正始8年248年に卑弥呼は、狗奴国との紛争を報告に行っていますよね。
定説では、これ魏に援助を求めに行ったと云われています。本当にそうでしょうか?
これ間違っていると思う・・・
これは、まったく逆ですよ。朝鮮半島に出兵しろとの魏からの命令に、狗奴國との争いが大
変で、もうこれ以上出兵できませんって言い訳しにいったわけ。
朝鮮半島での紛争の経過からしてもこうなる。
この時代、まだ戦乱時代ですよね。魏は倭国に軍隊を送る余裕なんてあったのでしょうか?
中国が軍事支援なんてするでしょうか?そんなことするわけない。
この時代は言うまでもなく魏、呉、蜀三国の戦乱時代です。
蜀は衰えてはいましたが、呉は健在です。呉は周辺の異民族と手を結ぼうとしました。
これが遠交近攻です。「遠きと交わり近きを攻める」です。
まず、呉は公孫淵と同盟を結び遼東で反乱がおきました。
魏は公孫氏を滅ぼして帯方郡を支配下にしましたが、次に反乱をおこしたのは朝鮮半島の
国々です。これらの国々は必ずしも服属したとはいえませんでした。
特に重大なのは、朝鮮半島の大国、高句麗の反乱です。高句麗は魏に朝貢していましたが、
水面下では呉と結んでいました。
この高句麗の反乱を抑えるために、魏は大軍を正始5年244年と正始6年245年に送らな
ければなりませんでした。
また同正始6年に嶺東へ遠征して東濊を討っています。帯方郡太守の弓遵はこの時戦死して
います。
この年です、黄幢を賜ることになったのは。この黄幢は軍旗。
つまり、魏軍傘下に組み込れようとしていたわけです。