掛川城は逆川沿いの小高い丘に位置する平山城。戦国時代の明応6年(1497年)~文亀元年(1501年),駿河の守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕によって築かれた。桶狭間の戦(1560年)で、今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568年),今川氏真は武田勢の侵攻を受け、歴代の本拠である駿府今川館を失うと、掛川城へ逃亡した。翌年の永禄12年(1569年)掛川城は、徳川家康に攻められ孤立無援の状態となったことから、今川氏真は、降伏を決意し開城しました。ここに今川家は滅亡した。
徳川家康領有後、重臣石川家成が甲斐の武田氏の侵攻を防ぎました。天正18年(1590年)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東に移し、徳川家康旧領地には豊臣秀吉配下の大名を配置し、掛川城には、山内一豊が51,000石(のち59,000石)の大名として入りました。山内一豊は、多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて3層の天主閣をつくりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦の後、山内一豊は土佐一国を与えられ高知城に移っていきました。
江戸時代には、徳川親藩の松平氏や江戸城を築いた太田道灌の子孫太田氏等11の大名家の居城として栄え、明治維新まで続きました。明治以降は、廃城令によって大半の遺構が撤去されたが、平成6年(1994年),掛川市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造工法の天守閣が復元された。幕末に再建された二の丸御殿(重要文化財)が現存する。
[所在地:静岡県掛川市掛川1138-24]
<アクセス>JR東海道本線・新幹線、掛川駅下車北へ徒歩約10分
▼太鼓櫓(右)と天守閣(左) ▼復元された城門
▼太鼓櫓 ▼本丸から見た天守閣
▼天守閣 ▼天守閣の構造
▼狭間(さま)
城郭内の建物塀に設けられ、内側から鉄砲や弓矢で敵を攻撃するための穴で、掛川城天守閣では、一階に9ケ所、二階に14ケ所ありました。
▼石落とし
一階の床の一部を石垣の上に張り出せて、敵が攻めてきた時に床板を開け、そこから石を落としたりして攻撃するためのものです。
▼天主閣から見た眺め ▼二の丸の御殿
▼御殿の概略図
▼御殿(国指定重要文化財)
御殿は、儀式、公式な対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と城主の公邸が連結した建物です。
▼御書院上の間
2015/01/07 訪城
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掛川城の戦い 永禄11年(1568年)
徳川家康と武田信玄が今川領分割の密約によって、徳川家康が遠江侵攻。今川氏真、北条氏を頼り掛川城から伊豆へ退去。今川氏滅亡。
◆二宮金次郎 (1787年~1856年)
「勤労」、「分度(倹)」,「推護」を人々に勧めた。
勤労とは、徳に報いるために働く。
分度とは、収入の範囲内で支出を定めること。
推護とは、勤労、分度をして、たまった物を将来のために残したり、人に及ぼしたりする事。
▼JR掛川駅前広場の二宮金次郎の像