なな色メール 

シュタイナーの勉強会の仲間と始めたニュースレター。ブログでもその一部をご紹介していきたいと思います。

最近年末年始に子供たちと観たDVDを紹介したいと思います。

2011年02月01日 | ともこ
まずは、『リトル ミス サンシャイン』  面白かったです。

主人公はオリーブちゃん。女の子としての成功を夢見ているちょっとポッチャリな小学生。彼女がミスコンに出場することになり、どこだっけ?田舎からカリフォルニアまで一家でオンボロ車で旅をするお話。その一家とは、成功術の本を書いて出版しようとしていて失敗している父親、ニーチェと夢のために口をきかない誓いを立てている引きこもりの兄、同性愛者で生徒にふられて自殺しそこなって鬱のおじさん、ヒッピーで女好きな不良おじいちゃんと料理の下手な明るいお母さん。

鬱のおじさんは大学の先生で博識なんだけど、成功術を説く父親とは反対意見が多くて仲悪いし、お母さんもこのお父さんの成功術の話にはうんざりで、幸せならそれでいいとオリーブに教えているし、不良のおじいちゃんは孫に早く沢山セックスしろってアドバイスしてるし、一緒に住むことになったおじさんに「地獄へようこそ」ってメモして見せるお兄ちゃんとか、ひっちゃかめっちゃか・・・。途中でおじいちゃん、何と永眠!してしまって、これが家族をピンチへとあわせるものの、一致団結して乗り越えて、さあ、エンディング!振り付けしたのはおじいちゃんだった踊りって・・・!!ミスコンぶっ壊しでしたが、心温まりました。会話がその人たちのアイデンティティを出していて楽しめました。


それと、『私の中のあなた』 (これ、先のと偶然主役の子が同じ子でアビゲイルちゃん、育っていてビックリ。)

 白血病の姉のためにドナー用にと作られて生まれてきた妹アナ(11歳)が彼女の役どころ。長女のために仕事も辞めて闘病に必死になっている母親をキャメロン・ディアスが演じていて、家族がみな犠牲になって姉の治療が中心になっている家庭のお話。(実話だったと思います。)

 主人公は姉の犠牲になりたくないと自分の体を守る権利を主張してドナーを拒否する訴訟を親相手に起こすのだけど、実は・・・それを本当に望んでいたのは、というお話。

 わが子の死を怖れるばかりの母親、死は恥ずかしいものではない、と諭す判事や訴訟機関の間も仲の良い兄弟たち、主人公をそっと見守る父親、権利を守ることを正当だという持病のある弁護士、いろんな人間がいて、闘病中の姉の恋愛や、家族との写真を切り取って作った素敵なスクラップブックなどなど見所あり。

 それを最後に母親にプレゼントして、「ママなら大丈夫。乗り越えられるわ。」って励ます死に行く子供。そう、彼女は家族を犠牲にしてまで生きたくなくて、苦しい病苦から静かな状態へと開放されたがっていたのです。死生観が問われます。

ひょうどうともこ

心に残ることば

2011年02月01日 | いしかわようこ
ラジオ深夜便『こころの時代』特選集(上・下)から、考えさせられることば、励ましとなることばをいくつかご紹介いたします。

①作家・夏木静子さんー原因不明のひどい腰痛に死を考えた時期
 
 臨床心理学者の河合隼雄先生と電話でお話をする機会がありました。「人間は大きな変化をするときに、産みの苦しみのようなものを味わうんだ。特にクリエーティブ(創造的)な仕事をしている人には、何か成長しようとするときに苦しみが訪れる。私はそれをクリエーティブ・イルネス(病気)と呼んでいる」とおっしゃいました。「治った後」に新しい世界が開けるかもしれません。引退をかけるつもりで真剣に闘いなさい」と、励ましていただきました。

失敗・挫折・行きづまり(問題の発生)→悩み苦しむ(模索・苦悩)→光がさす・解決(心の成長)
「苦しみから歓喜へ」私たち人間の成長発達のパターンのようです。「クリエーティブ・イルネス」とはいい表現ですね。

②エッセイスト・大石邦子さん
 22才の時バス事故に遭い、半身マヒの身になり、不治の宣告を受けた時期

 私は絶望の中で投げやりになって、もうこれ以上ない冷たい声で母に当たりました。
「私の人生なんてもうすべて終わりよ!」
叫びました。すると、そんな私に、母は涙ぐみながら言いました。
「何もかもすべて終わりということは、何もかもすべてこれから新しく始まるということでもあるでしょう。」
「何が始まるの?こんな体に何が始まるの?」
 私は震えるような怒りの中で、頭が破裂しそうでした。でも、新しい日々がまた始まるという母の言葉は真実でした。」


