今回は奈良の大仏さんについてです。
これまで記述してきましたが、聖武天皇は藤原の操る王であり、本来の王ではありません。対立して殺害した大王家の人物を大王に即位していたことを消し去るために系譜を改竄し歴史を変更している。
奈良の大仏さん、東大寺は、聖武天皇や皇后である光明皇后が造った寺院ではない。東大寺創建の功績を変更している。
少しばかり大胆な推測とも思えるのですが、聖武天皇は本来の王ではないとする私には当然の推測ともいえます。
続日本紀は、藤原の時代の藤原の主張する書物に他ならない。歴史を改竄するための偽書である。
聖武天皇は、大王家の人物であるのですが、本来の大王を消し去るための人物でもある。そして皇后の光明皇后も同様であるように思う。
この本来の大王とは、天武系の大王たち、長屋大王や弟の鈴鹿大王である。そして、この鈴鹿大王の王后は阿部氏の女性である。ですので、この阿部氏の女性の事跡を消し去るための、藤原の娘、光明皇后である。
藤原不比等の娘とされる二人の女性、文武天皇妃の宮子と聖武天皇妃の光明子は、実は不比等の娘ではないとの伝説が今も語られています。
長屋王家とされる場所から出土した木簡に記述されている文字からの推測によると、長屋王や父親である高市大王は明らかに大王でした。
今回は、この長屋大王以降の話になります。
系譜改竄による推測から、東大寺の大仏さんの建立の謎についても考えてみます。
聖武天皇に時代には、本来の大王が存在しています。つまり、大仏建立のような大事業は、藤原氏が主張する聖武天皇ではありえないということです。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは、天平15年(743年)であるとされます。大仏建立には、この聖武天皇と后である光明皇后が大きく関わったとされます。
特に藤原不比等の娘とされる光明皇后は仏教に篤く帰依し東大寺、そして国分寺の設立を夫に進言したと伝えられていますが、これは事実ではないと思う。阿部氏の女性の功績を消し去っている。
この時の本来の大王は、奈良京にいた長屋大王の弟である鈴鹿大王である。大仏造立の詔を発したのは鈴鹿大王である。鈴鹿大王崩御年は、745年であるとされます。
つまり、東大寺や、国分寺の設立を夫に進言したのは、この鈴鹿大王の王后であるわけです。この王后とは阿部氏の娘である。
この阿部氏の女性とは誰であるのかも推測してみます。
何度も記述しているところですが、この阿部氏の系譜を改竄し消し去っている。それは藤原氏に祟って被害を及ぼしたからです。藤原四兄弟を死に追いやった祟りは阿部氏が関わるからです。
そして今回記述する、孝謙、称徳天皇も東大寺建立に大きく関わっている。
東大寺に対をなす西大寺はこの孝謙、称徳天皇が発願し建立したお寺です。そして東大寺もまたこの孝謙、称徳天皇が建立に関わるのではないのだろうか?
それはこの孝謙、称徳天皇は、鈴鹿大王の娘だからです。
東大寺は父親の鈴鹿王、対する西大寺は娘の孝謙、称徳天皇の発願のお寺である。
孝謙、称徳天皇の系譜改竄の謎についても推測してみます(*^▽^*)
先ずは孝謙、称徳天皇について・・・
以下は称徳天皇で記述していきます。この称徳天皇の名も気になるところですが・・・。
系譜を変更しているのですが、名前は変更していない。改竄箇所の謎解きの手掛かりになります。
孝謙天皇、重祚して称徳天皇は、父親は聖武天皇、母親は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后とされます。「高野天皇」とも呼ばれていたようです。
ですが、即位前の名は「阿倍内親王」です。これは阿部氏の娘であるということです。
聖武天皇の母親である藤原宮子は、本来は阿部宮子である。その聖武天皇の娘が「阿倍内親王」というのはもちろんあり得るのですが、藤原不比等の娘である、光明皇后の娘の名が、敵対してきた阿部氏の名、「阿倍内親王」というのはありえません。
