浜松城は、三方ケ原台地の東南端に築かれた平山城です。今川氏滅亡後、遠江を平定した徳川家康は、元亀元年(1570年),武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河から遠江へ移し、引馬城に入り新城の築城を開始する。この年の9月は普請も完了し、浜松城と名付け入城した。元亀3年(1573年),武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして徳川家康を挑発。挑発された徳川家康は浜松城から打って出たが、武田信玄に三方ケ原で大敗を喫した徳川家康は命からがら浜松城に逃げ込んだ(三方ケ原の戦い)。天正14年(1586年),徳川家康が駿府に本拠を移すと家臣の菅沼定政が城を預かる。徳川家康の関東移封後は、豊臣秀吉の家臣掘尾吉晴が入城したが関ヶ原の功績により出雲松江に移封となり、以後江戸時代は徳川譜代大名が交代で入城し、幕閣への登竜門[出世城]として意識された。浜松城は、明治維新後に廃城となり破壊された。城跡は、「浜松城公園」となり、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート制の復興天守閣が再建された。そして、昭和34年(1959年)には浜松市の史跡に指定された。
[所在地:静岡県浜松市中区元城町100-2]
<アクセス>JR浜松駅からタクシーで5分。又は
JR浜松駅バスターミナルから遠江バスで市役所前下車徒歩約1分。
▼徳川家康の概説
▼天守門
▼天守門
▼天守閣
▼浜松城の石垣(野面積み)
浜松城の石垣は、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。表面にすき間があり、一見崩れやすいように見えますが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固です。浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の圭岩で浜名湖や佐鳴湖など水路を使って運ばれました。江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、現存する石垣としては、彦根城、竹田城、そして安土城にも用いられていたといわれています。
▼井戸
▼城郭の全容
▼定
▼天守閣
▼天守閣からの眺め
▼本丸跡 ▼本丸跡に立つ徳川家康の像
▼徳川秀忠誕生の井戸 (遠江鉄道・遠州病院前駅から徒歩1分)
▼徳川家康の散歩道・・・・・ハイキングコースになっています。
2015/01/07 訪城
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三方ケ原の戦 元亀3年(1572年)
武田信玄の徳川領侵攻で、徳川家康が、浜松城から打って出て戦った戦。武田信玄(25,000騎)は、魚隣の陣で、徳川家康(11,000騎)は鶴翼の陣で対峙。徳川家康軍撃破される。
浜松の百姓一揆 弘化3年(1846年)
水野忠邦から家督を相続した嫡子忠清、出羽山形へ移封。この時、領民からの借上金を返済しなかったために一揆が起こる。
◆夏目吉信 (1518年~1572年)
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、一揆方に加担。のち徳川家康に許され再出仕。元亀3年(1571年)の三方ヶ原の戦いの時、幡豆郡六栗城主だった夏目吉信は、敗勢の中で決死の突撃をはやる徳川家康に、退去をすすめました。夏目吉信は、徳川家康が肯かないとみると、刀の棟で乗馬の尻を叩き、浜松の城へ向けて疾駆させた。そして、自らは寡兵を率いて敵中に入り、家康の名を大音声に呼ばわりつつ、ついに身代わりとなって討ち死にした。
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<徳川家康の問題>
[1] 慶長8年(1603年)将軍に任じられた徳川家康は、拝賀のため朝廷に参内した。このとき家康は初めて土田孫三郎を伴って行ったが、この土田家以来、公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)という役職を世襲した。どんな役だったか。
①洗面・うがい用の水を用意する役。
②旅先での毒味役。
③儀式のときの小便器持ち。
[2] 徳川家康が三河で小勢力だったころ,近習の者が盛った飯のことでひどく怒った。どんな飯だったのか。
①麦飯の下に白米飯が入っていた。
②麦だけの飯だった。
③籾が付いたままの飯だった。
[3] 徳川家康が即刻切腹を命じたその男との因縁は?
①三河の譜代の家柄なのに武田に転職していた。
②駿府で人質だったころイジメられた。
③長男信康が信玄と密通したとされたときの武田側の窓口だった。
[4] 三方ケ原から逃げ帰った家康はどんな様子だったか?
①甲冑を後ろ前に着けていた。
②下半身がふんどしだけだった。
③クソを垂れ流していた。
[解答]
[1]③
[2]①
[3]②
[4]③