南北朝以来、春日神社国民で興福寺被官に列した有力国人の秋山氏が、標高470mの古城山上に本城として築いた山城(秋山城)です。天正13年(1585年)、羽柴秀長の大和郡山城入部により秋山氏は追放され、豊臣家の配下の大名の居城となり、城は大きく改修され城下町の整備も進められた。関ヶ原の戦い後入封した福島高時の時、城下町の名を松山と改めた。福島孝治が元和元年(1615年)に改易された時、城は破壊された。その後入封した織田信長の次男織田信雄の宇陀松山藩は城を使用することなく、麓近くに居館を構えた。その後、宇陀松山藩は、元禄8年(1695年)に改易になり以後、幕府領となった。現在は、空堀、曲輪跡、石垣などが残されています。
[所在地:奈良県宇陀市大宇陀春日]
<アクセス>近鉄榛原駅から『大宇陀』行きバスに乗り「西山』下車。徒歩約20分
▼宇陀松山城大手筋の西口関門
▼城下町『松山』の概要
▼宇陀松山城跡
▼天守郭 ▼天守郭からの展望風景
2012/10/19 訪城
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宇陀くずれ 元禄7年(1694年)
元禄7年(1694年)9月29日、織田信長から数えて五代目の松山藩主織田信武38歳の乱心により、重臣田中五郎兵衛・生駒三左衛門を切り殺すという事件がありました。一ヶ月後に信武は自害して果てました。同家は、織田信長の血統であるということを重んじられて信武の子・織田信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石に減らされた上で丹波国柏原藩へ減移封となりました。国主として扱われた待遇も、この時に剥奪されてしまった。なお、宇陀松山藩もこれをもって廃藩となった。