藤原四兄弟を死に追いやった長屋大王は阿部氏が関わります。藤原氏にとっては阿部氏は憎き相手です。長屋王の母親は阿部氏の娘、阿部明日香です。
称徳天皇は光明皇后の娘ではありえません。
藤原氏にとって大きな敵対勢力だったこの阿部氏の系譜を消し去っている。
聖武天皇時に利用したのが藤原不比等の娘に取り込んだ、二人の女性、宮子と光明子です。
系譜を改竄し、阿部氏の女性の功績を消し去るための、人物がこの光明皇后である。光明皇后伝説として伝わるものは、実はこの阿部氏の女性の功績である。
この阿部氏の女性とは誰なのかも考えてみます。
孝謙、称徳天皇は、この光明皇后の娘ではないように思います。
つまり、称徳天皇こと「阿倍内親王」は、光明皇后の娘ではなく、藤原が関係する女性ではない。ですのでこの称徳天皇は藤原氏と敵対するようになります。大王家と阿部氏が関わる女性である。称徳天皇が悪く書かれているのはこれが理由です。
藤原の娘ではなく、阿部氏の娘です。
称徳天皇は弓削道鏡との関係が話題になる女帝です。
悪く描かれている人物は、渡来人、藤原氏と対立していた人物といえます。
弓削道鏡も、弓削氏は物部系に豪族であり、本来の大王家に関わる人物です。
皇位を簒奪しようとしたとして悪く描かれていますが、渡来人、秦氏の王である桓武天皇なんかよりはるかに王座にふさわしい人物です。
称徳天皇がこの弓削道鏡を頼ったのは、大王家、天武系の人物が次々に暗殺されてしまったからです。特に、弟と息子を殺されたからです
次期大王候補がいなくなったからです。
称徳天皇は結婚をしていないとされますが、そうではない。「天皇」とは皇后の呼称でもある。
天皇に即位しているのが事実なら、彼女は結婚しています。
ここも何度も記述してきましたが、「天皇」とは蘇我の王の呼称であり。本来の初代天皇は推古天皇です。
蘇我氏が滅んだ後に、初代が女帝だったこともあり、後に女帝の呼称に変更されている。王后(皇后)のことである。
この「天皇」の呼称を利用し、蘇我氏により変更された歴史を基に、藤原氏によって桓武天皇の時代に歴史を改竄している。
蘇我氏、蘇我馬子の時代、そして、藤原氏、秦氏の王である桓武天皇の時代に古代の歴史は変更されている。
孝謙、称徳天皇から譲位を受け践祚した淳仁天皇は、称徳天皇の王子である。つまり称徳天皇は舎人親王の后である。
淳仁天皇の娘は、称徳天皇(阿倍内親王 あべないしんのう)と同じ名前、「安倍内親王 あべないしんのう」であり孫娘です。
この淳仁天皇を殺害したのは藤原である。称徳天皇の恨みをこの文章で晴らします。
阿倍内親王こと、称徳天皇は、聖武天皇の娘でもないし、光明皇后の娘でもありません。
ではだれの娘なのでしょうか?
壬申の乱の勝利により、本来の大王家である天武大王が、王座の地位を挽回していました。称徳天皇はこの天武系の女帝です。
藤原氏が主張する聖武天皇に時代に、本来の都である奈良京において、大王だった人物です。
それは長屋大王の弟である鈴鹿大王の娘です。
「長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎」のところでもう既に記述してきましたが、・・・
聖武天皇と県犬養広刀自との子供たち、井上内親王・不破内親王・安積親王は殺害されるなど何故か悲劇的な運命を辿ることになります。
特に井上内親王、その子供(他戸親王、早良大王)たちは殺害され怨霊として恐れられています。
怨霊を恐れるのは殺害した方、つまり藤原氏であるのです。この藤原氏が自らが関わる聖武天皇に関係する人物を殺害するわけない。系譜が変更されています。
井上内親王・不破内親王・安積親王は聖武天皇の子供たちではない。
井上内親王は、鈴鹿大王と阿部広刀自との娘であり、天武の次男である刑部大王の後胤である葦原王の皇后だったのではないのか?
