私の住んでいる町には海の近くの地区にだけ盆小屋(ぼんごや)という行事があります。
お盆の入り日12日に迎え火、15日に送り火といい、両日とも夕刻浜に火を燃やし(藁で作った小屋を燃やす)そして「この火の明かりに来とうれ(行とうれ)。」と歌います。
先祖の霊を文字通りお迎えして、また送るのです。
中学男子児童が小屋を作り、中学女子と小学児童で寄付金を集めお供え物やお飾りを買い、残りで花火を買い迎え火送り火の後に子供達で楽しみます。
今は親や地区の役員PTAも協力していますが昔は子供達(男の子)だけでやり、夜はその小屋に泊まったそうです。
少し年長の先輩からいろんな話を聞かされ子供達は成長したのでしょうね。
象潟の山手の上郷地区では冬、1月15日(丁度半年の間隔です。)に鳥海山に向かって先祖の霊を迎えて送る行事があるそうです。
それぞれ、死んだ魂は空に行くのだと考え、まずは一番近い空、山手では鳥海山の頂上、海の地区では海と空の狭間に行くのだと考えられてきたとのことです。
先祖に感謝して今の生を存分に楽しむというお祭りだったとのこと。
象潟には山や海など自然を崇め、先祖に感謝し生きてきた人々の暮らしがまだ息づいています。
古くから続いているこの行事は昨年、記録無形文化財と指定され保存会が設立されました。
大事にしたいです。
とはいえ夏は要注意。
一年で一番忙しい時期を乗り越え私は少々疲れ気味。
というのは、夏は私の勤務する皮膚科では、虫刺され、日焼け、とび火など処置の多い患者さんが増え忙しいこと、それから、夫のお店もお盆休みの帰省のお客さんがいて忙しくなり、おまけに子供達の夏休み!!海に川にいい夏の思い出作ってあげられたかな・・・?とオーバーヒートしそうでした。
三年前は眼圧の上昇で目が霞んでくる疾患ボスマンシュロースナー症候群に罹ったし、今年は突発性難聴になってしまいました。
ほとんど完治?と思いきや今日は朝から聞えにくい。
三日前、騒がしい子供にヒステリックに怒ってしまい、挙句の果ての夫婦喧嘩。本末転倒の結果に。今回の病気は聞きたくない事があるからなったのだと思っていました。
例えば変な事件のニュース、子供の担任の大人気ない怒り方のうわさ。
でもそれよりきっと、自分のヒステリーな声。品格ある女性とは程遠いです。
先日、『女性の品格』を読む機会を得ました。
とても耳が痛かったですが、読んでよかったです。
私は短気ですぐ怒りの感情を露にしてしまうので、もっか反省中です。
これからは品格を備えた女性を目指したいと思います。
それは坂東女史曰く“強く優しく美しくそして賢い女性”だそうです。
かくありたいですね。
参考にしたい品格ある女性についての女史の文章を以下に抜粋しました。
「私は社会や経済の変化のなかで女性たちが職場へ出ていくのを当然と思っています。
そうした女性たちが女性だからということで差別を受けてはならないし、日本の女性も企業も女性の力を活用することでもっと活力が出てくると思っています。
しかし職を持つ女性には試練はつきものです。
そして単にスキルを磨き、専門知識をもつ有能な職業人になることだけを目指すのではなく、品格をもって生きていくには・・・。
男性に媚を売り昇進するのではなく、しっかりとした識見をもち、一目置かれる社会人として生きるには・・・。
(中略)
正しい生活習慣や人間としての基礎力、自分の行動や生き方の芯になる信念を持つこと。
それは損をしても正しいことをする強さ、弱い立場のものに手を差し伸べることができる、自然の美しさや健気さに心を動かす優しさを持っているなど。
女性としての品格はそうした強さと優しさから生まれます。
また、等身大の自信、何が重要で何が些細なことかを見分ける賢さ、自分は今どういう役割を期待されているのかを把握して黙るときは黙り、話すべきときは話す聡明さも不可欠です。」
出しゃばりなんですね。私。聡明になりたいです。
実は“品格”という言葉が気になったのにはとある韓国ドラマがきっかけでした。
そのドラマに出演していた若手俳優さんが雑誌のインタビュー記事で『モリー先生との火曜日』という本を勧めていました。
「悲しむべきときには悲しむべき。」という考えが自分と同じだったからとありました。
彼は若いのに冷静で自分の立場をわきまえていると記事を読み進めるうちに感じ、是非この本を読みたいと思ったのでした。
内容は、著者のミッチ・アルボムというスポーツジャーナリストが、ALS(筋萎縮性側策硬化症)という難病になり死を目前とした恩師に再会し最後の授業を受けた記録。
