ランドセルは海を越えて
上記表題をネット検索するとあるHPが出てくる。
使用可能で不要になったランドセルをアフガニスタンの子供たちに贈ろうという趣旨の活動である。知ったのは全くの偶然で、暇つぶしにインターネットを眺めていたら行きついた。
息子のランドセルが物置に仕事を済ませて眠っていた。卒業して間もなくのことで、この先ずっとあそこに埃を被ったまま鎮座させておくことになるのだろうかと思っていたばかりの時だった。「よし、ここに贈ろう」と即決。先ずは持ち主に確認してみた。「別にいいよ」とそっけない答え。ランドセルを宅急便屋さんに託し、アフガニスタンまでの船便代を後日振り込んだ。これで、あのランドセルも新しい持ち主に背負ってもらえる。埃を被ったまま物置の主となり、やがてごみになるかもしれないことを思えば、遠くはなれた異国の子供の背中にくっついているほうがどんなに働き甲斐があることか。
あのランドセルは亡くなったじいちゃんが入学祝に買ってくれたものだった。息子には同い年のいとこが二人いる。じいちゃんは赤いランドセルを一つ、黒いランドセルを二つ、合計3つ買った。入学予定の小学校では規定のランドセルがあると聞いた。それを買うことも検討されたが、卒業までは暮らしていないのは明らかで、普通のランドセルを買うことに決めた。息子はこのランドセルをどう思っていたかは知らないが、私にはずいぶんと思い入れがあった。6年という時間が細切れされ、そしてまたそこかしこで素敵な出会いがあったからである。
引っ越したばかりで学校の場所さえよくわからないまま入学した。登校班のない地域だったので一人で行かなければならなかった。大通りまで送って行き、息子に言った。「前を歩いているお姉さんのあとを着いて行くと学校だからね。この道をまっすぐに行けば学校があるからね。」と送り出した。息子は帰るなり言った。「朝のあのお姉さん、途中で曲がったんだよ。お母さん、ついて行けって言ったでしょ。だけど学校はまっすぐ行った所にあるし、ぼく困ったんだから。」新しい住まいは隣の小学校と学区が境になっていると聞いたので、恐らくその子は隣の小学校へ向かったのだろう。息子の機転で事なきを得たのだ。それは入学した次の日の出来事だった。
またある時は、下校途中、派手に転んで擦りむいて来た。ところが、傷の手当がされていた。一緒に帰っていた女の子が「ここ、私のおうちだから、薬塗ってもらおう。」と自分の両親が経営する薬局へと連れて行き、手当てをしてもらった上に、使いかけの傷薬と手当ての仕方を書いたメモまで入った袋を持ってきた。見知らぬ土地でこの先どう暮らそうか思っていた矢先にこれである。息子を通じて知り合った地域の人たちの温かいことといったらなかった。息子の通学路は交通量の多い大通りを行かなければならず、車の往来は頻繁だった。とそこに、風が吹いて黄色い帽子が道路に飛ばされてしまった。取りに行きたくても行かれない状態になった時、見知らぬおじさんが道路の真ん中まで取りに行ってくれたという。息子は振り返る。「楽しかった」と。同感である。下校時、娘を連れて買い物などで町を通ると、なにやら黄色い集団がぞろぞろと楽しそうに歩いていたり、座り込んでいたり。商店街を抜けてくるので、自営の子や親がそこで働いている子もいた。のどが渇けばお店に入って水を飲んできたり、飴玉をもらったり。日陰になった駐車場で車座になって話し込んで来たり。冬には気温が早々と下がるので道は下校時凍ってしまう。そこをつるつると滑って帰るのが楽しいのだとか。こちらは怖くて仕方がなかった。3時くらいからの路面凍結には驚いた。
一方娘もなかなか面白いことをしてくれたので(現在進行中)、思い出は尽きない。下校時間に合わせて外出から家に向かう途中、はるか先に黄色い帽子の女の子が地面を見て行ったり来たり。全く前には進まない。嫌な予感がした。車が近づくに連れてそれは的中した。蟻の行列を見ていたと言う。蟻がごちそうを巣に運ぶところを行きつ戻りつ眺めていたとのこと。毎日こうして何かを見つけてはのらりくらりと帰ってきたのだろう。