天武ー刑部ー山前ー葦原王
ウイッキペディア・・・葦原王
天平宝字5年(761年)御使麻呂と賭博・飲酒中に、俄に怒りを発し麻呂を刺殺した。そして、その胸を俎にして股肉を膾に切り刻み食してしまった。
生まれつき凶悪な性格で、好んで酒を飲ませる店で遊んだという
『続日本紀』天平宝字5年3月24日条
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葦原王は非常に悪く書かれています。殺害した人間を食べたという記述がされています。悪く描かれている理由は簡単なものです。秦氏、藤原氏の対抗勢力であり、そして藤原氏に祟り被害を及ぼしたからです。
それは、大怨霊である早良大王の父親だからです。秦氏の王である桓武天皇は怨霊を恐れました、それは自らが王になるために殺害したからです。
そして桓武天皇は、この早良大王の怨霊に苦しむこととなります。桓武天皇は怨霊に呪い殺されたと思われていました。
葦原王と井上内親王との子供が他戸親王、そして早良大王です。
この三人は大怨霊です。それはもちろん大王家の人物だからです。そして阿部氏が関わります。
東大寺に西大寺は、藤原氏による怨霊撲滅のお寺だと考えていましたが、そうではなく、奈良の大仏さんは、これら殺害され祟った、長屋大王や早良大王たちの御霊を祭るお寺である。
藤原氏はこの3人、井上内親王と子供の他戸親王、そして早良大王を殺害しました。この三人は祟りました。祟り神として御霊神社に祀られています。
井上内親王は葦原王の后であり、子供たちが他戸親王、早良大王です。
だから葦原王は悪く書かれているのです。
本来の大王だった、早良大王は桓武天皇の弟ではありません。系譜が改竄されています。この葦原王と井上内親王の子供である。
そして、この井上内親王の妹が称徳天皇であり、長屋大王の弟である、鈴鹿大王の娘であり阿部氏の娘である。鈴鹿大王と母親は消されていますが、推測してみます。
聖武天皇の后である、県犬養広刀自とは、実は阿部広庭の娘である阿部広刀自であり、鈴鹿大王の王后である。称徳天皇の母親である。娘とされる井上内親王も鈴鹿王大王の娘である。
東大寺建立に深くかかわったのはこの、阿部氏の娘、阿部広刀自である。
何度も記述してきたところですが、聖武天皇の系譜に取り込み、そしてこの阿部氏の系図を消し去っている。
この時代、阿部氏は大王家と深く関わっている。
刀自の名が共通する三人の女性、大刀自、広刀自、殿刀自は阿倍広庭の娘たち、三姉妹であり、大刀自は長屋王妃、そして広刀自は長屋王の弟の鈴鹿王の妃である。
藤原不比等の五女とされ、大伴古慈斐の妻とされる、藤原殿刀自は阿部殿刀自である。
藤原氏の娘が対立する大伴氏の妻になることはない。阿部氏の系譜を消し去っている。
阿倍広庭は天智天皇(秦氏)、藤原氏と対立していた、孝徳大王の時に右大臣だった阿部内麻呂の孫、阿倍御主人の子です。
聖武天皇の后として取り込んでいますが、この時代の本来の大王だった鈴鹿大王の后です。系譜改竄の手口です。
阿部広刀自は、本来の大王である長屋王の弟である鈴鹿王の后です。
聖武天皇の后ではない。
系譜を改竄し本来の王家の女性である称徳天皇を、聖武天皇の娘として変更している。
鈴鹿大王、阿部広刀自ー姉、井上内親王、妹、称徳天皇こと「阿倍内親王」
鈴鹿王は、聖武天皇時本来の大王だった人物です。
この鈴鹿王と阿部広刀自との娘が称徳天皇こと「阿倍内親王」である。
称徳天皇は天武大王から繋がる、本来の大王家の女性である。
長屋大王と鈴鹿大王の母親に関して・・・
阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女(高市大王妃)元明天皇(阿部皇女)
高市大王と阿部明日香の子供が長屋大王です。
高市大王と御名部皇女の子供が、長屋王の弟の鈴鹿王である。
この御名部皇女は、高市大王妃として長屋王の母親とされますが、間違っています。何度も記述しているところですが、万葉集、柿本人麻呂の挽歌から推測できますが、長屋王の母親は阿部氏の姫王、阿部明日香です。
この元明天皇の姉と思われる、御名部皇女こそが、鈴鹿大王の母親である。
そして、鈴鹿大王と阿部広刀自との娘が阿倍内親王こと称徳天皇である。
高市大王と御名部皇女ー鈴鹿王と阿部広刀自ー称徳天皇(阿倍内親王)
称徳天皇は、その名の通り阿部氏の女性です。
藤原氏にとっては、藤原四兄弟を死に追いやった、長屋王の母親が阿部氏の娘、阿部明日香ということで、阿部氏は憎き相手です。
しかし、万葉集における柿本人麻呂の挽歌から、父親である高市大王の王后は、この阿部明日香あるとの推測は容易です。この時代、阿部氏は大王家と密接な関係にありました。