 地球村代表の高木善之さんもオートバイ事故で全身骨折。臨死体験と苦しみの中から大きく変身してゆきました。

③詩人・画家・老子研究者 加島祥造さん

老子の思想をわかりやすく説明される対談の途中で

―東京のあの大空襲(45.3.10)で焼け野原になってなにもなくなりましたがという問いの答え―
 持っているものを一度失ったことによって新しい気持ちになったと思うよ。持っているものに頼って生きている社会というものは、どうしても考え方が迫嬰的になる。国家でも、個人でも、失う経験から、次の新生面に転じるんだ。失うということは、そこに新しいものが入ってくる余地が生まれるということだよ。
 東京という都市が戦後これだけ大きくなったのは、一度何もかも失ったからだ。地主が土地を手放したことで、この国土にはエネルギーが満ちたんだよ。
―捨ててこそ、という言葉がありますが(問い)
 捨てるというより、なくなってこそだね。人間って欲望の塊だから、なかなか捨てることはできないよ(笑)。でもなくなってもいいという気持ちでいることだよ。


 物をいっぱいためこんで片付けることができない友人がいます。物を手放すことができないということは新しいものが入ってくるスペースがない。体でも心でも便秘状態はよくありませんね。

NHKラジオ「こころの時代」は素晴らしい番組です。ただ時間帯が朝4時から5時。こんな時間でもリスナーは多いそうです。幸い収録テキストが発行されています。十人十様の人生体験はどれも光っていて感動します。

◎「今日われ生きてあり」「本日、われまだ生きてあるなり」
 (ある特攻隊員の日記の冒頭に、毎日くりかえされたことば)
◎「紙碑」(長谷川伸氏)
 「石に彫ってもだめだよ。銅に彫ってもだめだよ。いちばんいいのは、紙に彫ることなんだ。ただし神坂くん、いいものを書かないとね。」


「なな色メール」も私たちのささやかな紙碑にしたいものですね。
特攻隊の記録を小説化した神坂次郎さんはこう言っておられます。

「写経をするように、原稿用紙のます目に一点一画彫り込むような思いで死んでいった若者一人一人の名前を書きました。」

手書きしかできない私ですが、せめて魂のにじむことばを綴りたいものだと改めて思いました。                       (2011.1.10記)
いしかわようこ                          


「大きなうた」を心の中に

2011年02月01日 | くどうせいこ
 昨年の秋頃、図書館で月刊「クーヨン」(2010年2月号)という雑誌を見ていたところ、とても懐かしい歌が目に飛び込んできました。

 その歌に出会ったのは確か小学5年生の頃だったと思います。1学年下のクラス担任の先生が病気で入院した為、代用教員として若い熱血漢の先生がやってきたのでした。

 石垣先生というお名前だったと思います。何ヶ月か過ぎ、入院していた先生が退院し復帰することになりました。

 全校生徒(110人ほど)が、石垣先生とのお別れのために体育館に集められました。その時、全校生徒へのお別れのメッセージとして石垣先生が独唱してくださったのが、「大きなうた」でした。体育館全体に響く大きな声で涙ぐみながら歌ってくださったことを覚えています。

 歌詞は1番しか覚えていませんでしたが、記憶の深い所にこの情景が残っていました。あれから35年以上も時が過ぎ、先生はもしかして退職されているかもしれません。きっと、あの頃のまますばらしい先生として人生を歩まれていたと思います。

 月刊「クーヨン」の解説には、「実直で、真面目で、誠実で、清らかな精神が満ちているいろいろな意味で本当に大きな歌なのだ」と書かれていました。


 大きなうた

   作詞・作曲/ 中島 光一

 1. 大きなうただよ/// 2. 大きな空だよ///// 3. 大きな夢だよ///// 4. 大きなこころだよ
  あの山の向こうから  お日さまが笑ってる   このぼくのこの胸に    自由を求める
  聞こえてくるだろう     僕らを見つめる     いっぱい広がる      しあわせ願う  
 大きなうただよ       大きな空だよ      大きな夢だよ       大きなこころだよ


 5.大きな力だよ ////// 6.大きな道だよ ///// 7. 大きなおれたちさ    
   働く力は         本当の道は         雨風吹こうと
   明日を動かす     平和に続く         おそれはしない
   大きな力だよ     大きな道だよ        大きなおれたちさ



