武の皇后ではないものの彼女の身分に問題はありません。
問題なのは、聖武天皇のおかあさん、髪長姫こと藤原宮子です。彼女は藤原氏、
不比等の娘ではありません・・・ここは次回に書きます。


この持統天皇の系図の変更について・・・
持統天皇の母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘とされます。
妹は姪娘です。ともに天智天皇に嫁いだとされます。
蘇我の娘が天智に、よくよく考えればありえませんよね。

「蘇我氏と藤原氏による系譜改竄の謎」のところで書きましたが、蘇我倉山田石川麻呂という少し奇妙な名は石川氏が渡来人を束ねるこの時代の最有力豪族である蘇我氏に繋いだ名だと思うのですが?

そして遠智娘は、天智との間に建皇子と大田皇女、そして鸕野讃良皇女(持統天皇)を生んだとされます。
天智天皇はこの遠智娘を得て大変喜んだとされます。ですので私も初めはこの遠智娘だけは天智に嫁いだのだと思っていました。これは間違いでした。

遠智娘は、またの名を造媛、美濃津子娘、越智娘とも伝えられているとされます。
このまたの名が多い人物は他の人物と混同されている。そして意図的に変更している。遠智娘と造媛、美濃津子娘は別人です。
蘇我倉山田石川麻呂の娘が造媛、美濃津子娘です。

遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女である阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。
ですので天皇に即位したのです。孝徳大王の皇后ということです。

持統天皇は天智の娘ではなく、孝徳大王の子供であるとの推測は、以前に書きましたが「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」において記述のある「袁智天皇」から推測できます。

孝徳大王の宮である難波宮にいるとの記述からの容易に推測できます。
袁智天皇とはこの阿倍遠智娘のことであり、孝徳大王の皇后である。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」
  ***************************
天皇の呼称は蘇我の王の呼称であるのですが、女帝の呼称(つまり皇后)でもあるのです。初代天皇は推古天皇です。
乙巳の変により蘇我氏が滅んだ後に女帝の呼称になったのです。650年に天皇に即位したのが阿倍遠智娘、袁智天皇です。
推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー孝謙天皇、称徳天皇

この女帝の称号「天皇」を用いて系譜を改竄している。

この系譜の改竄の謎を考えてみます・・・
袁智天皇こと阿倍遠智娘と孝徳大王との子供が持統天皇である。阿部氏憎しの藤原氏はこの阿部氏の系譜を消し去っている。
藤原四兄弟を祟りにより死に追いやった長屋王の怨霊、この長屋王は高市大王と阿部氏の姫王である阿部明日香との子供だからです。

以前から書いてきましたが、系図を変更しているのですが名前まで変更していない。これが改竄の謎ときの手掛かりとなる。

遠智娘の妹である、姪娘の子供たちの名からも推測できます。

蘇我姪娘は天智天皇との間に、御名部皇女と阿閇皇女(元明天皇)を生んでいるとされます。
この二人の娘の名前から系図の改竄を推測してみます。

特にこの元明天皇の名からの推測は容易です。
元明天皇の諱は阿閇(あへ)。阿部皇女ともされます。
何故に元明天皇は阿部の名がつくのでしょうか?おかしいですよね。
蘇我倉山田石川麻呂の娘、蘇我姪娘の子供であるなら、蘇我皇女のはずですよね。これはありえません。

姪娘は阿倍内麻呂の娘である、阿部姪娘である。だから娘の名が阿部皇女なのです。
同様に姉である、遠智娘も阿部遠智娘である。

阿部遠智娘は孝徳大王の皇后であり、持統天皇のお母さんである。

この阿倍氏の系譜を変更している。それは孝徳大王の側近であり、天智、藤原氏の敵対勢力であったからです。
藤原四兄弟を呪い殺したとされる大怨霊である長屋王のお母さんも阿部氏の娘である。ここも変更されている。
そして長屋王が本来の大王だったことが、改竄しなければならなかった理由である。


孝徳天皇は奈良の地を離れ、なぜか難波に遷都しています。それはこの阿部氏の勢力下に避難したのです。
今もこの阿部の地名、阿倍野は残っています。
阿部氏は藤原氏と対立していた孝徳側の有力豪族である。
この孝徳政権で左大臣だったのが、阿倍内麻呂である。

奈良の都は渡来人勢力により危険な状態にあったのです。孝徳政権は百済援護のための朝鮮出兵には反対していたからです。
蘇我氏もまた朝鮮出兵には反対の立場だったのです。孝徳政権に蘇我氏系豪族を多く重用したのはこれが理由です。
孝徳天皇が乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説がありますが間違っています。
乙巳の変は蘇我氏の専横が理由なのではない。百済救援のための出兵に反対の立場である蘇我蝦夷、入鹿の暗殺である。
藤原の時代の日本書紀なんて信用できない。ふざけるな藤原( `ー´)凸

倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。渡来人によるクーデターが起きたのです。

そしてもう一人の娘の名、御名部皇女から彼女たちのお母さんも推測できます。
彼女の御名部の名は地名から名付けられている。和歌山、紀南の地名の「みなべ」からです。
今もこの地名、(日高郡南部)は残っています。
彼女もまた、危険な渡来人勢力のいる奈良の都から離れ和歌山南部に移住しここで生まれたか、
あるいは育ったからの名です。