元明天皇もそうです。阿倍皇女という阿部の名がつくはもちろん阿部氏の女性だからです。
系譜改竄の常套手段です。大王家の人物を自家の系譜に組み入れている。
長屋大王の暗殺以降、秦氏の王である桓武天皇が即位するまでの大王家と渡来人秦氏、藤原氏との争いです。
聖武天皇と県犬養広刀自(本当は阿部広刀自)との間には安積親王が生まれたとされますが、これも違います。これは藤原氏に暗殺されていることからも推測できます。系譜が変更されている。
ウイッキペディア・・・安積親王
天平16年(744年)閏1月11日、難波宮に行啓の際、その途中に桜井頓宮で脚気になり恭仁京に引き返すが、2日後の閏1月13日に17歳で死去した。その死があまりにも急で不自然なところもあったことから、藤原仲麻呂に毒殺されたという説も根強い。
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この毒殺されたという説はこの通りのように思います。理由は本来の大王家の人物であったのと、阿部氏が関わる人物であったため、大王に即位することを恐れた藤原仲麻呂に暗殺されたのです。
聖武天皇と県犬養広刀自の皇子ではなく、鈴鹿王と阿部広刀自との子供が安積親王、そして称徳天皇です。
安積親王は称徳天皇の弟になります。
藤原仲麻呂が、聖武天皇と県犬養広刀自との子供を殺すはずはない。
そして、聖武天皇と光明皇后の皇子とされ、本来、称徳天皇の同母の弟される基王は、称徳天皇の弟ではない。
ウイッキペディア・・・
基王(もといおう)は、奈良時代の皇族。聖武天皇の第1皇子。基皇子とも。また『本朝皇胤紹運録』にはただ「親王」とのみ掲げられており、その説明書きとして「諱基王」と記されていることから、これは「諱某王」の誤記であり、実名は不明であるとする説もある。「基」と命名されたのであれば、まだ親王宣下の慣行が存在しない当時、誕生とともに自動的に「基親王」とされたはずだからである。
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聖武天皇と藤原の娘の光明皇后との唯一の皇子であるのに、名前が不明だという説があります。上記の説明どおりです。
聖武天皇の皇子の名前が不明、しかも光明子との皇子が・・・本来はありえません。
それは、聖武天皇も光明皇后も藤原が関わる人物ではないからであり、聖武天皇は本来の王ではないからです。
藤原氏の皇子といえるこの基王を、長屋王が呪詛したので、基王は亡くなったとしたいわけです。
藤原氏は、長屋王殺害を正当化したいわけです。藤原の皇子を呪い殺したので、復讐をしたと・・・。
基王は生後一年に満たずに亡くなっていて、本当にこの基王というのが存在していたかは不明のように思います。
基王は727年11月生まれ、728年の10月に亡くなっています。
翌年の729年に、長屋王の変が起きます。
「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」・・・この長屋王の変は、この基王を呪い殺したのが原因とされます。
長屋王暗殺を正当化したいわけです。つまり、基王というのは存在していません。後の作り話である。
ですので、東大寺創建に関わり、起源とされる金鐘寺は、この基王を祀るためのお寺ではない。
続日本紀は、藤原の時代に編纂された歴史を変えるための書物である。
これは聖徳太子一族が滅亡したとされる山背大兄王殺害も同様の手法です。
聖人である聖徳太子一族を滅亡させたとして、蘇我氏を悪者に仕立てることにより、後の蘇我氏との争い、乙巳の変クーデターを正当化できます。
桓武天皇時に歴史を改竄した時に、聖武天皇は天皇だと改竄しているのです。
藤原と対立し、殺害した本来の大王たちの事跡を消し去るためです。
聖武天皇の母親である、藤原宮子も、聖武天皇の皇后の光明子も、不比等の娘ではないのです。
阿部氏憎しの藤原氏はこの阿部氏の女性、阿部広刀自の事跡を改竄している。
仏教に篤く帰依し、東大寺や国分寺の設立を夫に進言し、そして貧しい人に施しをするための施設である「悲田院」や医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行ったのは、この鈴鹿大王の王后である、阿部広刀自の事跡である。
阿部広刀自はこの時代に大王だった鈴鹿王の后です。称徳天皇の母親である。阿部氏の娘たちは大王家の王たちに嫁いでいる。この阿部氏の系図を消し去っている。
鈴鹿大王崩御後、横暴を極める藤原氏に対抗したのがこの女性、称徳天皇である。
