松ケ島は伊勢神宮への参宮古道沿いにあって伊勢湾に面し、海陸交通の要衝であった。天正8年(1580年)近くの田丸城が消失したため、織田信雄(織田信長の二男)が新たに城を築き、松ケ島城と称した。五層の天守閣のある城であった。その後、織田信雄の家臣・津川義冬、滝川雄利が城主となり、最後は、天正12年(1584年)豊臣秀吉の部下・蒲生氏郷が12万石で入部した。ところが、城下が手薄だったため、天正16年(1588年)蒲生氏郷は、新しく松阪城を築いて,同年11月末までに松ケ島城の町人や寺社は全て松阪城に強制移住させられて、松ケ島城と城下町は廃城となった。現在は周りが畑ばかりの場所に幅約20m,高さ約2mの丘が1つだけあるだけです。昭和31年12月に、三重県指定史跡に指定されました。
[所在地:三重県松阪市松ケ島字城ノ腰]
<アクセス>近鉄山田線松ケ崎駅から徒歩15分
▼松ケ島城の概要
▼本丸天守跡
▼本丸天守跡 ▼松ケ島城跡碑
2014/03/03 訪城
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◆北畠信雄(きたばたけのぶかつ)(1558年~1630年)
織田信長の二男。永禄12年(1569年)秋、北畠氏との講和の時、養嗣子として送り込まれた。天正3年(1575年)6月より北畠当主。翌年11月、北畠一族を滅ぼし、南伊勢一帯の支配権を握る。その後、遊撃軍として各所を転戦。天正7年9月には、勝手に伊賀に兵を出して敗績し、父、織田信長より叱責された。伊賀は二年後総大将として平定,三郡を与えられる。本能寺の変後、弔い合戦に参加できず、尾張の加増にとどまる。小牧・長久手の役で徳川家康と組んで豊臣秀吉と戦ったが、結局これに従う。天正18年(1590年)、国替えを拒んで豊臣秀吉の怒りを買い、所領を没収、下野に配流された。
白米城伝説 応永22年(1415年)
足利幕府に対抗し松阪城に立て籠もった北畠満雅の軍は幕府軍の水断ちによる兵糧攻めに対し、白米を流して水が豊富にあるように見せかけて撃退した。