万葉集 巻九ー1669
三名部(みなべ)の浦 潮な満ちそね 鹿島なる 釣りする海人を 見て帰り来む


奈良の都が危険な状態にあったため、孝徳大王は子供たちである有馬皇子や建皇子を紀南の地に避難させている。
ここは阿部氏に関わる豪族である、 塩屋鯯魚の勢力地である。
そしてこの地で、有馬皇子や建皇子は暗殺されている。有馬皇子の事件は、大王家と渡来人との戦争の中亡くなっている。建皇子もまたこの争いの中で殺されている。
姪娘は阿倍内麻呂の娘であり、お母さんはこの紀南の豪族である、塩屋鯯魚の娘である。
そして藤原氏の系譜に関わる重要な人物、藤原宮子もまたこの塩屋鯯魚の娘である。

阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘の子供が元明天皇やこの御名部皇女のお母さんである阿部姪娘である。
有間皇子の謀反の事件の時に連座した4名のうち、有間皇子とともに処刑されたのが、
塩屋鯯魚と新田部米麻呂とされまが、本来は渡来人との戦争である。
この塩屋鯯魚や新田部米麻呂は阿部氏と関わる孝徳大王側の豪族である。

この御名部皇女を蘇我倉山田石川麻呂の娘として、阿部氏の系図を変更し、 高市大王の妃に変更し、
本来の高市大王の皇后である明日香皇女の系図を変更している。
それは、長屋王はこの明日香皇女の子供であり、本来の大王であるからです。
これは、万葉集にある柿本人麻呂による明日香皇女への挽歌から容易に推測できます。

この明日香皇女のお母さんは阿倍内麻呂の娘の橘娘です。この系図は変更されてはいないのですが、天智天皇の妃ではない。
孝徳大王の妃であり、これも子供たちの名前から推測できます。
明日香皇女と新田部皇女の二人ですが、この新田部の名から改竄箇所を容易に推測できます。
そう、阿部橘娘は、阿倍内麻呂と新田部氏、新田部米麻呂の娘との子供である。
上記したように新田部氏は孝徳大王側の豪族である。

新田部皇女は、天智天皇と阿倍内麻呂の娘である橘娘との娘とされますが、
孝徳政権で、左大臣であった阿倍内麻呂は自身の娘である橘娘を敵対する渡来人の天智天皇に嫁がせるわけない。

孝徳天皇には子供一人、この有間皇子しかいません。そんなことありえません。

阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王に嫁いでいる・・・
孝徳天皇は有間皇子しか子供がいなかったとされますが、ありえません。
そして以前にも書きましたが系譜変更により、年齢も変更している。

遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり
長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。

 阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子

 阿部小足媛・孝徳大王ー有間皇子

蘇我姪娘は 蘇我倉山田石川麻呂の娘ではなく、阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘との子供である阿部姪娘である。
そしてもちろん天智の后ではない。

阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女 (高市大王妃)元明天皇

阿倍内麻呂と新田部米麻呂の娘との子供が阿部橘娘であり、天智の后ではなく孝徳大王の后である。

阿部橘娘・孝徳大王ー明日香皇女(高市大王皇后)と新田部皇女 (刑部大王妃)

これが天智の娘を天武に嫁がせたという不思議な話の真実です。
天智の血を大王家に繋げるための改竄である。


天智天皇と藤原氏は深く関係します。大王家と対立していた藤原氏は、我々の関係する人物の方が
正統な王であると改竄したものが日本書紀である。
正史とされますが、とんでもないことです。

まだまだ続きます・・・



「神武天皇と応神天皇の謎と倭の五王」のところでも書きましたが、天智天皇の諱は葛城です。これ何故に天智の本来の名は、葛城なのだろうと不思議に思いますよね。葛城?だってあなた渡来人の皇子でしょう?・・・って私なんか思うのですが。天智は葛城氏とは関係しませんよね。もちろん真実ではありません。
もう何度も記述してきたことですが、本来の古代の大王家とは後の物部氏のことです。
この古代の大王家と、対立していたのが葛城氏です。大和王権内の内部紛争です。葛城系の豪族、蘇我氏によって変更された系図、つまり葛城系の王たちのほうが正統な古代の王たちだと変更したもの、・・・天皇記・国記を元に、天智系天皇である桓武天皇の時代に日本書紀・古事記を変更したからです。敵対していた古代の大王家の歴史を変更している。それは、桓武天皇の時代に歴史を変更したときに蘇我氏の歴史書を用い本来の大王家ではなくこの葛城系の王に繋げたからです。

神武天皇というのがまさにこの葛城の王のことです。本来は大和政権の内紛なのですが、この神武天皇はなぜか九州から来たと主張しています。これ大王家こと物部氏が古代において九州から畿内に来たからです。
対抗して我々も九州から来たとしているのです。魏志倭人伝にも関係するのですが、神武天皇は九州南東部の日向国から東征してきたとされます。これは九州北部こそこの物部の支配地であり、九州南西部は狗奴国だったからです。つまり南東部しか空いてなかったからだと思うのですが・・・?
そこから東進したとしているわけです・・・魏志倭人伝の謎はいづれ書きます。

神武天皇というのは、武内宿禰であり、彼は和歌山生まれとされます。この和歌山の地から紀ノ川沿いに奈良盆地、葛城地方にはいり葛城の王となったのが、武内宿禰である。

それは、蘇我氏や葛城氏はこの武内宿禰を祖とすることから容易に推測できます。これが本来、蘇我馬子と竹田皇子が編纂した、蘇我氏の歴史書ともいえる「天皇記」・「国記」において葛城の王であり祖王である武内宿禰こと神武と物部の争いの物語である。日本書紀にも記述されますが、神武天皇は物部氏と戦っています。先に大和に先住していたのは物部だとも記述されています。

