なな色メール 

シュタイナーの勉強会の仲間と始めたニュースレター。ブログでもその一部をご紹介していきたいと思います。

森田ゆりさんのエッセイ

2013年12月01日 | さとうえりこ
以下は森田ゆりさんのエッセイ(財団法人大阪府人権協会 人権を語るリレーエッセイより抜粋)

自分が知っている「自分」は氷山の一角でしかない
 
子どもを虐待する親のための支援プログラム「MY TREE(マイ・ツリー)ペアレンツ・プログラム」は、エンパワメントの考え方に基づいて開発しました。プログラムをスタートする前に「このプログラムはあなたに“いい親”になってもらうためではなく、自分のなかにある知恵や持続力、自己治癒力に気づいていってもらうためのプログラムですよ」と話します。そして同じように幼い子どもたちも力をもっていることも。
 
氷山をイメージしてみてください。ご存知のように、氷山の大部分は水面下にあります。わたしたちが見ている氷山は海面から出ているほんの一部分でしかないのです。それと同じで、わたしたちは自分自身のことを誰よりも知っているつもりでいますが、実は知らない部分がとても大きいのです。自分の子どもについても同じです。親である自分が一番よく知っていると思いがちですが、知っているのは表面に出ている部分だけであり、親も子ども自身も知らない部分がたくさんあります。「MY TREE(マイ・ツリー)ペアレンツ・プログラム」では、水面下にある親や子どもの力に気づいていきます。

虐待をやめるために必要なことは
 
「MY TREE(マイ・ツリー)ペアレンツ・プログラム」の目的は、「セルフケアができる」「問題解決力を身につける」のふたつです。セルフケアとは、もっとも簡単な言い方をしてしまえば「日常生活をエンジョイできる」ということです。今日という日をすべて楽しむというのは誰にとっても難しいことですが、少なくとも「楽しいことがあったな、いい時間があったな」と思えること。問題解決力とは、対立を乗り越えるためのスキル(技術)です。子どもを虐待している親の多くは、夫や親、近所の人などとの対立の影響のなかで子どもに対して暴力をふるっています。ですから、さまざまな対立関係をうまく乗り切れるようになることが大切なのです。意見が違ったり感情的な確執があったりした時に、暴力以外の方法で乗り越えましょうということです。このふたつの目的が達成されれば、「虐待をしない」という一番の目標は達成されます。
 
参加者の中には、行政機関で「そんなやり方じゃダメですよ」という“指導”を受け、傷ついている人もいます。虐待がダメだということはわかっているけど、どうしようもなくて苦しんでいるのです。そこへ“お説教”を聞かされれば、「自分はなんてダメなんだろう、くだらない人間なんだろう」と自尊感情は低下する一方です。効果がないばかりか、虐待を深刻化させてしまいます。もちろん行政機関の人は傷つけるつもりはないでしょうが、残念なことにこうしたケースはよく見られます。

当事者に「役に立つ」情報を

子どもを虐待している親のなかには、過去に自分自身が虐待を受けたという人が少なくありません。トラウマを抱えた人にはプログラムと併行してカウンセリングや治療を受けてもらうこともあります。ただ、これを「虐待の世代連鎖」と単純化してしまうのはとても問題です。
 
虐待している親たちの過去を聞いていくと、自身も親から虐待されたという人が多いのは事実です。けれども子ども時代に虐待を受けた人がおとなになると虐待者になるかといえば、そうではないのです。現在、国際的な学会では信頼できる調査結果に基づき、「虐待を受けた人が自分の子どもを虐待する割合は約3割と認識されています。それなのに、日本の虐待問題に関わる専門家は安易に「虐待は連鎖する」とだけ発言し、それがマスコミを通じて広く浸透するようになりました。
 
過去に虐待を受け、トラウマを抱えながら生きている人たちの中には「いつか自分も虐待するのでは」という不安に怯える人もいます。「虐待してしまうのが怖いから、結婚しない、子どもも産まない」という人もいます。専門家もマスコミも苦しんでいる人の不安を煽り、さらに苦しめるのではなく、苦しんでいる人の「役に立つ」ことをしてほしいというのがわたしの願いです。
 
虐待問題は倫理や道徳によって解決することはありません。虐待行動の背後にある感情こそがこの問題の糸口です。虐待をしている人は、表面的な怒りの感情の背後にあるほんとうの感情を見つめていく必要があります。そして虐待を受けた子どもは、虐待がもたらした感情=気持ちを誰か信頼するおとなにしっかりと受けとめてもらい、聴いてもらわなければなりません。

さとうえりこ

My Treeペアレンツプログラム

2013年12月01日 | さとうえりこ
子どもを虐待してしまう親の回復プログラムです。

2001年、森田ゆりさんによって開発されました。

子どもにダメージ「My Treeペアレンツプログラム」をご存知ですか。
を与えるような関わりをしてしまう。
子育てに苦しさを感じてしまっている。
感情のコントロールがきかない。
気が付けば子供を叩いている。
暴言を吐いてしまう。
無視してしまう。
子どもが可愛く思えない。
子育てにしんどさを感じている。
そんな思いを持っている親を支援するプログラムです。

去年、このプログラム紹介が2日間秋田市内で行われた。
その時印象的だったのはペアになり、「○○さん、あなたは大切な人なのです。」とお互いに言い合うことだった。
私は数年前、聖体奉仕会で石川さんが講師を務めたあの日の事を思い出した(シュタイナーの楽光。)二つとして同じものがないキャンドルが容易され、
「○○さん、あなたはあなたのままでいいのです。」
とペアになって言い合ったことがあった。胸が温かくなったことを思い出す。
講習では、偶然隣に座った方は若い女性だった。私は彼女に提案した。「せっかくですから、苗字ではなくお名前で呼びましょうか。」と。するとよりストンと胸の中に入り、じ~んとして来た。
(これは自己肯定プログラムと呼ばれていることをのちに知った。)

このプログラムの実践者養成・集中講座が10月に行われた。
2日間に渡る講座は有意義だった。
この講座は虐待してしまう親のアシスト役になるためのものである。
講義内容は
マイツリーの目的
子ども虐待とドメスティック・バイオレンス
アサーティブネス
ファシリテーション
コメント返し


グループワークで親役をしたことを少し紹介してみたい。
10人程度の輪を作り、ファシリテーターとサブファシリテーターがぶつけても痛くないボールをみんなの前でキャッチボールをする。
最初は和やかに行われる。そのうち、ファシリテーターがサブファシリテーターの取れないところにわざと投げたり、ぶつけたりする。それからサブファシリテーターが投げたボールをファシリテーターがわざとそっぽを向いて受け取らない。という動きをした。これを見た親たちは何を感じたか話してもらう。
「顔が怖かった。」「意地悪だと思った。」
私が感じたことは「あ~私にも覚えがある。」ということだった。
子どもたちが幼稚園、小学生の頃だっただろうか。「あのね、お母さん、今日学校でね・・・」と話しかける子どもに対して家事に追われた私は「後にして。今忙しいから。」と言ったことが度々。

会話をボールに見立て、ファシリテーター=私(親)、サブファシリテーター=子ども、とした場合過去の私がそこにいた。
ボールを使って会話を視覚化すると、とても良く分かった。
この目的は私たちがファシリテーターとサブファシリテーターをやり「親に気づいてもらいたい」ということである。これに対して私は親としての過去が出てきたのだ。
講師の先生は言う。「答えを言うのではありません。気づいてもらうのです。気づいてもらうために導くのです。」
そうなんだよ!答えを教えてもらっても身につかない。自分で気づいて、わかって、だからこそ初めて私のものになる!
参加して私が得たことはこれである。

最後に、将来辛そうにしている誰かを見かけたらこんな風に思ってほしい。
子どもを怒ってしまうようなそんな人を見かけたらその人の怒りの裏側を見てあげて欲しい。
「恐れ」「不安」「悲しさ」「絶望」「自信のなさ」「喪失感」など怒りの裏には傷つき体験がある。これをケアする必要があるということを知っていてほしい。


東北では初めて行われた養成講座。今後この種がどのように発芽するのか、どんな花が咲くのか、今後が楽しみである。

さとうえりこ

頑張れ 鶴竜!

