昭和ひとけた生まれの父は、女の子は4年生の大学まで行かなくてもよいと私の大学受験には難色を示した。しかし納得がいく高校受験ができなかった私には、大学受験が人生の挽回のチャンスに思えた。入学することになる国際関係学科は、「これからは同じ英語を勉強するにしても、こういう学科がいいんじゃないかしら?」と、小6から習っていた個人の英語塾の先生が探してくれたところ。尊敬する先生のことばに素直に従った私。学費が国立大学年間14万円だった時代に、私立でありながら年間16万円しかかからない大学であったこと。学費と交通費以外一切援助しないことを条件に、何とか入学を許可してもらった。
社会科学中心の大学の授業は、思想的に白紙に近かった私達にとって、社会批判思想の“洗脳”?と思えるほどインパクトが強かった。技術革新によりオートメーション化された工場が人間性の疎外を生むという考え方に初めて出会ったのは『コンビナートの労働と社会』中岡哲郎という本。これを皮切りに「西欧近代化の弊害」「女性差別」「人種差別」「第三世界の人々の貧困」「先進国による途上国の搾取」「少数民族問題」・・・と社会の矛盾を突き、あるべき理想の社会の姿を追求する授業を次々と受けることになる。「差別を受けている人々・貧しい人々が置かれている状況を理解し、皆が心豊かに暮らせる社会を希求する」というテーマは、先生達の間に共通する価値観だった。
始めのうちは何かの記号の羅列にしか思えないほど抽象的でわかりづらかった講義。けれどそれぞれの先生のスタイルに慣れるうち、少しずつ言わんとすることを類推することができるようになる。理解できる部分が増えてきたら、その内容には心が動かされた。そうだそうだ。物質的に恵まれることに重きを置く社会を築いてきた西欧近代化には大きな矛盾がひそんでいるのだ。科学技術の発展は、便利さとは裏腹に昔からの素朴で温かい生活を切り刻んでしまう恐れがある。先進国の人々は早く近代化を遂げたというそれだけの理由で途上国の人々を搾取して良いわけがない。それがまかり通っている世界の不条理・・・。いじめを受けた経験がある私にとって、大学で教えられたヒューマニスティック(人類愛的)な思想はすとんと胸の中におち、今でも思考の芯になっている。
国際関係学は学際的な学問だ。学際的interdisciplinaryとは、多くの分野にまたがったという意味。雲を掴むような対象をどうやって捉えていくのか。私が学んだ大雑把な理解は・・・整理するためにふたつの軸を使うというもの。ひとつは方法論でもうひとつは地域研究。方法論には、宗教学、法学・政治学、社会学、社会心理学そして心理学などがある。地域研究は、国または地域の分析と捉えればわかり易い。3年生までにいくつかの方法論と地域研究を学び、4年時に関心のある特定の地域について自ら選んだ方法論で分析するのが卒論作成の理想となっていた。が、4年間では広く浅く関わったに過ぎないというのが実態だろう。
地域研究の授業は具体的でとっつき易かった。好きだった地域はだんぜんアジア、それも東南アジアだ。理由は単純。ヨーロッパの列強に植民地化された辛い歴史を持つ国々であること。農業国で、生活のリズムがゆったりしていること。人々の性格が温和で優しく受容的なこと。潤いのあるエキゾチックな文化にも惹かれていた。ベトナム、タイ(この国だけは緩衝国として植民地化を免れた)、インドネシア、マレーシア、ビルマ(現ミャンマー)etc。高温多湿で雨季があるモンスーン気候の国々。そこにはどんな風景が広がり人々はどんな暮らしをしているのか。何を食べ何を着そしてどんな家に住んでいるのか。ことばは?音楽は?