天智系天皇や藤原氏というのは渡来人である。天智天皇の諱の葛城は古代において大王家と対立していた葛城氏の名を、桓武天皇の時代に名付けられたものである。欠史八代ともいえる天皇たちはこの本来は葛城の王たちのことでもある。
これは、もちろん蘇我氏が物部氏と争ったことが大きく関係する。







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「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録決定・・・へ(^o^)丿

2019年05月21日 | 日本書紀の謎


大仙古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されるだろうということ
になりました。
しかし「仁徳天皇陵」として登録することに関しては賛成できない。
日本最大の巨大な古墳の被葬者が、誰かも定かでないということ自体本来は
おかしいわけです。
天皇家の先祖が祀られているとしますが、そうではありません。
いまの天皇家は古代の大王家とは関係ありません。

ここの被葬者が仁徳天皇なんて呼ばれていたわけありません。だいたいに「天皇」
なんてよばれていませんし被葬者も定かではない。
この地域で「大山古墳」(「大仙」ではなく「大山」、仙の字は最近のもの)と
呼ばれているのであるなら「大山古墳」でいいのではないのか?

日本一巨大ともされる大きなお墓の被葬者が誰かわからないということは本来ありえません。
謎なのは天皇家のお墓ではないからです。
皇統が2000年も続くというのは、残念ながら真実ではありません。
そう、これら巨大な古墳は古代の王家のお墓であり、今の天皇家のご先祖のお墓ではありません。
それどころか、敵対していた本来の王家のお墓です。
ですので被葬者が謎になっているのです。


「百舌鳥・古市古墳群」のなかの大きな古墳は、倭の五王とされる大王たちの時代の
お墓だろうと考えられますので、その築造時期から推測はできますが・・・。
今回は、この大山古墳と誉田御廟山古墳の被葬者の謎を考えてみます・・・しかしこんなの築造時期と
古墳の大きさからの推測しかできないのではないのか((+_+))


大きな古墳であるので大王のお墓であるのは間違いありませんが、天皇家のお墓ではない。権力を握った
蘇我氏や藤原氏により古代の古墳の被葬者は消されている。

考古学的におかしいとも指摘されているのに、頑なに宮内庁が、これら古墳の調査を行いわないのは、
調べると日本書紀の嘘がバレるからです。そう勘繰りたくもなる、日本書紀は偽書だということが
わかり信用できないということに繋がるからです。いまさら変更できないということでしょうか・・・。

特に重要なことは、古墳の被葬者の矛盾から古代の王たちは今の天皇家に繋がらないということが
わかりますから。物的証拠が出土する可能性があるからです。
記紀を基にした「万世一系」の主張にも影響がでるからです。

ですが被葬者が判明しないまま、そして異なるままで本当にいいのか?
古代の大王たちが泣いているよ。

古事記、日本書紀は歴史を変えるための改竄本である。
これら歴史書によって私たちはずっと騙され続けている。




古代の王家と対立してきたのは権力を握った蘇我氏と藤原氏である。
まず、古代のお墓の被葬者は蘇我馬子によって変更されています。
それは蘇我の歴史書ともいえる天皇記・国記においてである。古代の王家とは後の物部氏だからです。
物部に関係する王たちが、大きな古墳に眠ることを変更している。
そして藤原氏もこの蘇我氏によって変更されたものを基に改竄している。

蘇我氏、蘇我馬子はどう改竄したかは、天皇家系図をみれば簡単に解かりますから・・・(^o^)丿

それでは被葬者は誰なのでしょう?こんなの古墳内部の調査も出来ない。
参照する文献もいい加減なものでは、被葬者の特定に関してはもうどうしようもない((+_+))

ただ、中国の文献にある倭の五王とされる、大王達の時代であるのではと推測できるかな・・・?
内部を調べても名前が書いてるわけでもありませんが、周辺部だけの調査では正確な築造年代は
でてこないのですがおおよその時代はわかります。

推測するしかありません・・・以下はもちろん私の推測です。
これらの古墳は、倭の五王とされる大王たちの時代のお墓だろうと考えられます。
仁徳天皇もこの倭の五王の一人だと考えられています。

倭の五王の比定においては、倭王武という人物が雄略天皇だというのが有力な比定だとされます。

私はこの大山古墳は、倭王武こと雄略天皇(武烈天皇も同一人物)ワカタケル大王のお墓では
ないのか?・・・と思っています。

大山古墳は仁徳天皇陵とされます、仁徳天皇の時代以降の出土物もあるのに、築造時期の想定を
この仁徳天皇の時代に合わせているとようにも思うのですが・・・?
もう少しだけ遅い時期の築造であり、この倭王武の在世中に造られた寿陵であると思うのですが?
ともかく、この倭王武の古墳は大きなものでないとおかしい。


雄略天皇は、諱は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)です。
はつせの名から、そして稲荷山古墳出土鉄剣の銘文からの「斯鬼宮」から推測できますが、
この地域は古代からの中心部であり、物部系の大王です。

蘇我氏と関係する葛城氏を滅ぼしたのがこの雄略天皇とされます。
この物部、つまり本来の大王家と対立していたのは蘇我氏です。
雄略天皇の後胤と争っていたのは、蘇我氏、蘇我稲目である。

この倭王武は非常に重要な大王であること解かります。

ウイッキペディア・・・

478年には武が上表文を奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・
秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に叙すことを詔したとする

自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
         ******************
倭王武が即位した時の上表文から、倭王武の時代には、朝鮮半島にまで影響をもたらしている
重要な王だとわかります。朝鮮半島の前方後円墳(5世紀後半から6世紀前半)もこの倭の五王の
時代のものと考えられています。
5世紀後半から6世紀前半の前方後円墳ということは、まさにこの倭王武の時代である。