2012年05月01日 | さとうえりこ



相撲には余り関心がなく、と言うよりスポーツ全般に関心がなく、新聞は飛ばして読んでいた。テレビのニュースは見たくなくても流れて来るので時々は情報として見ていた。私にとって相撲はそんな程度だった。

春場所の相撲結果が放送されていたのを偶然見た時の事だった。今まで聞いたことのない(私が知らないだけかも知れないが)鶴竜という力士が横綱白鵬を倒したのだ。小さな体で横綱を倒した取り組みは当然大きく報道される。こういう小さな力士が大きく強い力士を倒すのには大いに声援を送りたい。俄然鶴竜なる力士が気になりだした。

相撲は豪風の勝敗を気にするぐらいだった。それも利用者のおじいちゃんたちとのコミュニケーションのために知るだけで気合が入っている訳ではない。そんな私であったが彼の昇進が伝えられ、その伝達式にも関心を持った。これまでの力士たちは四字熟語の難しい言葉で抱負を述べていたのだが、彼はとてもシンプルに「お客様に喜んでもらえるような相撲を取りたい」と決意表明したのだ。ここ最近はスキャンダルだらけでスポーツ記事よりゴシップ記事の方が多かった相撲界。私の関心など全くなかった。しかし偶然知った鶴竜の大金星から彼に魅かれるようになった。

以下は産経新聞の記事(平成24年3月27日)である。

春場所で13勝を挙げ、大関に昇進する関脇鶴竜が千秋楽から一夜明けた26日、「部屋の関係者とか、みんなに喜んでもらいたかったので良かった。稽古に励み、お客さんに喜んでもらえる相撲を取りたい」と、喜びと抱負を語った。
 
モンゴル出身の朴訥(ぼくとつ)な男は、秘めた熱意で道を切り開いてきた。白鵬や日馬富士の父がモンゴル相撲の名力士だったのと違い、鶴竜の父は理系の大学教授という異色さ。「スポーツしているのが好きだったし、親も喜んでいた」。バスケットボールに励む少年は旭鷲山らの活躍をテレビで見て大相撲に憧れた。
 
現地で行われた相撲部屋の入門テストを受けたが不合格。諦めきれず、思いを父の同僚に日本語に訳してもらい手紙にした。「受け入れてくれる部屋がありましたら、その方々の気持ちにこたえるべく、一生懸命がんばりたい」。相撲雑誌の広告の住所に出したところ、人づてに井筒親方(元関脇逆鉾)に話が届き入門が決まった。16歳の秋。初めて少年を見た親方は「床山さんが入門してきた」と思った。体重は70キロに満たなかった。それでも兄弟子の元十両鶴ノ富士、福薗洋一郎さんは「運動神経も頭も良く、強くなると感じた」。まわしの切り方は1回で覚え、日本語も1年ほどで会話できるまでに上達した。
 
苦労したのは2年目。三段目で結果が出ず、帰国してしまうのではと親方は心配したが、魚を食べられるようになって体重が増え、番付も上がった。「勝負に対するプライドは高い」と親方。稽古相手が多い部屋ではないが、課題を整理し休まず鍛錬を重ねた。土俵外でも、初代若乃花などの映像を見て研究し、他競技のトレーニングや栄養補給法からも向上のヒントを得ようとしている。鶴竜は「覚悟して来たから、きついとは思わなかった」と言う。11年前に手紙に込めた気持ちのまま、26歳はストイックに大関の座をつかんだ

このような記事を読むと、より深く彼の努力がわかり、ごひいきの力士として応援したくなる。
自分の気持ちに正直に行動し、地味に、コツコツと、粘り強く、などという表現が彼には合っているだろうか。
「相撲をやりたい」その一心で日本にやってきた彼の努力を大いに見習いたいと思う。

よっしゃ、ここはひとつ、佐藤部屋はちゃんこ鍋を食べることから始めるか。  

さとうえりこ            

ピースとの時間

2011年02月01日 | さとうえりこ
 去年のいつ頃からだったろうか、ピースが喉に何かを詰まらせるような咳に似た症状を見せるようになったのは。何となく気がかりで先生にピースの咳の真似をしてみた。私のそれを見て「心臓だな。」と即答した。ピースの心音を聞くわけでもなく、レントゲンを撮ることもなく、心臓の薬を処方され、試しにと2週間飲ませてみた。すると咳が良くなったではないか。「おぇっ。」「はっ。」だのと詰まらせるような姿を以前より見なくなった。2週間後にレントゲンを撮るからと言われたので連れて行くと「今日は何した?」との問いかけ。訳を話すと「薬が効くなら飲み続ければいい。何もレントゲンなんて撮る必要もないだろう。」と同じ薬を処方された。すっかりおじいちゃんになり、奥さんとの二人三脚は、二人で一人前も怪しくなってきたところが否めない。しかし、医者の腕は信頼している。レントゲンは先ず犬が嫌がること、そして診察代が高くなることなど、先生の言い分もあるのだ。先生に尋ねた。「この薬が効くってことはそういうことなんですよね?」「そういうこと。」私としてはまさか心臓の病気だなんて言われるとは思っていなかった。咳一つで病気を診てしまうことにも驚いた。いずれくるであろうことを予想はしていたがまさかこんなに早くに来るとは思っていなかった。症状は落ち着いてはいるものの、治るものではない。

 先日、散歩で久しぶりにセンタロウくんと会った。お父さんはいつもポケットにおやつのジャーキーを入れている。出会ったワンちゃんみんなにくれるためだ。ピースはセンちゃんのお父さんが大好き。もちろん、おやつをくれるから。はるか遠くでもわかる。匂いなのか、足音なのか、ずーっと先でも見つけてぐいぐいとリードを引っ張る。しっぽを千切れんばかりに振り、お父さんからいつものおやつを頂く。とそのあとの事。いつもよりひどい発作が起きた。「はっ。はっ。」となかなか治まらない。人間ならば背中をさするとか何か手立てがありそうだがどうすればいいのかわからず、落ち着くのを待ち、抱き上げた。犬の散歩なのに抱き上げるとは、と知らない人から嘲笑されそうだが、それしか方法はなかった。

 予防注射の時期だったのでピースを連れて、発作の時の手立てを聞いてみた。すると薬がもう一種類追加された。現在これらの薬でまあまあの状態を保っている。が、もはや低空飛行である。心臓の弁が壊れて血液が逆流し、心臓のすぐ上にある気管支を圧迫して咳が出るということを先生から頂いた小冊子で知った。これからどんな状態になるかも書いてある。痩せてもきている。それ以外は全く元気で散歩にも行きたがる。自分が病気であるという自覚がないので好きな散歩を少ししかしないことを不憫にも思う。が、今は一日一回近所をぐるりと回ってくるだけである。

 心臓病であることを娘に伝えた時、「いつまで生きられるの?」と私に尋ね、涙が頬を伝った。私は先生に敢えて尋ねなかった。「いつまで生きられるか。」とは。引き算をして暮らすより、毎日その時いつものように一緒にいた方が、普段のままでいられるから。

 子供たちからせがまれ、縁あって家族となったピース。連れてきた日の事は忘れられない。「命を連れてきてしまった。」とずしんと重い気持ちになったのだ。傍では子供たちが歓喜を上げながらピースと戯れていた。いよいよその重みがやってきたようだ。家族として受け入れ、私たちの大事な役割を担ってくれたピースを引き算をしないで時間を重ねて行こうと思う。
                                   
