ブラタモリ、奈良編、「法隆寺~なぜ法隆寺に1400年も愛され続けるのか」、「奈良、飛鳥、なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?」が放送されましたので、法隆寺に関してのお話です。
もう一度、改めて法隆寺再建の謎について考えてみます。
今回は、法隆寺に安置されている釈迦三尊像、薬師如来坐像、百済観音、救世観世音菩薩についても考えてみます(*^▽^*)
ブラタモリ内でも説明がされていますが、この本尊ともされる釈迦三尊像は、聖徳太子のお姿を映したものであり、モデルであるとされます。そして、救世観世音菩薩もまた聖徳太子のお姿そのものであるのでは?とされます。
すると由緒不明の百済観音もまた誰かモデルがあるのではないのか?
法隆寺再建の問題とともに難題であるのですが、もう一度考え直してみます。
放映されたブラタモリ内で、「法隆寺は誰が造ったのか?」との質問に、この回から新しくアシスタントになったアナウンサーの女性が答えらえなかったので、かわいそうに常識がないとの批判を受けていました。
答えは、法隆寺は聖徳太子が造ったお寺ということですが、・・・間違っているように思う。法隆寺は聖徳太子が造ったお寺ではありません。
法隆寺は再建されたということは確実視されます。そうすると法隆寺は聖徳太子が造ったお寺ではありません。
教科書に書いていることは真実ではありません。特に古代史は問題あります。
法隆寺は、聖徳太子ゆかりのお寺ですが、聖徳太子が造ったお寺ではありません。
法隆寺は607年に創建されたとされますが、元は斑鳩寺と呼ばれていました。この斑鳩寺と法隆寺は別のお寺である。
そして、この斑鳩寺は再建されていますが、再建斑鳩寺は法隆寺ではない。
聖徳太子は二人います。創建法隆寺と再建法隆寺は祀られている人物がことなります。ですので再建されたのではない。
法隆寺は再建されてはなく、祀られている人物が異なる。
ここは以前にも記述していますが、「栢寺」を「橘寺」に、「飛鳥寺(法興寺)」を「元興寺」に変更している理由と同様の理由で「斑鳩寺」を「法隆寺」に変更している。変更の理由は蘇我氏が関わったお寺だからです。
天武大王による変更です。古代の大王家は物部氏が関わります、祖父の押坂彦人大王の母親は物部姫である、穴穂部間人皇女です。蘇我氏と物部氏は争っています。
確かに、法隆寺創建時に再建斑鳩寺の材木を再使用されているとされますが、この斑鳩寺と法隆寺は異なります。法隆寺は再建されたのではありません。蘇我氏が建立したお寺を壊して立て直していることをしている。これは父親である山代王(山背大兄王)が殺害された場所であるからです。この再建されたという年が創建された年です。
斑鳩寺創建は607年、そして若草伽藍に建立された再建斑鳩寺は、推古天皇の息子である竹田皇子が亡くなった624年に建設し始められたお寺です。
今の場所に建立されている法隆寺(着工から完成までどれくらいの期間がかかったかはわかりませんが)は、おそらく700年頃の創建です。それでも世界最古の木造建築です。
この再建斑鳩寺は624年に竹田皇子が亡くなった時に、推古天皇や蘇我馬子が、彼を祀るために建立したお寺である。
この若草伽藍に建立された再建斑鳩寺の本尊こそが、釈迦三尊像である。釈迦三尊像は、竹田皇子の姿を写したものである。
ですので、釈迦三尊像は、法隆寺の本尊ではなかったのです。これは後背銘により明らかです。
斑鳩寺は再建されていますが、再建斑鳩寺は法隆寺ではない。若草伽藍に建立された寺院が創建法隆寺であるとされていますが、そうではない。若草伽藍にあったお寺こそ再建斑鳩寺である。現法隆寺と、この再建斑鳩寺は異なるお寺である。
つまり法隆寺は、創建された時に大王だった人物が新たに造ったものです。祀られている人物が異なるので、再建されたのではなく、この時に天武によって創建されたのです。
法隆寺は誰が造ったか?の質問の答えは、法隆寺は天武大王が造ったお寺です。天武の父親と祖父である押坂彦人大王を祭るために建てたお寺です。
それは父親である山代王(山背大兄王)がこの場所(斑鳩寺)で殺害されたからでもあると思います。
これまで何度も記述してきましたが、聖徳太子こと押坂彦人大王の王子である山代王は天武大王の父親である。
「山背大兄王暗殺の謎と中臣鎌足」のところで記述してきたところですが、この押坂彦人大王の後胤と対立し、多くの大王家の人物を殺害してきたのが、渡来人である秦氏や藤原氏です。
蘇我氏の犯罪として変更されていますが、この山代王を殺害したのも秦氏、藤原氏である。
そして殺害された押坂彦人大王の後胤たちは怨霊となって藤原氏に祟ります。
長屋大王や、早良大王が怨霊としてよく知られますが、彼らはこの押坂彦人大王の後胤です。
つまり、皇祖とされるこの押坂彦人大王や山代王(山背大兄王)も祟ったと思われていたのです。
この地で山代王を殺害したのは、秦氏、藤原氏である。
これも聖徳太子と思われる救世観世音菩薩が白い布で覆われ怨霊封じが行われています。
法隆寺は、天武大王の発願により、この押坂彦人大王や山代王を祀るために造られたお寺であるため、後に藤原氏により、怨霊封じのお寺となっている。
日本書紀、下巻の天皇はすべて、天武が皇祖(本当は王祖)と仰ぐ祖父であるこの押坂彦人大兄皇子(日十大王)から繋がります。これは、本来彼が大王として下巻最初に記述されていたことに他なりません。それが後に書き換えられている。
殺害した人物が本来の大王だと記述できないため系譜を改竄している。
ウイッキペディア・・・
建立した年の年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが改めて裏付けられた。
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法隆寺の創建は、天武が大王に即位して以降の在位期間時に造り始められたものです。天武673年に大王に即位し、在位期間は673年から686年です。完成までどれくらいかかったかはわかりませんが、おそらくこの在位期間中、年輪年代測定どおり、おそらく673年頃に着工され、700年頃の創建です。
斑鳩寺と法隆寺は異なります。祀っている人物が異なります。再建されたのは斑鳩寺であり、斑鳩寺と法隆寺は異なる。
創建斑鳩寺は藤ノ木古墳が関係するお寺であり、若草伽藍に建てられたお寺(再建斑鳩寺?)は蘇我氏のお寺である。
これらのお寺は天武大王が造った現存法隆寺とは異なります。
ではなぜに蘇我馬子は再建斑鳩寺?をこの地に建てたのだろうか?
斑鳩の地はは、この時の政治の中心である、飛鳥からかなりの距離があります。そしてこの地は物部の本地でもあります。
何故にこの地に、建てられ、もう一人の聖徳太子こと竹田皇子はこの地に居を移したたのだろうか?それは物部本宗家が滅び、蘇我氏が支配する土地になったからだともいえますが、藤ノ木古墳が関わるように思う。蘇我の皇子ともいえる竹田皇子は、物部氏との争いに参加しています。
仏教に深く帰依した竹田皇子は、蘇我氏と対立して殺害された大王家の人々の霊を仏教の力で鎮めようととしてこの地に移ったのです。太子道を明日香から斑鳩まで通ったのは、推古の息子のこの竹田皇子のことである。
押坂彦人大王の御代に、太子だったのはこの竹田皇子です。
斑鳩の地は、もとは物部本宗家の土地であり、藤ノ木古墳の被葬者は、物部に関係する人物である。押坂彦人大王も物部の大王であり、彼の要望により被葬者を祀るために造られたのが斑鳩寺である。
若草伽藍にあった再建斑鳩寺は、この竹田皇子が亡くなった時に造られた蘇我氏のお寺です。釈迦三尊像はこの竹田皇子がモデルです。推古天皇の母親は蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛です。この竹田皇子は蘇我の皇子です。
法隆寺は天武大王が、祖父の押坂彦人大王と、父親である山代王(山背大兄王)を祀るために建てたお寺です。
押坂彦人大王と竹田皇子、この二人の事跡が聖徳太子の名のもとに混同されている。
そしてもう一人。斑鳩の宮で亡くなったとされる、押坂彦人大王の王子であり、天武大王の本来の父親である、山代王(山背大兄王)も祀られている。
607年創建の斑鳩寺は聖徳太子が造ったお寺でしょうか?