任那に拠点を置き、朝鮮半島のこれらの国を支配下に置いていた、その事実を渡来人により消されている。
前方後円墳が造られるいうことは影響下にあったということです。
この任那、加耶といわれる地域に拠点に朝鮮半島南部を支配下に置いていたのは、邪馬台国、
台与の時代以降である。おそらく百済も支配下にあったと推測しています。
(ここは重要ですのでいづれ書きます(*^▽^*))


倭王武は非常に重要な大王ですが、何故か彼が眠る古墳は、その活躍に比さない小さな古墳です。
前方後円墳でもありません。これはありえません。

雄略天皇とされる大王の眠るお墓の治定が正しくない。これは意図的に変更されている。
そして、この変更された文献を基に治定されている。

ウイッキペディア・・・
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵(たじひのたかわしの
はらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
遺跡名は「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」で、直径75メートルの円墳・
一辺50メートルの方墳の2基からなる(古墳2基を合わせて治定)。
   ************************
雄略天皇の陵墓は、丹比高鷲原陵に治定されていますが、記述のように古墳2基かなる小さな古墳で
前方後円墳ではありません。
間違っているだろうと誰もが思うわけで、「河内大塚山古墳」ではともされますが、この古墳も
築造時期に問題あるようです。

あまりにもおかしいので、近くの大きな前方後円墳の方ではないのか?というのもいい加減な治定である。
これ継体天皇陵に関しても同様で、治定されている古墳の築造時期が合わないので近くの古墳の方では
ないのか?とするのもよくない。

明らかにおかしいのは意図的に変更しているからです。つまり彼のお墓は巨大古墳だったからです。
本来の大王家、物部系の象徴的な偉大な大王だったからです。
万葉集においてもこの雄略天皇の歌から始まっています。
この冒頭の歌は雄略天皇が実際に詠ったものとは考えられていません。おそらく編纂したと考えられている
藤原氏と対立していた大伴氏、大伴家持の作った歌だと思うのですが、平安時代においてさえ重要な大王だと
思われていたのです。・・・この万葉集の謎に関してもいずれ書きます。

ウイッキペディア・・・延喜式
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡
にあり、「兆域東西八町。南北八町。五烟。」と記述されている。
    ***********************
延喜式は平安時代のものであり、大王家と対立し滅ぼしたともいえる藤原氏もまた古代から繋がる
本来の王家の歴史を改竄している、蘇我馬子により改竄された天皇記・国記を基にして歴史を変更している。
これは蘇我馬子によって変更されたままの記述である。


「神武天皇と応神天皇の謎と倭の五王」ところで記述しましたがもう一度。

ウイッキペディア・・・
仁徳天皇・・・
日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、
この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。

日本書紀
大鷦鷯天皇、譽田天皇之第四子也。母曰仲姬命、五百城入彥皇子之孫也。

   *****************************

これ、日本書紀によれば、五百城入彦皇子の孫は、仁徳天皇だということですよね。
そして、五百城入彦皇子の皇子は、品陀真若王ということです。皇子は彼しかいないですよね。
つまり、品陀眞若王の皇子が仁徳天皇ということですよね。


そして、この歌(これは大雀(仁徳天皇)が七支刀を佩刀している姿を歌ったものだとも言われますよね。
その通りのように思います。この歌も「品陀」としているわけです。

品陀(ほむた?ほむだ?ほんだ)ひの御子(みこ) 大雀(おおさざき) 大雀(おおさざき)佩(は)かせる
大刀(たち) 本(もと)つるぎ 末(すえ)ふゆふゆ木(き)のすからが下樹(したき)のさやさや

七支刀の銘文・・・
それで、七支刀の裏面の文字の問題の箇所
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

だから、この「倭王旨」の「旨」は「眞」の略字であって、品陀 眞 若王の皇子が仁徳天皇であり、
この「旨」は王の名前なのでは?

この七支刀は、大王だった品陀眞若王に贈られた刀であり、その刀を王子である 仁徳天皇が佩刀している。

ウイッキペディア・・・
*それ故に、倭王が百済王に賜われた「旨」を元にこの刀を「造」った。

*それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。

* そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った
   **************************
この七支刀の裏面の「故為倭王旨造」の解釈ですが、漢文の読みとしては「賜われた「旨」」と読むのはおかしい。
ですので、「倭王の為に嘗(はじ)めて造った 」と解釈していますがこれもなんか不自然。

だって記紀には、こんな文字「旨」を持つ天皇はいないですものね。でも記紀は倭の五王のことも無視して
いるわけですよね。倭王武も、「武」と一字ですよね。仁徳天皇の名で登録するのは良くない。

「故に「倭王旨」の為に造る。」と「旨」を倭王の名とする方が漢文の読みとしては自然ではないので
しょうか?この時代倭王の名を一字で表している。
「旨」は「眞」の略字であって、品陀 眞 若王が本来の大王である。

歌にも大雀のお父さんは 品陀としています。この品陀とは品陀眞若王のことであり、応神天皇ではない。
蘇我馬子による改竄個所である。

ウイッキペディア・・・七支刀
『日本書紀』によれば、神功皇后52年九月丙子の条に、百済の肖古王(生年未詳 - 214年)が日本の使者、
千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。
孫の枕流王(生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。
    **************************
この七支刀が神功皇后の時代に贈られたとされるのは、魏志倭人伝において卑弥呼が刀や鏡を
賜ったとの記述があったからです。