さとうえりこ


新しい出会い

2010年10月01日 | さとうえりこ
おっちょこちょいで定評のある私は家族からの信用は薄い。あえて言えばピースが私に向ける視線だけはキラキラしている。それも一日2回の散歩のときだけに限定されるが。とにかくそそっかしい。最近年齢のせいにはしたくないが、特に磨きがかかってきているように思われる。
そんな私が、縁あってホームヘルパーの仕事を始めて4か月ほどになるところである。
これがなかなかいいやとても大変である。初心者の私が訪問するお宅は掃除、調理、買い物代行が主で身体介護を必要とする方のところにはお邪魔していない。
ある日の午前中、「行って来ます。」と事務所を出て私はAさん宅へ向かった。彼女のお宅では、夕飯のメニューを一緒に考え、買い物代行して調理をし、残りの時間で掃除をして来るのが決まりだった。
台所に立っていると、事務所からの電話が鳴った。こんな時に何だろうと思いつつ、Aさんの了解を得て、電話に出ると責任者が「Bさん宅に向かうことは出来るか。」と尋ねた。「今、Aさんのお宅で調理をしている途中なんですが・・・。」事態を最初掴めないでいたのだが、そうだった!今いるAさんのお宅は午後からの訪問だったのだ。本来ならば今はBさんのお宅に行かなければならないのだ。さぁ、焦った。結局責任者の取り計らいとBさんの寛大さから午後の訪問へと変更して頂き、Aさん宅はこのまま続行ということに落ち着いた。本来はBさん宅が10時半からでAさん宅は1時半からだったのだ。
さて、時間を間違えて訪問されたAさん、私が間違えて来たことを知ってか知らずか、「こんにちは」とお邪魔した時から不審がるところは全くなかった。いつものように迎えてくれた。しかし、事務所からの電話を切った途端、「魚の火は大丈夫か」と未だかつて調理中の台所になど顔を出さないAさんが心配して見に来てくれた。私が間違えて来ていることはAさんには伝えていないのにもかかわらず。私は平静を取り繕い、時間内に決められたことを行った。帰り際、Aさんは私に「なぁんにも焦ることなどない。慌てなくていいから。」と声をかけてくれた。全てはお見通しだったようだ。体からへなへなと力が抜けていった。私はAさんの手のひらに載せられていた気持ちになり、思わず手を合わせたくなった。
Aさんは40キロ足らずのやせた小さなおばあちゃん。普段のAさんは無口で自分から話しかけてくることは余りない。いつもころんころんと横になってばかりいる。いつか起きあがるのを手伝ったことがあった。そのとき思った。年を重ねた人というのはこんなにも体中が皺だらけになるものなのかと驚いた。
気を取り直して午後、Bさん宅に伺った。否応なく変更させられたことを平身低頭謝罪し、私の失敗はお咎めなしと相成った。高らかに笑われておしまいだった。
またあるお宅では。「今日は佐藤さんが来てくれたのか。良かったぁ。」そう言ってくれるのは同じ県南出身のCさん。そんな声掛けをしてもらうとまんざらでもない気持ちになる。彼女は這うことしかできない。「毎日、今日も生きていると思う。その証にできることはなるべく何でも自分でするようにしている。今生きていることに感謝している。」彼女の言葉はずしんと響く。「生きる」ことを突きつけられる、そんな気持ちになる。
見えない初心者マークを胸につけ、日々発見と失敗の連続をしている。
家族から失いかけている信用を別のところで取り返さなきゃ。

ランドセルは海を越えて

2010年06月01日 | さとうえりこ
ランドセルは海を越えて

上記表題をネット検索するとあるHPが出てくる。

使用可能で不要になったランドセルをアフガニスタンの子供たちに贈ろうという趣旨の活動である。知ったのは全くの偶然で、暇つぶしにインターネットを眺めていたら行きついた。

息子のランドセルが物置に仕事を済ませて眠っていた。卒業して間もなくのことで、この先ずっとあそこに埃を被ったまま鎮座させておくことになるのだろうかと思っていたばかりの時だった。「よし、ここに贈ろう」と即決。先ずは持ち主に確認してみた。「別にいいよ」とそっけない答え。ランドセルを宅急便屋さんに託し、アフガニスタンまでの船便代を後日振り込んだ。これで、あのランドセルも新しい持ち主に背負ってもらえる。埃を被ったまま物置の主となり、やがてごみになるかもしれないことを思えば、遠くはなれた異国の子供の背中にくっついているほうがどんなに働き甲斐があることか。

あのランドセルは亡くなったじいちゃんが入学祝に買ってくれたものだった。息子には同い年のいとこが二人いる。じいちゃんは赤いランドセルを一つ、黒いランドセルを二つ、合計3つ買った。入学予定の小学校では規定のランドセルがあると聞いた。それを買うことも検討されたが、卒業までは暮らしていないのは明らかで、普通のランドセルを買うことに決めた。息子はこのランドセルをどう思っていたかは知らないが、私にはずいぶんと思い入れがあった。6年という時間が細切れされ、そしてまたそこかしこで素敵な出会いがあったからである。

引っ越したばかりで学校の場所さえよくわからないまま入学した。登校班のない地域だったので一人で行かなければならなかった。大通りまで送って行き、息子に言った。「前を歩いているお姉さんのあとを着いて行くと学校だからね。この道をまっすぐに行けば学校があるからね。」と送り出した。息子は帰るなり言った。「朝のあのお姉さん、途中で曲がったんだよ。お母さん、ついて行けって言ったでしょ。だけど学校はまっすぐ行った所にあるし、ぼく困ったんだから。」新しい住まいは隣の小学校と学区が境になっていると聞いたので、恐らくその子は隣の小学校へ向かったのだろう。息子の機転で事なきを得たのだ。それは入学した次の日の出来事だった。

またある時は、下校途中、派手に転んで擦りむいて来た。ところが、傷の手当がされていた。一緒に帰っていた女の子が「ここ、私のおうちだから、薬塗ってもらおう。」と自分の両親が経営する薬局へと連れて行き、手当てをしてもらった上に、使いかけの傷薬と手当ての仕方を書いたメモまで入った袋を持ってきた。見知らぬ土地でこの先どう暮らそうか思っていた矢先にこれである。息子を通じて知り合った地域の人たちの温かいことといったらなかった。息子の通学路は交通量の多い大通りを行かなければならず、車の往来は頻繁だった。とそこに、風が吹いて黄色い帽子が道路に飛ばされてしまった。取りに行きたくても行かれない状態になった時、見知らぬおじさんが道路の真ん中まで取りに行ってくれたという。息子は振り返る。「楽しかった」と。同感である。下校時、娘を連れて買い物などで町を通ると、なにやら黄色い集団がぞろぞろと楽しそうに歩いていたり、座り込んでいたり。商店街を抜けてくるので、自営の子や親がそこで働いている子もいた。のどが渇けばお店に入って水を飲んできたり、飴玉をもらったり。日陰になった駐車場で車座になって話し込んで来たり。冬には気温が早々と下がるので道は下校時凍ってしまう。そこをつるつると滑って帰るのが楽しいのだとか。こちらは怖くて仕方がなかった。3時くらいからの路面凍結には驚いた。

一方娘もなかなか面白いことをしてくれたので(現在進行中)、思い出は尽きない。下校時間に合わせて外出から家に向かう途中、はるか先に黄色い帽子の女の子が地面を見て行ったり来たり。全く前には進まない。嫌な予感がした。車が近づくに連れてそれは的中した。蟻の行列を見ていたと言う。蟻がごちそうを巣に運ぶところを行きつ戻りつ眺めていたとのこと。毎日こうして何かを見つけてはのらりくらりと帰ってきたのだろう。

こんな二人の小学生時代がびっしり詰まったランドセルをアフガニスタンの子どもたちにまた使ってもらおうと了解を得て贈った。ランドセルを送るときに、文具やおもちゃ(拳銃など戦闘物などは不可)も受け付けると記載されていたので鉛筆や縄跳びなど気持ちばかりを鞄に入れた。行ったことのないアフガニスタン。テレビなどで見るそこはきな臭いところで平和ボケの私にはおおよそ見当がつかない生活をしているのだろう。同じ人として生まれたのに、生まれた場所によって送る人生がこんなにも違うなんてと思うと「幸せ」や「満足」をかみ締めなければならないのだろう。いや不便だったり、大変だったりするほうが、もしかしらた逆に満足感があるのかも知れない。ランドセルを背負える嬉しさや、学校へ行くこと、学べること、そんなことが彼らにとって幸せなことかも知れない。だとすれば、便利至極な私の生活はどうなのだろうか。あ~解けない知恵の輪に悪戦苦闘している気分になってきた。

でも、一つだけ。後日送られてきたパンフレットに写る子どもたちの笑顔にはこちらまで嬉しくなってくる。笑顔はどこも一緒。


以下はHPからの抜粋である。


ランドセルは日本の初等教育において欠かせない独自のツールとして、こどもの成長を見守り続けています。しかし、小学校を卒業すると、想い出のたくさん詰まったランドセルは、処分もできずに倉庫や押入れ等で保管されているケースがほとんどです。 そこで、6年間の想い出がたくさん詰まった使用済みランドセルに、ノート、えんぴつ、クレヨン等の文具を詰めて、世界でもっとも物資が不足している国の中のひとつであるアフガニスタンとモンゴルのこどもたちにプレゼントする活動が「ランドセルは海を越えて」キャンペーンです。
この企画は、 2004年からスタートし、ランドセルという身近なものを通してボランティアとリサイクルの両面を、日本のこどもたちに広く知ってもらいたいと考えています。
6年間の想い出がたっぷりと詰まったランドセルが、海を渡って第2の人生を歩みはじめます。


