なな色メール 

シュタイナーの勉強会の仲間と始めたニュースレター。ブログでもその一部をご紹介していきたいと思います。

いのちの通い合い(3)    詩、「海が哭く 人が泣く」

2011年09月01日 | いしかわようこ
「海が哭く 人が泣く」                                                         (哭く:なく)        
エネルギーのざわめきは          
いきものにとって 日常のこと)                           

地球の日常にも
くしゃみやしゃっくりが
あるのでしょうか

3月11日のざわめきは
あまりにも激しかった

何をそんなに嘆いたのか
何をそんなに怒ったのか

おさえきれないたかぶり
かくしきれない動揺が
海面をふくらませ あふれさせ
突然のようにおお哭きさせたのでしょうか

そこに
原発があったのです

東北は 半年雪の中だから
    過疎だから
    高度産業が成り立たないから
    財政難だから
危険なもの いやがられるものが
押しつけられるのです

原子力を 売りものにする企業は
この地球から 消えなければ なりません

おだやかな発電に切り替えたとき
海にも 人にも
おだやかな灯りが 灯るでしょう

吉田廣子著
詩語り
『降れば 降ったように』
出版、書肆えん(しょしえん)


私の高校時代の友人が綴った詩を紹介させていただきます。ワンネスのいのちと響き合っている詩です。詩人の魂というのは、花の霊や、とぐろを巻いて人を苦しめる悪霊も見えるのかも知れません。

いしかわようこ


Let’s enjoy Poor Life

2011年06月01日 | いしかわようこ
面白い本を読みました。先回Sさんが紹介して下さった本の一冊。川上卓也著『貧乏という生き方』(WAVE出版)です。本の帯に記されている文章で中味も想像できるでしょう。< 月6万円で豊かに暮らす!>

趣味がカメラ、写真の著者のつつましい写真が添えられています。台所の一コマ、流しの上鍋、フライパン、まな板、包丁、砥石、ざる、おたま、しゃもじなどがきれいに並んでいる。ここでご飯とみそ汁と納豆と旬の野菜の食事が作られる。ご飯は土鍋で炊く。出しは安売りの昆布とかつおでとって冷凍しておく。納豆はかき混ぜれば混ぜるほど(つまり空気を入れれば入れるほど)おいしくなるから右に200回左に200回かき混ぜる(ご飯が炊ける間他にやることが…だそうです)薬味はネギ、小さい庭の紫蘇安売りの時の傷海苔。秋の楽しみはサンマ。一尾100円以下になった時をねらい七輪で焼く。大根をおろしを添えて一番安くておいしいウィスキー「トリス」で晩酌世界一旨い!と自負する。

川上さんは20代思うことがあって会社を辞める。そして<貧乏に降りていく道>に入った。現代の日本の社会、その中での暮らしに疑問をもったからである。消費文明に踊らされきゅうきゅうと身を削って暮らしを維持する人生をリストラしたと言う。お金や物に縛られない本当に人間らしい暮らしを求めたわけですね。収入はアルバイト。

朝あわただしく起きてファーストフードを口に入れ、昼はコンビニの弁当。これは<ビンボー>な人の食事。川上さんの土鍋で炊くご飯、そしてみそ汁、納豆、昼は塩おむすびそれは<貧しくも愉しい満足する>食事。<ビンボー>と(清貧>の違いお金は無い。ない中で考え工夫する。お金はないけど時間はある。自由がある。自分の世界を創造していける。自主的に貧しい道を選んだ川上さんをゆたかにするのはお日さまのぬくもり、空の青さ、川風のさわやかさ…季節のうつろいetc.

全日本貧乏協議会を立ち上げ会長を自称。ある年の暮、会員のUさんからお歳暮が届いた由、開けてみると「前沢牛」の霜ふり。狂喜乱舞!

読んでその気概あるポリシーには共鳴すること大でしたが、たばこ(安物の)、白砂糖の多食が心配。風邪、花粉症の原因はそれかも知れませんよ、川上さん。でもつい忘れがちだった<小欲知足の生き方>を改めて教えられた本です。



私の願い・祈り

2011年06月01日 | いしかわようこ
「親もなくした 妻もなくした 息子・娘もなくした 涙もなくした」
津波で家族を失った男性のことばは何という悲痛な叫びでしょう。

避難先で数人の生徒のために小さい卒業式が行われました。その時話された中学校の校長先生のことば・・・。
「皆さんが大きな人間になるために、これ以上の試練はないでしょう。」
布団・毛布の積まれた体育館の一画で、卒業証書を受け取った少年少女たちが大きく成長し、新しい郷土、新しい日本を創っていく人になることを切に願っています。

試練の只中にある時はつらく苦しい。自分の人生に当てはめてみると、過去の苦しみの意味がわかってくるのに大体10年の歳月がかかる。そうしてこう言えるようになる。
「苦しみは大きかった。しかしそこから得たものは大きかった。何倍も何千倍も・・・」

試練は人を成長させる。大きな花を咲かすきっかけにもなる。口で絵と詩をかいて多くの人の心を魅きつける星野富弘さん。体育の指導中のケガで首からの下半身マヒとなる。そこからの新しい人生だった。
「地球村」代表の高木善行さんもオートバイ事故による全身骨折を機に変わった。エリートサラリーマンから地球温暖化を防ぐ活動に入った。
わが子を幼くして白血病で亡くした両親は悲嘆を味わった後、同じような境遇の家族支援に生活をシフトする。

ただ残念なことに人生の途上で遭遇するさまざまな患難に崩れていく人もいる。店の倒産で無気力となりアル中となった人が身近にいる。離婚後ホームレスになっていく人もいる。親に捨てられて悪しき世界に入っていく人もいる。