くどうせいこ

10年後の日本は?『自分を守る経済学』から

2011年02月01日 | S.S.
12月末に駅前のジュンク堂書店に行きました。お目当ての本は、ジャレド・ダイアモンド著 『銃・病原菌・鉄』。朝日新聞の調査によると、ここ10年で一番良いと評価された本です(新聞記事参照)。目につく場所に置いてあったその本は、上下2冊でかつ分厚く、とても購入できるものではありません。後で図書館で借りることにして、代わりに新書を1冊買いました。

 『自分を守る経済学』徳川家広著 ちくま書房の新書です。帯には、「徳川宗家19代目が説くサバイバル戦略!経済破綻の日はすぐそこに」とあります。読んでみると、将来に対する不安をあおる本ではなく、不安を打ち消す為にも経済・社会について学び、将来に備えて心の準備をしておこうという気持ちになるものでした。この本で学んだことを少しご紹介したいと思います。

 始めの部分では、経済の仕組みを一般向けにわかりやすく説明してくれています。経済関連の用語がたくさん出てきますが、現在の社会の動向を知るために知っておくと良い知識(何故インフレになるのか、金融引き締めとは何かなど)を一度まとめて勉強するのに最適だと思いました。

続いて、経済や金融の観点から見たギリシャ・ローマ時代に遡る世界の歴史について、および日本についても、関が原時代から現代に至るまでの歴史の考察が行われています。お金や労働などを軸に見ているのが面白く、なるほどなるほどと、どんどん読めます。著者の徳川氏は俯瞰的な見方が得意なようで、従来からの歴史認識を改めさせてくれるような新しい見方を示してくれました。


 本の後半で、彼は現代の日本、世界について分析をしているのですが、なかでも私が気に留めたのは以下の2点でした。

◎エネルギーと人々の生活の関係
 徳川氏は、エネルギーと経済の関係について特に着目しています。石炭に続いて登場した石油のエネルギーとしての利用のしやすさが、20世紀に入ってからのアメリカの急速な経済成長を可能にしたと言います。衣食住足りてはじめて人々は幸福になりますが、国民の生活を豊かにするべくさまざまなモノをすごい勢いで生産し、飛躍的な経済成長を遂げたアメリカは、世界の冠たる超大国(政治、軍事、経済ともに)になっていったのです。世界中の人々がアメリカの豊かな生活に憧れ、アメリカは人類史上初めて国民の大多数が豊かになる国を築きました(1950年頃)。

日本もアメリカをモデルとしてモノ作りに励み、1980年頃国民全体が豊かな暮らしを得たと実感できるようになったと、徳川氏は述べています(なな色シスターズの皆さんも実感できるでしょう)。その豊かな暮らしを今、中国やインドを初めとして、アジアの国々が獲得しようと頑張っているわけですね。

 しかし、この豊かさは大量のエネルギーに依存していることを、もっと実感すべきだと徳川氏は示唆します。具体的には、石油。大量の石油を消費して達成される先進国の豊かな暮らしです。しかし、石油は必ず枯渇します。代替エネルギー(風力、原子力など)は、開発コストや管理・維持コストを考えると、石油に比べずっと割高。そのため著者は、近い将来(10年後と言っていましたが)、エネルギー価格が高騰し、世界の人々が今のように自由にガスや電気を使えなくなる日が来ると予測しています。

 彼の主張は、当たり前のことなのに、私も含めて多くの人が、見ようとしていない現実だと思いました。中国やインドがこの勢いで経済成長しているのですから、今のままでいられるわけがない。エネルギーだって、足りなくなるのはわかっています。でも、徳川氏が言うほど早くやってくるなんて。10年後は、正直言って早すぎる!これからもエネルギーの動向をしっかりウォッチして、来るべき時に備えて、心の準備だけはしておかないと、という気になりました。

◎先進国病
 徳川氏は、平成に入ってからの日本の停滞状態を『先進国病』と名づけ、世界中のどこの先進国でも見られる現象であると述べています。先進国病って一体何でしょうか?