二人の人生と哲学とユーモアが散りばめられたものでした。
人生を楽しむ達人モリー先生の魅力と仕事中毒で、家庭を顧みず何かに焦っていた元教え子が人生に本当に大切なものに気づいて変化していく。
笑って泣きました。
私もこの本を皆さんにお勧めしたいと思います。
映画化にもなったものなので、ご存知の方も多いでしょうね。
モリー先生の名言集。
「死ぬことは悲しいことのひとつにすぎないんだよ。
不幸な生き方をするのはまた別のことだ。ここへ来る人の中には不幸な人がずいぶんいる。
われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。
文化がろくに役にたたないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない。」
「多くの人が無意味な人生を抱えて歩き回っている。
自分では大事なことのように思ってあれこれ忙しげに立ち働いているけれども、実は半分寝ているようなものだ。
間違ったものを追いかけているからそうなる。
人生に意味を与える道は、人を愛すること、自分の周囲の社会のために尽くすこと、自分に目的と意味を与えてくれるものを創り出すこと。」
「今の世に中では常に洗脳される、ものを持つのはいいことだ、かねは多い方がいい。
それをくり返し聞かされ、ほかの考えを持たなくなる。
だがこれでは満ち足りない。本当の満足は自分が人にあげられるものを提供すること。」
「互いに愛せよ。さなくば滅びあるのみ。」
ユーモアって、大事ですよね。
「世界がユーモアで溢れていたら戦争なんてなくなるはず。」これはキュートでコケティッシュな笑顔が魅力のハリウッド女優、メグ・ライアンが言っていた言葉。
8月6日、原爆投下時間のサイレンに「もう終わったことをなんでずっと言うの?」と言った長女に怒ってげんこつしてしまった私って・・・。
先日7月27日遊学舎での佐藤初女さんの講演会の質疑応答では、初女さんのユーモアある返答に笑わせていただきました。
初女さんは若い少女時代に胸を患い死ぬかも知れないという思いに直面していたと映画の中で言われていました。
そういう思いをしたからこそ人との出会いを大切に、ひとりひとりに神が宿っているからと、相手を大切にし、毎日を丁寧に生きていらっしゃるんでしょうね。
「丁寧に生活することは動きのある祈りです。」という言葉に感動しました。
お祈りする時間がとれないと嘆くより、毎日をスローダウンして、丁寧に送りたいと思いました。
初女さんはとても謙虚で控えめに話されていましたが、モリー先生と同じ事を言っていたと思います。
今の日本の文化についても、「戦後から新しいアメリカの文化を取り入れてきて今結果が出てきている。
大切にしなくてはいけないものをもう一度見直すときが来ています。」と話されていました。
モリー先生曰く、「こんな文化いらない!」と言えるように・・・ですね。
お二方とも愛すべき本当の品格を備えている方々です。
(因みに、『女性の品格』の坂東女史、『親の品格』という本も最近書店で見かけました。
こちらもきっとグローバル&公平な視点からの意見が満載のはず。楽しみです。)
それから、グローバルな観点での話ですが、アマゾンの森林が減少している原因に私たちも関係あるのだということと、無関心ではいられないということを聞いてください。
”ほんの木”の書籍には自然療法や環境問題のものも多く、私は南研子さんのアマゾンでの活動を知り、熱帯森林保護団体に入会しています。わずかばかりですが支援しています。この場に紹介させてください。
ほんの木
熱帯雨林保護団体RAINFOREST
ひょうどうともこ
お盆の入り日12日に迎え火、15日に送り火といい、両日とも夕刻浜に火を燃やし(藁で作った小屋を燃やす)そして「この火の明かりに来とうれ(行とうれ)。」と歌います。
先祖の霊を文字通りお迎えして、また送るのです。
中学男子児童が小屋を作り、中学女子と小学児童で寄付金を集めお供え物やお飾りを買い、残りで花火を買い迎え火送り火の後に子供達で楽しみます。
今は親や地区の役員PTAも協力していますが昔は子供達(男の子)だけでやり、夜はその小屋に泊まったそうです。
少し年長の先輩からいろんな話を聞かされ子供達は成長したのでしょうね。
象潟の山手の上郷地区では冬、1月15日(丁度半年の間隔です。)に鳥海山に向かって先祖の霊を迎えて送る行事があるそうです。