さとうえりこ

わたしの先生 さとうぴーす

2010年02月01日 | さとうえりこ
 皆さん、お久しぶりです。前回に続いて今日は私がお世話になっている先生を紹介します。


 私が予防接種に動物病院へ行ったときのことだった。

「こんなに悪いのなら安楽死も考えたいと思います。」
その言葉を聴いた途端、背筋が凍る気持ちになった。
「えっ。まだ生きるよ。あれはまだ生きる目をしている。まだ生きたい顔をしているよ。何もしないでそうするよりも、食べさせて少しでも何かしてあげたほうが気持ちが違うでしょ。」
即答したのは奥さんだった。そして追うように先生が

「他ではするかもしれないけれども、うちでは今の状態ではしない。まだだって生きるもの。あれだけ暴れることが出来るんだから、まだ生きる。あの顔は行きたい顔だもの。ごはんを食べないって言っても、食べさせるんだよ。口の中にいれてあげるんだよ。治るとは約束できないけれど、まだ生きたいって言っているんだから食べさせてあげないと。」

 待合室のないとても小さな病院。個人情報保護など全くない。「こんにちは」とドアを開ければ診察台がある。青空待合室。寒かったり雨だったりすれば車の中で順番を待つ。お天気のいい日は偶然出会ったみんなで四方山話をしながら玄関前で順番を待つ。2~3人の飼い主さんたちが私たちを連れて入ればもうぎゅうぎゅう。犬猫関係なく一緒になる。スタッフは先生と奥さんの二人だけ。保健所を退職してから自宅に開院したそうだ。二人で間に合わないときは飼い主さんがにわか看護師や電話番までする。私が避妊の手術をしてもらいに行ったとき、お父さんが連れて行ってくれた。先生は「これからやるから、もし電話がかかってきたり、誰か来たら手術してるからって言っといて。」と言い残して二階の手術室へと私を連れて行った。

 その日は注射を終えて診察台でぶるぶる震える私をよそにお母さんは奥さんが会計をしているところを待っていた。そこに飼い主さんだけ呼ばれて入ってきた。検査結果を聞かされ「安楽死」を口にした。先生と奥さんは自分から食べようとしないのならば口の中に入れてやればいい、少し元気になってくれば自分から食べるようになるだろう、治るかどうかはわからないけれど、尽くしてあげないと、と必死に説いていた。そして飼い主さんから頼まれもしないのに、病気の猫ちゃんのために食事の仕度をしていた。聞く気がなくても耳に入ってくる話。お母さんは私をなでながら、先生たちの言葉をしっかりと聞き、感動しているのがわかった。

 犬友達のけんたママから「とてもいい先生だよ。」と聞いたのが出会いだった。私が佐藤家に来て少ししたとき、お腹が痛くなった。にいにとねえねがとても心配して「病院に早く連れて行ってあげて。」と頼んでくれた。その時私はまだ生まれて5ヶ月ぐらいだったと思う。奥さんが私を見て歓声を上げたことを覚えている。「あらあら。まぁ、小さくてかわいいこと。」先生はスピッツと聞いてとても私を珍しがった。先生のところにスピッツは当時私一人しかいなかったとか。薬をもらって帰るときに奥さんが言った。「まだ小さいから、いつ具合が悪くなるかわからない。だから、いつでも電話してきてね。夜中でもいいから。留守番電話になっているかもしれないけど、後で聞くから。」お母さんはどんなに安心したことか。

 それから7年が経った。特別大きな病気をしなくても、予防接種やフィラリア予防の薬をもらいにと年数回はお世話になる。先生ったら初めて私に注射をするときに、お母さんに抱っこさせて私にこう声をかけた。「ピース、俺じゃねえぞ、お前の母さんが痛いことしてるんだからな。」その痛かったこと。声も出なかった。以来、車に乗せられ、大体の方向がわかるから、もう体ががたがた震えて「先生さようなら」と言うまで怖くて怖くて。そんな私を見て先生はいつも豪快に笑う。「お前はめんこいな~、ピース。弱虫で。」となでてくれる。愛想笑いで尻尾を振るけど、耳はもうぺたりと下がったまま上がらない(だって怖いんだもん)。

 今までいろんなことがあった。以前お母さんが話したけれど、キャップを連れて行ったとき、どこのどんな犬かわからない、それが大前提。視触診をし、「血液検査をしなければわからないけれど、見た感じはどこも悪くない。犬猫ネットワークにやるのならば、そこで予防接種など全部してくれる。ノミ取りの薬だけつけてやればいい。子どもが小さいし(ねえねが一緒だった)、どんな犬かもわからないから気をつけるように。」と言われてノミ取りの薬代だけをお母さんは支払った。

 この先生のお宅にも犬がいた(最近亡くなったそうだが)。聞けば、ある環境の悪いペットショップで売られていたが病気にかかって処分されるために保健所へやってきた。その犬を先生が引き取った。「まず、あれはひどかった。あちこち病気で。腹は切らなきゃいけないし、ほんとにあちこち悪くてよ。でも、今ではうちのばあさんのいい話し相手になってる。」と話してくれたことがあった。奥さんが白い犬を散歩に連れて行くところを見かけたことがある。

 私がいつだったか予防接種に行ったとき、皮膚病に罹っているのを見つけてくれたことがあった。「これ、痒かっただろ、ピース。」と薬を出してくれた。「お金いらない。そこの犬猫ネットワークの募金箱に入れていってくれればいい。」「この薬(塗り薬)もう使わないから持って行っていい。」「早起きして来てくれたからほら(お母さんが先生に診察代を支払うとそこからねえねにお小遣いをくれるのだった)。」診察代を取らないのを他に見たことがある。子どもにお小遣いをくれるのはねえねだけに限らないらしい。薬をもらってきたことがあるとけんたママも言ってたことがある。こういう先生なのだ。病院によっては不要と思われる栄養の点滴をするのが得意なところもある。でも先生は恐らく最低の診察代しかもらわないのではないだろうか。正義感が強く、私たちの立場になって診てくれる。奥さんは優しい。そして肝心の腕もすごい。けんたくんが耳の病気に罹って近所のお医者さんにしばらく通院しても治らず、先生のところに行ったら間もなく治ったとお母さんたちが話していたのを聞いた。似たような話は他にも聞いたことがある。ある病院に通院しても治らない病気が先生のところに変えたら治ったそうだ。その話を先生にお母さんがしていたことがあった。「そんなの、俺が治したんじゃない。治る時期に来たから治ったんだろ。」と言っていた。

 私がいたペットショップは、とても古くて臭いがきつい、良い環境とはいえないようなところだった(今はない)。先生がお母さんに「どこから買った?」とお腹をこわして初めて行ったときに聞いた。店の名前を告げると冷静だった先生が「それなら、予防接種をきちんと受けさせないとだめだ。あそこから来た犬が病気にかかっていて、治すのに大変だったことがある。あそこのオヤジとけんかしたことがある。あんな風になるまでして。」と過去を思い出しヒートアップしていくのを奥さんが「まずまず、お父さん。」と手綱を引いていた。私たちのことを思えばこそ、心無い人に対しては容赦ないのだろう。

 この間の先生は本当に素敵だった。お母さん、先生のすごさを帰宅してからねえねに話していた。安易に安楽死なんて飼い主の都合で口にするものではないとお母さんは思ったのだろう。私もいずれ老いていく。どんな風になるかは誰にもわからない。だけど、あの先生なら私のことを思って最善を尽くしてくれるに違いない。豪快で優しく、心から尊敬できる先生だと改めて思った出来事だった。

渡されたバトン

2009年10月01日 | さとうえりこ
未来(みく)はなかなか来なかった。
母が「校門前まで迎えに来た。」と携帯電話に連絡を入れたのはもう30分以上も前のことだった。

自転車通学をしているが、今日は朝からの雨で、電車を使っての登校。部活で遅くなった未来を母が学校まで迎えに来たのだった。
やっと姿を現した未来は後部座席に無言で乗り込んだ。
鼻をすするような音が聞こえた母は「寒い?」と聞き、暖房を入れた。
今日は確かに寒い一日だった。
「お疲れ様。」という声賭けにも何も答えない。
母親の勘で、「何かあったな。」と思った。
だが外はもう真っ暗で、ルームミラーで後ろの様子を伺うことは出来なかった。
「私・・・・私・・・・リレーのメンバーから外されたの。」
「何で?」
「わかんない。さっき先生が、『週末の大会には小野寺を出す。お前はもう、秋まで走ることはない』って。」