斑鳩寺はこの時の権力者であり、四天王寺や飛鳥寺を造り仏教を導入しようとしていた、蘇我馬子が造ったお寺ともいえますが。もちろんこの時に大王だった、押坂彦人大王も創建に関わります。それは、大王家に関係する人物が藤ノ木古墳に葬られているからです。創建斑鳩寺はこの藤ノ木古墳が関係する。
物部氏と蘇我氏は対立していました。
四天王寺には物部守屋を祀るお寺であるともいわれます。そして斑鳩寺は、これも物部系の本来の大王家の王子たちである、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子を祀るため、押坂彦人大王の要望により、敵対しそして暗殺した蘇我馬子が建てたお寺である。
名前からも推測できますが、聖徳太子のお母さんである穴穂部間人皇女や、この穴穂部皇子は、物部系の人物です。蘇我の関係する欽明天皇の子供たちとして系譜が変更されています。蘇我馬子による系譜の改竄箇所です。
二人の聖徳太子、この時に大王だった、押坂彦人大王と、推古天皇と、その息子の竹田皇子が関わっているはずです。もちろん仏教導入の施策を行った権力者蘇我氏の首長である蘇我馬子も関わると思いますが・・・。
まぁ、これは聖徳太子、押坂彦人大王が造ったお寺でいいかな。
押坂彦人大王は物部の大王ですが、彼の時代には仏教導入の政策を行っている。
物部氏と蘇我氏の争いは権力争いである。
銅造薬師如来坐像、釈迦三尊像、百済観音、救世観世音菩薩について・・・
日本書紀(皇極天皇条)・・・十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩・・・巨勢德太臣等、燒斑鳩宮、灰中見骨、誤謂王死、解圍退去
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法隆寺夢殿の本尊で,聖徳太子の等身の御影と伝わる観音菩薩立像、救世観世音菩薩は、聖徳太子こと押坂彦人大王の王子であり、天武大王の本来の父親である、山代王(山背大兄王)がモデルです。
それは夢殿が建てられている法隆寺の東院伽藍は、もとは斑鳩の宮があったところであり、ここは山代王(山背大兄王)の住居であり、この傍の若草伽藍にあった斑鳩寺で亡くなっているからです。
そして、山代王(山背大兄王)を殺害した主犯は、秦氏、秦河勝と百済渡来人である偽者中臣鎌足、後の藤原鎌足である。
藤原氏に祟った後に、救世観世音菩薩は白い布で包まれて怨霊封じが行われている。
創建斑鳩寺の本尊は創建の由緒が刻まれている銅造薬師如来坐像だと推測できますが、仏像の様式や鋳造技法、そして薬師如来信仰の関係により本尊ではない。
跡形もなく全焼したとの記述により、創建斑鳩寺の本尊は喪失している。
この銅造薬師如来坐像は、寺の由緒、歴史を改竄するために、後の時代に造られた仏像(後背銘)である。
釈迦三尊像は竹田皇子であり、再建斑鳩寺の本尊。救世観世音菩薩は山代王(山背大兄王)であり、法隆寺の夢殿に祀られていたもの。この夢殿の場所、東院伽藍は、もとは斑鳩の宮であり山代王(山背大兄王)が住まいしていた場所である。
それでは本来の現存法隆寺の本尊は???そう百済観音しかありません。
由来が不明で謎の仏像ともされる百済観音は、法隆寺の本来の本尊であり、天武が皇祖と仰ぐ聖徳太子こと、押坂彦人大王がモデルであると推測するのですが・・・?この本尊が藤原氏により変更されている。
この百済観音は、本来は観音菩薩像であり、飛鳥時代後期、680年~690年に造られた仏像であると推測されています。
つまり上記してきましたが、現法隆寺は、天武大王が、祖父の押坂彦人大王と二人の王子、父親である山代王(山背大兄王)と斉明天皇、孝徳大王の父親の茅渟王を祀るために造った寺院であり、在位期間に造り始められ、680年頃の着工から創建は700年頃である。
そして、この法隆寺の本尊として造られたのが、この百済観音(観音菩薩像)であり、モデルは押坂彦人大王である。
法隆寺再建の謎についてもう一度考えてみます。
法隆寺創建の由緒は二つの説あり、法隆寺にある仏像の後背にある銘文によっています。金堂薬師像の銘と、釈迦三尊像光背です。
法隆寺創建、607年というのはこの金堂薬師像の銘によるものであり、この薬師像は創建法隆寺の本尊だと推測できます。
ところが、この薬師像は、様式上は釈迦三尊像よりも新しいもので、後背の銘文の書体にも疑問が述べられています。
創建法隆寺の本尊と思われる、薬師像より、釈迦三尊像の方が古いのです。
ですので法隆寺創建の年にも疑問が投げられています。
この釈迦三尊像は、銘文から623年に造られたものであり、竹田皇子が亡くなった翌年、624年以降に若草伽藍とされる場所に蘇我氏が建てたお寺、つまり再建斑鳩寺の本尊である。
607年に創建したとされる斑鳩寺は、3年後の610年に全焼しているかもしれません。
本尊である釈迦三尊像は蘇我の皇子である推古の息子の竹田皇子です。
この竹田皇子が亡くなった624年以降に蘇我馬子により、再建されている可能性があるのではないのか?亡くなった時に竹田皇子を祀るため新たに造られたお寺が若草伽藍とよばれる場所にあった寺である。これが再建斑鳩寺である。
現法隆寺金堂に安置されるこの釈迦三尊像は、本来は病気回復を願って造られた仏像です。しかし、残念ながら後背銘にあるように624年に竹田皇子が亡くなりました。
蘇我馬子や推古天皇は、可愛い息子であるこの竹田皇子を祀るため、斑鳩寺を再建し、この本来は病気を回復するために造られていたこの仏像を寺の本尊としていたのです。
このお寺が若草伽藍にあったお寺です。ただし斑鳩寺との名称だったかは不明です。
この623年に造られたとされる、法隆金堂のこの大きな釈迦三尊像には火災の跡がない。つまり斑鳩寺の火災は610年であると推測できると思います。
つまりこの若草伽藍にあったお寺は一屋も残さずとうい火災にはあってはいなく、現法隆寺はこのお寺に使用されていた木材を再利用している。
その後天武大王により、建てられたものが今現存する法隆寺である。物部系の大王である天武大王にとって、蘇我氏は敵対していた憎き氏族です。この蘇我氏の痕跡を消そうとしている。そして父親が殺害された忌まわしい場所でもあるからです。
竹田皇子を祀るため蘇我馬子によって造られたお寺は再建斑鳩寺である。
いまの法隆寺は天武大王が造った、祖父である押坂彦人大王と、父親である山代大王をまつるお寺である。この法隆寺の由緒は藤原氏によって変更されている。藤原氏に祟った後に怨霊封じが行われている。
聖徳太子(押坂彦人大王)の息子である山代大王(山背大兄王)を殺害したのは、秦氏、藤原氏である。
斑鳩寺と法隆寺は異なるお寺である。祀られている人物が異なる。
仏教が関係する聖徳太子とは、推古の息子の竹田皇子です。太子道を明日香から斑鳩まで通ったのは、この豊聡耳こと竹田皇子です。
厩戸王こと聖徳太子は、この時に大王だった、押坂彦人大王です。
聖徳太子が謎となっているのはこの二人の皇子の事跡が混同されているからです。それはこの押坂彦人大王の系譜が蘇我馬子によって変更されているからです。
蘇我氏の歴史書である、「天皇記」「国紀」において、蘇我馬子は本来の大王だったこの押坂彦人大王を、蘇我の人物として変更しているのです。それは、推古天皇が母親代わりに育てたことも関係する。
聖徳太子の父親とされる、用明天皇は、蘇我氏が関係する欽明天皇と母親は蘇我稲目の娘である堅塩媛との子供です。その用明天皇の子供である聖徳太子は、蘇我氏が主張する蘇我の系譜の中にある人物である。
つまり蘇我の皇子です。継体天皇以降に蘇我の主張する王を系譜に入れたのです。
蘇我の皇子として、蘇我馬子が歴史を改竄した時の蘇我氏の系図に取り込んでいる。この改竄された系図が、秦氏、藤原氏のよって歴史が改竄された時にも用いられている。聖徳太子が謎となっている大きな理由です。
蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという、「天皇紀」「国紀」によって、古代の歴史は変更されました。これは蘇我氏の歴史書であり、天皇とは蘇我の王のことです。
本来の王家とは血縁関係が薄い(本来は全く関係ない)継体天皇が王だという主張はこの時です。蘇我氏の主張に他ならない。
この継体天皇を蘇我の神様ともいえる応神天皇に繋いでいるのです。
継体天皇は蘇我の王である「天皇」ですが、本来の「大王」ではない。
「天皇」とは蘇我の王の呼称である。
神武天皇(武内宿禰)と神功皇后(卑弥呼である台与)との子供が応神天皇であり、継体天皇をこの応神天皇に繋いでいるのです・・・蘇我氏の謎はいづれ書きます。
蘇我氏が関係した欽明天皇の父親である継体天皇は王だったと改竄しているのです。蘇我氏を大王家の系譜に繋いでいるのです。
本来の初代天皇は推古天皇です。推古の父親はこの欽明天皇です。そして欽明天皇の父親は継体天皇です。
用明天皇も同様に古代の大王家と関係のない蘇我氏の人物です。
この用明天皇を聖徳太子の父親として取り込んでいる。蘇我馬子の時代に本来の大王は、押坂彦人大王です。押坂彦人大王を蘇我氏の人物として取り込んでいる。これが聖徳太子が大きな謎となっている理由です。
後に秦氏、藤原氏によって歴史が改竄された時に、この蘇我氏の歴史書である、「天皇紀」「国紀」を参照して改竄されている。
権力を握った蘇我氏、そして秦氏、藤原氏によって改竄されている。
ウイッキペディア・・・法隆寺
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。