試練にあって成長していく人と崩れていく人----この違いはどこから生じるのだろう。性格のちがいだろうか。私の個人的見解は親の育て方にも影響されるのではと思う。次のような詩があります。

アフリカの母 
 子供が転んだとき
 日本の母は抱き起こすという
 アメリカの母は黙って見ているそうだ
 アフリカの母はというと 自分も転んで 起き上がって見せるという


私と二人の兄の三人は性格が弱い。ナイーブでひ弱である。それは父が子供の先回りをして転ばないよう石をとりのけるような育て方をしたからではないか。父自身神経質で失敗を恐れるタイプだったからであろう。それで私たちは転んで、泣きながらも立ち上がるという挫折体験をしなかった。
いわば温室育ちである。自分の力で雨風に耐える訓練がないため、自信をつけることが出来ずに大人になってしまった。小さい時の失敗と立ち上がりの経験が多い人ほどたくましく生きていける。私たち三人のひ弱さを思うたび親の姿勢の大切さを痛感するのである。
 日本人の母は子供の自立心を奪いかねない(一面ではこういうタップリの溺愛もよしとする時期はあるという。1才~3才の頃まで)
アメリカの母は子供の自立心を養いつつもどこか突き放す冷たさがある。
アフリカの母はすばらしい。大きな愛に包み込みながらの自立心涵養。あたたかさときびしさの調和がある。
 次のエピソードには誰しも心打たれるのではないだろうか。

 ちょっといい話
公園で一人の幼い子どもが転び、急に泣き出しました。そこへ四つ位の女の子が側に走り寄りました。その女の子は倒れた子の側まで行くと自分も倒れました。そして倒れている子を見てにっこり笑いました。倒れていた子もそれを見て泣きやみ、そして笑いました。その女の子は「立とうね」と言いました。「うん」二人は一緒に立ち上がりました。

今回の東日本大震災で被災された方々に対する日本各地の世界中からの支援善意はこのエピソードの女の子に似ている。駆け寄って“共に生きよう”“一緒に立ち上がろう”という心のあらわれだ。相手の痛みを共感すること、同じ人間同胞と一緒に歩んでいこうという心。それこそ人間を動かし、生かす力となる。普段何事もない平和な時はけんかしたりいがみあったりするが、こと大きな災難など非常時に一つのおむすびを分け合い、助け合うパラダイスが生まれるという。

人として一番大切なこと幸せの原点をこういう大試練というつらい経験をしなければ悟れないというのは人間の悲劇かもしれません。でも私は祈ります。今回の大惨事が大きな気づきの機会となりますように。「親も妻も子どももそして涙すら失った」男性が同じ境遇の人々と絆をつくって新しい形の家族共同体を創っていけますように。前にも増して豊かな人間関係を築き、育んでいけますように。そして「失ったものは大きい。しかし得たものも大きい、何倍も何千倍もー」と言う日がきますように。

「神は真実な方ですから、あなたがたが耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。」(Iコリント10・13)試練と共に克服の道も備えて下さいます。神は立ち上がる力。愛を与えて下さる復活の存在です。

心に残ることば

2011年02月01日 | いしかわようこ
ラジオ深夜便『こころの時代』特選集(上・下)から、考えさせられることば、励ましとなることばをいくつかご紹介いたします。

①作家・夏木静子さんー原因不明のひどい腰痛に死を考えた時期
 
 臨床心理学者の河合隼雄先生と電話でお話をする機会がありました。「人間は大きな変化をするときに、産みの苦しみのようなものを味わうんだ。特にクリエーティブ(創造的)な仕事をしている人には、何か成長しようとするときに苦しみが訪れる。私はそれをクリエーティブ・イルネス(病気)と呼んでいる」とおっしゃいました。「治った後」に新しい世界が開けるかもしれません。引退をかけるつもりで真剣に闘いなさい」と、励ましていただきました。

失敗・挫折・行きづまり(問題の発生)→悩み苦しむ(模索・苦悩)→光がさす・解決(心の成長)
「苦しみから歓喜へ」私たち人間の成長発達のパターンのようです。「クリエーティブ・イルネス」とはいい表現ですね。

②エッセイスト・大石邦子さん
 22才の時バス事故に遭い、半身マヒの身になり、不治の宣告を受けた時期

 私は絶望の中で投げやりになって、もうこれ以上ない冷たい声で母に当たりました。
「私の人生なんてもうすべて終わりよ!」
叫びました。すると、そんな私に、母は涙ぐみながら言いました。
「何もかもすべて終わりということは、何もかもすべてこれから新しく始まるということでもあるでしょう。」
「何が始まるの?こんな体に何が始まるの?」
 私は震えるような怒りの中で、頭が破裂しそうでした。でも、新しい日々がまた始まるという母の言葉は真実でした。」


 地球村代表の高木善之さんもオートバイ事故で全身骨折。臨死体験と苦しみの中から大きく変身してゆきました。

③詩人・画家・老子研究者 加島祥造さん

老子の思想をわかりやすく説明される対談の途中で

―東京のあの大空襲(45.3.10)で焼け野原になってなにもなくなりましたがという問いの答え―
 持っているものを一度失ったことによって新しい気持ちになったと思うよ。持っているものに頼って生きている社会というものは、どうしても考え方が迫嬰的になる。国家でも、個人でも、失う経験から、次の新生面に転じるんだ。失うということは、そこに新しいものが入ってくる余地が生まれるということだよ。
 東京という都市が戦後これだけ大きくなったのは、一度何もかも失ったからだ。地主が土地を手放したことで、この国土にはエネルギーが満ちたんだよ。
―捨ててこそ、という言葉がありますが(問い)
 捨てるというより、なくなってこそだね。人間って欲望の塊だから、なかなか捨てることはできないよ(笑)。でもなくなってもいいという気持ちでいることだよ。