それぞれ、死んだ魂は空に行くのだと考え、まずは一番近い空、山手では鳥海山の頂上、海の地区では海と空の狭間に行くのだと考えられてきたとのことです。
先祖に感謝して今の生を存分に楽しむというお祭りだったとのこと。
象潟には山や海など自然を崇め、先祖に感謝し生きてきた人々の暮らしがまだ息づいています。
古くから続いているこの行事は昨年、記録無形文化財と指定され保存会が設立されました。
大事にしたいです。
とはいえ夏は要注意。
一年で一番忙しい時期を乗り越え私は少々疲れ気味。
というのは、夏は私の勤務する皮膚科では、虫刺され、日焼け、とび火など処置の多い患者さんが増え忙しいこと、それから、夫のお店もお盆休みの帰省のお客さんがいて忙しくなり、おまけに子供達の夏休み!!海に川にいい夏の思い出作ってあげられたかな・・・?とオーバーヒートしそうでした。
三年前は眼圧の上昇で目が霞んでくる疾患ボスマンシュロースナー症候群に罹ったし、今年は突発性難聴になってしまいました。
ほとんど完治?と思いきや今日は朝から聞えにくい。
三日前、騒がしい子供にヒステリックに怒ってしまい、挙句の果ての夫婦喧嘩。本末転倒の結果に。今回の病気は聞きたくない事があるからなったのだと思っていました。
例えば変な事件のニュース、子供の担任の大人気ない怒り方のうわさ。
でもそれよりきっと、自分のヒステリーな声。品格ある女性とは程遠いです。
先日、『女性の品格』を読む機会を得ました。
とても耳が痛かったですが、読んでよかったです。
私は短気ですぐ怒りの感情を露にしてしまうので、もっか反省中です。
これからは品格を備えた女性を目指したいと思います。
それは坂東女史曰く“強く優しく美しくそして賢い女性”だそうです。
かくありたいですね。
参考にしたい品格ある女性についての女史の文章を以下に抜粋しました。
「私は社会や経済の変化のなかで女性たちが職場へ出ていくのを当然と思っています。
そうした女性たちが女性だからということで差別を受けてはならないし、日本の女性も企業も女性の力を活用することでもっと活力が出てくると思っています。
しかし職を持つ女性には試練はつきものです。
そして単にスキルを磨き、専門知識をもつ有能な職業人になることだけを目指すのではなく、品格をもって生きていくには・・・。
男性に媚を売り昇進するのではなく、しっかりとした識見をもち、一目置かれる社会人として生きるには・・・。
(中略)
正しい生活習慣や人間としての基礎力、自分の行動や生き方の芯になる信念を持つこと。
それは損をしても正しいことをする強さ、弱い立場のものに手を差し伸べることができる、自然の美しさや健気さに心を動かす優しさを持っているなど。
女性としての品格はそうした強さと優しさから生まれます。
また、等身大の自信、何が重要で何が些細なことかを見分ける賢さ、自分は今どういう役割を期待されているのかを把握して黙るときは黙り、話すべきときは話す聡明さも不可欠です。」
出しゃばりなんですね。私。聡明になりたいです。
実は“品格”という言葉が気になったのにはとある韓国ドラマがきっかけでした。
そのドラマに出演していた若手俳優さんが雑誌のインタビュー記事で『モリー先生との火曜日』という本を勧めていました。
「悲しむべきときには悲しむべき。」という考えが自分と同じだったからとありました。
彼は若いのに冷静で自分の立場をわきまえていると記事を読み進めるうちに感じ、是非この本を読みたいと思ったのでした。
内容は、著者のミッチ・アルボムというスポーツジャーナリストが、ALS(筋萎縮性側策硬化症)という難病になり死を目前とした恩師に再会し最後の授業を受けた記録。
二人の人生と哲学とユーモアが散りばめられたものでした。
人生を楽しむ達人モリー先生の魅力と仕事中毒で、家庭を顧みず何かに焦っていた元教え子が人生に本当に大切なものに気づいて変化していく。
笑って泣きました。
私もこの本を皆さんにお勧めしたいと思います。
映画化にもなったものなので、ご存知の方も多いでしょうね。
モリー先生の名言集。
「死ぬことは悲しいことのひとつにすぎないんだよ。
不幸な生き方をするのはまた別のことだ。ここへ来る人の中には不幸な人がずいぶんいる。
われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。
文化がろくに役にたたないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない。」
「多くの人が無意味な人生を抱えて歩き回っている。