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そのお寺に蘇我の皇子といえる推古の息子の竹田皇子が移り住んだということです。斑鳩宮に移り住んだのは、もう一人の聖徳太子である竹田皇子です。竹田皇子没後は山代王(山背大兄王)の住居となっていました。
押坂彦人大王の宮は、水派宮です。
この蘇我馬子と、秦氏、藤原氏の王ともいえる桓武天皇により古代の歴史は変更されている。
二人の聖徳太子、押坂彦人大王と、推古天皇と、その息子の竹田皇子が斑鳩寺の創建に関わることが記載されている、銘文が法隆寺にあります。
この銘文の解釈、謎ときができていないのは、「天皇」は蘇我の王の呼称だということが理解できていないからです。
法隆寺にある金堂薬師像の銘です。これは斑鳩寺の創建の由緒が書かれた貴重な銘文です。銘文にある丁卯年は607年とされます。
蘇我氏によって歴史を改竄された時に作文されたものであり、薬師像は再建斑鳩寺にあったものです。
何度も記述しているところですが。蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる、「天皇記」、「国紀」は蘇我氏の王の正統性を述べるための書物であり、いわば蘇我氏の歴史書です。「天皇」は蘇我氏の王の呼称であり、初代天皇は推古天皇です。
この時に天皇の呼称が使用されたのです。そう、「大王」と「天皇が」が存在したのです。
銘文の大王は、押坂彦人大王であり、天皇は推古天皇、太子とは竹田皇子のことです。620年の「天皇記」、「国紀」の編纂以降に記述されたものです。天皇の呼称はこの620年から使用されている。
法隆寺、金堂薬師像の銘・・・
池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
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この銘文の解釈で問題となっているのは、「大王天皇」です。この時天皇だった推古天皇のことだとされています。漢文の解釈のむつかしいところでもあります。あたりまえだけど「大王天皇」なんて呼称はありません。
「大王」の呼称が、「天皇」の呼称に変わったのではありません。大王と天皇は別の呼称であり、大王である人物と天皇である人物がいた証拠の文章です。
これは、天皇号が使用され始めた時期にも関係します。
天皇号の使用は天武天皇の時代だとされます。ですので、この銘文も7世紀後半に刻銘されたものだと考えられています。
「大王天皇」ではなく、「大王」、「天皇」で区切らなければなりません。そして「太子」です。二人の聖徳太子と推古天皇のことです。この銘文は蘇我氏が天皇の呼称を使用し歴史を改竄した時に作文されたものです。
「大王」とは、押坂彦人大王であり、「天皇」とは推古天皇のことであり、太子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
推古天皇時、大王が存在したのは隋書により明らかです。
隋書倭国伝
姓は阿毎(あめ)字は多利思比孤(たりしひこ)阿輩難弥(おおきみ)と号す。
「大王」の呼称が「天皇」の呼称に変わったのではありません。大王と天皇は異なります。蘇我氏が権力を握った時代であり、この「天皇」は蘇我の王の呼称です。大王より蘇我の王である天皇の方が上位に変更されている。
蘇我馬子が古代の歴史を改竄した、蘇我氏の歴史書といえる「天皇記」、「国紀」編纂時に名付けた蘇我の王の呼称です。蘇我馬子の時代の、蘇我氏の王は、女帝である推古天皇です。
池邊大宮治天下天皇こと用明天皇が天下を治めたたという表現からも、容易な推測です。上記しましたが、用明天皇とは蘇我氏が主張する蘇我の王です。本来の王ではありません。
天皇は蘇我の王の呼称であり、推古天皇は実際の初代天皇であるということが理解できればこの銘文の解釈も難しいものではありません。
蘇我氏による歴史変更の銘文であるともいえます。
銘文にある人物は、大王である押坂彦人大王(隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王)、天皇である推古天皇、太子である、推古天皇の息子の竹田皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡の銘文を謎解けないのは、「大王」と「天皇」は異なるということが理解できていないからです。
隋書の記述からも、推古の時代に、大王が存在していたことがわかります。
この大王とは、敏達天皇の第一王子であった押坂彦人大王です。彼以外ありえません。
聖徳太子こと押坂彦人大王を蘇我の王として系譜を改竄した時に刻銘されたものです。聖徳太子が大きな謎となっている理由です。
押坂彦人大王は敏達天皇と穴穂部間人皇女との子供です。敏達天皇は物部系の王であり、母親の穴穂部間人皇女は物部姫です。蘇我馬子はこの敵対していた物部系の系図を変更している。
用明天皇の父親は欽明天皇であり、母親は蘇我稲目の娘の蘇我堅塩媛です。
推古天皇の父親もまた欽明天皇であり、用明天皇もまた蘇我の関係する王です。
蘇我馬子により、聖徳太子を蘇我の王として系図を変更したために聖徳太子は大きな謎となっている。
『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の資財帳部分に見えるこの薬師像銘
「金埿銅薬師像壱具 / 右奉為池辺大宮御宇 天皇 / 小治田大宮御宇 天皇 / 并東宮上宮聖徳法王、丁卯年敬造請坐者」
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この法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(747年成立)に薬師如来は、藤原氏権力を握った時代にものであり、法隆寺の由緒を変更している。
銘文は正に747年に刻印されたものである。
蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる、「天皇記」、「国紀」は蘇我氏
の歴史書であり、この時変更された歴史を参照して系譜を変更し、藤原氏は法隆寺の創建の由緒を変更している。
金堂薬師像の銘にある「天皇」とは蘇我の王の呼称である。「天皇」と「大王」は異なる。ここが理解できれば銘文の謎ときも難しいものではない。
藤原氏に祟った、聖徳太子こと押坂彦人大王、そして天武の父親である山代大王を祀る法隆寺の由緒を変更している。このときに怨霊封じが行われている。
謎はふたりの聖徳太子が関わります。この地、は天武の父親が殺害された場所であり、鎮魂のお寺である。
ウイッキペディア
法隆寺草創の伽藍は、現在の伽藍から南東に位置する若草伽藍跡とよばれる地にあったとされるお寺です。同地から塔の心礎、金堂と塔の基壇の跡が発見されており、伽藍配置は塔と金堂が南北に一直線上に並ぶ四天王寺式のお寺です。
薬師如来像の造像・刻字の年代は7世紀後半、つまり法隆寺の再建時に新たに造像され、その後、追刻されたとの説が有力である。また、大山誠一は本銘文の成立時期を、上限が持統朝、下限は天平19年(747年)としている(1996年)。上限の根拠は持統朝が初めて天皇号を採用したこと、下限は『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747年成立)に薬師如来像の記録があることによる
643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)によって太子の子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が襲撃され斑鳩宮は全焼したが、法隆寺は類焼を免れた。しかし『日本書紀』によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとあり、
『法隆寺伽藍縁起並(ならびに)流記資財帳』やその他の法隆寺関係文書に火災記事がない
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法隆寺再建の問題点がここです。火災の記事がないため、法隆寺は670年(天智天皇9年)以降に再建されたものではないのではないのかという疑問です。四天王寺式の伽藍配置ということからも推測できますが、この若草伽藍は竹田皇子が亡くなった時に蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇によって造られたものである。これが再建斑鳩である。
607年創建の斑鳩寺は、610年に跡形もなく全焼し、竹田皇子が亡くなった624年以降頃に再建されている。
この説はすでにあるようなのですが、・・・法隆寺の原資料では、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため、日本書紀編纂時に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である610年だったのでないのかという説です。
607年に斑鳩寺が創建されたのですが、610年に全焼したということです。そして蘇我の皇子である推古天皇の息子の竹田皇子没後(624年)に、若草伽藍の場所に新たに創建されたのではないのか?