 物をいっぱいためこんで片付けることができない友人がいます。物を手放すことができないということは新しいものが入ってくるスペースがない。体でも心でも便秘状態はよくありませんね。

NHKラジオ「こころの時代」は素晴らしい番組です。ただ時間帯が朝4時から5時。こんな時間でもリスナーは多いそうです。幸い収録テキストが発行されています。十人十様の人生体験はどれも光っていて感動します。

◎「今日われ生きてあり」「本日、われまだ生きてあるなり」
 (ある特攻隊員の日記の冒頭に、毎日くりかえされたことば)
◎「紙碑」(長谷川伸氏)
 「石に彫ってもだめだよ。銅に彫ってもだめだよ。いちばんいいのは、紙に彫ることなんだ。ただし神坂くん、いいものを書かないとね。」


「なな色メール」も私たちのささやかな紙碑にしたいものですね。
特攻隊の記録を小説化した神坂次郎さんはこう言っておられます。

「写経をするように、原稿用紙のます目に一点一画彫り込むような思いで死んでいった若者一人一人の名前を書きました。」

手書きしかできない私ですが、せめて魂のにじむことばを綴りたいものだと改めて思いました。                       (2011.1.10記)
いしかわようこ                          


庭での遊学③(経済の友愛)

2010年02月01日 | いしかわようこ
 鳩山首相は「友愛の精神」を政治の理念に揚げました。抽象的な理想主義と批判もされますが、私は面白いと思いました。今までの日本の政治家が口にしないことで、肌の違いを感じています。
 
 聖書にも「友のために命を捧げる以上の愛はない」とキリストは言われています。私たちの究極の幸せは、お互いに友愛で結ばれることではないかと最近強く思うようになりました。先回書いた虫たちとの共生、あるいは食物連鎖も互いがいのちを与え合って生きるワンネス(ONENESS)の姿・友愛の連鎖の姿ではないでしょうか。

 昨年、庭を通して二人の人と出会いました。FおばさんとN博士呼びましょうか。あるいは野菜おばさんと植物博士と呼びましょうか。


(1) 野菜おばさん
 
 日本の食料自給率は40%とか。こと国際紛争にまきこまれ食料の輸入が途絶えたら、日本は飢餓地獄に陥るのではないかと言われています。私は両親の影響を受けて危機管理対策をよくしている方です。庭に手押しポンプを設置したのも地震等で水が止まった時のことも考えてのことでした。(レトロ趣味もありますが)
 
 万が一の食糧危機を考えて手を打った方法は農家と親しくなるということ。広い庭があるのですから、そこを畑にして自給できれば一番いいのですが、体力や経験の不足から、ムリです。近くの農家と親戚関係をつくればいいと思いました。「切に願うことはかなえられる」と言いますが、庭師の紹介でFさんがやってきてくれました。我が家から車で15分位の集落に住んでおられる。自家用に色んな種類の野菜を植えているという。田んぼは20枚も持っているとか。(私のやり方は一見自分本位のわがまま、エゴイスティックに思えるかも知れません。消費者と農家が友愛的につながる方向に展開していくことを願います)
 
 年齢はまもなく70歳になられるFさんが、ご主人の軽トラで週に一回野菜を届けて下さることになりました。午前中採って一人暮らしの私の一週間分相当をきれいに小分けし箱に詰め合わせて運んで下さる。例えば7月10日配達記録では

    レタス、サニーレタス、インゲン、きゅうり、青じそ、ズッキーニ、ナス、   
      玉ネギ、紫玉ネギ、ピーマン、プチトマト、じゃがいも、わらび


新鮮そのものです。

 「Fさん、代金を請求して下さい」

と申し上げると

 「私は今まで野菜を売ったことがないので、値段をつけられない。おくさまが食べておいしいと思ったら、見積もって下さい」

という返事。このやりとりでFさんと私はすっかり意気投合する仲になりました。私は最初から店で買うようなお金で清算して「ハイ、オシマイ」にはしたくなかったのです。結果的には店頭価格より2割位高い「おいしかった代」を差し上げました。Fさんはいつも「多い多い!」とおっしゃいます。でも喜んで下さいました。農家の主婦として、現金収入は嬉しく助かり、何より野菜を作る励みが出てきたと言われます。
 
野菜の宅配箱を見ながら、15分もおしゃべりの花が咲きます。きゅうりの辛子漬け、チンゲンサイの即席漬けなどノウハウも学びました。一度にたくさん配達される野菜の保存方法も身につけ、買い物に心配することもありません。又、畑のまわり、国道の脇にも花を植えるほど「花っこ」大好きと伺って、途中から花ひと束も運んでもらうことになり、私の玄関はゴージャスな雰囲気に様変わりしたのも予想外の副産物でした。

昨年は長雨で一時レタスなども腐った由。天候に左右される農家の現場も伝わってきます。薬は苗の消毒時のみ使い、あとは手で虫退治するという。Fさんのキャベツには穴だらけと青虫も同伴してきます。それを喜ぶ私をFさんは笑われる。野菜から人とのつながり、今までの人生のこしかたを分かち合うお付き合いになりました。お金以上の物や心のやりとり、友愛のよろこびを味わっております。