こんな二人の小学生時代がびっしり詰まったランドセルをアフガニスタンの子どもたちにまた使ってもらおうと了解を得て贈った。ランドセルを送るときに、文具やおもちゃ(拳銃など戦闘物などは不可)も受け付けると記載されていたので鉛筆や縄跳びなど気持ちばかりを鞄に入れた。行ったことのないアフガニスタン。テレビなどで見るそこはきな臭いところで平和ボケの私にはおおよそ見当がつかない生活をしているのだろう。同じ人として生まれたのに、生まれた場所によって送る人生がこんなにも違うなんてと思うと「幸せ」や「満足」をかみ締めなければならないのだろう。いや不便だったり、大変だったりするほうが、もしかしらた逆に満足感があるのかも知れない。ランドセルを背負える嬉しさや、学校へ行くこと、学べること、そんなことが彼らにとって幸せなことかも知れない。だとすれば、便利至極な私の生活はどうなのだろうか。あ~解けない知恵の輪に悪戦苦闘している気分になってきた。
でも、一つだけ。後日送られてきたパンフレットに写る子どもたちの笑顔にはこちらまで嬉しくなってくる。笑顔はどこも一緒。
以下はHPからの抜粋である。
ランドセルは日本の初等教育において欠かせない独自のツールとして、こどもの成長を見守り続けています。しかし、小学校を卒業すると、想い出のたくさん詰まったランドセルは、処分もできずに倉庫や押入れ等で保管されているケースがほとんどです。 そこで、6年間の想い出がたくさん詰まった使用済みランドセルに、ノート、えんぴつ、クレヨン等の文具を詰めて、世界でもっとも物資が不足している国の中のひとつであるアフガニスタンとモンゴルのこどもたちにプレゼントする活動が「ランドセルは海を越えて」キャンペーンです。
この企画は、 2004年からスタートし、ランドセルという身近なものを通してボランティアとリサイクルの両面を、日本のこどもたちに広く知ってもらいたいと考えています。
6年間の想い出がたっぷりと詰まったランドセルが、海を渡って第2の人生を歩みはじめます。
さとうえりこ
上記表題をネット検索するとあるHPが出てくる。
使用可能で不要になったランドセルをアフガニスタンの子供たちに贈ろうという趣旨の活動である。知ったのは全くの偶然で、暇つぶしにインターネットを眺めていたら行きついた。
息子のランドセルが物置に仕事を済ませて眠っていた。卒業して間もなくのことで、この先ずっとあそこに埃を被ったまま鎮座させておくことになるのだろうかと思っていたばかりの時だった。「よし、ここに贈ろう」と即決。先ずは持ち主に確認してみた。「別にいいよ」とそっけない答え。ランドセルを宅急便屋さんに託し、アフガニスタンまでの船便代を後日振り込んだ。これで、あのランドセルも新しい持ち主に背負ってもらえる。埃を被ったまま物置の主となり、やがてごみになるかもしれないことを思えば、遠くはなれた異国の子供の背中にくっついているほうがどんなに働き甲斐があることか。
あのランドセルは亡くなったじいちゃんが入学祝に買ってくれたものだった。息子には同い年のいとこが二人いる。じいちゃんは赤いランドセルを一つ、黒いランドセルを二つ、合計3つ買った。入学予定の小学校では規定のランドセルがあると聞いた。それを買うことも検討されたが、卒業までは暮らしていないのは明らかで、普通のランドセルを買うことに決めた。息子はこのランドセルをどう思っていたかは知らないが、私にはずいぶんと思い入れがあった。6年という時間が細切れされ、そしてまたそこかしこで素敵な出会いがあったからである。
引っ越したばかりで学校の場所さえよくわからないまま入学した。登校班のない地域だったので一人で行かなければならなかった。大通りまで送って行き、息子に言った。「前を歩いているお姉さんのあとを着いて行くと学校だからね。この道をまっすぐに行けば学校があるからね。」と送り出した。息子は帰るなり言った。「朝のあのお姉さん、途中で曲がったんだよ。お母さん、ついて行けって言ったでしょ。だけど学校はまっすぐ行った所にあるし、ぼく困ったんだから。」新しい住まいは隣の小学校と学区が境になっていると聞いたので、恐らくその子は隣の小学校へ向かったのだろう。息子の機転で事なきを得たのだ。それは入学した次の日の出来事だった。
またある時は、下校途中、派手に転んで擦りむいて来た。ところが、傷の手当がされていた。一緒に帰っていた女の子が「ここ、私のおうちだから、薬塗ってもらおう。」と自分の両親が経営する薬局へと連れて行き、手当てをしてもらった上に、使いかけの傷薬と手当ての仕方を書いたメモまで入った袋を持ってきた。見知らぬ土地でこの先どう暮らそうか思っていた矢先にこれである。息子を通じて知り合った地域の人たちの温かいことといったらなかった。息子の通学路は交通量の多い大通りを行かなければならず、車の往来は頻繁だった。とそこに、風が吹いて黄色い帽子が道路に飛ばされてしまった。取りに行きたくても行かれない状態になった時、見知らぬおじさんが道路の真ん中まで取りに行ってくれたという。息子は振り返る。「楽しかった」と。同感である。下校時、娘を連れて買い物などで町を通ると、なにやら黄色い集団がぞろぞろと楽しそうに歩いていたり、座り込んでいたり。商店街を抜けてくるので、自営の子や親がそこで働いている子もいた。のどが渇けばお店に入って水を飲んできたり、飴玉をもらったり。日陰になった駐車場で車座になって話し込んで来たり。冬には気温が早々と下がるので道は下校時凍ってしまう。そこをつるつると滑って帰るのが楽しいのだとか。こちらは怖くて仕方がなかった。3時くらいからの路面凍結には驚いた。