どんなに我慢していたのだろうか、声を上げて泣き出した。
突然の宣告に頭が真っ白になって何がどうなっているのか、自分でどうしていいのかわからない。
ただわかるのは、今度の大会で負けると先輩たちは引退する。
今まで、先輩たちと一緒にリレーを走りたくて調整してきたのに、それがもう叶わなくなってしまった。
先輩からバトンをもらって先輩に渡す、それだけを願って練習してきたのに2度とそれが出来なくなってしまった。
今回が先輩たちと走るのは最後と気合を入れて頑張ってきたのに、先生の采配でいとも簡単になくなってしまった。

未来は、中学時代も陸上競技をしていた。
いろいろな種目に挑戦してみたが、どれも芳しい結果を出すことができなかった。
だから高校生になった時に、「もう陸上は芽が出ないからやらない。今度は何をしようかな。」と言っていたのだ。
それが、中学時代の先輩が「一緒にまた走ろうよ。」と教室まで誘いに来た。
せっかく誘ってくれる先輩に「考えておく。」とお茶を濁した答えをしていたが、「いつから来る?」「明日から来れる?」「今日から出てみる?」と足繁く教室に通ってきくれた。
さすがの未来もこれ以上断ることも出来ず、再び始めることにしたのだった。
 
こんなきっかけからの陸上も、成績から言えばやはりたいした結果は残せなかった。
市の大会で入賞できなかった2年生は自分だけ。
ほかの仲間は全県大会出場の切符を手にすることができた。
未来はせめて補欠としてリレーの予選に参加し、先輩たちに恩返しがしたかった。
リレーを含めると1日一人で3種目出場しなければならない先輩がいた。
とてもきつくてベストを出せないだろう。
リレーの予選は未来が走っても準決勝までいけるぐらいほかの選手が揃っていた。
そういう重宝さで未来はリレーを走らせてもらっていた。
しかし、今度の県大会では、未来の代わりに1年生が抜擢されたのである。
彼女は確かに200Mでは全県制覇の成績を持つ後輩ではある。
しかしたった一度も400Mを走ったことがないのに3日後に控えたリレーで走らせるとはどうしても未来は納得がいかなかった。
自分より早いのはわかるが、走ったことのない距離をどんなペースで走るというのだ。
先生の考えがわからなかった。
先輩たちは当然慰めてくれた。
「時として先生の考えていることがわからない。とても酷な事をするものね。気持ちを切り替えていこうよ!」と。
慰めの言葉はますます未来の気持ちを沈ませた。
先輩たちにはこれまでずっとお世話になってきた。
自分が1500Mに出場するときに長距離用のスパイクを貸してくれたのは、自分を部に誘ってくれた先輩だった。
マッサージもしてくれた。
幅跳びの助走を調整するときは、自分の練習時間を削ってアドバイスしてくれた先輩もいた。
どの先輩たちも未来をかわいがってくれた。
その優しさが身に染みていた未来は、どうしても先輩たちと同じ場所に立ちたかった。
走りたかった。
バトンをもらいたかった。
なのに、もう叶わない。
自分はやはりだめなんだ、遅いんだ、とマイナススパイラルへとどんどん向かっていった。
しかし、未来は決心した。
「明日、先生のところに聞きに行ってみる。何で自分じゃないのか。先生怖いけど、聞かないでこのままの気持ちでいるよりも、確認したほうが納得がいく。でもなあ、もっと嫌な思いしたら嫌だなあ・・・。んん、やっぱり行く。」

次の日、朝一番で未来は先生のところに行った。
「先生、あの、どうして私がリレーから外れたんですか。頑張って走って先輩たちに恩返しがしたかったんです。」 
「んん、本当は迷ったんだ。お前と小野寺とどっちにしようか。でもな、やはり、ここは早い小野寺を使うことにしたんだ。小野寺は400Mを走ったことはないけれど、200Mの成績はいい。だから使ってみることにした。別にリレーを走らなくても未来、お前に出来ることほかにあるだろう。」
「ええ・・・ああ・・・はい。応援だとか、補助員だとか、確かに先輩たちのカバーに回れるところは沢山あります・・・。」
「いや違う。未来、お前は速くなればいいんだ。それが先輩たちへの恩返しだろう。速くなって部を引っ張っていく。後輩たちの見本になることが、先輩たちへの恩返しじゃないのか。」

未来ははっとした。
「そうか。自分は補助員や応援を頑張るしかないと思っていたけれど、速くなることで恩返しになるんだ。」
夕べあれほど、悔しくて、つらくて流した涙だったが、一転、今は熱い思いで先生の顔が霞んで見えた。
先生は「頑張れよ。」と背中をぽんとひとつ叩いてくれた。
しかしながら、その日の部活は気が重かった。練習したところで、大会で走らせてもらえない。
行かなければ、先輩といられる限られた時間はなくなる。
おまけに、県大会出場の人たちとそうでない人たちとは練習メニューが違っていて、先輩たちと一緒に走ることが出来なくなっていた。
未来は、キャプテンに気持ちを伝えた。
「一緒に走りたい。」と。
キャプテンは未来の気持ちは良くわかっていた。
「いいよ、一緒に走ろう。向こうのきぃちゃんたちのところで練習すればいい。もし先生から何か言われても、私がいいって言ったって話すから。」
救われた思いがした。そして、先輩たちの懐の深さを改めて感じた。

悔し涙を飲んだ全県大会は声をからして応援した甲斐があった。
50年ぶりの優勝!先輩たちは一人も欠けることなく東北大会へ。
これで一緒にいられる時間は延長された。
やっぱり陸上続けてよかった。誘われてよかった。
先輩たちと出会えてよかった。

そして、未来は特別に東北大会出場のメンバーに名を連ねた。
先輩たちの未来への温かい気持ちと、未来の先輩たちへの思いが先生の取り計らいへと動かしたのである。

未来は、先輩たちから見えないバトンをしっかりと引継いだ。


只今、未来は全力疾走中。

さとうえりこ

果報は寝て待て!

2009年03月01日 | さとうえりこ
Let It Be  
       
 不覚にも涙がこぼれそうになった。

 夕暮れ時、車が一台ほどしか通れない路地。除雪がされず、前日まで吹雪いた雪で地面はがたがた。息子の言葉を借りれば、ディズニーランドのアトラクションのような揺れ。歩行者は一列になって歩かなければならない上、更に道の悪さにハンドルをとられた。

 とそこに見つけた娘の友達Aちゃんとお母さん。彼女たちはこの不況の煽りをもろに受け、引越しを余儀なくされた。転校を避けるため、隣の学区へ移り保護者の送迎つきで登下校していた。足を滑らせれば、車のタイヤの下敷きになりかねないほど狭く、条件の悪い道。せっせと二人で歩いていた。思わず私は手を振った。お母さんが見つけて手を振り返してくれた。

 その姿がバックミラーに小さく写っていくにつれ、彼女たちの懸命さと自分の置かれている今が重なってどっかと構えていたはずの前向き思考がもろくも崩れていくのがわかった。何のことはない、BGMが良かったのだ。偶然車のラジオから聞こえてきたビートルズの Let It Be。懐かしいはずなのに、今の自分への励ましに聞こえてきた。気持ちという器がいっぱいでこれ以上何かあればこぼれるしかない、そんな精神状態。そこをツンツンとつつかれてしまったのだから、あふれるしかない。

 中学生の時だった。(うわつ、古っ!30年も前のことになってしまう。)ビートルズが特別好きだったわけでもなかったが何となく買ったカセットテープ。聞き覚えのある曲が沢山詰まっていた。英語では何を歌っているのかわからないが、添付の歌詞と訳詞を見てわかった気になっていた。訳詞には「なすがままに」とあったことを思い出す。子供といえども悩みは一杯。そのときに聞いたこの曲が励みになったかどうかは記憶にないが、繰り返し聞いたことだけは覚えている。それが今、また甦ってきた。

 「現実を受け入れて、頑張るしかない。娘を大きくしてくれるのを手伝ってくれてありがとう。」とAちゃんのお母さんが引越しの挨拶に来た。その言葉に先に涙したのは私の方だった。私は3回連続の退場(リストラ)を言い渡され、いい加減へこんでいた。そこへわが身に降りかかった惨事に向き合っているそんな彼女が私を励ました。