これが再建斑鳩寺であり、母親である推古天皇や蘇我馬子によって、竹田皇子をまつる釈迦三尊を本尊とするお寺が造られたのではないのか?
これがいま創建法隆寺だとされる若草伽藍に建設されていたお寺である。創建法隆寺ではなく、なく再建斑鳩寺である。斑鳩寺は再建されている。
若草伽藍に建設されたこの再建斑鳩寺は推古の息子である竹田皇子を祀るためのお寺であり、そばに造られた中宮寺は推古天皇のお寺である。この寺院は、全焼して一屋も残さずという状態ではなく、法隆寺を造り始めるときに再利用できるものは使用している。若草伽藍の塔は法隆寺に移築されている。
斑鳩寺は再建されたということです。しかし法隆寺は再建されたのではない。
創建斑鳩寺は、藤ノ木古墳の被葬者を祀るお寺である。蘇我馬子によって殺害された二人の大王家の人物を祀るためのお寺である。
怨霊封じのお寺だともいえる。
624年以降の再建斑鳩寺はこの推古の息子の竹田皇子を祀るお寺です。
そして天武が造った現存する法隆寺は、皇祖と仰ぐ大王だった祖父の押坂彦人大王と、父親である山代王を祀るお寺である。
この法隆寺の本尊は、百済観音であり、お姿は押坂彦人大王である。
そして夢殿に祀られていた白い布で覆われていた救世観音は、天武大王の父親である山代大王であるということです。
それはこの場所で亡くなっているからです。聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山代王(山背大兄王)である。
この夢殿の場所は、元は斑鳩の宮でした。山代王(山背大兄王)の住居であり、傍の斑鳩寺で殺されたのです。
「山背大兄王暗殺の謎と中臣鎌足」のところで、書いてきましたが、殺害者は渡来人である秦氏、藤原氏。秦河勝と、百済渡来人こと偽者の中臣鎌足である。
ですので、この救世観音は祟らないように白い布で包まれて庫裡に入れられ怨霊封じが行われている。
本来は天武大王が亡くなった父親である、この山代王(山背大兄王)を祀るため、住まいしていた場所に夢殿を造り、父親のお姿そのままの救世観音を造り祀っていたのです。天武大王の本当の父親はこの山代王(山背大兄王)である。
ウイッキペディア・・・東院伽藍
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。『法隆寺東院縁起』によると、天平11年(739年)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧行信により創建された。
夢殿は天平11年(739年)の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年(737年)の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。
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737年の東院資財帳には、夢殿の存在が記載されていて、法隆寺東院縁起における、僧行信による739年の創建の話は真実ではありません。これは、斑鳩宮の荒廃を嘆いた行信が、阿部内親王(後の孝謙、称徳天皇)に奏上し太政大臣、藤原房前に命じて東院伽藍を造ったということからも事実ではない。藤原房前は737年に没しています。
おそらく、東院伽藍は天武大王により、法隆寺の西院伽藍が造り始められたと同じ時期頃に建設されていると思います。
737年は藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が天然痘で亡くなった年です。これは長屋王の怨霊と考えられていました。
この739年は、藤原氏によって法隆寺の怨霊封じが行わた年である。それは、この救世観音は、この地で殺害した聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山代王(山背大兄王)だからです。殺害した犯人は蘇我氏ではなく秦氏、藤原氏です。
天武大王により、夢殿に祀られていた救世観音が祟らないように白い布で覆われたのはこの時です。この怨霊封じを行ったのが、僧行信であるということです。739年は創建された年ではなく藤原氏によって怨霊封じが行われた年である。
藤原氏に祟った後に、法隆寺西院伽藍の本尊も百済観音から釈迦三尊に変更されている。押坂彦人大王や山代王(山背大兄王)を祀るお寺だとい由緒も変更されている。彼らも祟ったのです。聖徳太子の怨霊を封じるための寺という説は成り立ちます。
押坂彦人大王ー山代王(山背大兄王)ー天武大王ー高市大王ー長屋大王
この系譜が変更されていています。彼らは全員本来の王、そう大王でした。ですが、大王に即位していなと改竄されている。
大王家と対立して、山代王(山背大兄王)や長屋大王を殺害したのは、渡来人である秦氏や藤原氏です。
押坂彦人大兄皇子は古代史において最重要人物です。そう聖徳太子です。
そして、彼が大王だったといことは、これまでなんども記述してきましたが、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文、木簡の記述、万葉集からも明らかです。
隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。
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もう何度も記述していますが、この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の謎解きは私には凄く容易なものでした。この銘文の謎ときはまちがっていません。
日十大王は継体天皇のことではありえません。継体天皇は天皇だと主張しているのは蘇我氏、蘇我馬子であり、本来の王ではありえません。
その人物が、大王と表現されることはありません。
この銘文が謎解けないのは、「大王」と「天皇」は異なるということが理解できていないからです。古代の歴史は変わります。
この押坂彦人大兄皇子は古代史においては最も重要な人物の一人です。
そう聖徳太子であり、大王に即位していました。隋の使者が謁見したのはこの押坂彦人大王です。男の王であり。大王(おおきみ)です。
天武が皇祖仰ぐのがこの祖父の押坂彦人大兄皇子です。日十大王です。
二人の聖徳太子、この押坂彦人大兄皇子の事跡と、竹田皇子の事跡が、聖徳太子の名の下で混同している。
日本書紀下巻の天皇は全てこの押坂彦人大兄皇子から繋がります。本来はもちろんこの押坂彦人大兄皇子が大王に即位していたとして記述されていました。それが後に藤原氏によって変更されている。記紀は改竄されている。
秦氏、藤原氏は押坂彦人大兄大王の後胤と対立して大王家を滅ぼしたからです。
写真は有名な「唐本御影」の聖徳太子の肖像画です。聖徳太子は一万円札の肖像画はこれです。
この肖像画は、百済の阿佐太子の筆とされていますが、その服装などから、天武朝に描かれたものとされます。
天武朝の制作ということは、天武が皇祖と仰ぐ祖父の厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の肖像画であり、左右に王子たち、天武のお父さんである山代王 (山背大兄王)と、孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王の肖像です。
もちろん法隆寺に伝わるものであり、法隆寺は彼らを祀るために天武大王が造ったお寺です。
それが後に藤原氏により怨霊封じのお寺となっている。
向かって右側が、天武の父親である山代王(山背大兄王)と、左側が斉明天皇、孝徳大王の父親の茅渟王です。
この三人は、もちろん大王に即位していました。
591年天皇に即位したのが推古であり、593年大王に即位したのがこの押坂彦人大兄皇子です。
聖徳太子は、この年、593年に「摂政」という官職に就いたとされますが、この時代にはそんな官職はありませんでした。
そうではなく大王に即位した年です。押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことを消すために
摂政という官職に就いたと後に改竄されているのです。
大王に即位した年が、「法興」元年であり、初めて使用された元号です。
押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王―天武大王―高市大王―長屋大王
押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟大王―孝徳大王―有馬皇子