(2)N博士の登場
 
『ちゃぶ台だより』で干し柿づくりを伝授して下さったNさんとは市場の近くの小さい店で時々顔を合わせていました。ところが昨年ひょんなことからNさんの家がわが家から歩いて10分位のところにあることが判明。それからぐっと距離が近くなりました。店での買い物も配達してもらう。
 
「朝、何時に起きているんだ?」
 「ナニ?7時、随分遅いんだな。オレは3時に起きて山菜を採りにいくか、畑仕事をしている。」

いかにも元気で山男のような敏凄さがあります。物の言い方もストレートで歯に衣を着せないかんじ。一見粗野な言動のうちにデリケートな思いやりと優しさがひそんでいて、私の好きな男性タイプの一人です。あの『風と共に去りぬ』のバトラーの日本版(?)と思って下さい。

 Nさんが私の所に朝7時きっかりやって来た最初の日。Nさんは肝心の届け物を車に置いて、私の庭にスタスタ(ズカズカがいいかな)侵入して庭を一巡したのです。まるで庭の主(あるじ)のよう!そしてご自分のライフワークである山野草との出会いをとうとうと話し出したのでした。その博識、うん蓄の深さには圧倒されてしまうほどです。
「可憐な山野草を社会的弱者に届ける」という生き方をしているという話にNさんの優しさの謎が解けました。年寄りと女性と病人に対する目線がとても暖かいのです。

 庭の草花に関して私の質問に間髪をおかず明快な答えが返ってきます。小学生にもわかる具体的な説明にも脱帽。 

「ナメクジを退治するには?」→「夜、寝る前にバナナの皮を皿にのっけて数ヶ所に置いとけ」 
「ネジ花ふやしたいけどふえないのは?」→「草かげ、日当りの場所」

コンピューターのような頭脳です。それから私はNさんを「ハカセ」と呼んで、庭の専任教授になっていただきました。

 
知的著作権は大切にしなければなりませんね。私はハカセの学識の恩恵にそれ相当の見返りをさせてもらおうと思い、店での買い上げに出来る限りのことをしました。配達して下さる時はガソリン代ですとチップを上乗せします。
 
「ガソリン代として取って下さい」 
「そうか、せっかくだから貰おう」と堂々と(?)受け取っていくのが心憎いほど、さわやかです。

そして次の日、又朝7時に
 
「これ、あなたの好きそうな花だからとってきた」

といいながら、実のついたヤマボウシの枝をポンと置いていかれる。

 ハカセがつくっているという畑と育てている山野草のハウスに案内され、私は度肝をぬきました。軽トラで藪の中を押し入り、

「あそこから あそこまで オレの畑だ」

聞くと2000坪あるという。まったく原野と表現した方がよかった。草ぼうぼうの中に野菜が植えられている。
 
「小さい苗の時は勿論雑草を取るさ。あと自力で育つ力が出たら放任だ!その方がたくましく育つ。虫もまわりの雑草を食って野菜まで手を出さないだろ!草一本ないあなたの庭とは正反対だな。ハハハ」


店のガラス戸にハカセの自筆の貼紙がありました。
  
        わが店の野菜は減農薬有機栽培のものです。        
        
        肥料は次のとおり、牛フン、もみがら、木炭、カキ殻、こぬか、魚粕、

        コーヒーがら、かんきつの皮、昆布くず、スッポンの骨、有機化合物


それを証明するように、私をアチコチ案内して公開なさる。

 ある朝の7時

「お宅の秋海棠(ショウカイドウ)を2,3本もらっていくよ、茶花の花材を頼まれてな」

ハカセは金持ちではなさそう。

「オレの財産は友人だから」

友人たちの使い走りを買って出ているため、ものすごい人脈を有しておられる様子。ハカセの中にも経済の友愛が生きているようです。

庭での遊学②

2009年10月01日 | いしかわようこ
 最近読んだ本を紹介しながら、私のガーデニングだよりです。

(1)『虫といっしょに庭づくり』(農薬を使わない<虫退治>のコツ)
 私は長いこと、無視とどのようにつき合うか悩んできました。食べ物もできる限り無農薬のものを基本としてきた者として、庭にも化学的な薬を使いたくなかったからです。でも虫は総じて嫌い! アリやダンゴムシやカタツムリのような固い殻をもつ虫はいいのですが、イモムシ、毛虫、ヨトウムシのようなくねくねする虫は好きになれません。

 父から庭を引き継いだ当初は「虫のつく木」はバッサリ切り捨てました。カイガラムシで白くなったつつじ、アブラムシがびっしりついたサルスベリとズミの木。毛虫が50匹もついたビワの木など私の刃で犠牲になりました。

 ところが、私の大好きなムクゲの木を植えましたら、春新芽にまっ黒になるほどアブラムシがつくではありませんか! それからです。農薬(殺虫剤、殺菌剤、除草剤)を使わない方法を探し求めました。友人たちの言うように、スーパーで売っている「○○虫退治」のスプレーや粉末を買いたくなかったのです。そうして出会ったのが前記の本です。

 簡単に要約すると、どの虫もみんな<生存権。があるということですね。大自然という生態系にとってなくてはならぬ存在なんだということ。むしろ下位にある生き物の尊い犠牲(献体)によって上位の生き物は支えられていること。最上位の人間サマは手を合わせて感謝しなければならないことをとことん知らされました。

 それからです。虫排除から共存、共生へと回心?したのです。植えたばかりの花苗10本を一晩でナメクジに裸にされたのは、がっかりでしたが、あとは多めに見るようにしています。アブラムシも「花っこをダメにしたらダメよ!」と叱りながら、手でプチプチ「殺生」します。でも全部は殺しません。テントウムシの分も残しておきます。虫を見るとキャーッと心の中で叫んでいた時とくらべるとすごい変身ぶりです。でも虫と仲良くするのは決してきれいごとではありません。ことし長雨のせいか蚊が多く、ずいぶん刺されました。又毛虫の粉がついたのか、ヘルペスにも悩まされました。共生、共存には痛みわけが伴うということでしょうか。