この時代において卑弥呼のことがわからなかったということはありえません。
これも意図的に変更されている。卑弥呼を神功皇后として、蘇我に関係する応神天皇のお母さんとして
変更し時代も魏志倭人伝にある邪馬台国の時代に変更したからです。
卑弥呼を蘇我氏に関係する人物に取り込んでいる。

神功皇后の伝承は倭人伝の卑弥呼(台与)の伝承を基にして描かれている。

ですので、銘文の冒頭の「泰■四年」の文字の解釈についても、時代的には東晋の「太和四年」(369年)と
する説がいいように思います。高句麗と対立していた、百済が倭国と同盟関係を結ぶために贈ったものである。

七支刀銘文
泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯?王■■■■作

先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

もとはこの年、(東晋の「太和四年」(369年))に東晋で作られ、百済王にこの七支刀が下賜されていたのです。
(百済王がこの刀を作ったというような記述ですが、百済に独自の年号がなかったことからも百済で作られた
ものではないことがわかる。)
その七支刀を、同盟関係を結ぶために後に倭国に献上する時に、裏面の文字は刻字されたのです。
ですので実際に百済から倭国に献上されたのは、この「太和四年」(369年) より少し後、好太王碑に
ある399年頃のことである。
高句麗が百済に攻め入り窮地に追い込まれていた時です。百済は倭国に助けを求めたのです。


応神天皇は誉田別命なのですが、品陀和気命や誉津別命は別人だということと、応神天皇は架空の人物
だということです。
仁徳天皇に繋がる品陀真若王を、蘇我の王である応神天皇に変更したため、七支刀の裏面の解釈が謎になっている。

七支刀は、石上神宮に伝来していた鉄剣であるということからも、倭の五王とされる大王たちは
物部系の大王だということが容易に推測できます。


倭の五王・・・実際は倭の七王である。
葛城系・・・
武内宿禰―平群木菟宿禰―履中天皇「讃」・反正天皇「珍」

物部系・・・
品陀眞若王「倭王旨」―兄の菟道稚郎子皇子「贊」・弟の仁徳天皇「彌」―允恭天皇「済」―
安康天皇「興」―雄略天皇「武」

倭の五王・・・実際は倭の七王である。


 梁書・・・
晉安帝時、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。・・・

梁書が語るのは、この倭王「武」の、物部系の系図。宋書倭国伝が語るように、讃と珍とは兄弟ですが、
済とは兄弟ではないとし、さらに宋書倭国伝と梁書、どちらも間違って記述されていないとしたら、二系統になる。  
万世一系だとして考えるから矛盾する。

実際は倭の七王である。「讃」と「贊」、「珍」と「彌」は同一人物ではない。
記紀に倭の五王に関する記述がないのは物部系の大王たちであり、蘇我馬子が系譜を改竄したため矛盾する
ところがあるためです。 

この葛城系の王家を滅ぼしたのが、雄略天皇こと倭王武。蘇我氏はこの葛城系の葛城氏と関係する。
しかしこの権力争いは蘇我氏、蘇我稲目によって続けられている。 

 
「百舌鳥・古市古墳群」の大きな前方後円墳は倭のこの五王とその関係者の古墳だと推測するのが妥当ですよね。

この仁徳天皇こと倭王「彌」が巨大な古墳(大山古墳)の被葬者されるのは、蘇我馬子は蘇我氏を本来の王家に
繫ぐ時にこの仁徳天皇に繋げたからです。蘇我の人物として取り込んだからです。
ですがもちろん倭の五王の一人であり大きな古墳に埋葬されているはずです。

これ系図をみればわかります、もう何度も記述してきました応神天皇というのは架空の天皇で、
これ蘇我氏の王であり、神武天皇(武内宿禰は)と神功皇后(卑弥呼、卑弥呼も蘇我氏の人物として
取り込もうとしていた)の子供が応神天皇だと記述されていた。

この蘇我の王である応神天皇を本来の大王に繫いだ、この応神天皇の子供としたのが倭王「彌」
この仁徳天皇である。
このあと葛城系の王が即位したそれが「讃」と「珍」である。この葛城系の王を「彌」に繋げたのです。
履中天皇と反正天皇は仁徳天皇のこどもたちではない。この葛城系の王家を滅ぼしたのが雄略天皇である。

仁徳天皇の本来の皇子は倭王「済」こと允恭天皇である。
允恭天皇や雄略天皇(武烈天皇)が悪く書かれているんのはこれが理由。

葛城系の履中天皇「讃」の子供の市辺押磐皇子の皇子である仁賢、顕宗たちが即位した不思議な話は真実
ではありません。仁賢、顕宗は、本来は王に即位していません。

欽明天皇のお母さんは、この仁賢天皇の娘の手白香皇女です。簡単な改竄です。
仁賢、顕宗を王に即位していたとし、手白香皇女を継体天皇の皇后して、その王子である欽明の方が正統で
あるとしたのです。

欽明は継体の子供であるのですが、安閑、宣化 はそうではなく、本来の王家、この倭王武こと
雄略天皇の王子たちである。この雄略天皇の王子たちと争ったのが、蘇我氏である。