 彼女たちが足を取られながら前を向いて歩いている。私はがたがたと揺れる雪道を進むためにハンドルを握っている。日は沈もうとしている。そして流れるLet It Be。
その時思った。あるがままを受け入れ、進めばいい。今まで苦しくてもどうにかなってきた。今回だってなるようなる、と。

 時間というものはありがたいもので、すっかり今の私は変貌した。
間違いなくやってくる春、そんな気配を感じさせる柔らかな日差し、私はそれをいっぱいに浴び、昼寝が日課となった。今しか味わえない与えられた至福のときとばかりに。
『果報は寝て待て』というではないか。

追伸:上記のお宅は現在平穏を取り戻した。嵐は時が来れば止むものね。

感謝すること 

2008年12月01日 | さとうえりこ
 臨月の急患がたらい回しにされ、命を失ってしまった遺族(ご主人)のことがいつまでも心に残る。

 意識のない奥さんと生まれたばかりの子供の3人でいる時間を作ってくれたこと、病院のスタッフはとても自分たちによくしてくれたことの感謝の言葉を述べたそうだ。

 本来であれば、妻を返して欲しいと憤懣やるかたない気持ちであろうに、それを記者会見で今後の医療につなげて欲しいと口にすることが出来るとは一体どんな人なのだろうと思った。

 日ごろ、何かと不満ばかりを持っている私はいつまでも彼のことが頭から離れない。自分ばかり忙しい、誰も手伝ってくれない、私だって少しは休みたい、そんな気持ちがあった。時々出会う素敵な文章や本の中に、「感謝すること」「ありがとうという言葉の大切さ」を見つけては折々に自分に言い聞かせてきたつもりではあった。だが、忘れたころにむくむくと不満の芽が出てくる。少し前のニュースで改めて『感謝すること』の尊さをかみ締めたように思う。

 少し前の話だが、娘の友達のお宅にはおばあちゃんがいた。娘がよく遊びに行くので娘の好きな食べ物はすっかり覚えられてしまって、よくおこわや漬物(これらが娘の好物)などを頂いたりしていた。娘とMちゃんはおばあちゃんが作る食べ物の好きなものランキングを言い合ったりして、まるで自分のおばあちゃんのような存在になっていた。ところが、ある時、急に別に暮らすことになり、挨拶もそこそこに姿を消してしまった。お世話になったおばあちゃんにさよならもありがとうも言えなかったことがとても悔やまれた。そこで私はおばあちゃん宛の手紙をMちゃんのお母さんに託した。忘れもしない、文頭はこうだ。

「感謝の気持ちというものはその時々にきちんとするものだと今痛感しています。」
夏休みなどの長期休みに時々娘がお弁当をMちゃん家に持参し、なおかつおばあちゃんの手作りお昼もご馳走になってきていた。「お礼は後で言おう」とそれが惰性で積み重なっていた。もう後の祭りである。お邪魔してきた都度、「ありがとう」が言えたらこんなにも後悔しなかったのにとつくづく思った。おばあちゃんは今は時々Mちゃん家にやってきては娘にまで好きなものを届けてくれる。以来私は、「ありがとう」は後回しにしないように心がけている。でも、皆さん、忘れて「ありがとう」を伝えていないときがあったらごめんなさいね。

 さて家の中では、娘が短くなった鉛筆をゴミ箱に捨てるときに「ありがとう」と言って捨てていたことがあった。私が教えたわけではない。娘が思ってしたことである。高校生になった息子も時々「わりぃ(悪いな)」と言うときがある。家族同士でもいや家族同士だからこそ、改まって「ありがとう」を言い合えたら、それは私が望む家族像である。

 こうして家族4人、平凡に暮らせていることが幸せであること、そして病気も怪我もなく無事であることに感謝することを肝に銘じたいと心から思う。

 こうした気持ちを表現することが出来、それを皆さんに聞いていただけることに感謝します。

決 心

2008年10月01日 | さとうえりこ
 それを初めて見つけたのは郵便局の窓口だった。以前から興味があったので、窓口の人に尋ねてみた。

「これを持っていても家族の同意がなければ最終的に提供者になることはできません。」

 その言葉になぜか安堵した。結局は私の意志ではなく、家族に委ねられるという安心にすがりたかったのかもしれない。あるいは(おそらくこちらの気持ちが強いと思うが、)「怖かった」のだ。記名して財布に入れたように思うが、いつの間にかなくなっていた。今にして思えばやはり怖かったのだろう。それにしてもなぜ私がこんなことに興味があるのか未だにうまく説明できない。

 それから数年。
またしてもそれを今度は市役所の窓口で見つけた。迷わず手に入れた。今度はゆるぎない。私にそうさせる背景には二つの理由がある。

 一つ目は従姉妹が白血病に罹り偶然にも骨髄提供者との型が合い、命拾いをした。
その闘病たるや、生と死の表裏一体、まさに命がけだった。彼女が病に臥す前から、骨髄提供には興味があった。しかし、提供側の負担があまりにも大きく手を挙げられない自分がいた。

 二つ目は、やはりシュタイナーとの出会いだろう。
これに出会わなければ絶対にまだ悩んでいたに違いない。魂は永遠であり、今生で身に着けた肉体は時がくればなくなる。しかし、また新しい体を身にまとい、新たな課題を克服するために別のワタシになる。そうであれば、何も怖いことなどない。そう、私は決心した。ドナー提供者になることを。万が一のことがあったときに、必要とされる臓器を可能な限り提供することにした。

 娘がある日、私の財布を覗いてカードの意味を尋ねたので、こう答えた。
「お母さんはね、沢山の人たちから支えられてきた。そのお返しに寄付だとかができればいいんだけれどお金がないからできない。だから、代わりに病気で困っている人たちにお母さんの体が役に立てばいいと思っている。その人たちの中でお母さんは生きることができるでしょ。灰になってしまうのはもったいないから、使ってほしいの。」

 少し前の自分なら怖くて躊躇したに違いない。だが今は何も迷いはない。希望通りに提供者になることができるかどうかはわからないが、もし必要としている人がいれば、そうしたいと思っている。いざという時は自分の意思表示などできる状態ではないはずだから、今ここで伝えたい。私が今を生きることが出来るのは、家族を始め沢山の人たちの支えがあったから。「ありがとう」の気持ちをドナー提供という形でお返ししたいと思っている。

 カードにはやはり家族が同意する欄がある。今すぐにでもサインを頼みたいところなのだが、断られるのは承知のこと。どうか今のこの気持ちを理解してもらい、私の最初で最後の社会貢献に賛同してもらいたい。 

 心の準備は万端。カードは必要なときに使ってもらいたい。財布の中で待機中である。

迷い犬「キャップ」

2008年07月01日 | さとうえりこ
 堤防をうろついている汚い犬がいた。朝、散歩をしている私たちについてくる。足早に歩いたり、隠れたりして、その犬から離れたのだが、とうとう夕方までうろうろしていた。一日中うろつきまわり、もしかして捨て犬かもしれないと思うとじっとしていられなくなった。

 おせっかいの芽がむくむくと出てきて、夫に相談した。「犬猫ネットワーク(捨て犬などの世話をするボランティア団体)に相談してみたら」といった。早速電話をして、飼い主探しをする間うちで保護することにした。一方で犬友達に連絡し助けてもらうことにした。

 捨て犬などを保護したら①警察に届ける。②保健所に届ける。③魁新聞に載せてもらう(迷い犬保護の記事は無料)。④ラジオ局(どの局かは忘れてしまった)で放送してもらう、など細々とある。犬猫ネットワークから依頼されたことは、病院へ連れて行き、病気を持っていないか、年はいくつぐらいか聞いてきて欲しい、とのこと。

 言われたことは全てした。当時パートに出ていなかったのでPCは全くいじれず、ポスターは手書きだった。娘に絵を描いてもらい、字は私が書いた。「僕のこと知りませんか?ぼく、お家がわかんなくなっちゃった。お家へ帰りたいよ~」と。我が家にいる間だけは「キャップ」という名をつけ、タイヤを保管してある所(2台分のタイヤは全て取り出して)を当座の犬小屋にした。そしてそばにポスターを貼った。

 キャップはとても人懐こく澄んだ、きれいな目をしていた。その目を見るとどんな事情があったのか、想像が膨らみ不憫でたまらなくなった。触ると、毛がべたべたとして手を洗わなければならないほど、ひどく汚れていた。犬ならば大抵できる「お座り」ができない。ジャムママ(これから出てくるカタカナ名は全て犬の名)は犬友達の中でも一番の物知りならぬ犬知りで、ボランティア犬をさせている頼りになる人だ。デジカメを片手にやってきた。ポスターを作ってくれるというのだ(カラーコピーをしてスーパーや学校に貼らせてもらった)。