一方娘もなかなか面白いことをしてくれたので(現在進行中)、思い出は尽きない。下校時間に合わせて外出から家に向かう途中、はるか先に黄色い帽子の女の子が地面を見て行ったり来たり。全く前には進まない。嫌な予感がした。車が近づくに連れてそれは的中した。蟻の行列を見ていたと言う。蟻がごちそうを巣に運ぶところを行きつ戻りつ眺めていたとのこと。毎日こうして何かを見つけてはのらりくらりと帰ってきたのだろう。
こんな二人の小学生時代がびっしり詰まったランドセルをアフガニスタンの子どもたちにまた使ってもらおうと了解を得て贈った。ランドセルを送るときに、文具やおもちゃ(拳銃など戦闘物などは不可)も受け付けると記載されていたので鉛筆や縄跳びなど気持ちばかりを鞄に入れた。行ったことのないアフガニスタン。テレビなどで見るそこはきな臭いところで平和ボケの私にはおおよそ見当がつかない生活をしているのだろう。同じ人として生まれたのに、生まれた場所によって送る人生がこんなにも違うなんてと思うと「幸せ」や「満足」をかみ締めなければならないのだろう。いや不便だったり、大変だったりするほうが、もしかしらた逆に満足感があるのかも知れない。ランドセルを背負える嬉しさや、学校へ行くこと、学べること、そんなことが彼らにとって幸せなことかも知れない。だとすれば、便利至極な私の生活はどうなのだろうか。あ~解けない知恵の輪に悪戦苦闘している気分になってきた。
でも、一つだけ。後日送られてきたパンフレットに写る子どもたちの笑顔にはこちらまで嬉しくなってくる。笑顔はどこも一緒。
以下はHPからの抜粋である。
ランドセルは日本の初等教育において欠かせない独自のツールとして、こどもの成長を見守り続けています。しかし、小学校を卒業すると、想い出のたくさん詰まったランドセルは、処分もできずに倉庫や押入れ等で保管されているケースがほとんどです。 そこで、6年間の想い出がたくさん詰まった使用済みランドセルに、ノート、えんぴつ、クレヨン等の文具を詰めて、世界でもっとも物資が不足している国の中のひとつであるアフガニスタンとモンゴルのこどもたちにプレゼントする活動が「ランドセルは海を越えて」キャンペーンです。
この企画は、 2004年からスタートし、ランドセルという身近なものを通してボランティアとリサイクルの両面を、日本のこどもたちに広く知ってもらいたいと考えています。
6年間の想い出がたっぷりと詰まったランドセルが、海を渡って第2の人生を歩みはじめます。
さとうえりこ
今年の3月、わたしの故郷五城目町内川地区にある内川小学校が135年の歴史に幕を閉じました。
3月末地元に住む友人から電話がありました。ご主人が学校最後のPTA会長、上野娘さんは最後の卒業生、下の娘さんは最後の在校生となったそうです。これも時代の流れとはいえ、母校がなくなってしまうのは、さみしいものです。
この連休最終日の5月5日、久しぶりに実家へ帰って来ました。お天気に恵まれ青空が広がる気持ちの良い1日でした。その建て物がいずれ取り壊されることを知りました。これが見納めになるかもしれないとの思いで、母と一緒に小学校を訪ねて来たのです。
学校は見晴らしのいい高台にあります。地域のシンボル「湯の越山」が見守るように近くにそびえ立っています。この山からは現在も温泉が沸き出ており、山裾には温泉施設「湯の越の宿」があります。現在の校舎は2代目で、初代の校舎はこの温泉の敷地にあったそうです。当時の校舎には温泉が引かれていて、児童たちは温泉に入ることができたそうです。またお掃除用に温泉水が使われていたとのことです。
懐かしの母校に到着すると、「く」の字形をした2階建て木造校舎は昔のままでした。「ありがとう。内川小学校」と書かれた大きな看板が正面に掲げられており、それを目にした時は、さすがにせつない気持ちになりました。木の壁にある無数の丸い穴。これはキツツキたちが巣穴に使った跡です。授業中、「トントントントントン・・・。」とキツツキが穴をあけている音が教室に響いていたことを思い出しました。野鳥たちの「ピィピィピィ」「チィチィチィ」という鳴き声が心地良かったことも。