押坂彦人大兄皇子こと日十大王の子孫と対立していたのは、 天智系の天皇(秦氏)や、藤原氏だということは、
この系譜を見れば容易にわかります。
以前に書きましたが、聖徳太子こと押坂彦人大兄大王の王子である、山代大王を殺害したのは渡来人である、秦氏、藤原氏である。
本来の大王である天武の父親は、押坂彦人大兄大王の王子である、この山代大王である。子孫を消された聖徳太子の王子である山背大兄王のことです。
大王家と対立していた天智系天皇である桓武天皇、そして藤原氏により系譜の改竄がなされている。
聖徳太子一族は滅んだとして天武の系譜を改竄している
天武と天智は兄弟ではない。桓武天皇は天智を天武の兄として系図を変更し、天武の父親を変更したのです。
法隆寺にある、釈迦三尊像光背銘は、この押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年(摂政になったとされる年であり、推古元年である591年ではありません)から三十一年、つまり、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある、「葵未年」の623年ということです。
法興は日本最初の元号であり、元年は593年です。
銘文どおり、翌年亡くなったのが蘇我の皇子である推古の息子の竹田皇子です。おそらく伝染病であり、もう一人の聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子も同年に亡くなっている。聖徳太子没年は624年です。
この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文と、釈迦三尊像光背にある銘文は一致します。
法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文・・・
法興の元(593年推古元年 本当は聖徳太子元年)より三十一年(623年、隅田八幡神社人物画像鏡冒頭の(葵未年)です)、歳は辛巳に次る十二月鬼(一日?)、
前太后(竹田皇子の前の皇后、おそらく菟道磯津貝皇女(東宮聖徳に嫁いだ))崩ず。
明年(624年)正月二十二日、上宮法皇(竹田皇子)、病に枕し、干食し悆からず
王后(竹田皇子の次の妃膳部菩岐々美郎女)、よりて労疾を以て、ならびに床に著きたまふ
時に王后(膳部菩岐々美郎女)・王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒を懐きて、
共に相ひ発願す
仰ぎて三宝に依りて、当に釈像の尺寸王身なるを造るべし。
此の願力を蒙り、病を転じ寿を延し、世間に安住す。
若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、
早く妙果に昇らむことを。
二月二十一日癸酉の日、王后即世す。翌日法皇登遐(崩御)す。
癸未年(623年)の三月中、願の如く敬みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を
造り竟りぬ。
斯の微福に乗り、信道の知識、現在には安隠にして、生を出でて死に入らば、
三宝を紹隆して、共に彼岸を遂げ、六道に普遍する法界の含識も、苦縁を脱することを
得て、同じく菩提に趣かむ。
司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。
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銘文は、正史とされる日本書紀、古事記の改竄箇所を暴くものです。敏達天皇の第一王子である押坂彦人大兄皇子が大王に即位していたことが消されています。
隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の内容と、この法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文の内容は一致します。
本来は病気が快復を祈願するための仏像です。しかし残念ながら、竹田皇子は翌年亡くなっています。銘文は亡くなって作文されたものです(本来は病が快復するようにとの銘文のはずですが、世を去られることになったら浄土に登って悟りを得るようにとの内容から)。
この仏像はもちろん、若草伽藍に再建された斑鳩寺に安置されていたものです。斑鳩寺は、蘇我氏のお寺であり、この当時の権力者である蘇我馬子が建てたお寺です。
銘文にある、法興元年は、崇峻天皇四年である、591年とされますが間違っています。
この「法興」こそ、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことにより、実際に使用された日本最初の公年号であり、元年は593年です。法興元年から三十一年は、623年であり、これは、隅田八幡神社人物画像鏡冒頭の(葵未年)です。
聖徳太子の命日は、この釈迦三尊像光背にある銘文と日本書紀の記述では異なります。
押坂彦人大兄皇子の命日は、書記にある624年2月5日であり、竹田皇子は624年2月22日である。
これは、聖徳太子に名称でふたりの人物が混同されているからです。
銘文中には聖徳太子のことを、上宮法皇と、「皇」の文字が使用されていることからも推測できますが、「天皇」とは本来は蘇我の王の呼称であり、上宮法皇とは蘇我の皇子である推古の息子の竹田皇子のことです。
620年に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる、「天皇記・国記」以降に、「天皇」の呼称は使用されている。
天皇の呼称は天武朝に使用され始めたとされますが、そうではないということが、この釈迦三尊像光背にある銘文がからも推測できます。「大王」と「天皇」は異なるり、この時蘇我氏により歴史は変更されている。
隅田八幡神社人物画像鏡は、蘇我の王子である推古の息子の竹田皇子が病気(おそらく伝染病)にあった時に、蘇我馬子が神様に回復をお願いしたものです。
纏めてみます。
*法隆寺金堂内の、ふたつの仏像の後背の銘文から、法隆寺創建は607年、そして624年と推測されています。
しかし、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものでるとされ、現存法隆寺は607年に創建されたという法隆寺(斑鳩寺)ではない。
つまり再建されていると考えられています。
しかし607年に創建されたという斑鳩寺と、現存法隆寺は同じ寺ではない。
*現存法隆寺は、7世紀後半に造り始められたものであり、この時、大王だった天武大王によって、祖父の押坂彦人大王や父親、山背大兄王を祀るためのお寺です。天武の在位期間時、673年頃に造り始められ、700年頃にはほぼ完成していたのだろうと思います。
しかし彼らは藤原氏に祟りました。法隆寺創建の由緒は、藤原氏によって変更されている。藤原氏は、押坂彦人大王の後胤と対立し何人もの大王家の人物を殺害している。
*法隆寺金堂壁画は全体で50面程ありますが、そのうち12面は1949年の火災により残念なことに焼損してしまいました。この火災をきっかけに文化財保護法が制定されることになりました。
壁画の技法や様式は唐時代の初期の影響を受けているとされ、壁画の制作時期は7世紀最末期から8世紀のごく初期頃と推測されています。
壁画の製作時期、そして木材の年輪年代測定においても、7世紀末の木材が使用されていて、法隆寺の創建は7世紀末と推定できます。つまり、法隆寺はこの時期に大王だった人物が建てた寺院です。
聖徳太子に関する創建の由緒は事実ではなく、法隆寺は天武大王が、祖父や父親を祀るために建設した寺院である。斑鳩寺と法隆寺は異なるお寺である。現存法隆寺創建は700年頃である。
*天武大王の父親は、押坂彦人大王の王子である山背大兄王です。この山背大兄王も大王に即位していました。斑鳩の宮において山背大兄王を殺害した真犯人は、秦氏、藤原氏である。この対立は百済救援の出兵が関わる。
*この斑鳩の宮は、法隆寺の夢殿の場所は山背大兄王の住居でした。ここ夢殿において祀られている救世観音は、この斑鳩の宮傍の再建斑鳩寺で亡くなった山背大兄王である。藤原氏に祟ったため、これ以上祟らないように白布で包まれていた。怨霊封じである。
*法隆寺金堂内の、ふたつの仏像(銅造薬師如来、釈迦三尊像)の後背の銘文から、法隆寺創建は607年、そして623年(本当は624年)と推測されています。