①低成長・・・早い話が、衣食住が足りるためのものは全て作ってしまったと言うことです。これから作って売れるものは、技術革新によりさらに豊かになることを極めるモノか、気まぐれな消費者のニーズに合ったものでしかない。大量生産の必要はないため、成長率は低くなる。

②国際化・・・安い賃金を求め、また需要を求めて、企業は海外に進出し、国内でモノを生産することが減る。国際化は日本国内の産業の空洞化につながる。

③情報化・・・人々の労働がコンピューターによって代替される。

この3つの問題ゆえに、国内では就職先が減少。対策のために、労働の規制緩和が行われ、いわゆる派遣労働者の問題が起きました。アメリカでも、日本でも、政治家に雇用の増大が求められていますが、そうそう打つ手はないことがうかがえますね。

④少子高齢化・・・いわずと知れた日本の社会問題です。世界の最先端を行く日本の少子高齢化社会の行く末を見ようと、ドイツから調査チームが来ているそうです。

⑤子どもの学力低下・・・先進国ほど学力は落ちるのだそうです。理由は、商品として提供される刺激的な娯楽が多すぎるため(ゲーム、テレビなど)。学校の勉強は、退屈で、単調そのもので、子ども達には、その退屈さを我慢してまでしなければいけない勉強へのモチベーションがないとの分析でした(就職難で、高学歴が将来の幸福を保障しないことも誘因)。また、携帯電話の普及により、仲間内以外の世界に関心が向かないことも学力低下の原因になっているそうです。

子どもの数が減り、取り巻く多くの大人たちに大事にされ過ぎているというのが、日本の子どもの実態なのでしょう。先進国ほど学力が落ちるという話も、就学前や小学生の子ども達と接している私としては、妙に納得できる気がしました。1才過ぎれば、アンパンマン。4才過ぎれば、男の子は戦隊もの、女の子はテレビのキャラクターに夢中になり、その後はゲームや携帯電話へ。昔から受け継がれてきた絵本のお話は、簡単には受け入れてもらえません。幼い時から刺激的な映像や音楽に慣れてしまった脳には、素朴な絵や語りは色あせて見えるのでしょう。

最後に徳川氏は、今後10年の間に日本がどうなるのかを大胆に予測しています。低成長によって収入が落ち込む一方で、医療保険と年金支出、国債の利子払いと償還のために政府の支出は増加し続け、日本の財政は破綻すると言います。日本は、過去、明治維新時と、第二次大戦後に財政破綻しています。財政破綻については、戦後の日本を想像すればイメージがわくかも知れません。
10年後に日本の財政が破綻するかどうかはわかりませんが、10年後まで今の豊かな生活を維持するのは、難しいでしょう。将来に不安を抱えながら暮らす、私達の心構えって何でしょうか?

今の豊かな日本の暮らしは、たまたまの歴史の巡り会わせで経験できたこととして、その豊かさに感謝しながら暮らすというのはどうでしょうか。失っても当然のモノの豊かさとして。そして、日々の暮らしの中で、その時その時に出会える小さな幸せを大切にしていけたら、素敵だなと思います。

社会学者見田宗介氏が『現代社会の理論-情報化・消費化社会の現在と未来』岩波書店の中で語っている「語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔を見ること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと・・・」というフレーズのように、何気ない日常のひとコマだけれども、心が動かされるきらきらした瞬間が、私達の生きる糧なんだなと思って暮らしていけたらいいですね。


2011年 初春の頃に思うこと

2011年02月01日 | ともこ
今、シャーリー・マクレーンの『アウト オン ア リム』を読んでいます。そこには、寛容さが大切とあり、相手に自分と同じように考えてほしいと思っても、相手は自分のレベルにまだ到達していなかったら、許して待っていること、とありました。
また、別のはづき虹映氏の本でも、“あるがままを受け入れる”とあり、今ここ数年、私はそれができなくて苦しんでいる状態だと気づき、でも、受け入れられなくて考えているところです。

実は昨年の出来事ですが、長女が動物愛護のウェブ上のサークルの脱退を強制し友人関係でトラブルを起こし、私と同じ問題を抱えているとわかったのでした。このサークル、動物実験に反対する活動もしているそうです。
長女は意地になって肉を食べない主義を通しています。代わりに大豆製品を使って作りわけをしていますが、義母からあれやこれやと心配してなのでしょうが「食べろ食べろ」と言われるし、マクロビオティックな食事の事を説明するのですが、わかってもらえず困っています。