(2)『奇跡のりんご』(ニュートンよりもライト兄弟よりも偉大な奇跡を成しとげた男の物語)

 りんごの季節がやってきました。甘くて大きいりんごが並んでいますが、こういうりんごが出来るようになるまでは、長い品種改良の歴史があったことをこの本で知りました。又収穫までに大量の薬が散布されることもね。この多肥、多薬のりんご栽培を逆行して、無肥料、無農薬、無除草という「絶対不可能」をくつがえした人。木村秋則(あきのり)さんの苦闘のドキュメントは感動的でした。夏の暑さを忘れて読みましたよ。皆さんも是非ご一読下さい。(木村さん書下ろし『リンゴが教えてくれたこと』日経プレミアシリーズの方が読みやすいです。)

 肥料なし。農薬なし。ひたすら家族総出で虫とり作業する木村さんのリンゴの木は8年間1個も実をつけませんでした。村八分にもなります。断念して死を覚悟。その時天からの啓示。
「土壌作りだ!」「山の土のような腐葉土が積み重なったフワフワの土を作ればいい!」

 1991年秋。台風19号の直撃で、青森のリンゴは壊滅的被害を受けました。743億円をのぼる被害総額になったそうです。リンゴの落果だけでなく、リンゴの木そのものも風で倒れたそうですが、木村さんの畑の被害はきわめて軽く、8割の果実が枝に残り、リンゴの木は揺るぎもしなかったという。根が普通のリンゴの木の何倍も長く蜜に張っていたからでした。又実と枝をつなぐ軸が太くて弾力があったからです。

 次の文は子育てにも参考になる内容ではないでしょうか。
「肥料を与えれば、確かにリンゴの実は簡単に大きくなる。けれど、リンゴの木からすれば、安易に栄養が得られるために、地中に深く根を張り巡らせなくてもいいということになる。運動もロクにしないのに、食べ物ばかり豊富に与えられる子供のようだ。」

 リンゴの木が深く広く根を伸ばしていけるために、木村さんは大麦を根元に植えるそうです。大麦は地下20メートルにも根を張るという。大麦によって土を耕すわけですね。養分は大豆を植えるといいとか。

 私のガーデニングでも、先ずいい土壌づくりが大切と学びました。「目に見える地上より、目に見えない土中を考えること」という木村さんの言葉は「大事なことは目に見えない」という星の王子様の言葉にも重なります。
 
 木村さんの自然栽培のりんごは、美味しくてホッペが落ちるほどとか。東京のあるレストランでは木村さんのりんごを使ったスープが人気で、一年先まで予約いっぱいだそうです。

 木村さん伝授のミニトマト。市中をたててのタテではなくヨコに寝かせて植えるともう1本から100コも採れるそうです。お試しあれ!

(3)『世界一の庭師の仕事術』(WAVE出版)

著書石原さんの言葉を箇条書きします。
・「花を売るのでなく、夢を売る」(p51)
・「花の命も人の命も短いけれど、心に残る感動は永遠」(p52)
(お客さまの依頼で、3000円の花束を高速4時間かけて宅配!)
・「ぼくの仕事の原点 お客様の喜ぶ笑顔」(p91)
・「花と緑には人を幸せにする力がある。花と緑で人を変え、町を変え、ひいては世界を変えることもできる」(p138)
(石原さんは長崎一の花屋になり、そして長崎は日本で一番人に花をプレゼントする町になったそうです)

 この本を読んで「何のために庭を造るのか」「庭を通じて何をやりたいのか」というガーデニング哲学にも考えを広げることができました。私は今まで草花の美しさに触れる喜びと汗を流す快感を求めて庭仕事をしてきましたが、もっと深い意味があるようです。『園芸療法』としての心理的いやしの効果も取り上げられるようになりました。「庭を見るとその人がわかる」マリリン・バレット著『庭づくりへの誘い』(晶文社)には納得。友人や町内の庭には、その人の性格や好みやセンスをそのまんま鏡のようにうつしだしていると思いませんか?

(4)たどり着いたのは「上野ファーム」という夢の花園

 虫を毛嫌いせず、ミミズや土壌微生物に助けをもらって、緑と花の溢れる美しいガーデンを育てていきたいと強く思うようになりました。そして手本になるような庭を見学したいという気持ちも強くなりました。

 私のアンテナに届いたのが旭川で上野砂由紀さんの造っている花園です。テレビドラマ「風のガーデン」でも有名になった方です。飛んで行きたいほど心がはやりましたが、あまりにも遠い。旅費もかかる。ジュンク堂に行きましたら「上野ファーム」の写真集がありました。二冊の本を穴があくほど眺めながら心で想像しています。

 昨年亡くなったターシャ・チューダーの庭に似ています。天国のような花園です。ため息をつきながらも、マネをする体力も資力もありません。ただかくも人の心を魅了する庭づくりの情熱とテクニックとセンスをまなびとりたいです。

 野の花が楚々と咲き乱れる野山のイメージが、私の身丈に合うところ。

 今、ススキ、オミナエシ、キキョウ、秋明菊などが風にゆれています。

いしかわようこ

庭での遊学(ガーデン・スクール)