欽明天皇は蘇我稲目のふたりの娘を后としました。堅塩媛は推古のお母さんであり、稲目の時代から
物部と蘇我氏の争いは始まっています。

物部系の王たちは悪い王だったので、継体で王朝が変更したしたのです。
そして継体天皇を5世孫として蘇我の王である応神天皇に繋げたのです。

蘇我馬子は、仁賢、顕宗のお父さんであり、手白香皇女の祖父である市辺押磐皇子を、
葛城系の履中天皇に繋げている。

応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子 ー仁賢天皇 ー手白香皇女

雄略天皇は悪く書かれているのは、葛城氏を滅ぼしたからです。
この葛城氏と蘇我氏は深い関係にあったとされます。

蘇我馬子により倭王武の眠るお墓は変更されている。

それとは逆に蘇我氏が関係する王のお墓を大きなお墓に変更している。それは彼らは本来の大王ではないからです。
推古のお父さんの欽明、そのお父さんの継体天皇は本来の王ではありません。
大王に即位したとして、そのお墓も大きなものに変更している。王家と対立していた藤原氏もまた、
蘇我馬子のよって変更していたそのままに変えていない。

どう変更したかはすでに「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳」において、 記述してきましたが・・・
この蘇我氏が関係する欽明天皇や継体天皇のお墓が解かり易い。
それはこの欽明天皇や継体天皇は蘇我氏の王だからです。
この欽明天皇から今の天皇家は繋がるとされます。蘇我馬子は蘇我氏を葛城系の王家に繫いだのです。

欽明天皇の梅山古墳の傍に吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓があります。吉備姫王のお墓は、
この梅山古墳の陪塚とされます。当然、吉備姫王の夫である茅渟王のお墓であるのですが、
蘇我馬子によって変更されている。

押坂彦人大兄皇子、日十大王の子供である、この茅渟王は当然大王でした。
この茅渟王の子供が孝徳大王である。孝徳大王と対立していたのは、天智や藤原氏などの渡来人である。
ですので、蘇我馬子によって変更されたままの治定になっている。

蘇我の王であり、初代天皇ともいえる推古天皇、蘇我氏を古代の王家に繫ぐ操作をしている。
そして蘇我の王たちの方が正統な血を受け継ぐとの操作をしている。
推古のお父さんである欽明を対立する物部の大王より正統だと変更している。
そして、なんとお墓も変更している。大きなお墓はもちろん王のお墓であるからです。
王であることを消した人物が大きな古墳に眠っているのでは都合が悪いからです。
「大山古墳」の被葬者を変更したのは蘇我氏や藤原氏である。

倭王武は、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣、 江田船山古墳 の銀錯銘大刀の銘文から、
「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)は、雄略天皇だとされます。
九州から関東にまで及ぶ地域を勢力下にし朝鮮半島の国々まで影響力のあった大王であると推測できます。


雄略天皇(倭王武)憎しの蘇我馬子は、この倭王武のお墓を小さな古墳に、蘇我氏を王家に繫いだ
仁徳天皇を、この地域、百舌鳥古墳群 で一番大きな大山古墳に格上げしている。
本来は上石津ミサンザイ古墳が仁徳天皇こと「倭王彌」のお墓ではないのか?

もう一人悪く書かれている雄略天皇のお父さんである允恭天皇も、同様に格下げしている。
古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳が、この倭王武のお父さんである、允恭天皇「倭王済」の
お墓であるとするのが私の推測です。

允恭天皇陵は恵我長野北陵に治定されていますが、築造想定時期とあわないために、古市古墳群の
津堂城山古墳が候補地になっています。
古代の大王の古墳の被葬者は変更されている。古墳の治定のため参照している今に残る文献が
いかにいい加減なものかわかります。

大王のお墓だとされる大きな古墳のほぼすべての治定に問題がある。


古墳の規模と築造時期を考えながらの治定が唯一の方法になってしまっている。
調査できないならこれ以外ないのですが・・・。




誉田御廟山古墳の被葬者とされる応神天皇は、蘇我の初代王ともいえる架空の人物である。
蘇我氏は武内宿禰を祖としますが、この武内宿禰こと神武天皇と神功皇后との子供が応神天皇だとして
蘇我氏の歴史書を作成した。
それが天皇記・国記である。この改竄された蘇我氏の歴史書を基に藤原氏も歴史を改竄している。

この時に蘇我馬子によって蘇我の関係する王たちを大きな古墳に変更している。
それは敵対していた本来の大王たちのお墓だったからです。

この応神天皇や継体天皇(応神天皇の五世孫)、継体天皇皇后手白香皇女 、欽明天皇などのお墓は
大きなものに変更されている。
蘇我氏を繫いだ仁徳天皇や葛城系の王である、履中天皇、欽明天皇、手白香皇女のお墓もまた
大きな古墳に変更している。

これが、蘇我家の系図である・・・
応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子 ー仁賢天皇 ー手白香皇女

継体天皇の皇后はこの手白香皇女であり、皇子が欽明天皇、その娘が推古天皇である。
この欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖となり、手白香皇女は皇統の危機を救い、男系ではないものの、
直系の血筋を後世に受け継がせた・・・とされます。
ですが、そうなるように蘇我馬子によって系譜が変更されたわけです。
蘇我氏の王たちの方が正統な血を引くと改竄しているわけです。
これが、蘇我馬子が編纂した天皇記・国記にある蘇我家、つまり天皇家の系譜である。

天皇家とは本来蘇我家である。本来の蘇我家のお墓は方墳であり、前方後円墳は天皇家のお墓ではない。

ウイッキペディア・・・
市辺押磐皇子
『播磨国風土記』に「市辺天皇」とあり、皇統譜には記載されていないが、実質的にあるいは実際に天皇に
即位していた可能性が指摘されている。
    ***************************
「市辺天皇」と呼ばれていたとされます。そして履中天皇の皇女、またはこの市辺押磐皇子の王女とされる
飯豊青皇女もまた、「飯豊天皇」とも呼ばれ天皇だったともされます。

