ブログのテンプレートを変更しました。すると長文だと読みずらいですよね。
この記事も前回の投稿に繋げるつもりでしたが新たな記事として投稿します。
ですので、投稿を多くし記事を短くしていきます。
写真は明日香村にある、天武天皇とその皇后である持統天皇の陵とされる檜隈大内陵です。野口王墓といわれます。
古墳時代終末期の古墳で形状は八角墳です。この時代には、王墓は前方後円墳から八角墳に変わっているとされます。
治定が確実な陵墓とされまが、治定には紆余曲折があったようです。
天武持統陵は、隣にある見瀬丸山古墳との見解もあったようです。この見瀬丸山は最終期の前方後円墳であり、巨大な古墳が多くあり古代の都である、奈良県でも最大の古墳です。
この巨大な古墳の被葬者が、誰かわからないといことは本来あり得ません。天皇より大きな古墳に眠る人物はもちろんいるわけないわけですよね。
ところが、この見瀬丸山古墳の築造時期に天皇だとされている人物のお墓はすでに治定されていますよね。見瀬丸山に治定されている天皇はいなく、今は陵墓参考地ということになっています。
するとね、頂点にいる天皇より大きなお墓に眠る人物が他にいるというこですよね。全くおかしい話ですよね。
この古墳はもちろん大王の古墳です。誰のお墓であるのかわからなくなっているのは系譜を改竄し大王だったことが消されている人物です。
大王だった人物を王だったという事実を消し去ったためこの古墳に眠る人物を治定することができていない。
意図的に変更されているわけですから、藤原の時代の文献を参照する限り治定することはできません。
見瀬丸山古墳関しては、もうすでに「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎」のところで書きましたが、・・・大王であることを消された人物、そして奈良県最大の古墳に眠るにふさわしい人物、・・・それは聖徳太子こと、天武が皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大王です。
見瀬丸山古墳は、元は天武の本来の父親である、聖徳太子の王子である山背大兄王こと山代王のお墓でした。
天武の時代になって、蘇我氏によって磯長に埋葬されていた、押坂彦人大王を、子供であるこの山代王のお墓に移葬し、さらに大きな古墳に造り変えたのです。
天武、持統陵とされる檜隈大内陵に関しては、天武陵との治定はいいように思うのですが、持統天皇の謎を考えていると、・・・つまり天武の本来の皇后は額田王だということを考慮するとですが、この古墳に持統天皇が合葬されているとの話には私には疑問があります。
つまり、合葬されているのであれば本来の皇后である額田王の方ではないのだろうか?という疑問からもう一度この古墳の謎を考えてみます(*^▽^*)
いままでは、「大王」と「天皇」、「王子」と「皇子」、はできるだけ区別しながら書いてきましたが、大王と天皇は異なるとする私にはこの「皇后」の呼称についても気に入らないのですが、「王后」ではわかりにくいかな?ですので使用します。
「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところで書いたことと同様のことが行われているのではないのか?
藤原氏による怨霊封じが行われていたのではないのか?
天武と、天智は兄弟ではありません。天武と天智は対立していました。天武系天皇が滅び、つまり本来の王家が滅び、天智系天皇である桓武天皇、そして藤原氏の天下になったことがこの古墳にも影響している。
天智と対立していたのは天武です。壬申の乱により戦になり、天武側の勝利となり天智側の人物、多くの渡来人たちは戦により殺害されることになったと推測できます。
渡来人である天智系天皇や藤原氏にとってみれば、天武憎しですよね。
この対立はこの壬申の乱で終わったわけではなく、天武以降の時代も続きます。壬申の乱以降の大きな戦いは、長屋王の時代、そして早良大王の時代におきました。
天武天皇ー高市大王ー長屋大王
長屋大王の弟である鈴鹿大王から繋がるのが、本来の大王に即位していた早良大王である。桓武天皇を死に追いやった早良大王もまた天武の後胤、そして聖徳太子こと押坂彦人大王の後胤です。
長屋王ー鈴鹿王、阿部広刀自ー葦原王、井上内親王ー長男が早良親王、次男が他戸親王
長屋王が大王だったという証拠は出土した木簡から明らかです。木簡は一級資料ともいえる物的証拠です。
長屋王は左大臣だったとされますが、そうではなく大王でした。
その木簡には、「長屋親王」との衝撃的な記載のある木簡が出土しました。
長屋王は親王と呼ばれることは本来はありえません。
この「親王」とは「大王」の「王子」(天皇の皇子)という意味です。次の王位継承者ということです。父親である高市王子が大王に即位していなければ、「親王」と呼称されることはありません。