そして何故か古い由緒を刻む薬師如来よりも、釈迦三尊像の方が金殿の本尊になっている。
創建斑鳩寺の本尊は607年の創建の由緒が刻まれている銅造薬師如来坐像だと推測できますが、仏像の様式や鋳造技法、そして薬師如来信仰の関係により本尊ではないと疑問がかけられています。
この銅造薬師如来坐像よりも、聖徳太子(竹田皇子)が亡くなった時に造られたとおもわれる釈迦三尊像の方が古い時代のものである。
*日本書記 天智九年
夏四月癸卯朔壬申夜半之後災法隆寺一屋無餘 大雨雷震
日本書紀、天智九年(670年)、法隆寺は焼失して一屋も余さなかったと記述されています。若草伽藍にあったとされるこの法隆寺の本尊は釈迦三尊像であると推測されていますが、この大きな仏像を火災時に搬出するのは難しい。
つまり若草伽藍に建設されていた法隆寺(斑鳩寺)は、日本書紀が記すほどの火災にはあっていない。日本書紀の記述は疑われています。
*日本書紀の記述によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとされていますが、「隆寺伽藍縁起並流記資財帳」や、その他の法隆寺関係文書には火災記事がない。ですので、このことからも日本書紀の記事にも疑問が投げかけられている。
*法隆寺は一屋もなく全焼したとされますが、元の斑鳩寺あったとされる若草伽藍は、火災の跡はあるものの一屋もなくという記述とは異なる状態である。この若草伽藍にあったとされる法隆寺(本当は再建斑鳩寺)は、焼失してはなく、天武により、再利用して、北側に造られたお寺が今現存する法隆寺である。それはこの若草伽藍にあった再建斑鳩寺において父親である山背大兄王が殺害されたからです。殺害された場所にあるこの再建斑鳩寺を取り壊して、新たに建立したのが現法隆寺である。
全焼して一屋も余さなかったということなら、なにもない平地であるこの場所(若草伽藍)に再建されるはずである。それが、北側の尾根を削って、谷を埋めてまで、別の場所(いまの法隆寺)に建設しているということは、この若草伽藍には建物が存在していたはずである。
若草伽藍跡に今も残る五重の塔の心磁石が何よりの証拠である。五重の塔は心柱は再利用されている。壊しながら別の場所に造り始めたため、本来は再利用するべきはずの心磁石が残った。つまり塔は移築されている。ですので五重の塔は飛鳥時代の塔の様式である。
*法隆寺は金堂と塔が東西に並ぶ形である。これは、四天王寺のような金堂、塔を南北に配置する飛鳥時代の様式とは異なる。現存法隆寺は飛鳥時代に造られたものではなく7世紀半ば以降の建築様式である。しかしながら、若草伽藍にあった再建斑鳩寺を再利用したために古い様式が残っている。
*今現存する法隆寺の本尊は、百済観音である。それが、藤原氏により、寺の由緒を変更するときに、本尊を釈迦三尊像に変更されている。ですのでこの百済観音は、由来のわからない謎の仏像になっている。
変更の理由は、天武大王が祀っていたのは、押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や山代大王(山背大兄王)だからです。彼らは藤原氏に祟りました。山背大兄王を殺害したのは秦氏、藤原氏です。蘇我氏、蘇我入鹿ではない。
押坂彦人大王も山代大王(山背大兄王)も、もちろん大王に即位していました。殺害した人物が大王だと都合が悪い藤原氏は系譜を改竄し、彼らは大王に即位していなように変更しています
山代大王(山背大兄王)が住まいしていた斑鳩の宮の場所は、いまの法隆寺の東院伽藍、夢殿がある場所である。つまり法隆寺夢殿の本尊である救世観音は、この山背大兄王である。これ以上祟らないように木綿の布で包まれ厨子に入れられていたのです。
百済観音(この名称は良くない。百済なんてとんでもない。変更するべき)は、押坂彦人大兄大王のお姿。救世観音は、この山背大兄王のお姿である。
*747年の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」には、7世紀中、後半に作られたとされる百済観音に関する記述がない。後に他の寺から移されたとも推測できすが、それはあり得ないように思う。つまり、この百済観音が本来の本尊だったからだとも言えます。この時に法隆寺の縁起が変更され祀られている人物も変更している。そして法隆寺の本尊も変更されている。
それは百済観音はこの押坂彦人大兄大王だからです。
*若草伽藍跡からの発掘調査により、この地に造られている寺は、四天王寺と同様の造りであり、金堂、講堂が南から北に並ぶ配置だったとされます。
これは四天王寺同様に仏教導入を行った蘇我氏、蘇我馬子によって造られたお寺である。蘇我氏に関係するお寺である。
このお寺は607年に創建された法隆寺(斑鳩寺)ではなく、蘇我の皇子である推古天皇の息子竹田皇子が624年に亡くなった時に、彼を祀るために推古天皇や馬子によって造られたお寺である。
創建斑鳩寺は、藤ノ木古墳に眠る、物部系の大王を祀るためのお寺である。
若草伽藍跡に造られたお寺は創建法隆寺(斑鳩寺)ではない。
法隆寺の原資料では、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため、日本書紀編纂時に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である610年だった可能性がある。
つまり607年創建の斑鳩寺は、610年に火災のため一屋も残さず消滅。
その後、624年に推古天皇の息子竹田皇子が亡くなった時に若草伽藍に造られた。ただし、この若草伽藍の場所は、創建斑鳩寺が建てられていた場所ではないように思う。
年輪年代測定により、7世紀後半、天武大王により造り始められたのが今現存する法隆寺である。天武大王により、祖父の押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や山代大王(山背大兄王)を祀るお寺である。
藤原氏に祟った後に、由緒は変更され、怨霊封じのお寺となっている。
長屋王が祟って藤原四兄弟が呪い殺された時以降に、この法隆寺は怨霊封じのお寺となった。それは法隆寺の本尊であり、押坂彦人大兄大王のお姿であるからである。
この百済観音は、日本で造られた仏像であるのに、何故か百済から渡来したとの言い伝え(本来は虚空蔵菩薩)があり?仏像の由来が変更されるようになってしまっている。百済観音の名称は近年に名付けられたものであり、この仏像は日本で造られたものである。ですのでこの百済観音の名称はよくない。変更すべきです。
天武が造った法隆寺は祖父の押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や山代大王(山背大兄王)を祀るお寺である。
長屋王はこの押坂彦人大兄大王や山代大王の後胤である。大王家と対立していたのは秦氏、藤原氏である。
押坂彦人大兄大王以降の系譜は変更され、彼らが大王だったことが変更されている。
いま法隆寺の本尊は釈迦三尊像であるのですが、この釈迦三尊像は623年に造られたものであり、607年に創建されたとされる斑鳩寺の本尊ではない。創建斑鳩寺の本尊は火災により焼失している可能性がある。
607年創建であるのなら、釈迦三尊像が本尊になっているのはおかしいわけです。
この釈迦三尊像が本尊だったお寺は、竹田皇子が亡くなった時に母親の推古天皇や蘇我馬子が造った、若草伽藍に造られたお寺、再建斑鳩寺(斑鳩寺と呼ばれたかは不明)である。この再建斑鳩寺は蘇我氏が権力を握った時に造られた蘇我氏のお寺であり、法隆寺とは祀られている人物が異なる。
蘇我氏が滅び、物部系の大王である天武大王の時代になって、蘇我の寺を、本来の物部の大王を祀るお寺に造り変えている。それは父親である山背大兄王がこの場所で殺害されたからでもある。新たに法隆寺を造った理由である。
法隆寺の本尊はこの百済観音でああり、仏像にモデルがあるとすれば、聖徳太子こと押坂彦人大兄大王である。
結論は・・・
創建斑鳩寺の本尊は、607年の創建の由緒が刻まれている銅造薬師如来坐像だと推測できますが、仏像の様式や鋳造技法、そして薬師如来信仰の関係から現本尊である、釈迦三尊像の方が古い時代のものである。
この釈迦三尊像は623年に造られたとされ、607年創建の斑鳩寺の本尊ではありえない。銅造薬師如来坐像は、623年以降に造られた仏像である。
この銅造薬師如来坐像銘文は、本来はは蘇我馬子によって作文されたものだと思うのですが、藤原氏によって法隆寺の由緒を変更した時(長屋王の変以降、藤原四兄弟に祟った後)に、薬師如来像に刻まれたものだと思うのですが?