藤原四兄弟が天然痘で死亡し、藤原氏の力は衰えたともされますが、安積親王の暗殺以降、大王家と藤原氏の争いが再発激化します。
橘奈良麻呂の乱
ウイッキペディア・・・
橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。
仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂だった。皇太子廃立をうけて奈良麻呂は大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる皇族を擁立する反乱を企てるが、はやくも同年6月に上道斐太都らの密告により計画が露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂と古麻呂をはじめ、新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や黄文王も捕縛され拷問を受けて獄死、反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も左遷された(橘奈良麻呂の乱)。
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殺害された人物から推測できますが、大王家と争ったとはかけないので、首謀者のひとりである橘奈良麻呂の乱として話は変更されていますが、これまで通り本来は大王家と渡来人秦氏、藤原氏との争いである。渡来人による反乱です。
これも、本来の大王家である、天武系の長屋大王の王子たち、黄文王や安宿王と、渡来人との争いである。
安宿王と黄文王は、阿倍広庭の娘の安倍大刀自の王子たちです。
称徳天皇の姉であり、怨霊として恐れられる井上内親王は鈴鹿王と、阿倍広庭の娘である阿部広刀自との娘であり、葦原王の妃である。彼女もまた藤原氏と対立する阿部氏が関わる女性である、その子供である早良親王と他戸親王は本来の王家の人物でありこの時代の王位継承において筆頭である。
ウイッキペディア・・・早良親王
天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺で良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた
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早良親王は、桓武天皇の同母の弟ではなく、葦原王と井上内親王との子供であり、井上内親王の妹は称徳天皇である。
東大寺は、鈴鹿大王が建立した寺院であり、娘の称徳天皇も関わることになります。完成したのはこの称徳天皇の時代です。
そしてこの早良親王は、東大寺と深く関わります。それは、母親の井上内親王の妹が称徳天皇であるからです。
井上内親王と妹の称徳天皇は阿部氏の娘です。
阿倍内親王こと、称徳天皇は、聖武天皇の娘でもないし、光明皇后の娘でもありません。長屋大王の弟である鈴鹿大王の娘です。
これは、称徳天皇のお墓が、この鈴鹿王の邸宅跡に造られたことからも推測できます。鈴鹿王の関係者であるはずです。称徳天皇は、鈴鹿王の娘です。
他人の邸宅跡にお墓を作るはずありません。
この時代は、多くの暗殺により、大王家の王位継承者が暗殺されていた時代、です。大王家が存続の危機にあり、藤原氏が秦氏の武力を背景に権力をほしいままにしている時代でもあります。
称徳天皇は、渡来人である藤原氏が権力を簒奪しようと横暴を極めた宮廷内で、女性ながら大王家存続のため大きな敵に立ち向かった勇気ある大王家の女性です。
記紀は桓武天皇の時代、つまり秦氏、藤原氏の時代に改竄されている。記紀において悪く書かれている人物は、秦氏、藤原氏と敵対していた人物です。
佐紀にあったとされる元の鈴鹿王邸に称徳天皇の御陵が造営されたということからも容易に推測できます。他人の家にお墓を作ることなんてありえません。
称徳天皇はこの時代の本来の大王だった鈴鹿大王の娘です。
称徳天皇は、藤原氏の娘である光明皇后の娘であるのに、藤原氏と対立していたともされますが、そうではありません。系譜が改竄されています。
ですので藤原氏と対立したのです。
ただし今治定されている佐紀高塚古墳は、時代が大きく異なるため御陵はここではありません。
写真は称徳天皇の御陵とされる、佐紀盾列古墳群にある高野陵です。
遺跡名は「佐紀高塚古墳」で、墳丘長127メートルの前方後円墳です。
およそ4世紀ころの古墳とされます。称徳天皇の崩御年は770年とされますので、あきらかに称徳天皇の御陵の治定は間違っています。考古学的には四百年程の開きがあります。宮内庁よこれでいいのか?