つまり父親である、天武大王の第一王子であった高市王子は大王に即位していたということです。万葉集においても、高市大王のことを、「おおきみ」と呼んでいます。
高市大王の時代に天皇だったとされる持統天皇は本来の王ではありません。「大王」と「天皇」が存在していたのです。「王子」と「皇子」も存在します。
長屋王は大王だったとする証拠の木簡はまだあります。
「長屋親王宮」、親王との衝撃の表記があります。
「吉備内親王大命」この「大命」とは大王(天皇)の命令を表します。
后であった吉備内親王の指示に「大命」が使用されていることからも推測できます。
「長屋親王宮鮑大贄十編」、この 大贄とは、大王(天皇)の食物を表す言葉だそうです。「贄」ではなく「大贄」という記述も重要な意味を持ちます。
「勅旨」と書いた木簡も見つかっている。これも最高位である王位についていた証拠です。勅旨というのは王の命令ということです。「大命」も同様です。これ以外なにものでもない。
「長屋親王宮」と記された木簡が多く出土したため長屋王の邸宅跡とされますが、この地域は本来の大王の宮である「奈良宮」である。
あたりまえですが、「長屋親王宮」の木簡は、父親である高市大王が崩御する以前のものです。高市大王が崩御し、長屋王が大王に即位した後、長屋王の宮は奈良宮になったのです。
「大王」と「天皇」が存在していたように宮も本来の大王の宮である、「奈良宮」と、対立していた藤原氏の宮ともいえる「平城宮」が存在したのです。「平城宮」が本来の宮だというのは藤原氏の主張に他ならない。
平城宮は持統天皇から繋がる元明天皇の宮であるのですが、本来の宮である奈良宮の一部であるのです。
この大王である長屋大王を殺害したのは藤原氏です。藤原氏は長屋王が本来の大王に即位していた事実を変える必要がったのです。早良大王も同様です。
その歴史を変更した書物が、日本書紀である。
現存する最古の日本書紀は平安時代のものです。これ以前の日本書紀が存在しないのは、もちろんこの藤原の時代ともいえる平安時代において内容を変更したからです。古事記も同様です。藤原の都合で変更している。
これだけ物的証拠があるのに、いまだに日本書紀は正史であるとのことで、何ら疑問をもたない学者の多いことか(ノД`)・゜・。
天武と額田王との子供が高市大王であり、高市大王と阿部氏の姫王である阿部明日香姫との子供が長屋大王である。これら系譜が改竄されている。
彼らが大王だった事実が消され、藤原氏と対立し、大王家の系譜に関わった阿部氏の系譜もまた改竄されている。
長屋王は祟り怨霊により、藤原四兄弟は死に追いやられました。この長屋王は、高市大王と阿部氏の娘である阿部明日香との子供である。
この高市大王に仕えていた柿野本人麻呂の挽歌からあきらかです。
恐怖におののく藤原氏は怨霊封じを行いました。彼らの墓が暴かれ、遺体を損傷し怨霊封じが行われている。この藤原の悪逆行為を私は許さない。ここに真実を暴いてやる(~_~;)凸
長屋王のお父さんである高市大王のお墓である高松塚古墳、そしてお母さんである阿部氏の娘、阿部明日香のお墓であるキトラ古墳のことはもうすでに書きましたが同様のことが行われているように思う。
天武陵に皇后である額田王が後に合葬されたとする推測からこの古墳の謎を考えます。
この古墳には不思議な話が残っています。
藤原氏、藤原定家の話は信用できません。ふざけるな藤原、お前たちが盗賊だろう・・・と私は思います。
ウイッキペディア・・・
藤原定家の日記『明月記』の1235年(文暦2年)4月2日・6月6日条に、同年3月20日と21日の両夜に賊が入り、野口王墓が盗掘を受けていることが記録されている。
本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
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野口王墓が盗掘を受けたとされる、藤原定家の明月記の記述が事実だとしても、遺体を損傷し副葬品を盗んだのは盗賊ではないと思う。
盗賊たちは何も盗んではない。それはもうすでに藤原氏に手によって怨霊封じが行われ暴かれていたからです。真犯人は藤原氏です。
大王家の系図は
天武大王と額田王ー高市大王と阿部明日香ー長屋大王・・・である。
怨霊封じが行われ彼らのお墓が暴かれている。
*まず、天武の王后は額田王である。額田王が亡くなった後は持統が皇后になったとも思われますが、額田王より天武のほうが先に崩御している。
そして、額田王のほうが持統より先に亡くなっている。
つまり、天武陵に合葬されているのは、額田王のほうである。
*盗賊の目的は副葬品であるわけです。それが、遺体を損傷したりするのだろうか?怨霊の祟りというものが信じられていたと思われるこの時代に、盗賊とはいえ目的である副葬品強奪とは関係のない行為をおこなうのだろうか?