 遠吠えをして困っている話をすると「遠吠えをする犬なんて珍しくてあまり聞いたことがない。もしかして、多頭飼いされていたのかなぁ。数頭でいたら、仲間に知らせたくてそういうことをすることもあるから。お座りができないって、どういうことだろう。大抵お座りぐらいはできるんだけど。それに、こんなに汚れていて、一体何日うろうろしていたんだろう。どこから来たんだろう。捨て犬かなあ。洗ってもらっていなかっただけなのかなあ。」と疑問だらけだった。

 こういうニュースは仲間にたちまち広まった。イヴママがやってきて「あんまり汚いから洗ってあげる。少し貸して。きれいにして返すから。」と耳掃除までして連れてきた。いい匂いがした。チワワのケンタママがやってきた。「生協でポスター見たよ。話には聞いていたから見に来てみた。これさ、試供品でもらったえさなんだけど、うちのケンタ食べないから、あげて。」とえさを持ってきてくれた。そうかと思えば、ドレミのおばあちゃんが「どこからきたんだろうね~。見たことあるような、ないような。」とキャップを眺めては気の毒そうに声をかけてくれた。柴犬のケンタママは「これどうぞ」とおやつを置いていってくれた。

 私は2匹を連れて散歩に出かけ、堤防で行き会う犬の飼い主たちみんなに声をかけた。「こっちの大きいほうの犬、うちで保護しています。ここでうろうろしていました。見たことないですか。」と。犬を飼う立場としては皆同じ気持ちである。わかったら声をかけると快く返事をしてくれた。

 それから10日ほど。「お座り」のコマンドに対して「伏せ」をするようになった。「伏せ」は「お座り」よりも服従の気持ちがより強くないとしないポーズだ(座ることより伏せの状態から立ち上がるほうが、時間がかかるから)。帰宅する遠くの息子の姿を見つけると尻尾を振って喜ぶようになった。そんなある夕飯時、一本の電話がかかってきた。「私、Mスーパーにある犬のポスターを見たものですが、あの犬知っています。町はずれににある車屋の犬です。」胸が高鳴った。『これでキャップは家に帰れる♪』連絡がつき、今日は迎えに行かれないというのでこちらから送っていった。一日でも早く返してあげたくて。

 キャップは鎖と首輪が外れ、堤防伝いにやってきた。何日も放浪していたわけではないようだった。キャップの家は広い敷地で手広く商売をしているらしく(自動車販売及び整備工場)あちこちに犬がつながれていた。従業員の人がキャップを見るなり「お前、きれいになってきたな。」と声をかけた。飼い主の社長が留守で、従業員の人たちが対応してくれた。名を尋ねると名前はないというではないか。娘はさよならが悲しくて私の後に隠れてしまった。子供達にとってキャップもピース同様家族になりかけていたのだ。キャップに別れを告げ、キャップ用にそろえたごはん茶碗、水のみとおもちゃをお土産に置いて帰宅した。

 当然車の中はお通夜状態。子供ながらに涙をこらえているのがわかった。「名前がないなんて。」と息子はぽつり。

 後日ジャムママは教えてくれた。「どんなに人間が見て劣悪だと感じる飼われ方をしていても、犬にとっては自分の家に変わりないのだから、幸せなんだって。ご主人のところが一番なんだって。だから幸せなんだよ、家に帰れたんだから。よく見つかったと思うよ。」と。子供たちに、この話を聞かせ、「キャップは幸せ」を強調した。だが内心私もピースと比べてしまい、割り切れないところがあった。

 今回の件では、沢山の犬友達から助けてもらった。たった1匹の犬がこれ程までに人のつながりを強くしてくれるとは、人の優しさに感謝する出来事だった。そういう一方で命を預かる大変さを知り、もうこりごりとも思った。

 それから数ヶ月。登校して行った息子が「お母さん!」と戻ってきた。怪我でもしたのか、忘れ物かと、慌てて玄関に出て行くと「ほらぁ、首輪がなくて。それに僕について来るんだよ。危ないから連れてきた。」と性懲りもなく、また別の犬を連れてきたのだった。
もう4~5年前の話である。

わらしっこ美術教室

2007年10月01日 | さとうえりこ
美術教室との出会いは電話帳だった。当時小学生だった息子が「絵を習ってみたい」と言い、探したところが今の教室。

「先ずは見学に来てみて下さい。」という先生の声掛けに子供たちを連れて行った。次々に入ってくる小学生以下の子供たち。「今日はこれを描きます。」と、課題は『バナナ』だった。それぞれが画材を選ぶ。絵の具、クレヨン、色鉛筆。思い思いにバナナと向き合い「先生、出来たぁ」「どれどれ、ここ、塗り忘れているよ」などと少しのやり取りの後は、遊びの時間。教室の前にある木のブランコに乗る子供、「♬せっせぇせぇのよいよいよい♪」と手遊びを始める子供。みんな生き生きしている。

子供たちが描いた絵を指導することもなく、塗り忘れ程度を指摘するぐらいで教室の中は伸び伸びとした雰囲気があった。遊びが落ち着くと今度はそのバナナはおやつになった。

息子は「来週から来る。」と即決した。私も先生に一目ぼれ。一人一人を褒め、認め、一緒に楽しんでいるのがわかった。絵の指導は特別しないが、子供の抱えている内面をその絵から見抜いてしまうからすごい。色、タッチ、描いた題材、どれからでも子供のSOSを見つける千里眼を持っている。そして「子供はいいね。どの子もいい。」と受け入れる懐の深さ。なんて素晴らしい先生なのでしょう。(おまけで連れて行った娘も、一緒に行くと言い出し現在に至る。)

先生いわく。「どんなに勉強が出来ても、遊びを知らなくちゃだめよ。マンガ本はいくら読んでもいい。でもテレビゲームは絵をだめにするからだめ。身体を使った遊びをしなきゃ。」と。だから、先生はよく子供たちをS公園に連れて行ってくれる(教室が近いので)。つくしが顔を出した頃、春を探しに出かけた。その日のおやつは先生お手製のつくしの油いためとヨモギのてんぷら。私も頂いたがそのとき初めてつくしを食べた。おいしかったことを覚えている。桜の季節は500円玉を握り締め、お花見に行く。軒を連ねた魅力たっぷりのお店の中から1軒を選び、食べたり遊んだり自由に500円を堪能する。夏はスイカ割り。秋は落ち葉拾いという名目で公園での鬼ごっこ。クリスマス会もある。プレゼント交換が慣例で毎年500円のプレゼントを予め買いに出かける。そうそうドーナツ作りもある。クッキーの型などでも作る。沢山作って、家族へのお土産になるのだが、これがまたおいしい。ホットケーキミックスでたねを作り、子供たちに型抜きをさせる。こんな教室なら私も通いたいと思ってしまう。

 最後に。主宰者のM先生は教室を開いて40年ほどになるという。先生ご自身多様な経験をお持ちでその話に涙が出てくることもある。そんな深みのある先生に出会えたことはシュタイナーとの出会い同様、私の生き方に影響を与えてくださったと思っている。数年前、先生の個展に子供達を連れて行ったことがあった。子供達の感想は、「先生って絵が上手だったんだ。」と感嘆していた。日頃の先生の姿をそこに見ることが出来ない、『画家』としての作品が並んでいたから。そして先生の素晴しさは、大人になった時、気づくのだろう。