自分では大事なことのように思ってあれこれ忙しげに立ち働いているけれども、実は半分寝ているようなものだ。
間違ったものを追いかけているからそうなる。
人生に意味を与える道は、人を愛すること、自分の周囲の社会のために尽くすこと、自分に目的と意味を与えてくれるものを創り出すこと。」
「今の世に中では常に洗脳される、ものを持つのはいいことだ、かねは多い方がいい。
それをくり返し聞かされ、ほかの考えを持たなくなる。
だがこれでは満ち足りない。本当の満足は自分が人にあげられるものを提供すること。」
「互いに愛せよ。さなくば滅びあるのみ。」
ユーモアって、大事ですよね。
「世界がユーモアで溢れていたら戦争なんてなくなるはず。」これはキュートでコケティッシュな笑顔が魅力のハリウッド女優、メグ・ライアンが言っていた言葉。
8月6日、原爆投下時間のサイレンに「もう終わったことをなんでずっと言うの?」と言った長女に怒ってげんこつしてしまった私って・・・。
先日7月27日遊学舎での佐藤初女さんの講演会の質疑応答では、初女さんのユーモアある返答に笑わせていただきました。
初女さんは若い少女時代に胸を患い死ぬかも知れないという思いに直面していたと映画の中で言われていました。
そういう思いをしたからこそ人との出会いを大切に、ひとりひとりに神が宿っているからと、相手を大切にし、毎日を丁寧に生きていらっしゃるんでしょうね。
「丁寧に生活することは動きのある祈りです。」という言葉に感動しました。
お祈りする時間がとれないと嘆くより、毎日をスローダウンして、丁寧に送りたいと思いました。
初女さんはとても謙虚で控えめに話されていましたが、モリー先生と同じ事を言っていたと思います。
今の日本の文化についても、「戦後から新しいアメリカの文化を取り入れてきて今結果が出てきている。
大切にしなくてはいけないものをもう一度見直すときが来ています。」と話されていました。
モリー先生曰く、「こんな文化いらない!」と言えるように・・・ですね。
お二方とも愛すべき本当の品格を備えている方々です。
(因みに、『女性の品格』の坂東女史、『親の品格』という本も最近書店で見かけました。
こちらもきっとグローバル&公平な視点からの意見が満載のはず。楽しみです。)
それから、グローバルな観点での話ですが、アマゾンの森林が減少している原因に私たちも関係あるのだということと、無関心ではいられないということを聞いてください。
”ほんの木”の書籍には自然療法や環境問題のものも多く、私は南研子さんのアマゾンでの活動を知り、熱帯森林保護団体に入会しています。わずかばかりですが支援しています。この場に紹介させてください。
ほんの木
熱帯雨林保護団体RAINFOREST
ひょうどうともこ
それを初めて見つけたのは郵便局の窓口だった。以前から興味があったので、窓口の人に尋ねてみた。
「これを持っていても家族の同意がなければ最終的に提供者になることはできません。」
その言葉になぜか安堵した。結局は私の意志ではなく、家族に委ねられるという安心にすがりたかったのかもしれない。あるいは(おそらくこちらの気持ちが強いと思うが、)「怖かった」のだ。記名して財布に入れたように思うが、いつの間にかなくなっていた。今にして思えばやはり怖かったのだろう。それにしてもなぜ私がこんなことに興味があるのか未だにうまく説明できない。
それから数年。
またしてもそれを今度は市役所の窓口で見つけた。迷わず手に入れた。今度はゆるぎない。私にそうさせる背景には二つの理由がある。
一つ目は従姉妹が白血病に罹り偶然にも骨髄提供者との型が合い、命拾いをした。
その闘病たるや、生と死の表裏一体、まさに命がけだった。彼女が病に臥す前から、骨髄提供には興味があった。しかし、提供側の負担があまりにも大きく手を挙げられない自分がいた。
二つ目は、やはりシュタイナーとの出会いだろう。
これに出会わなければ絶対にまだ悩んでいたに違いない。魂は永遠であり、今生で身に着けた肉体は時がくればなくなる。しかし、また新しい体を身にまとい、新たな課題を克服するために別のワタシになる。そうであれば、何も怖いことなどない。そう、私は決心した。ドナー提供者になることを。万が一のことがあったときに、必要とされる臓器を可能な限り提供することにした。
娘がある日、私の財布を覗いてカードの意味を尋ねたので、こう答えた。