そう天皇でいいのですよ、彼らは蘇我氏の王である天皇である。大王家と天皇家はことなる。
天皇とは蘇我の王の呼称である。
もちろんこれらは蘇我の歴史書である天皇記・国記編纂時に遡って付けられた呼称である。
つまり本来の初代天皇は推古天皇である。
そして本来の王家の系譜は、桓武天皇で断裂している。



「天皇記」・「国記」は620年に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされます。
この時代において、すでに天皇の呼称は使用されていますよね。
でも天皇の呼称が実際に使用されたのは天武天皇からだとされます。

じゃー何故に、蘇我馬子は620年の段階で「天皇記」と天皇の呼称を使用したのでしょうか?
おかしいですよね
万葉集では、天武天皇も、王子の高市皇子も大王と呼ばれているのに・・・。
ですので本来は「大王記」だったものを「天皇記」に後に変更したとされます。
まーぁ、こうとしか説明できないですものね。

この天皇記・国記の編纂時に大王だったのは推古ですよね。
ところが、隋からの使者が王に謁見して、男の王であり、「おおきみ」と呼ばれているとの記述ですよね。
ですので、推古の代わりに蘇我馬子が謁見したというトンデモ説がありますが、中国の使者に、
本来の王でないものが謁見するわけないでしょうに。

つまり、本来の王である大王(押坂彦人大兄大王)と、蘇我の王である天皇(推古天皇)が存在した
ということです。

蘇我氏と藤原氏による系譜改竄の謎のところで書きましたが、日本書紀にある蘇我馬子や、
推古天皇の歌にも矛盾する記述があります。

「天皇」の文字は「船氏王後墓誌」のが最古のものとされます。
この「船氏王後墓誌」において天皇の記述があることからも天皇とは蘇我の王のことだと判断できる。
この渡来人である船王後の墓誌は後の時代の追納された可能性があるとの指摘あるので、
なんともあやしいものですが、すでに「天皇」は存在していた。船王後が仕えたのは推古天皇である。
渡来人である船王後は、蘇我氏側の氏族である。

ですので蘇我馬子と聖徳太子が編纂した、歴史書は「天皇記」・「国記」でいいのですよ。
「天皇」は蘇我の王の呼称であり女帝の呼称でもあったのですが、それを天智は使用して
王家と対立したのです。
渡来人である天智天皇は天皇ですが、大王ではなく本来の王ではない。
天皇は王の呼称であり天智はその王に即位していたと改竄したのは桓武天皇である。
天武以前に既に、大王と天皇が存在したのです、初代天皇は推古天皇であり天皇とは蘇我の王の呼称である。
このときの大王は隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある日十大王こと、押坂彦人大兄大王である。

推古は天皇であり大王ではない。天皇は蘇我の王の呼称であるのですが、本来は女帝の呼称でもある。

蘇我馬子と聖徳太子(推古の息子の竹田皇子)が編纂した、この歴史書は大王家の歴史書ではなく、
蘇我家の歴書である。天皇の呼称は本来は蘇我の王の呼称である。


そして蘇我馬子は改竄した系譜において、蘇我氏が関係する人物を大きなお墓に変更している。

同様のことをしているのが、この「船氏王後墓誌」である。
私たちの感覚ではご先祖のお墓を変更するなんてありえないのだけど、これ渡来人だからで
しょうか・・・?大きな古墳に変更しようとしているように思う。
さすがに蘇我馬子が変更した、古市古墳群のお墓にはできないため、近辺のお墓を祖先のお墓に
しようとしている。

「船氏王後墓誌」においての記述は松岳山上に埋葬されたという記述です。その松岳山上というのは、
やはりこの松岳山古墳のことを指すように思います。ですが、もちろんこの「船氏王後墓誌」は
この松岳山古墳から出土したものではない。文献によって改竄している。


この松岳山古墳群は、古墳時代前期の古墳群です。ですのでありえないのですが、蘇我馬子の改竄を
真似たようにい思います。

「船氏王後墓誌」の銘文の謎はウイッキペディアの記述から謎解ける。

ウイッキペディア・・・
西琳寺は、7世紀前半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏により
創建されたとみられる

王辰爾・・・ 渡来系氏族である船氏の祖 欽明天皇14年(553年)勅命を受けた蘇我稲目によって
派遣され、船の賦(税)の記録を行った。この功績によって、王辰爾は船司に任ぜられるとともに、
船史姓を与えられた

鈴木靖民や加藤謙吉によると、『日本書紀』の王辰爾の伝承は船氏が西文氏の王仁の伝説をまねて
創作されたものだという。田中史夫は、王辰爾が中国系の王氏の姓を持っていることに着目しており、
鈴木靖民によると、実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系百済人だという
   **************************
船王後は、この王辰爾の孫です。そして蘇我の王である欽明に仕え蘇我稲目によって派遣されたとされる
事からもわかりますが、王辰爾は蘇我氏側の人物である。
この「船氏王後墓誌」は、蘇我氏の歴史書である天皇記・国記を基にして書かれたものである。
船氏による自家の格上げ改竄墓誌である。

つまり蘇我氏と同様に、船氏はお墓を大きな古墳に変更しているということ。

ですので「天皇」の呼称を使用している。後においては蘇我氏は、秦氏とは対立するようになるのですが、
蘇我氏はこれら渡来人を勢力下にし台頭してきたのです。

ですので、「天皇記」でいいのです。「大王記」ではありません。

本来は新しく来た渡来人であろうとされますが、それがゆえに、本来は全く関係のないのですが、
大きなお墓を祖先のお墓としたかったのでしょうか?