2009年07月01日 | いしかわようこ
(1) 猫のフン  
 
猫が庭にフンをして行って困ると、近所のMさんがフン慨していた。猫のフンはものすごく嫌な悪臭を放つし、ハエもたかって不衛生。わが家の庭にも猫のおみやげが多かったが、今はなくなった。ある物知りの奥さんから敵退治のヒントをいただいたからだ。「猫はきれい好きで体が汚れる所にはウンチをしない。乾いたやわらかい所を選ぶ。」と。そういえば軒下のサラサラ乾いた砂土の所を掘っている。ご丁寧にもウンチに砂をかけていくのは、動物ながらエライと感心していたら、ある人いわく「フン、単なる証拠隠滅よ!」
いずれにせよ、私は猫のトイレ候補地にこぶし大の石や素焼鉢を並べた。それ以来敵はやってこなくなった。また、犬のいる家にはやってこないという人もいる。先日耳にしたニュースでは、咲き終わった芝桜の上にフンをされたといって怒っていた人がいる。「ふ~ん、芝桜にねぇー。」セレブな猫さまかなぁ?
フン争は止みそうにない。

(2) 庭のギャングとレディーたち 

どこの世界にも善玉と悪玉がいるようだ。今年、庭の女主人から退去命令を出されたのはクローバー。「幸せのよつば」も混じっていたかも知れないが、猛烈な勢いでまわりの草花を覆いつくしていくのだ。「どんな根だろう?」と根元を見て仰天してしまった。たくましい太い根を堂々と張っている。さらにホック枝ゆえ節々から次々と根を出し、地面にしっかり腰を下ろして伸びていく。文字通り四方八方に・・・。小さいシャベルでは間に合わずスコップを持ってきて堀り上げる力仕事になった。
 クローバーはチッソを自家製できる豆科の有用植物で土地を耕し地面の乾燥を防ぐ役割もあるという。庭では少し困る物だけど、野原や牧場で伸び伸びと育ってほしいと思う。シロツメグサの花カンムリや首飾りを作って遊んだ少女時代が懐かしい。

クローバーと同じく、初めは庭のアンダーカバーとして喜びながら、あとで痛い目に遭った我が家の例を紹介しよう。 

①マツバギク ②ドクダミ ③スズラン ④山のスミレ etc.
 
スズランはかれんな花であるが群生すると大変な事になるので要注意。隣の奥さんは特別区を設け境界線の溝を作って侵入を防いでいるとか。山のスミレにも泣かされている。万粒のタネをとばして増殖していく。しかも姿に似合わず根は深く強い。同じスミレ科でもビオラは可。

地面を元気よくはっていく下草で私のお気に入りはココナッツタイム。最近園芸店で見かけるようになり、少し高い値段がついているが、一鉢買ってみてほしい。わが庭は三年前植えたものが庭のあちこちで地面をおおってくれている。ココナッツタイムは葉が小さく光沢があり、春ピンクのかわいい花をつける。芝桜とは異なる控えめな色合いで庭の彩となっている。近づくと香水のような芳香が漂う。クローバーと異なるのは自己主張の強さがなく、飛び石や他の草花に寄り添いながら、他を引き立てていく奥ゆかしさである。名脇役といおうか。
やはり、庭には威勢のいいおニイチャンよりレディたちが似合うようだ。

(3) 土壌改良 

今年の春、高い授業料という代価を払いましたが、貴重な勉強をした。庭の中央にそびえるヒバの後ろに一本の椿の木がある。植えて40年は経つから、樹としては50年物であろう。3メートル位の高さにはなっているが、その椿が数年前から元気がなくなりました。今年になり特に衰えが目立って、新葉さえ黄変していくのです。おかしいと思って、出入りのジロー造園士に相談したのだった。樹木が元気をなくす原因は自然災害を除いて二つあるという。一つは病虫害、もう一つは土壌不良。土壌不良とは土壌の水分や栄養分が不足している場合のことである。

ジロー氏の見立てによると、病虫害の様相はないので、土壌に原因があるとのこと。「どうすればいいのですか?」「土壌改良ですね。」「土壌改良ってどういうことをするんですか?」と話をすすめて行き、ちょっと費用がかかりそうだなぁと危惧しながらも、やってもらうことにした。ジロー氏は土質検査の特殊な器具で椿の根まで70センチ深さの土壌を採取し、それを会社に持ち帰り検査をするという。(何だか人間の血液検査みたいである。)そして10日後二人の造園士がやってきて作業を行った。この作業に注目!先ず、椿の木周辺1メートル、深さ70センチ(根が張っている深さ)の土を丸ごとごっそり取り除き、そこに会社で調整した新しい土を入れ交換したのである。鉢植えでイメージすれば古い土を捨てて新しい培養土を入れ換えることに似ていますが、コトは地植えの大きい椿が相手の作業である、二人で半日がかりの仕事だった。

私はこの作業を興味深く見ながら、今も思い巡らすのだ。普通だったら育ちの弱い樹木には、それなりの肥料を施してやるだけでいいのだ。人が薬を飲んだり手当てをするように。でも、今回重症の椿にジロー氏はそういう小手先の土壌改良をしなかった。土を丸ごと取っ替えたのだ。これには驚いた。
 
人生の歩みの途上で、それまでのやり方や、それまでの考え方で行き詰まる重大局面に立つことがある。その時、古い過去を捨てて仕切りなおしをせまられる。実は私も自分の信仰生活で、そういう場面に追いつめられ、心の土壌改良をしているところである。