「お母さんはね、沢山の人たちから支えられてきた。そのお返しに寄付だとかができればいいんだけれどお金がないからできない。だから、代わりに病気で困っている人たちにお母さんの体が役に立てばいいと思っている。その人たちの中でお母さんは生きることができるでしょ。灰になってしまうのはもったいないから、使ってほしいの。」
少し前の自分なら怖くて躊躇したに違いない。だが今は何も迷いはない。希望通りに提供者になることができるかどうかはわからないが、もし必要としている人がいれば、そうしたいと思っている。いざという時は自分の意思表示などできる状態ではないはずだから、今ここで伝えたい。私が今を生きることが出来るのは、家族を始め沢山の人たちの支えがあったから。「ありがとう」の気持ちをドナー提供という形でお返ししたいと思っている。
カードにはやはり家族が同意する欄がある。今すぐにでもサインを頼みたいところなのだが、断られるのは承知のこと。どうか今のこの気持ちを理解してもらい、私の最初で最後の社会貢献に賛同してもらいたい。
心の準備は万端。カードは必要なときに使ってもらいたい。財布の中で待機中である。
「これを持っていても家族の同意がなければ最終的に提供者になることはできません。」
その言葉になぜか安堵した。結局は私の意志ではなく、家族に委ねられるという安心にすがりたかったのかもしれない。あるいは(おそらくこちらの気持ちが強いと思うが、)「怖かった」のだ。記名して財布に入れたように思うが、いつの間にかなくなっていた。今にして思えばやはり怖かったのだろう。それにしてもなぜ私がこんなことに興味があるのか未だにうまく説明できない。
それから数年。
またしてもそれを今度は市役所の窓口で見つけた。迷わず手に入れた。今度はゆるぎない。私にそうさせる背景には二つの理由がある。
一つ目は従姉妹が白血病に罹り偶然にも骨髄提供者との型が合い、命拾いをした。
その闘病たるや、生と死の表裏一体、まさに命がけだった。彼女が病に臥す前から、骨髄提供には興味があった。しかし、提供側の負担があまりにも大きく手を挙げられない自分がいた。
二つ目は、やはりシュタイナーとの出会いだろう。
これに出会わなければ絶対にまだ悩んでいたに違いない。魂は永遠であり、今生で身に着けた肉体は時がくればなくなる。しかし、また新しい体を身にまとい、新たな課題を克服するために別のワタシになる。そうであれば、何も怖いことなどない。そう、私は決心した。ドナー提供者になることを。万が一のことがあったときに、必要とされる臓器を可能な限り提供することにした。
娘がある日、私の財布を覗いてカードの意味を尋ねたので、こう答えた。
「お母さんはね、沢山の人たちから支えられてきた。そのお返しに寄付だとかができればいいんだけれどお金がないからできない。だから、代わりに病気で困っている人たちにお母さんの体が役に立てばいいと思っている。その人たちの中でお母さんは生きることができるでしょ。灰になってしまうのはもったいないから、使ってほしいの。」
少し前の自分なら怖くて躊躇したに違いない。だが今は何も迷いはない。希望通りに提供者になることができるかどうかはわからないが、もし必要としている人がいれば、そうしたいと思っている。いざという時は自分の意思表示などできる状態ではないはずだから、今ここで伝えたい。私が今を生きることが出来るのは、家族を始め沢山の人たちの支えがあったから。「ありがとう」の気持ちをドナー提供という形でお返ししたいと思っている。
カードにはやはり家族が同意する欄がある。今すぐにでもサインを頼みたいところなのだが、断られるのは承知のこと。どうか今のこの気持ちを理解してもらい、私の最初で最後の社会貢献に賛同してもらいたい。
心の準備は万端。カードは必要なときに使ってもらいたい。財布の中で待機中である。
久し振りに心が躍りました。感動しました。梨木果歩さんの『西の魔女が死んだ』の映画を観て、さらに本を読んで。
中学生でもスラスラ読める平易な表現の中に、色々な人生経験を重ねた大人がうなる深~い内容なのです。一つの文に一つのセリフに込められている意味の何という味わい深いこと。
この本は長く読み継がれていく児童文学の名作になるでしょう。
西の魔女は、私がずっと憧れている暮らしを見事に体現していました。野いちごのジャム作りのシーン、たらいで踏み洗いしたシーツをラベンダー畑に広げて干すシーン。「わあ~、ステキ!」と歓声、拍手したものです。「まい、畑からレタスとキンレンカ採ってきて。」そして作るサンドウィッチ。レタスを両手でパンパンたたいて、塩をふって、ハムや炒りたまごとパンにはさむ。(あのパンはごっつい本物のパンだ!)