法隆寺は、天武大王によって、創建され、祖父の押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や王子たち、この山代大王(山背大兄王)や孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王をを祀るお寺であるという事実を変更したかったからです。本来の由緒を変更するための銘文である。
さらに法隆寺金堂のこの大きな釈迦三尊像には火災の跡がない。日本書紀の記述によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとされていますが、「隆寺伽藍縁起並流記資財帳」や、その他の法隆寺関係文書には火災記事がありません。
法隆寺の原資料では、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため、日本書紀編纂時に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である610年だった可能性がある。
607年に蘇我氏により創建された斑鳩寺は、610年に火災にあい一屋も残さず全焼。このときに本尊も失われている。その後、蘇我の皇子である、推古の息子の竹田皇子が、624年に亡くなった時に、彼を祀るために若草伽藍に造られたのが再建斑鳩寺である。この再建斑鳩寺の本尊こそ、623年に造られた釈迦三尊像であり、モデルはもう一人の聖徳太子でもあるこの竹田皇子である。
この時以降に、607年の創建の由緒が刻まれている銅造薬師如来坐像も作られている。ただしこの銘文は蘇我氏の時代に、蘇我の王、つまり「天皇」の呼称を使用しての銘文である。
蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)が編纂した「天皇記」、「国紀」は620年の編纂です。この時に「天皇」の呼称は使用されている。
蘇我の王の呼称は「天皇」ですが、本来の王の呼称ははもちろん「大王」である。銅造薬師如来坐像の銘文にも、「天皇」と「大王」の文字が使用されている。
この銘文は蘇我馬子によって造られた蘇我氏の王である、「天皇」の方が上位に位置づけられるような内容、天皇が統治していたという内容の銘文である。
蘇我馬子のよって歴史が改竄されている。それは本来の王家は物部氏が深く関わるからである。
そして藤原氏も、蘇我氏の歴史書ともいえる「天皇紀」「国紀」など、蘇我氏によって変更された歴史を基にして新たに歴史を改竄している。秦氏、藤原氏もまた物部系の大王と対立していました。
この斑鳩寺や再建斑鳩寺は蘇我氏によって造られた寺院であるのですが、現法隆寺は、物部系の王である天武大王によって700年頃に創建された寺院である。
百済観音は、本来は観音菩薩像であり、飛鳥時代後期、680年~690年頃に造られた仏像であると推測されています。つまり、現法隆寺の本尊はこの百済観音です。モデルは天武が皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大王であり、本来の聖徳太子です。
押坂彦人大王ー山代王(山背大兄王)ー天武大王ー高市大王ー長屋大王
この系譜が変更されていています。彼らは全員本来大王でした。
天武大王の本来の父親はこの山代王(山背大兄王)です。藤原氏によって系譜の変更がなされている。この山代王(山背大兄王)も大王でした。彼を殺害したのは、蘇我氏ではなく秦氏、藤原氏である。長屋大王を殺害したのも彼らである。
現法隆寺の夢殿の場所は、元は斑鳩の宮であり、山代王(山背大兄王)の住居であり傍の若草伽藍にあった再建斑鳩寺で殺されたのです。つまり、天武大王が亡くなった父親である、この山代王(山背大兄王)を祀るため、宮として使用していた斑鳩の宮に夢殿を造り、父親のお姿そのままの救世観音を造り祀っていたのです。山代王(山背大兄王)も大王に即位していました。
その後、長屋王が秦氏、藤原氏に祟った後に、この救世観音は祟らないように白い布で包まれて庫裡に入れられ怨霊封じが行われている。長屋王は押坂彦人大王の後胤であり本来の大王でした。押坂彦人大王の後胤である大王家の人々を殺害したのは秦氏、藤原氏である。彼らは秦氏、藤原氏に祟りました。
藤原四兄弟が彼らの祟りによって亡くなった後に、法隆寺の本尊は変更されている。それは法隆寺の本来の本尊である百済観音は、押坂彦人大王であり、夢殿にある救世観音は、殺害した山代王(山背大兄王)であるからです。
現法隆寺は、天武大王により、祖父の押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や王子たち、この山代大王(山背大兄王)や孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王をを祀るお寺である。斑鳩寺は蘇我氏の寺院であり、現法隆寺は物部の寺院であるといえます。
つまり、蘇我の皇子である、推古の息子の竹田皇子が、624年に亡くなった時に、彼を祀るために若草伽藍造られた再建斑鳩寺は、全焼するという火災にはあっていないと推測でき、物部系の王である天武によって現法隆寺が造られる時に、蘇我氏の寺院である、この再建斑鳩寺は壊され、部材は再利用されている。
この場所に法隆寺を創建したのは、やはり父親である山代王(山背大兄王)が亡くなった場所であるからだと思います。若草伽藍委あった再建斑鳩寺を壊したのも蘇我氏の寺院であるからでもあります。天武大王は物部系の大王です。
写真は藤ノ木古墳です。秋には周辺に植えられているコスモスが咲きます。
藤ノ木古墳は、「みささき」と呼ばれていました。これは大王のお墓であるということです。
藤ノ木古墳の被葬者は、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子が有力な被葬者と推測されています。
崇峻天皇陵だという伝説も存在します。
この二人は蘇我馬子によって殺されています。ですがおかしいですよね。
系図をみれば分かりますが、この二人は蘇我の皇子ですよね。
二人とも欽明天皇と、母親は蘇我稲目の娘である、蘇我小姉君です。どうして蘇我馬子は蘇我の皇子であるこの二人を殺害したのでしょうか?
彼らは敵対していた大王家、つまり物部系の人物です。系図が変更されている。もう一人の候補者である宣化天皇の王子とされる宅部皇子も物部の王子である。
この「穴穂部」は、物部氏が関わる。第20代天皇である安康天皇は穴穂天皇とされ、、即位すると宮を石上に遷し、「石上穴穂宮」とされます。石上には石上神宮があり、物部の本拠地である。この安康天皇も同母弟の雄略天皇も物部氏の大王である。
物部守屋がこの穴穂部皇子を擁立しようとしたのは当然のことである。物部の王子である。
聖徳太子の母親とされる、穴穂部間人皇女ももちろん物部の女性である。
蘇我氏による系譜の変更箇所です。もう何度も書いているところですが、・・・。
推古天皇の父親は欽明天皇です。欽明天皇の父親は継体天皇です。蘇我氏はこの欽明天皇を擁立しようとします。
そして安閑、宣化天皇も継体天皇の皇子たちだとされますが、そうではない。
彼らは倭王武こと雄略天皇の息子たちであり、物部系の本来の大王家の人物です。
継体天皇もちろん実在の人物ですが、本当の王ではない。
応神天皇・・・継体天皇ー欽明天皇ー推古天皇
蘇我氏が主張する女系
応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子ー顕宗天皇ー仁賢天皇
ウイッキペディア・・・市辺押磐皇子
『播磨国風土記』に「市辺天皇」とあり、皇統譜には記載されていないが、実質的にあるいは実際に天皇に即位していた可能性が指摘されている。
飯豊青皇女
第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。
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市辺押磐皇子の娘である飯豊天皇も天皇だったとされます。そう天皇でいいのです。天皇とは蘇我の王の呼称です。
天皇記・国紀において系譜を改竄した時に、さかのぼって継体天皇の皇后であり欽明天皇の母親である手白香皇女の系図を本来の大王家に繋ぐ操作がなされている。蘇我氏が関係する天皇の正統性を述べている。
顕宗天皇、仁賢天皇の奇妙な即位の話は作り話です。手白香皇女は仁賢天皇の娘です。欽明の母親を大王家に繋ぎ蘇我氏の正統性を主張している。
欽明は継体の三男とされますが、兄たちより、女系において天皇の血が繋がっていると改竄している。欽明擁立の正統性を主張している。
二人の兄である安閑天皇と宣化天皇の母親は大王家とは繋がらない尾張連草香の女である目子媛です。そして彼らは継体天皇の皇子たちではない。
そしてもちろん欽明天皇も本来の王ではありません。欽明天皇時には
本来の大王はいます。しかし蘇我馬子により消されている。
敏達天皇や、穴穂部皇子、泊瀬部皇子などは欽明天皇の皇子たちではない。
安閑天皇には子供がいません。そんなはずはありあません。安閑天皇の後胤を消し去っているので、ここが系譜改竄尾の箇所であると推測できます。
消されているので本来の大王は誰だかわかりませんが、この本来の大王の子供たちを欽明の子供たちに取り組んで蘇我氏を大王家に繋いでいる。欽明天皇の子供たちのほとんどは欽明の子供たちではない。
聖徳太子である押坂彦人大兄皇子の父親である敏達天皇を欽明天皇の皇子に変更している。本来の大王家の人物である、敏達天皇は欽明天皇の王子ではない。
安閑天皇の王子であるはず、・・・しかし消されている。
唯一の手掛かり?・・・
ウイッキペディア 安閑天皇
記紀に皇子女の記述はない。『本朝皇胤紹運録』によれば子に豊彦王(とよひこのみこ)がいるという。秦氏は通常は秦の始皇帝の子孫とされるが、この記載に従えば安閑天皇の落胤となる。しかしこの豊彦王については他に史料が見当たっておらず所拠不明である
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これ、秦氏が後胤と主張しているのであれば、なんかこの豊彦王の実在に信ぴょう性があるように私には思えるのですが・・・???