「魂の存在は、物理的には証明できないかも知れない。またその必要もない。私がその存在を信じれば、それは存在する、ということなのだ。ということは、私が認めれば、信じれば、すべてのことが私には事実となるのだ。たぶん私が山(ペルー)で学んだことは、このことなのだ。
限界を置かずにものを考えるということ。何事もあり得る、人は何でもできる、どこにでも飛んでいけるし、何にでもなれる。一人の人間の魂は、宇宙のすべてなのだ。この事実を悟るか否かは、私たち一人ひとりにかかっているのだ。
人間の悲劇は、私たち一人ひとりが神であるということを忘れてしまったことである。この事実を思い出せば、私たちは恐怖から解放されるのだ。恐怖がなくなれば憎しみも消える。恐怖から私たちは強欲になり、戦争や殺し合いをしているのだ。恐怖は私たちの人生を悪に駆り立てる元凶なのである。失敗、痛み、嘲り、孤独、人に嫌われないかと怖れ、自分自身を怖れ、死を怖れ、怖れることを怖れる――それが私たちの姿なのだ。恐怖はずる賢く、伝染性があって、ほんの小さな歪んだものの見方から、人の内面に忍び込み、私たちの人生全体に蔓延する。死は人間の最後だ、という考え方は、人間の最大の誤解だろう。もし、人間は本当の意味で死ぬことはない、常に次のチャンスがあるのだ、ということを知れば、この世に怖れることは何もない、ということを私たちは悟れるのだろう。私たちは今、物事を複雑に複雑に考えて我々が神の一部であるという単純なことを理解しようとしないのである。」

『アウト オン ア リム』からの抜粋です。


ひょうどうともこ

ピースとの時間

2011年02月01日 | さとうえりこ
 去年のいつ頃からだったろうか、ピースが喉に何かを詰まらせるような咳に似た症状を見せるようになったのは。何となく気がかりで先生にピースの咳の真似をしてみた。私のそれを見て「心臓だな。」と即答した。ピースの心音を聞くわけでもなく、レントゲンを撮ることもなく、心臓の薬を処方され、試しにと2週間飲ませてみた。すると咳が良くなったではないか。「おぇっ。」「はっ。」だのと詰まらせるような姿を以前より見なくなった。2週間後にレントゲンを撮るからと言われたので連れて行くと「今日は何した?」との問いかけ。訳を話すと「薬が効くなら飲み続ければいい。何もレントゲンなんて撮る必要もないだろう。」と同じ薬を処方された。すっかりおじいちゃんになり、奥さんとの二人三脚は、二人で一人前も怪しくなってきたところが否めない。しかし、医者の腕は信頼している。レントゲンは先ず犬が嫌がること、そして診察代が高くなることなど、先生の言い分もあるのだ。先生に尋ねた。「この薬が効くってことはそういうことなんですよね?」「そういうこと。」私としてはまさか心臓の病気だなんて言われるとは思っていなかった。咳一つで病気を診てしまうことにも驚いた。いずれくるであろうことを予想はしていたがまさかこんなに早くに来るとは思っていなかった。症状は落ち着いてはいるものの、治るものではない。

 先日、散歩で久しぶりにセンタロウくんと会った。お父さんはいつもポケットにおやつのジャーキーを入れている。出会ったワンちゃんみんなにくれるためだ。ピースはセンちゃんのお父さんが大好き。もちろん、おやつをくれるから。はるか遠くでもわかる。匂いなのか、足音なのか、ずーっと先でも見つけてぐいぐいとリードを引っ張る。しっぽを千切れんばかりに振り、お父さんからいつものおやつを頂く。とそのあとの事。いつもよりひどい発作が起きた。「はっ。はっ。」となかなか治まらない。人間ならば背中をさするとか何か手立てがありそうだがどうすればいいのかわからず、落ち着くのを待ち、抱き上げた。犬の散歩なのに抱き上げるとは、と知らない人から嘲笑されそうだが、それしか方法はなかった。

 予防注射の時期だったのでピースを連れて、発作の時の手立てを聞いてみた。すると薬がもう一種類追加された。現在これらの薬でまあまあの状態を保っている。が、もはや低空飛行である。心臓の弁が壊れて血液が逆流し、心臓のすぐ上にある気管支を圧迫して咳が出るということを先生から頂いた小冊子で知った。これからどんな状態になるかも書いてある。痩せてもきている。それ以外は全く元気で散歩にも行きたがる。自分が病気であるという自覚がないので好きな散歩を少ししかしないことを不憫にも思う。が、今は一日一回近所をぐるりと回ってくるだけである。

 心臓病であることを娘に伝えた時、「いつまで生きられるの?」と私に尋ね、涙が頬を伝った。私は先生に敢えて尋ねなかった。「いつまで生きられるか。」とは。引き算をして暮らすより、毎日その時いつものように一緒にいた方が、普段のままでいられるから。

 子供たちからせがまれ、縁あって家族となったピース。連れてきた日の事は忘れられない。「命を連れてきてしまった。」とずしんと重い気持ちになったのだ。傍では子供たちが歓喜を上げながらピースと戯れていた。いよいよその重みがやってきたようだ。家族として受け入れ、私たちの大事な役割を担ってくれたピースを引き算をしないで時間を重ねて行こうと思う。
                                   
さとうえりこ