御陵が分からなくなっているのは、光明皇后の娘ではなく、敵対していた阿部氏の女性だからです。秦氏、藤原氏と敵対し藤原四兄弟を死に追いやった阿部氏の系譜を消し去っている。
この称徳天皇のお墓だけでなく、ほとんどの古代の大王の古墳の治定は間違っています。それは敵対していた渡来人により変更されているからです。
それでは、称徳天皇のお墓はどこなのだろう?今に残る佐紀の地にある、王にふさわしいと思われる古墳はどれも前方後円墳など、時代が古いものばかりです。
治定が混乱する理由です。ふさわしい古墳がありません。
私は藤原氏と対決した勇敢な大王家の女性である、この称徳天皇が好きなのです。
ですので、なんとしても、この女性のお墓を見つけてあげたい。
それで、なのですが、ここしかないだろうと思われるところが簡単に見つかりました。
鈴鹿大王の娘であるとする私には容易な推測でした。称徳天皇が創建に関わった西大寺の近くだろうと思い検索するとすぐに見つかりました。
ウイッキペディア・・・西大寺
宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は同年10月重祚している(称徳天皇)。翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建された。
伝称徳天皇山荘跡(奈良市西大寺宝ヶ丘)を含む
ウイッキペディア・・・
称徳天皇の真陵については、『西大寺資財流記帳』の記述を基にすると、この佐紀高塚古墳ではなく西大寺の寺域西限の地に存在したと推定される。しかし後世に陵に関する所伝は失われ、鎌倉時代の「大和国西大寺往古敷地図」(徳治2年(1307年)以前成立)を初見として西大寺の東方に位置する本古墳に比定する説が生じた。江戸時代には、さらに北方の五社神古墳を称徳天皇陵にあてた説も生じている。その後、幕末の文久の修陵に際し、「大和国西大寺往古敷地図」等を基に本古墳が改めて称徳天皇陵に比定され、これが現在に踏襲されている。
***********************
このウイッキペディアの文章からの推測になりますが、西大寺はこの称徳天皇発願のお寺である。ですので、西大寺に眠っているのではと思い、「西大寺 称徳天皇」で検索したら案外簡単に見つかりました。
西大寺は、すでに鎌倉時代において伽藍の配置が変えらていたようです。
もとの西大寺の境内、その西側には称徳天皇山荘という場所(池と中島)があったらしいのです。西大寺は本来もっと大きな規模のお寺でした。
「称徳天皇は鈴鹿王の旧邸に眠る」ということからもここです。長屋大王の後、弟である鈴鹿王は、大王に即位しました。
大王に即位したということで、もちろん移住し、「奈良宮」が新たな住居になっていました。
そして、父親であるもとの鈴鹿王邸宅が、鈴鹿王の崩御の後、娘である
称徳天皇の山荘という名称になったと推測しています。この二人は親子です。
他人の家に埋葬されるわけありません。
『西大寺資財流記帳』にある、西大寺の寺域西限の地という文章にも合致します。断定しませんが、おそらくここしかないだろうと思います。
西大寺境内、伝称徳天皇山荘跡という場所が、称徳天皇のお墓である。
今治定されている佐紀高塚古墳は築造時期が大きく異なるうえ、西大寺から北東方向に位置し文献の記述とは異なります。
写真が、伝称徳天皇山荘跡(奈良市西大寺宝ヶ丘)だろうと思われる場所です。今に残る西大寺中心部から北西に直線距離でおよそ500m位に位置します。奥の院から200m程です。近くに高塚という地名も存在します。本来の西大寺は、現存西大寺よりもっと大きな規模のお寺でした。
池もいまだに存在しています。竹が生い茂っていますが、ここが池の中島であり、この中島こそ称徳天皇の埋葬地です。
東大寺 大仏さんについて・・・
聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発したとされます。続日本紀にあるのですが、信用できません。続日本紀は藤原の主張する歴史書です。真実は語られていません。
この時代の本来の王は鈴鹿大王であり、聖武天皇ではありません。
ですので大仏造立の詔を発したのはこの鈴鹿大王ではなかろうか?