秦氏は本来の大王家の人物に繋いでいるように思うのですが・・・?
蘇我氏は物部氏と対立し、本来の大王家の人物であるこの穴穂部皇子、泊瀬部皇子を殺しました。彼らは大王に即位していました。斑鳩寺は蘇我氏による藤ノ木古墳の被葬者の祟りを鎮めるためのお寺である。
四天王寺は物部守屋、同じく斑鳩寺も本来の大王だった藤ノ木古墳被葬者を祀るためのお寺である。
敏達天皇の後、王子である押坂彦人大兄皇子はまだ若かったため、次期大王をめぐって争いが起こっている。用明天皇は王ではありません。
物部系である敏達天皇の弟である穴穂部皇子が大王に即位している?暗殺されたのちには、弟の泊瀬部皇子(崇峻天皇)が大王に即位している。彼らは物部の大王であり、正統な王位継承者である。
この二人を殺したのは蘇我氏である。蘇我馬子は系譜を改竄する必要があったのです。蘇我の人物として変更している。
藤ノ木古墳の被葬者は、本来の大王だったこの二人である。御陵と呼ばれるのはこれが理由です。この二人を祀るために物部の大王である押坂彦人大兄大王によって造られたのが斑鳩寺である。
敏達天皇崩御年585年、穴穂部皇子の崩御年は587年、崇峻天皇の崩御年は592年、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年(摂政になったとされる年)です。彼らが本来の大王です。ですので、聖徳太子こと押坂彦人大王が斑鳩寺の創建に関わっている。
つまり
倭王武こと雄略天皇ー安閑天皇ー豊彦王?ー敏達天皇ー穴穂部皇子ー崇峻天皇ー押坂彦人大兄皇子ー山代王ー茅渟王ー孝徳大王ー天武大王ー高市大王ー長屋大王ー鈴鹿大王
彼らは物部系の本来の大王である。
それでは全焼したとされる創建斑鳩寺はどこにあったのだろうか?
ここはもちろん私の推測ですが、斑鳩寺はこの藤ノ木古墳の被葬者を祀るためのお寺だとすると、もっとこの藤ノ木古墳近くのはずである。
藤ノ木古墳の東側、若草伽藍の西側の場所にあったと推測するのですが・・?これは、若草伽藍に建立されたお寺は、南北に一直線上に並ぶ伽藍配置だったとされるのですが、正確には藤ノ木古墳に正対するようにやや西南西(およそ西に二十度)に傾くのです。斑鳩条里とよばれる土地区画です。これは創建斑鳩寺の跡地自体が傾いていたので、この跡地に並んでお寺(若草伽藍)を建立したからのように思うからです。
ですので、藤ノ木古墳と、若草伽藍に間に創建斑鳩寺は存在していたように思うのですが・・・?
藤ノ木古墳の南部に接してには宝積寺というお寺が存在していました。このお寺は藤ノ木古墳の被葬者を供養するためのお寺であるはずです。どういうことかというと、若草伽藍に造られたお寺は、この藤ノ木古墳の被葬者を祀るお寺ではないということです。
物部本宗家が滅び、蘇我氏が権力を握った時代に造られたこの再建斑鳩寺?は、推古の息子の竹田皇子を祀るお寺であり、蘇我氏のお寺といえます。
ですので、別に藤ノ木古墳を祀るお寺を造った、それがこの宝積寺ではないのかな?この宝積寺は、創建斑鳩寺の跡地に造られていた可能性もあるようにも思いますが、火災があった場所とは異なった場所に造られているように思います。ですので、藤ノ木古墳の東側に接して、創建斑鳩寺が存在していたように推測しています。
蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇は、何故にこの物部の地に竹田皇子を祀るお寺を造ったかというと、太子道を通ったのが、仏教に深く帰依して藤ノ木古墳の被葬者を祀っていたのが、この竹田皇子だからです。
蘇我の皇子ともいえる竹田皇子は、蘇我氏と物部氏の争い(丁未の乱)にも参戦しています。
蘇我氏によって殺害された被葬者を供養していたのです。
押坂彦人大兄大王が大王の時代、太子だったのはこの竹田皇子です。この斑鳩の地の上宮というところに、聖徳太子が晩年を過ごしたとされる飽波葦垣宮の遺構が発見されています。この地で聖徳太子は亡くなったという伝承が存在します。
写真は、矢田坐久志玉比古神社です。地名の矢田は物部氏が関わります。
物部の神様である、櫛玉饒速日命が祭られています。
この饒速日命が降臨するときに、住居を決めるときに三本の矢を射ったらこの地に落ちたという伝承があります。その内の二の矢が落ちた所が、この神社の場所です。
饒速日命は天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
最初に移った土地がここ矢田である。奈良盆地北西に位置する矢田丘陵があり、斑鳩の地はこの矢田丘陵の南部に位置する。
この文字、「斑鳩」でどうして「イカルガ」と読むのでしょう?これずっと不思議だったのですが、物部氏が天下った河上の地とは、「イカルガの峰」であるのです。
饒速日命が降臨した場所が、河内国川上哮ケ峰(いかるがみね)なのです。どちらも「イカルガ」です。
この地名は関係しているはずです。この地は物部氏の土地であり、大和王権、つまり「大王家」とは物部氏のことである。
藤ノ木古墳の被葬者は、この物部の大王である、穴穂部皇子と崇峻天皇であり、穴穂部皇子も大王に即位している。
穴穂部皇子の同母姉であり、聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女も、物部姫である。その子供の押坂彦人大兄大王も物部氏の大王である。
聖徳太子こと押坂彦人大兄大王は、敏達天皇と皇后である息長真手王の娘の広姫の王子ではない。
敏達天皇と、母親はもちろん穴穂部間人皇女である。穴穂部間人皇女は物部姫であり、息長氏とは蘇我氏のことである。蘇我馬子による系図の改竄箇所である。
磯長にある叡福寺北古墳は、竹田皇子のお墓であり、推古天皇が合葬されていた。この磯長は蘇我氏の墓域である。
穴穂部間人皇女はのお墓は延喜式にあるように、竜田清水墓である。このお墓の場所は不明ですが、竜田の地は斑鳩のそばであり、物部の土地である。
二人の聖徳太子・・・お母さんも混同されている。
今も斑鳩の地は「物部さん」と呼ばれているそうです。物部本宗家の土地である。
そして法隆寺には、物部守屋の遺品(甲冑、鎧など)が数多く残っています。法隆寺に祀られている押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や山代大王(山背大兄王)は物部の大王である。そして天武もまた物部の大王です。
藤ノ木古墳には、崇峻陵の伝承があります。物部系の大王である、穴穂部大王や崇峻大王のお墓です。そしてこの藤ノ木古墳は合葬墓です。これはもとは穴穂部大王のお墓だったのですが、崇峻大王が追葬されている。穴穂部皇子もまた大王に即位している。物部の大王である。