14世紀前半に、土豪の越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりです。標高584mの高取山の山腹に戦国時代、豊臣秀長が大和郡山の詰城として重臣の本田利久に大修復させ堅固な城として完成させた日本有数の山城です。文禄4年(1595年)増田長盛が大和郡山城に入場するが、本田氏はそのまま高取城主として残った。本田氏の断絶後、寛永14年(1640年)旗本の植村家政が大名に取り立てられて入城し、2万5千石の居城とした。3重の天守と小天守をもつ城であった。以後、明治維新まで植村氏が14代に渡って城主となった。明治6年(1873年)廃城となったが、高石垣は、完全な姿で残っている。
[所在地:奈良県高市郡高取町高取]
<アクセス>近鉄・壺阪山駅より徒歩約70分(3.8Km)
▼大和高取城の概要
▼大和高取城の縄張り図
▼大手門跡
▼本丸跡(郭内跡)
▼再現の大和高取城
2012/11/19 訪城
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大和永亨の乱 永亨2年~永亨12年(1430~1440年)
一乗院衆徒(筒井氏派)と大乗院衆徒(越智氏派)の衆徒間の争いをきっかけに、大和の豪族たちが、筒井・越智の両派に分かれて抗争する。転戦の末、反幕府体制を目論んだ越智氏が、幕府介入により敗走する。
天誅組の変 文久3年(1863年)
孝明天皇が攘夷祈願のため、大和行幸を決定する。土佐の脱藩志士らが大和で倒幕挙兵し、十津川郷士らと五條代官所を襲撃。さらに約1,100騎で高取城を攻撃する。高取城方約2,300騎は、大砲で反撃したので、攻撃は、失敗に終わり壊滅する。大和行幸は中止となる。(京では公武合体派の政変、三条実美ら七卿の長州落ちする。)