天武憎しの藤原氏には遺体を損傷する理由がある。
*骨壺も奪い去られ、遺骨は近くに遺棄されたという話も疑問があります。
キトラ古墳と同様のことが行われている。額田王の遺体を取り除いている。
そもそも持統天皇が火葬されて、骨壺に収められて合葬されていたとの話自体が信じられない。
*藤原氏にとってはこの天武の皇后は持統天皇である必要がある。それは系図を見れば容易に推測できます。
前回に書きましたが、・・・
天武天皇と持統天皇の子供は草壁皇子です。この草壁皇子と、天智の娘であり、持統天皇の妹である、元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である文武天皇です。文武天皇の后は藤原不比等の娘である藤原宮子とされます。
そして聖武天皇の后も藤原氏、不比等の娘である光明子です。
持統天皇から繋がります。藤原氏は持統天皇を皇后にしたい理由です。
そして、持統や元明を天智の娘として、天智の血を王家に入れる操作がなされている。
*天武大王のあとは、持統天皇ではなく、高市大王である。持統天皇が天皇に即位したというのならそれは、本来の王后である額田王が亡くなって以降であるはずです。持統天皇は690年に天皇に即位したとされます。すると額田王が亡くなったのは689年であると推測できます。
天武の崩御年は、686年です。この686年から、持統が天皇に即位した年の690年までの王位継承問題の話が藤原氏による嘘話である。
天武大王の後は、すでに大王として高市王子は即位していました。この高市大王は、長屋大王の父親です。長屋王を大王だとしたくないための改竄ですが、木簡の出土により嘘がばれています。
*本当に持統天皇は火葬されて合葬されていたのだろうか?私の推測ではそんなはずはないように思う。合葬されていたのなら本来の皇后である額田王である。額田王は天武の本来の皇后であるとの推測は「額田王の謎と推古天皇」の記事を見てください。
持統を天武の皇后として、日本書紀において改竄したため、天武陵に持統を合葬したとのいわば物的証拠づくりである。
*怨霊封じが行われている。天武の遺体を損傷し、合葬されていた額田王の遺体を取り除いている。高市大王の皇后であり、キトラ古墳の被葬者である阿部明日香の遺体を取り除く行為と同様のことがこの野口王墓でも行われている。
キトラ古墳と同様のことがなされている。怨霊封じである。
副葬品を盗み遺体を損傷した真犯人は藤原氏である。
持統天皇時大王だったのは高市大王であり、実際に政治を行ってきた統治者はこの高市大王です。これが全く理解できていない。
大津皇子の謀反の話も同様に思う。
持統天皇は天皇であり統治者であったとされるために、息子である草壁皇子を次期天皇に即位させたいために、ライバル関係にあっただろうとされる、姉の子供である大津皇子を謀反の疑いで殺害したのはこの持統天皇の意向であるともされます。
しかし、持統天皇は、大王ではなく統治者ではありません。ですのでこの憶測は間違っています。天武の后だったのは事実ですので少しばかりの影響力はあったかもしれませんが、指示をして殺害するような力はありません。
まして姉とされる大田皇女の息子です。そんなことするはずありません。
この時の大王は高市大王です。ですので次の王は長屋王です。
大津皇子を殺害しても、草壁皇子が王に即位できません。ですので持統天皇は関係ないし、大津皇子も謀反を起こす理由がない。
しかも大津皇子が謀反のうたがいあるとの密告をしたのが親友である川島皇子だとされます。ありえないように思います。真犯人である藤原氏の嘘話です。
私は天武の王子であり、もちろん天武側の優秀な大津皇子は暗殺されたのだと思います。天武大王以降も大王家と藤原氏の争いは続いています。
写真は、天武9年に天武大王が皇后の病気平癒のため祈願し建立に着手しました。それが本薬師寺です。今は平城京遷都とともに、西ノ京に移転していますが、写真は香久山宮(藤原宮)そばにある本薬師寺跡です。背景の山は畝傍山です。
この薬師寺跡の周辺の休耕田には、ホテイアオイが植えれれています。
普段はほとんど訪れる人もいないのですが、夏場のホテイアオイの開花時期には沢山の観光客で賑わいます。
完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させたとされますが、間違っています。
完成させたのは、天武と皇后である、額田王の王子である高市大王です。
天武大王の本当の皇后は、額田王です。病気で体調を崩していたのは額田王の方です。天武と額田王のお寺であり、「香久山京薬師寺」である。