松永久秀が、永禄3年(1560年)に,東大寺大仏殿の北の眉間寺山(佐保山)に多聞山城(たもんやまじょう)を築いた。松永久秀の素性はあきらかでないが、松永久秀は、三好氏の当主三好長慶に仕え、しだいに頭角をあらわした。永禄2年(1559年)筒井順慶等の国衆を掃討し、翌年から5年の歳月をかけ城を完成させて、大和を支配した。城には、四重の天守が聳え、長屋状に塁上を巡る櫓があり、櫓の壁は漆喰で白亜に輝き、多数の銃眼が穿たれて、鉄砲隊を配置できるきわめて実践的な城であった。天正元年( 1572年)多聞山城は織田信長によって接収されたために、松永久秀は信貴山城に退きました。天正5年(1577年)に松永久秀が信貴山城で自害したのち、織田信長の命を受けた筒井順慶により、多聞山城は、取り壊され、城石は、大和郡山城の築城に使用されました。現在、本丸跡には、奈良市立若草中学校が、建っています。
[所在地:奈良県奈良市法連町]
<アクセス>近鉄奈良駅から徒歩15分(1.2km)
▼多聞山城へのアクセス(略図)
▼多聞山城概略図
▼本丸(本丸跡には。現在、奈良市立若草中学校が建っています。)
▼多聞山城跡碑(若草中学校内)
2013/06/17 訪城
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三好・松永の兵乱 永禄10年(1567年)
筒井順慶、大和の支配回復のため、三好三人衆と松永久秀の多聞山城を攻める。松永久秀、三好三人衆の陣した東大寺大仏殿に夜討をかけて東大寺大仏殿炎上する。筒井順慶・三好三人衆敗北。大和の兵乱続く。