お母さんとの散歩

2007年07月01日 | さとうえりこ
皆さんはじめまして。私の名前はさとうぴーすです。日本スピッツ、5歳、佐藤家の次女。
今日は私がお母さんと毎日行っている散歩についてお話します。
朝、どたばたとせわしなく仕事をするお母さんを今か今かと待ち、しっぽをぶんぶん振って「早く行こうよ」とアピールする。そして自宅近くの雄物川の河川敷に連れて行ってもらっている。雄物川の堤防はサイクリングロードになっていて、毎日歩くお決まりコース。
堤防の下にはリバーサイドグリーン(ゴルフ場)がある。芝生が朝露に濡れ青々と一面に光っている様は心が洗われる気持ちになる(お母さんの弁)。お母さんがその景色に見とれている間、私は草の匂いを嗅いでいる。お友達が通ったかどうか確認しなければならないのだ。そしてその向こうの雄物川はもうすぐ日本海へと吐き出されようとし、悠然と流れている。中州には鳥たちの巣でもあるのだろうか。カッコウ、セキレイ、ひばりなどあちこちからさえずりが聞こえてくる。西に目を転じれば羽越線の鉄橋。ガタゴトと電車が通るたび辺りに響き渡る。夕方の散歩ではこの鉄橋の向こうに大きな夕日が落ちていく。このようなサイクリングロードに歩を進めると、その先にはまっすぐな道。散歩は雄物川を右に見下ろすようにして歩く。左からは顔を出して間もないお日様を仰ぐことができる。澄んだ空と空気、草のにおい。サイクリングロードから外れて、時々お母さんは草の上を歩く。そして私に話しかける。「ピース、あなたがいてくれたおかげで、こんな気持ちいい朝を迎えることができる。足裏から毒素がこの大地に抜けていく、そんな気がする。代わりにエネルギーが入ってきている感じ。あなたのおかげだよ、ありがとう。」私は聞いていないふりをしながら、実はしっかり聞いている。そして、「やったね、ほめられちゃった。」と一人(一匹)ほくそえむ。
以前、散歩途中にお母さんが男の人からこんな風に話しかけられた。「この辺で狐を見たことはありませんか?」突拍子もない質問にお母さんは面くらった。見たことがないことを告げ、後ろ姿を見送った後、「お尻に尻尾ないかな」と言ったぐらいだった。ところが、しばらくしてまたカメラを持った男の人から同じ質問を受けた。1回目の男の人と同じ人だった。話によれば、魁新報の人だった。ここに狐がいると聞き、写真に収めたくて時々来ていたそうだ。その話を聞くまで、狐にお目にかかったことなどなかった。それが、1回目はある朝の事。ゴルフ場のかなり向こうで素人(素犬)の耳でも尋常でないとわかる鳥の声がする。その鳴き声に目をやると、狐が空を飛ぶ鳥を追いかけていた。2回目は秋の夕暮れ。日が短くなり足早に散歩を済ませたがっていたお母さん。やはりゴルフ場の芝生の上にちょこんと座っている犬?ノーリード(リードをつけないこと)で散歩をしている人もいるので、近くに飼い主がいないか探した。それらしき人はいない。捨て犬も時々いるこの辺。もしかして私の仲間?いや、狐だった。大きさ、色、尻尾、あれは狐。こっちを伺い見ている。私はきょろきょろしていたからあまりよくわからなかったけど、お母さんが狐だって言っていた。そしてこの話を近所のおじさんにお母さんは話した。そのおじさん、動物が大好き。「狐ならいる。親子でいる。鉄橋の向こうに巣がある。」と話していた。そのおじさんの家の裏から、ある時視線を感じたお母さん。なにやらこっちを見ている。犬が逃げ出して物陰に隠れているのかと近づいていくと、それはすたこら逃げ出した。お母さんの好奇心にスイッチが入り、足早に近づいた。それが何であるか確かめたくて。狸だった。狸が道路を横切って逃げていった。
近所の人の話ではこの辺に狸も暮らしているらしい。お母さんはわくわく?こんな楽しいところはない。狐、狸、雉、馬も牛もいる。馬が草を食むのに堤防にいたときがあった。私はびっくりして吠えたことがある。牛と馬は飼われているのだが、ねえねが小さいとき時々小屋に見に行った。
大雨が降った翌日などは、心配になる。なぜってゴルフ場の芝生が川になっているから。潮の匂いがし、かもめが飛んでくる。自然の怖さを目の当たりにする。そして、岸に打ち上げられたごみにうんざりする。こういうものが雄物川を流れているのだ。水がひけるとペットボトルなどのごみが残る。どこから流れ着いたのか。
毎日歩いているこの道。お母さんはお日様にも話しかける。「ありがとう」って。私がいるおかげ?でお母さんはちょっぴり変わったかも。だって、五感が鋭くなったでしょ。草のにおい。鳥の声。四季を見つける視覚。つくしが顔を出しただの、ススキが出てきただの、季節を感じることができるようになったのだから。
本当は私がお母さんを散歩に連れて行ってあげてるの。でも私に言うんだよねぇ、「ピース、散歩連れて行ってあげる!」って。

ひまわりになったチョコ

2007年05月01日 | さとうえりこ
その日の出来事は、6年前の丁度桜の季節だった。

ハムスターを飼っていた。合計で3匹。名前は「モモ」「チョコ」「ミルク」。最初は2匹ペットショップから。そのうち1匹を死なせてしまい、今度は娘の友達の家からやってきた。

その中のチョコの話である。

モモとチョコがペットショップから来て3ヶ月程したある日、モモが動かないことに気づいた。だが、遅かった。飼育には問題ないはずだが、何が原因なのか、ずいぶんと早い旅立ちをした。もちろん子供たちは号泣。せがんでやっと手にしたハムスター。それをすぐに失ってしまったのだから子供たちの姿は気の毒としか言いようがなかった。が、そこにまだ元気なチョコがいた。少し太めでモモよりも人馴れした、愛嬌たっぷりのチョコが子供たちの悲しみを癒してくれた。
 
ところが、その数ヵ月後。
登校前の息子が気づいた。チョコの様子がおかしいと。それまでは、ころころした姿で滑車を回したり、上へ下へと忙しく走り回ったり、可愛い仕草で子供たちを魅了していた。それが、よろよろとぜんまい仕掛けが終わってしまったかように快活なところがなくなっている。私は直感した。「モモの後を追う」と。息子の一大事である。ミルクが新顔でいるとしても、またチョコを失ってはたまらない。私に言った。「今日病院に連れて行ってあげて。」その言葉に私は内心「500円玉でおつりが来る値段で我が家にやってきたこのハムスターを病院へ!?」息子に色よい返事を私はしなかった。しかし、息子に詰め寄られた。「お母さんはチョコがこんなにおかしくなっているのに平気なの?」と。ハムスターはねずみの種類という気持ちが私にはあり、子供たちのように頬擦りしたりすることが出来ないでいた。それぐらいの気持ちしかなかったので、獣医に連れて行く熱意は正直なかったのだ。だが、息子からの押しに負けて、虫かごに入れて(正しくは入れてもらって)、娘を幼稚園に送り出した後、近所の病院へ向かった。

受付に虫かごを出し「ハムスターの様子がおかしいんです。」と言うと「今日、先生は午前中留守なんです。」「!(えっ。息子には悪いけどちょっとラッキー)」かごの中にいるチョコをその女性が手にし、様子を見てくれた。「もうだめみたいですね。」一緒に覗き込むと肩からやっと息をしていた。それを見た途端、急にチョコにも息子にも悪い気がしてきた。助けてあげたい息子の気持ちと、もうこの世から消えてなくなりそうな小さな小さな命に何て私は愚かなことを考えたのだろう、とつくづく自分の嫌なところに気づいた。

結局、息子の帰りを待たないでチョコは逝ってしまった。子供たちはまたモモと同様、庭の隅にチョコを埋めに行った。情けない母は余りにもその姿が切なくて一緒に穴を掘る手伝いをしてあげられなかった。外では近所に響き渡るほどの大声で「チョコォ~~」と合唱している。そばを通りがかった2人連れのおばあさんたちが「何した?お母さんがら怒られだが?」「んん、ハムスターが死んじゃったのぉ~~~」とまた嗚咽している。鬼婆を疑われた(確かにそうだが)私はその2人がいなくなった後、のこのこと様子を見に行った。涙でぐちゃぐちゃになった子供たちの顔を見るとこちらまで泣きたくなる。それを必死にこらえて「チョコにえさをあげなきゃね。天国でもお腹一杯食べられるようにね。」と声をかけ、毎日あげていたひまわりの種とハムスターのえさ(ペットショップで売っている)を一緒に入れて土に返した。

とそれから1ヶ月も経っただろうか。家庭菜園の野菜苗に水をやっていた時、そばのチョコのお墓からぽつぽつと小さな芽が出ているのを見つけた。雑草ではないことがすぐにわかると家の中に飛び込んだ。「チョコのお墓から芽が出ているよ。あの時えさにあげたひまわりの種から芽が出てきたよ。」子供たちはお墓に駆け出した。「本当だぁ!チョコがひまわりになった!」
いくつも出ている芽を大事に引き抜き、うまく咲くように一列に並べてあげた。

その年の夏、ひまわりは小さく数本咲いたのだった。