母とわたしは思い出話をしながら、学校の周りをゆっくり散策しました。グランドを囲むように植えられている30本近くの桜の木が、ちょうど満開を迎えていました。薄ピンク色の桜の花々と、甘い香りに包まれた幸せなひとときを過ごすことができました。
あれから時が過ぎ、日を追うごとに母校に対するありがたさを感じるようになりました。
木の校舎はいつもあたたかなぬくもりがありました。
どんなに嫌な出来事があっても、「学校へ行きたくない。」と思ったことはなかったように思います。校舎そのものが、児童を優しく包み込み、癒し、そして育んでくれたのでしょう。
色彩や形は違うけれど、以前本で見たことのあるシュタイナー教育で学校建築に用いられているような「気」の流れがあったのかもしれません。まるで学校全体が「愛のエネルギー」に包まれているイメージです。ここで6年間学ぶことができたこと、それは大きな恵みだったのです。長い年月を経て、今ようやく気付きました。
「ありがとう、内川小学校。わたしもあなたのようになりたい。強くて、あたたかくて、おおらかな人間になりたい。」心からそう思います。
母校からのメッセージが伝わってきます。
「わたしが消えてしまっても悲しむことはない。わたしはただ役目を終えただけ。姿、形はなくなっても、あなたの心の中に生き続けるのです。おおらかに生きなさい。」と。
くどうせいこ
3月末地元に住む友人から電話がありました。ご主人が学校最後のPTA会長、上野娘さんは最後の卒業生、下の娘さんは最後の在校生となったそうです。これも時代の流れとはいえ、母校がなくなってしまうのは、さみしいものです。
この連休最終日の5月5日、久しぶりに実家へ帰って来ました。お天気に恵まれ青空が広がる気持ちの良い1日でした。その建て物がいずれ取り壊されることを知りました。これが見納めになるかもしれないとの思いで、母と一緒に小学校を訪ねて来たのです。
学校は見晴らしのいい高台にあります。地域のシンボル「湯の越山」が見守るように近くにそびえ立っています。この山からは現在も温泉が沸き出ており、山裾には温泉施設「湯の越の宿」があります。現在の校舎は2代目で、初代の校舎はこの温泉の敷地にあったそうです。当時の校舎には温泉が引かれていて、児童たちは温泉に入ることができたそうです。またお掃除用に温泉水が使われていたとのことです。
懐かしの母校に到着すると、「く」の字形をした2階建て木造校舎は昔のままでした。「ありがとう。内川小学校」と書かれた大きな看板が正面に掲げられており、それを目にした時は、さすがにせつない気持ちになりました。木の壁にある無数の丸い穴。これはキツツキたちが巣穴に使った跡です。授業中、「トントントントントン・・・。」とキツツキが穴をあけている音が教室に響いていたことを思い出しました。野鳥たちの「ピィピィピィ」「チィチィチィ」という鳴き声が心地良かったことも。
母とわたしは思い出話をしながら、学校の周りをゆっくり散策しました。グランドを囲むように植えられている30本近くの桜の木が、ちょうど満開を迎えていました。薄ピンク色の桜の花々と、甘い香りに包まれた幸せなひとときを過ごすことができました。
あれから時が過ぎ、日を追うごとに母校に対するありがたさを感じるようになりました。
木の校舎はいつもあたたかなぬくもりがありました。
どんなに嫌な出来事があっても、「学校へ行きたくない。」と思ったことはなかったように思います。校舎そのものが、児童を優しく包み込み、癒し、そして育んでくれたのでしょう。
色彩や形は違うけれど、以前本で見たことのあるシュタイナー教育で学校建築に用いられているような「気」の流れがあったのかもしれません。まるで学校全体が「愛のエネルギー」に包まれているイメージです。ここで6年間学ぶことができたこと、それは大きな恵みだったのです。長い年月を経て、今ようやく気付きました。
「ありがとう、内川小学校。わたしもあなたのようになりたい。強くて、あたたかくて、おおらかな人間になりたい。」心からそう思います。
母校からのメッセージが伝わってきます。
「わたしが消えてしまっても悲しむことはない。わたしはただ役目を終えただけ。姿、形はなくなっても、あなたの心の中に生き続けるのです。おおらかに生きなさい。」と。
くどうせいこ