バラの根元にニンニクを植えると防虫になり、香りもよくなる(知らなかった!)ミントとセージを煎じた汁は、野菜の虫よけになる(知らなかった)暮らしの知恵があちこちに散らばっている。
それにしても梨木さんの知識は広い。本に登場する雑草の名前の多いこと。私もかなり雑草に通じているつもりでしたが、初めてのもいくつか。「クサノオウ」「銀(ぎん)龍(りょう)草(そう)」「キュウリ草」など。図鑑で調べて、何となく想像できました。
級友(クラスメイト)の無視で、登校拒否になった主人公の少女まい。小さい時からの喘息持ち。息苦しくなると、エレベーターでどこまでも落ちていくような不安と孤独感。わあ~と叫びたくなるような淋しさ。この表現を理解できる読者はいるでしょうか。呼吸困難に時々襲われる私は、まいの苦しさが少しわかる一人です。こんな感受性が強く、不安を抱え思春期を迎えたまいを力強く成長させた要因は何でしょう。自我にめざめ、おとなに脱皮していくこの大切な時期に、西の魔女とかかわれたまいはラッキーな少女でした。私は自分のその時期を振りかえってつくづくそう思います。
“魔女トレーニング”の基本は早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする。そして日課の午前中は家事、エクササイズ、午後は勉強か読書。身体と頭の鍛錬。このトレーニングにうなりました。今、登校拒否の子どもが増えています。私も机に座るばかりの学校はうんざりでした。私の教育改革案は、魔女のやり方です。いわゆる生活学校のようなフリースクールですね。暮らしと共に学ぶ学校だったら楽しいはずです。
まいは野いちごを摘んで、洗って、気長に煮詰めます。そして出来上がったジャムをこんがり焼いたトーストにたっぷりつけて、おばあちゃんとほおばります。相性の悪いオンドリの目をくらませて、卵を失敬してきます。それが朝食にハムエッグとなって登場します。おばあちゃんとしぼって干し広げたシーツにはラベンダーの香りがいっぱい。夜、その香りに包まれる幸せ。
年頃の少年少女の独り立ちを後押しするのは、こういう生活体験ではないかと思います。中学生になったら、ご飯の炊き方、味噌汁の作り方、野菜のゆで方を特訓するといい。こういう目に見え、体で覚える生活の自立は精神的自立の土台になっていくこと間違いなし。24歳、修道院に入って初めてようやく生活トレーニングを受けた私の体験です。学校の勉強だけでは頭でっかちの足が地につかないフラフラ人間になるばかりです。
「人は死んだらどうなるの」まいの悲鳴におびえた質問に―
「分かりません。実を言うと死んだことがないので」(魔女の最高のユーモアですね。実はおシャカさまも弟子にそう答えているんですよ)「でもね、おばあちゃんの信じる死後のことをお話ししましょう。」まいはおばあちゃんの布団の中で、背中をなでられながら、真剣に聴き入ります。「おばあちゃんは、人には魂(たましい)っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わせってできています。・・・・・死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。」
このセリフを聞いたとき、作者の梨木さんは「精神世界」を学んだ人に違いないと思いました。あとで友人から「梨木さんはイギリスでシュタイナーの勉強をしたそうですよ」と伺って合点ゆきました。まさしくシュタイナーの考え方です。私の信じるキリスト教の考え方にも似ていますが、大きな違いもあります。(私だったら、まいにどのように説明するでしょうか?)