これは、完成したのは藤原の時代になってはいましたが、奈良の大仏さんを造ろうとしていたのは、この鈴鹿大王である。聖武天皇は、本来はいまだ即位していません。
天平13年(741年)における、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じたというのも、本来の大王であるこの鈴鹿王である。
聖武天皇は724年に即位したとされますが、これは藤原の主張であり、これらの功績を聖武天皇の功績として取り込んでいる。
長屋大王や鈴鹿大王が大王として在位中に、天皇だとされる、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇は本来の王ではない。
藤原氏と対立していた長屋大王や鈴鹿大王が大王に即位していた事実を消している。そしてその功績までをも取り込んでいる。
鈴鹿大王は、藤原四兄弟を死に追いやった長屋大王の弟です。
この鈴鹿王が大王に即位していたことが消されている。
大仏は、鈴鹿大王による戦乱ににおいて殺害された人々の御霊を鎮めるためのものである。
東大寺の起源に関わる金鐘寺は、本来の大王である長屋王その王子たちを祀るためのお寺であり、東大寺も同様に大王家の人物を祀るためのお寺である。
そしてこの長屋大王の弟である鈴鹿大王こそ、孝謙、称徳天皇の父親である。
つまり、大仏建立に大きく関わったのは、光明皇后ではなく、阿部広刀自と、娘である称徳天皇である。
大仏さんの開眼式は752年に執り行われました。この時、天皇(女帝)だったのは、天武系天皇であるこの称徳天皇である。
ウイッキペディア・・・光明皇后
書をよくし、奈良時代の能書家として聖武天皇とともに有名であり・・・
「藤三娘」と、年紀と署名があり、光明皇后が44歳の時の書だと分かる。かつては署名部分に別紙を継いでおり、本文とやや書風が異なると見なされた事などから皇后の自筆でないという説もあった
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この「藤三娘」の署名は有名ですよね。私には藤原の娘として取り込んだ時の系譜改竄の証拠づくりように思います(*^。^*)
藤原不比等の娘とされる、この光明皇后も、同じく不比等の娘とされる姉の宮子と同様に、不比等の娘ではないとの伝説が語られています。
お母さんは鹿だというお話も伝えられています。本当に鹿というのはあり得ませんが、動物の名を付けることもあるので、鹿という名前だったかもしれませんね。
神武天皇を大和の地に導いた八咫烏もカラスではなく、人間の名前だったかもしれません(*^▽^*)
今も地名に残りますが、大阪府和泉市に生まれた女性だとされます。
不比等は槇尾山(大阪府和泉市)参詣の帰り、この美少女を見つけ養子としたという伝説が今も残ります。
私は騙されないよ。指摘があるように、明らかに別紙を継いでおり、書風も異なります。
「藤三娘」との年紀と署名は、藤原の娘として系譜を改竄した時の別人のものだよ。
余計なことをしたので、かえって系譜を変更した嘘がばれているように思う。
事実は藤原の娘ではないということです。
藤原不比等の娘として変更し、鈴鹿大王の王后である、阿部広刀自の事跡を光明皇后の事跡として取り込んだ時の、いわば証拠づくりのものであるのだけど、なんか拙劣な変更ですよね。でも、・・・皆騙されている・・・。
この光明皇后も伝説どおり、不比等の娘ではない。姉の宮子も同様に不比等の娘ではない。
聖武天皇は王(天皇)だという主張は藤原氏の主張に他ならない。事実ではない。本来の王でないものが東大寺を造れるはずもない。
聖武天皇陵は佐保山南陵に治定されています、となりに皇后の光明皇后のお墓である佐保山東陵があります。しかしそうでないように思う。
佐保山南陵は、この時代の本来の大王だった鈴鹿大王のお墓であり、佐保山東陵は王后である、阿部広刀自のお墓である。
光明皇后のお墓は生誕の地との伝説が残る大阪府岸和田、久米田寺そばにある「光明(光明皇后)塚古墳」である。
光明皇后のお墓であるとの伝説通り、この光明塚古墳が光明皇后のお墓である。
奈良の大仏さんは、これら殺害され祟った、長屋大王、その子供たちの御霊を祭るお寺である。
正倉院の宝物も大王である長屋大王や、鈴鹿大王の宝物である。
これらの事実が対立して殺害した藤原氏によって変更されているように思う。
797年に編纂された続日本紀は、藤原の時代の藤原の主張する歴史書である。
秦氏、藤原氏の時代になるのは、桓武天皇が即位した794年以降であるとも言えます。
恭仁京と山城国分寺について・・・
東大寺建立と同じことが、この山城国分寺についてもいえる。
山城国分寺の創建については、続日本紀などによると、天平13年(741年)に国分寺建立の詔が出されたのち、恭仁京廃都後の天平18年(746年)に恭仁宮大極殿を国分寺に施入したとされます。
この国分寺建立の詔を出したのは、東大寺と同様に称徳天皇の父親であり長屋大王の弟である、鈴鹿王である。聖武天皇ではない。
この時代、本来の大王はこの鈴鹿大王である。長屋大王の弟である鈴鹿大王が大王に即位したことが消されている。もちろん、長屋大王も同様である。
恭仁宮の大極殿が、後に国分寺の金堂になったということですが、そうではない。続日本紀なんて信用できない。真実は逆である。
今、恭仁京跡とされている場所は、もともと山城国分寺であって、その山城国分寺を乗っ取って恭仁京だと主張している。藤原四兄弟が天然痘で亡くなり弱体化し、藤原氏は奈良の都を追い出され逃げ込んだのが、山城国分寺であるということです。この国分寺を宮に造りなおそうとしたのです。
藤原側の主張では、聖武天皇は王であるので、王の居場所が宮となっているということです。ですが適当な工事である。
この恭仁京の宮を発掘しようと、もう何度も調査されているようです。ご苦労様ですが、想定される場所に想定された建物跡が発見されていません。
それは宮ではなかったからです。宮として想定して発掘を行っているので何も見つかっていないのです。宮ではなく山城国分寺です。
恭仁京跡とされる場所には、特に重要な施設であるはずの天皇の住まいである内裏が発見されていません。聖武天皇はどこに住んでいたというのでしょうか?