この「船氏王後墓誌」は国宝だそうですが、こんなの国宝にしたらダメです。江戸時代に出土し、
西琳寺に所蔵されているとされますが、最初から西琳寺にあったものでしょうね。
蘇我馬子が巨大な古墳(誉田御廟山古墳)を、蘇我の王ともいえる応神天皇陵と変更したことと
同様のことをしている。改竄墓誌である。






以下は百舌鳥、古市古墳群の大きな古墳の被葬者の私の推測です。
おそらく物部系の大王のお墓・・・大きさと築造時期(これとて確かなことではない)からという
何とも根拠に乏しい想像ですが・・・雄略天皇のお墓が明らかにおかしく意図的に小さな古墳変更されている。
これは、つまり本来は、倭王武は大きな前方後円墳古墳に埋葬されていたからです。

品陀眞若王「倭王旨 仲ツ山古墳 」―兄の菟道稚郎子皇子「贊 墓山古墳」・
弟の仁徳天皇「彌 上石津ミサンザイ古墳」―允恭天皇「済 誉田御廟山古墳」―
安康天皇「興 土師ニサンザイ古墳 」―雄略天皇「武 大山古墳」

大山古墳も誉田御廟山古墳も、ともに倭王武の時代、つまり倭王武によってお父さんと自身の大きなお墓が
造られたものではないのかな?と推測するのですが?兄の興は即位して間もなく崩御のためそれほど大きな古墳ではない。

中国に朝貢した記録から在位期間が推測できます。
倭王武は477年に即位し、この年にに初めて朝貢、最期の朝貢の記録は502年であり、
おそらく崩御年は506年である。
この大山古墳は亡くなってから作られたものではなく、自身の権力を誇示するため在世中に造られた
寿陵であるとすると築造時期に問題はない。

古墳築造のためには大きな労力が必要なのですが、この倭の五王の時代には多くの渡来人が
倭国に渡って来ている。古墳が巨大になった一つの理由のように思います。
特に朝鮮南部や百済から渡来している。

応神天皇に時代、つまり倭王旨の時代に、秦氏や倭漢氏などの祖先たちが「百二十県の人民」や
「十七県のともがら」を率いてやってきたとの記述があります。この渡来人たちが古墳築造の労働力になっている。

百舌鳥古墳群の、地名の百舌鳥は本来は百済(もず)である。
この地名に関しては、渡来人由来の地名も多くあるので、地名から名付けることに関しては注意が必要です。
これでは百済に関係する古墳のような印象を受けてしまう。百舌鳥古墳群の名称についても賛成できない。

この渡来人たちを使って古墳築造の労働力にしたため、この地に多くの百済からの渡来人が居住していたのです。
百済村ということです。地名から名付けることに関しても慎重に考えなければいけません。

古墳築造の労働力にするために、百済から多くの人々を倭国に移住させたのです。
つまり、この時代百済は倭国の支配下にあったということです。

朝鮮南部の国々や、この百済が倭国の支配下にあった事実を、後に渡来人により改竄されている。

これら百済渡来人とは、後に対立するようになるのですが、渡来人を勢力下にし台頭してくるのが蘇我氏である。

宋書倭国伝に記載のある倭王武の上表文からも推測できますが、朝鮮半島の国々をも支配下にした
偉大な大王たちである。


ウイッキペディア・・・好太王碑

*399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の
救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
*400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、
これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

*404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

     ***********************

朝鮮半島の国々、高句麗、新羅、百済、任那・加羅、中でも、高句麗は特に大きな領土を持ち抜けた存在でした。
朝鮮半島はこの時代においても、この高句麗の南下政策により戦乱の中でした。この戦乱を逃れるために
多くの渡来人が海を渡って倭国に来たのです。そして倭国に協力を求めたのです。
広開土王碑にあるように、倭国は朝鮮に遠征し高句麗と戦ったのです。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した・・・これが七支刀が贈られた時である。
碑文においては、倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきた・・・というような記述ですが、
これは高句麗側の視点?とも考えられ、高句麗が南下してきたために、倭国は朝鮮半島に遠征し
高句麗と戦ったのです。
もちろんこの時を好機と考え、朝鮮半島全体を支配下にするため、まず新羅を支配下において、
高句麗と戦ったとも考えられますが?

好太王碑はもちろん、高句麗側の碑文であるので、高句麗が倭国の軍を退却させたという記述ですが、
新羅、百済、任那・加羅が高句麗の勢力下にないことからも高句麗の南下を倭国が防いだということです。

この時の王は、七支刀にある倭王旨である。この後以降、倭王武の上表分にあるように 高句麗を除く
これらの国々、新羅、百済、任那・加羅は、倭国の勢力下にいたともいえます。
倭国と高句麗は、これら朝鮮半島南部の国々の支配権をめぐって争っていたのです。
これは、倭王武の上表分からも推測できます。

そして朝鮮半島に前方後円墳が造られたのです。前方後円墳が造られたということは倭国の影響下に
あったということ以外は考えられません。

朝鮮半島のこれら諸国から多くの人々を渡来させ、巨大な古墳を造る労働力にしたのです。

大山古墳の築造時期は寿陵であるとすると、倭王武のお墓として問題ない時期に造られている。
5世紀中頃以降の築造であるとされます。

これら巨大な大王墓が、奈良の盆地内ではなく河内の地に造られたのは、倭王たちによる
自身の権力を内外に誇示するためのものである。

ボストン美術館にある、大仙陵古墳からの出土品とされる銅鏡や環頭大刀は5世紀後半から
6世紀はじめ頃のものだとされます。
今想定されている築造時期より、もうすこし後の可能性もある。
大山古墳は、倭王武が即位したと思われる477年以降に造り始められたように思います。







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