まいとおばあちゃんの死をめぐるやり取りは圧巻です。やさしい言葉でよくぞここまで高い哲学内容を表現したものよ、と私は舌を巻き「う~ん、見事!」と一人感嘆の声をあげました。
「魂は身体を持つことによってしか物事を経験できないし、体験によってしか魂は成長できないんですよ。ですから、この世の生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたわけですから。」
西の魔女のこの言葉が理解できたら、人生の謎はすべて解明されるでしょうね。今はこれ以上踏み込まないことにします。
梨木さんがシュタイナー思想のかかわったと知って「ああ道理で」と色々納得できました。全体がシュタイナー色なのですね。
鉱物―植物―動物―人間―天使 この五つがシュタイナーの世界の存在構造をなしています。『西の魔女死んだ』を見渡すと、まいを取り囲むこの五つが姿を表しているのがわかるでしょう。鉱物はおじいちゃんの世界として(色んな鉱石の名前が出てきます)「永遠に時が止まっている世界」それから植物の世界。鉱石の精とおじいちゃんの呼んだ銀龍草からまいの分身のようなキュウリ草、野草、野菜、樹木に包まれて生かされている緑溢れたワールド。その上に進化した動物の姿としてニワトリや犬が登場する。まいの生活に陰となり陽となってかかわってくる。そして人間。ゲンジさんのような野卑で品性のないレベルの人、まいのお父さんに代表される凡人、自分の存在意義を求め続けるお母さん、という人間の魂の様相が暗に示唆されている。魂が磨かれ、成熟した存在が最後の進化した姿。それがおばあちゃん。「魔女」である。天使に近い存在。
最も進化、成長した魔女のありかたとはどんな姿でしょうか。
一人一人この本から見つけるのがベストでしょう。読み手の能力がテストされる本です。
「いちばん大事なことは自分で見ようとしたり、聞こうとするとする意志の力ですよ。」
「上等な魔女は外からの刺激には決して動揺しません。」
どうやら主体的あり方のようです。自分はどう生きるかという意志をしっかりもつこと。西の魔女はすべてのものを尊び、愛し、一体となって暮らしている。鉱石とも、庭の草花とも、鳥や犬とも、そしてとりわけ人間と共存している。野蛮なゲンジさんをも丸ごと抱擁している。どんな物も、どんな人をも切り捨てない。愛(いとお)しむ。
このおばあちゃんのもとで、ひよわで枯れそうだったキュウリ草のようなまいも大きく力強く成長していったのでした。魔女のタネを植え付けられたまいは果報者です。
私も魔女になりたい!
中学生でもスラスラ読める平易な表現の中に、色々な人生経験を重ねた大人がうなる深~い内容なのです。一つの文に一つのセリフに込められている意味の何という味わい深いこと。
この本は長く読み継がれていく児童文学の名作になるでしょう。
西の魔女は、私がずっと憧れている暮らしを見事に体現していました。野いちごのジャム作りのシーン、たらいで踏み洗いしたシーツをラベンダー畑に広げて干すシーン。「わあ~、ステキ!」と歓声、拍手したものです。「まい、畑からレタスとキンレンカ採ってきて。」そして作るサンドウィッチ。レタスを両手でパンパンたたいて、塩をふって、ハムや炒りたまごとパンにはさむ。(あのパンはごっつい本物のパンだ!)
バラの根元にニンニクを植えると防虫になり、香りもよくなる(知らなかった!)ミントとセージを煎じた汁は、野菜の虫よけになる(知らなかった)暮らしの知恵があちこちに散らばっている。
それにしても梨木さんの知識は広い。本に登場する雑草の名前の多いこと。私もかなり雑草に通じているつもりでしたが、初めてのもいくつか。「クサノオウ」「銀(ぎん)龍(りょう)草(そう)」「キュウリ草」など。図鑑で調べて、何となく想像できました。
級友(クラスメイト)の無視で、登校拒否になった主人公の少女まい。小さい時からの喘息持ち。息苦しくなると、エレベーターでどこまでも落ちていくような不安と孤独感。わあ~と叫びたくなるような淋しさ。この表現を理解できる読者はいるでしょうか。呼吸困難に時々襲われる私は、まいの苦しさが少しわかる一人です。こんな感受性が強く、不安を抱え思春期を迎えたまいを力強く成長させた要因は何でしょう。自我にめざめ、おとなに脱皮していくこの大切な時期に、西の魔女とかかわれたまいはラッキーな少女でした。私は自分のその時期を振りかえってつくづくそう思います。
“魔女トレーニング”の基本は早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする。そして日課の午前中は家事、エクササイズ、午後は勉強か読書。身体と頭の鍛錬。このトレーニングにうなりました。今、登校拒否の子どもが増えています。私も机に座るばかりの学校はうんざりでした。私の教育改革案は、魔女のやり方です。いわゆる生活学校のようなフリースクールですね。暮らしと共に学ぶ学校だったら楽しいはずです。