 
椿の木は、今、生き生きとした若葉を伸ばしつつある。

いしかわようこ

つながる喜び

2008年12月01日 | いしかわようこ
「コケッココ」ニワトリ症候群という言葉を聞いたことがあるでしょう。一人で食べる「孤食」、朝食を食べない「欠食」、家族が別々に好きなものだけ食べる「個食」、いつも同じものばかり食べる「固食」。この4つの漢字「孤・欠・個・固」の音(オン)「コケッココ」を取って「ニワトリ症候群」とよぶそうです。今の日本人の、特に子どもたちの淋しい食卓風景をうつしとっている気がします。皆さんの食卓はいかがですか?
最近面白い本を読みました。『食堂かたつむり』(小川糸著 ポプラ社)『チェンジング』(吉富多美作 金の星社)どちらも食いしん坊の私には唾(つば)が出てくるようなおいしい料理がこと細かに登場してきます。でも料理の本ではありません。人の手で作られる料理で、作る人も食べる人も劇的にチェンジしていくという「人間性復活」の物語です。
 「食べ物って大事なのよ。体をつくったり、心をつくったり。人が生きていけるように内側から守ってくれるのよ。」ニワトリ症候群の見本のような男の子(小5)大夢(タイム)に香奈子がそう言い諭すのです。「そうか。体も心も自分で作っていけるんだ。」繊細な性格で、いじめに遭って自分に自信をもてないでいたタイムが母性愛に溢れる、偶然に出会った香奈子から料理の特訓を受ける中で、人の生き方学んでいくのです。色んな野菜を大鍋で煮たおいしいスープを一緒に飲みながら、人参も玉ねぎもセロリもじゃがいももみんなそれぞれの個性を堅持しつつ、融合して素晴らしい味のハーモニーを作るのを知ったタイムの悟ったこと―それは自分らしさをきちんと表すこと、違う個性との連帯する大切さでした。(『チェンジング』32ページ)
 いつかリンボー先生こと林望氏が「日常生活が一番尊い。」という発言をしていました。今時代は地球規模の危機に直面しています。チェンジを旗印にかかげたオバマ氏が圧倒的支持を得たのは、「どげんかせんといかん」という多くの人の思いが結集したからでしょう。でもチェンジは足元から、日常生活からと私は考えている者です。
半月前になるでしょうか、とても幸せな経験をしました。いつもの床屋さんで顔そりをしていただきました。その日、私の顔にカミソリをあててくださった方は40代後半の女性で、新しく入店した人のようです。中三デパート閉店で、目星を付けていたン万円のセーターを4割引きで買ったとか。古い雑貨が好きだとか、私と似たところがあっておしゃべりに花が咲き、楽しい人でもありましたが、それ以上に嬉しいことがありました。顔そりの何と丁寧なことといったら、生まれて初めてと思う位だったのです。特に鼻の周り、眉へのカミソリの当てる手の優しさといったらありません。眉が顔そりのポイントとおっしゃっていました。あったかいタオルで顔を覆うこと3回。マッサージも念入りで恐縮するほど。顔を引き締める手の動き。一番ありがたかったのは、目の周りのマッサージと指圧。目の弱い私が自分で毎日やっている完璧なツボの押さえ方でした。私はすっかり感動してつくづく幸せだなあと思ったのです。顔を剃るという一つの仕事をこんなにも心をこめて丹念になさって下さるその方に心の底からの感謝と尊敬を覚えたのです。1,890円の三倍も差し上げたい気持ちでした。
もう一つの体験。市場の近くの小さな店で干し柿用の柿がザルに盛られていました。ひもで干せるように枝をつけたものです。私は干し柿が大好きなので早速買おうとしたところ、30代の若い男性の店主がおいしい干し柿の作り方をとうとうと実演しながらレクチャーしてくれたのです。学校の先生のような口調。目の奥で笑いながらポイントを伝えてくれました。「まんづ、柿の皮をむいでみれ!」「まんづ、そごからまちがっているど。」向き方からヒモに吊りさげ方、干す場所などなど。私は初めて本式の干し柿作りを教えてもらいました。たった500円(柿6つ)の買い物にこれだけの指導をして下さる店主に深々とお辞儀してきました。「いまぐいったら報告に来てケレ!」
 ああ、人間っていいなあ!こんなにも相手に幸せを与えて下さるなんて。人と人とが心でつながる喜びはたとえようもなく素晴らしい。顔をそってくれた人、干し柿作りを教えてくれた人、二人は私の心の師。愛の力をしっかりと刻んで下さいました。私もそれをリレーして行こうと思っております。

私も魔女になりたい

2008年10月01日 | いしかわようこ
久し振りに心が躍りました。感動しました。梨木果歩さんの『西の魔女が死んだ』の映画を観て、さらに本を読んで。
中学生でもスラスラ読める平易な表現の中に、色々な人生経験を重ねた大人がうなる深~い内容なのです。一つの文に一つのセリフに込められている意味の何という味わい深いこと。
この本は長く読み継がれていく児童文学の名作になるでしょう。