大極殿の北側に接して内裏がなくてはおかしいはずです。内裏がないのは宮ではないからです。
内裏から大極に出御して、謁見するといいうことです。ですので想定されている宮の形自体が間違っている。
もう何度も記述しているところですが、本来宮は、北から南に内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形になるはずです。
高市大王の香久山宮(藤原宮)もこの並びになっています。
天皇はどこから大極殿に入るというのでしょうか?天皇の住まいである内裏がありません。
堀で囲まれた大極殿院内には、内裏と大極殿の建物がなければおかしい。
北たから、内裏、大極殿、朝堂院が並ぶ形が宮の形状である。
その証拠に、調査の結果、大極殿の北端に接するはずの天皇が政務・儀式を行う、あるはずの大極殿院の南端の塀跡は確認できていません。ですので未完成だったともされます。
しかし未完成ではない。あろうはずの、塀跡がないのは大極殿ではないからです。
大極殿院南面区画施設は重要な施設とみなされますが、大極殿院であるなら、格式の高い築地回廊であろうはずが、調査の結果は簡素な掘立柱塀だということが判明しています。
これはもちろん大極殿院ではないからです。続日本紀においては平城宮の大極殿は移築されたとされますが事実ではないということです。
聖武天皇の恭仁宮なんて存在しない。藤原の主張に他ならない。
さすがに、本来の王がこんな場所に宮を造るはずはないでしょうに。
行政機関に関する建物がまったくありません。恭仁京は政治を行えるような場所ではない。
恭仁京は741年から造り始められとされますが、造り始められたのは、山城国分寺である。この山城国分寺を利用している。
恭仁宮の大極殿というのは、長屋大王の弟であり、この時代の本来の大王である鈴鹿大王が建立した、山城国分寺(大養徳国金光明寺)の金堂である。
この建設途中であった山城国分寺を、宮に作り変えようとしているということです。ですので適当な工事でもあり、宮としてはおかしな点も多数見つかっているようです。
恭仁宮の大極殿を国分寺に施入したのではなく、初めから山城国分寺の金堂である。この金堂は743年に完成しています。
紫香楽宮は、東大寺に先だって大仏を建立しようとした場所として知られるところです。鈴鹿大王は当初ここに大仏を建立しようと計画していたのです。
大仏を建立しようと計画していたのは聖武天皇ではなく、この時代の本来の大王である鈴鹿王である。
平城京の大極殿(第一次大極殿)は、745年以降に平城京に戻ってから、下ツ道を中心に都を作り変えた時に、長屋大王の奈良宮の大極殿を移築して造られたもである。
写真は、大阪府岸和田にある、久米田寺にある光明塚古墳です。およそ30m程の円墳とされます。
光明皇后の生誕地とされる地域にある古墳であり、光明皇后のお墓であると伝えられています。
しかし、光明皇后の古墳は、聖武天皇陵とされる佐保山南陵そばの佐保山東陵に治定されています。
これら古墳もまた、藤原氏によって歴史を改竄された時に変更されている。これまで記述してきましたが、大王だということを変更した人物が、大きなお墓に眠るというわけにはいかないからです。
東大寺建立を、聖武天皇と、光明皇后の功績として塗り替えたため、東大寺傍にあるこれらの古墳の被葬者も変更する必要があったのです。
佐保山南陵は、この時代の本来の大王だった鈴鹿大王のお墓であり、佐保山東陵は王后である、阿部広刀自のお墓です。
この阿部氏の系譜を消し去っている。
聖武天皇は大王家の人物でが、藤原氏が擁立する人物でもある。その后の光明子ももちろん実在の人物ですが、伝説どおり不比等の娘ではない。
阿部氏の娘である阿部広刀自の事跡を取り込むための人物である。
藤原不比等の娘とされる、五人の女性、宮子、 長娥子、光明子、多比能、殿刀自は全て不比等の娘ではない。
これらは、渡来人、藤原氏を大王家に繋ぐ操作である。
まだまだ、続きます・・・