木造城は、正平21年(1366年)に伊勢国司・北畠顕能の次男北畠顕俊が一志郡木造に築城した平城です。北畠顕俊は地名を取り木造氏と改め、初代城主として一志郡を支配しました。現在の木造城跡は、7代木造俊茂が亭禄元年(1528年)、古城の北約300mに新しく築いた新城です。城は、低湿地に囲まれた天然の要害で、多重に堀を巡らし守りに適した堅固な城であった。永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻してくると北畠家を離反し、木造具政は、北畠侵攻の案内役を務めます。信長の次男信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣事で和解した後は、木造氏は、織田(北畠)信雄の家老となり、9代木造具政が天正12年(1584年)に「小牧・長久手の戦」の局地戦の宮山城、戸木城の戦で織田軍の家老として奮戦しています。戦後に、戸木城に移ったことにより、木造城は廃城となった。現在、田園の真ん中に小高い丘が残っているだけですが、これが木造城の土塁の一部と思われます。城跡の南にある集落は、かっての武家屋敷の名残とされ、木造氏ゆかりの木造神社や引接寺があるかっての城下町である。
[所在地:三重県津市木造町字城]
<アクセス>近鉄名古屋線・桃園駅下車徒歩約30分
▼田園の中の小高い丘に石碑と案内板が建っている。
▼木造城址碑
2014/06/08 訪城
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戸木(へき)の戦 天正12年(1584年)
織田信雄と豊臣秀吉の抗争で、絶縁。「小牧・長久手の戦」の局地戦。豊臣秀吉方、松ケ島城主・蒲生氏郷と織田信雄方戸木城主・木造(こつくり)長政が激突。豊臣秀吉と織田信雄、徳川家康が和議。のち織田信雄没落。関ヶ原の戦で、木造長政は織田秀信(西軍)に従う。