まいは野いちごを摘んで、洗って、気長に煮詰めます。そして出来上がったジャムをこんがり焼いたトーストにたっぷりつけて、おばあちゃんとほおばります。相性の悪いオンドリの目をくらませて、卵を失敬してきます。それが朝食にハムエッグとなって登場します。おばあちゃんとしぼって干し広げたシーツにはラベンダーの香りがいっぱい。夜、その香りに包まれる幸せ。
年頃の少年少女の独り立ちを後押しするのは、こういう生活体験ではないかと思います。中学生になったら、ご飯の炊き方、味噌汁の作り方、野菜のゆで方を特訓するといい。こういう目に見え、体で覚える生活の自立は精神的自立の土台になっていくこと間違いなし。24歳、修道院に入って初めてようやく生活トレーニングを受けた私の体験です。学校の勉強だけでは頭でっかちの足が地につかないフラフラ人間になるばかりです。
「人は死んだらどうなるの」まいの悲鳴におびえた質問に―
「分かりません。実を言うと死んだことがないので」(魔女の最高のユーモアですね。実はおシャカさまも弟子にそう答えているんですよ)「でもね、おばあちゃんの信じる死後のことをお話ししましょう。」まいはおばあちゃんの布団の中で、背中をなでられながら、真剣に聴き入ります。「おばあちゃんは、人には魂(たましい)っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わせってできています。・・・・・死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。」
このセリフを聞いたとき、作者の梨木さんは「精神世界」を学んだ人に違いないと思いました。あとで友人から「梨木さんはイギリスでシュタイナーの勉強をしたそうですよ」と伺って合点ゆきました。まさしくシュタイナーの考え方です。私の信じるキリスト教の考え方にも似ていますが、大きな違いもあります。(私だったら、まいにどのように説明するでしょうか?)
まいとおばあちゃんの死をめぐるやり取りは圧巻です。やさしい言葉でよくぞここまで高い哲学内容を表現したものよ、と私は舌を巻き「う~ん、見事!」と一人感嘆の声をあげました。
「魂は身体を持つことによってしか物事を経験できないし、体験によってしか魂は成長できないんですよ。ですから、この世の生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたわけですから。」
西の魔女のこの言葉が理解できたら、人生の謎はすべて解明されるでしょうね。今はこれ以上踏み込まないことにします。
梨木さんがシュタイナー思想のかかわったと知って「ああ道理で」と色々納得できました。全体がシュタイナー色なのですね。
鉱物―植物―動物―人間―天使 この五つがシュタイナーの世界の存在構造をなしています。『西の魔女死んだ』を見渡すと、まいを取り囲むこの五つが姿を表しているのがわかるでしょう。鉱物はおじいちゃんの世界として(色んな鉱石の名前が出てきます)「永遠に時が止まっている世界」それから植物の世界。鉱石の精とおじいちゃんの呼んだ銀龍草からまいの分身のようなキュウリ草、野草、野菜、樹木に包まれて生かされている緑溢れたワールド。その上に進化した動物の姿としてニワトリや犬が登場する。まいの生活に陰となり陽となってかかわってくる。そして人間。ゲンジさんのような野卑で品性のないレベルの人、まいのお父さんに代表される凡人、自分の存在意義を求め続けるお母さん、という人間の魂の様相が暗に示唆されている。魂が磨かれ、成熟した存在が最後の進化した姿。それがおばあちゃん。「魔女」である。天使に近い存在。
最も進化、成長した魔女のありかたとはどんな姿でしょうか。
一人一人この本から見つけるのがベストでしょう。読み手の能力がテストされる本です。
「いちばん大事なことは自分で見ようとしたり、聞こうとするとする意志の力ですよ。」
「上等な魔女は外からの刺激には決して動揺しません。」
どうやら主体的あり方のようです。自分はどう生きるかという意志をしっかりもつこと。西の魔女はすべてのものを尊び、愛し、一体となって暮らしている。鉱石とも、庭の草花とも、鳥や犬とも、そしてとりわけ人間と共存している。野蛮なゲンジさんをも丸ごと抱擁している。どんな物も、どんな人をも切り捨てない。愛(いとお)しむ。
このおばあちゃんのもとで、ひよわで枯れそうだったキュウリ草のようなまいも大きく力強く成長していったのでした。魔女のタネを植え付けられたまいは果報者です。
私も魔女になりたい!