西の魔女は、私がずっと憧れている暮らしを見事に体現していました。野いちごのジャム作りのシーン、たらいで踏み洗いしたシーツをラベンダー畑に広げて干すシーン。「わあ~、ステキ!」と歓声、拍手したものです。「まい、畑からレタスとキンレンカ採ってきて。」そして作るサンドウィッチ。レタスを両手でパンパンたたいて、塩をふって、ハムや炒りたまごとパンにはさむ。(あのパンはごっつい本物のパンだ!)
バラの根元にニンニクを植えると防虫になり、香りもよくなる(知らなかった!)ミントとセージを煎じた汁は、野菜の虫よけになる(知らなかった)暮らしの知恵があちこちに散らばっている。
それにしても梨木さんの知識は広い。本に登場する雑草の名前の多いこと。私もかなり雑草に通じているつもりでしたが、初めてのもいくつか。「クサノオウ」「銀(ぎん)龍(りょう)草(そう)」「キュウリ草」など。図鑑で調べて、何となく想像できました。
級友(クラスメイト)の無視で、登校拒否になった主人公の少女まい。小さい時からの喘息持ち。息苦しくなると、エレベーターでどこまでも落ちていくような不安と孤独感。わあ~と叫びたくなるような淋しさ。この表現を理解できる読者はいるでしょうか。呼吸困難に時々襲われる私は、まいの苦しさが少しわかる一人です。こんな感受性が強く、不安を抱え思春期を迎えたまいを力強く成長させた要因は何でしょう。自我にめざめ、おとなに脱皮していくこの大切な時期に、西の魔女とかかわれたまいはラッキーな少女でした。私は自分のその時期を振りかえってつくづくそう思います。
“魔女トレーニング”の基本は早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする。そして日課の午前中は家事、エクササイズ、午後は勉強か読書。身体と頭の鍛錬。このトレーニングにうなりました。今、登校拒否の子どもが増えています。私も机に座るばかりの学校はうんざりでした。私の教育改革案は、魔女のやり方です。いわゆる生活学校のようなフリースクールですね。暮らしと共に学ぶ学校だったら楽しいはずです。
まいは野いちごを摘んで、洗って、気長に煮詰めます。そして出来上がったジャムをこんがり焼いたトーストにたっぷりつけて、おばあちゃんとほおばります。相性の悪いオンドリの目をくらませて、卵を失敬してきます。それが朝食にハムエッグとなって登場します。おばあちゃんとしぼって干し広げたシーツにはラベンダーの香りがいっぱい。夜、その香りに包まれる幸せ。
年頃の少年少女の独り立ちを後押しするのは、こういう生活体験ではないかと思います。中学生になったら、ご飯の炊き方、味噌汁の作り方、野菜のゆで方を特訓するといい。こういう目に見え、体で覚える生活の自立は精神的自立の土台になっていくこと間違いなし。24歳、修道院に入って初めてようやく生活トレーニングを受けた私の体験です。学校の勉強だけでは頭でっかちの足が地につかないフラフラ人間になるばかりです。
「人は死んだらどうなるの」まいの悲鳴におびえた質問に―
「分かりません。実を言うと死んだことがないので」(魔女の最高のユーモアですね。実はおシャカさまも弟子にそう答えているんですよ)「でもね、おばあちゃんの信じる死後のことをお話ししましょう。」まいはおばあちゃんの布団の中で、背中をなでられながら、真剣に聴き入ります。「おばあちゃんは、人には魂(たましい)っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わせってできています。・・・・・死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。」
このセリフを聞いたとき、作者の梨木さんは「精神世界」を学んだ人に違いないと思いました。あとで友人から「梨木さんはイギリスでシュタイナーの勉強をしたそうですよ」と伺って合点ゆきました。まさしくシュタイナーの考え方です。私の信じるキリスト教の考え方にも似ていますが、大きな違いもあります。(私だったら、まいにどのように説明するでしょうか?)
まいとおばあちゃんの死をめぐるやり取りは圧巻です。やさしい言葉でよくぞここまで高い哲学内容を表現したものよ、と私は舌を巻き「う~ん、見事!」と一人感嘆の声をあげました。
「魂は身体を持つことによってしか物事を経験できないし、体験によってしか魂は成長できないんですよ。ですから、この世の生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたわけですから。」
西の魔女のこの言葉が理解できたら、人生の謎はすべて解明されるでしょうね。今はこれ以上踏み込まないことにします。

梨木さんがシュタイナー思想のかかわったと知って「ああ道理で」と色々納得できました。全体がシュタイナー色なのですね。
鉱物―植物―動物―人間―天使  この五つがシュタイナーの世界の存在構造をなしています。『西の魔女死んだ』を見渡すと、まいを取り囲むこの五つが姿を表しているのがわかるでしょう。鉱物はおじいちゃんの世界として(色んな鉱石の名前が出てきます)「永遠に時が止まっている世界」それから植物の世界。鉱石の精とおじいちゃんの呼んだ銀龍草からまいの分身のようなキュウリ草、野草、野菜、樹木に包まれて生かされている緑溢れたワールド。その上に進化した動物の姿としてニワトリや犬が登場する。まいの生活に陰となり陽となってかかわってくる。そして人間。ゲンジさんのような野卑で品性のないレベルの人、まいのお父さんに代表される凡人、自分の存在意義を求め続けるお母さん、という人間の魂の様相が暗に示唆されている。魂が磨かれ、成熟した存在が最後の進化した姿。それがおばあちゃん。「魔女」である。天使に近い存在。

最も進化、成長した魔女のありかたとはどんな姿でしょうか。
一人一人この本から見つけるのがベストでしょう。読み手の能力がテストされる本です。
「いちばん大事なことは自分で見ようとしたり、聞こうとするとする意志の力ですよ。」
「上等な魔女は外からの刺激には決して動揺しません。」
どうやら主体的あり方のようです。自分はどう生きるかという意志をしっかりもつこと。西の魔女はすべてのものを尊び、愛し、一体となって暮らしている。鉱石とも、庭の草花とも、鳥や犬とも、そしてとりわけ人間と共存している。野蛮なゲンジさんをも丸ごと抱擁している。どんな物も、どんな人をも切り捨てない。愛(いとお)しむ。
このおばあちゃんのもとで、ひよわで枯れそうだったキュウリ草のようなまいも大きく力強く成長していったのでした。魔女のタネを植え付けられたまいは果報者です。
私も魔女になりたい!