古代より大和と河内を結ぶ要所の標高433mの信貴山雄嶽を中心に築城された山城です。奈良県下最大規模を有する城郭です。中世には、護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点にするなど戦略的に重要な位置にありました。その後、戦国時代には、木沢長政が天文5年(1536年)に城を築き永禄2年(1559年)、松永久秀が大規模な城郭を再興。松永久秀は翌年築城の多聞城と合わせて大和支配の拠点とするが、天正5年(1577年)織田信長に反抗して信貴山城に籠城、敗死する。現在、本丸跡には、信貴山朝護孫子寺の空鉢堂が建てられています。
[所在地:奈良県生駒郡平群町信貴山]
<アクセス>信貴山朝護孫子本堂付近から徒歩約30分
▼信貴山城の概要
▼信貴山城本丸跡 ▼本丸跡より展望風景
▼信貴山城の戦い (学研「歴史群像シリーズ・風雲信長記」より)
2012/05/13 訪城
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信貴山城の戦い 天正5年(1577年)
松永久秀が織田信長に対する二度目の謀反をする。織田信忠が40,000騎で信貴山城を包囲する。松永久秀は、8,000騎で籠城戦を展開するが、信貴山城方が裏切り松永久秀自害する。筒井順慶の大和支配回復する。
◆松永久秀(?~1577年)
もと三好氏の臣だが、三好三人衆と対立し争いを続ける。永禄10年(1568年)入京した足利義昭に降って幕臣となり、大和一国の扱いを任された。しかし元亀3年(1572年)織田信長に反抗。翌年降参して許されたが、佐久間信盛の与力に格下げされる。天正5年(1577年)信貴山城に籠って再び、反抗する。織田信忠軍の攻撃を受けて10月10日自殺した。