東南アジアに近くなりたくて、暮らしを描いた本を探して読んだり、映画を見たり、留学生との交流会に行ってみたりした。インドネシアの民族芸能ワヤン(影絵)の幻想的で美しかったこと、日本人学生が行ってくれたケチャック踊りのチャクチャクチャクという耳に残る独特の響き・・・あの時の東南アジアへの憧憬は今も心の奥に残る。
オーストラリアに興味を持ったのは、担当をしていたオーストラリア人の先生が素朴で素敵だったから。授業の内容もわかりやすかった。アボリジニーという先住民の存在、連邦宗主国イギリスとの複雑な関係、そして鉱物資源が豊かながら人口が少な過ぎて国としての存立基盤が弱いなどの課題を抱えた国。しかし、この大陸にしか生息しない貴重な動植物が生きている稀有な国でもある。
「Sちゃんは何故ホームステイに行かないの?」そんな質問をされ、長期休暇ごとに英語圏の国に1ヶ月もホームステイする学生が結構いることに気づいたのは4年生になった頃だろうか。普段は週2回の家庭教師、長期休暇には倉庫などで単純作業のアルバイトをするのが常だった私に、国際関係学科に在籍していても自ら海外に行くという発想はなかった。当時1ヶ月のホームステイで100万円はかかったと思う。それだけの資金を親にぽんと援助してもらえる人達が大学には来ているんだな、と思ったら仲良くしてきた友人達が少し遠い存在に見えた。
私が初めて海外旅行に行ったのは、銀行に就職した年の暮れ。私と同じように大学時代にホームステイに行かなかった仲間の友人に誘われた「タイ7日間16万円バスの旅」。お年寄りのご夫婦が多い団体旅行だったが、初めて行った海外。それも憧れの地南国タイ!微笑みの国のキャッチフレーズ通り人々は優しく物腰はソフトだった。屋台で食べた香菜入り汁ビーフンの美味しかったこと、奥地チェンマイの寺院で聞いた風にゆれる軒下飾りのカラカラカラという音色の綺麗だったこと。16万円でも十二分に満足できた。
井門富士夫先生という大好きな先生がいた。フルブライトでアメリカに留学したという先生はいつもかっこつけて外国人のように机に腰掛けて授業をする。話の内容も抽象的だ。その先生が、小難しい授業の合間にしみじみ言った。「君達はいつか結婚し、団地の狭い白い箱に住むことになるかも知れない。でも忘れるなよ。どんなに小さな窓であっても、それは世界に向って広がっている窓であることを。その小さな窓からでも世界が見れる人間になるため、君達は勉強しているんだぜ。」聞いた当初はショックだった。そうか。結婚とは人生の墓場だ。自由を奪われ我々は狭い四角い箱に閉じ込められるのだ。自由の身を謳歌していたあの頃、来るべき将来の生活に漠然とした不安を感じながら窓の話は私の頭に残った。
大学の先生達はいくつになっても理想の社会を語る象牙の塔の住人。いつまでも志は青く若いまま。でも学生の多くは社会に出て世間の荒波にもまれる。矛盾だらけの世界の中で、酸いも辛いもわかる大人になる。どんなに理想を掲げても、理想だけでは生きていけない。結婚だってしていくだろうし、子どもだって産む。生活に追われ気持ちの余裕もなくなるだろう。小さな女子大で卒業生を何人も出してきた先生には、私達の将来の姿が見えていたのだろう。今は澄んだ目で先生を見つめ一生懸命授業を聞いていても、いつか教えられたことを忘れていく日が来ることを。そして自分の生活しか見えずどんどん視野が狭くなっていくことも。年を経るごとに井門先生が窓の話をして下さったことに感謝の念を覚える。あの時ともに授業を聞いていた仲間のうち、この話を覚えている人は何人いるだろうか。
社会科学中心の大学の授業は、思想的に白紙に近かった私達にとって、社会批判思想の“洗脳”?と思えるほどインパクトが強かった。技術革新によりオートメーション化された工場が人間性の疎外を生むという考え方に初めて出会ったのは『コンビナートの労働と社会』中岡哲郎という本。これを皮切りに「西欧近代化の弊害」「女性差別」「人種差別」「第三世界の人々の貧困」「先進国による途上国の搾取」「少数民族問題」・・・と社会の矛盾を突き、あるべき理想の社会の姿を追求する授業を次々と受けることになる。「差別を受けている人々・貧しい人々が置かれている状況を理解し、皆が心豊かに暮らせる社会を希求する」というテーマは、先生達の間に共通する価値観だった。
始めのうちは何かの記号の羅列にしか思えないほど抽象的でわかりづらかった講義。けれどそれぞれの先生のスタイルに慣れるうち、少しずつ言わんとすることを類推することができるようになる。理解できる部分が増えてきたら、その内容には心が動かされた。そうだそうだ。物質的に恵まれることに重きを置く社会を築いてきた西欧近代化には大きな矛盾がひそんでいるのだ。科学技術の発展は、便利さとは裏腹に昔からの素朴で温かい生活を切り刻んでしまう恐れがある。先進国の人々は早く近代化を遂げたというそれだけの理由で途上国の人々を搾取して良いわけがない。それがまかり通っている世界の不条理・・・。いじめを受けた経験がある私にとって、大学で教えられたヒューマニスティック(人類愛的)な思想はすとんと胸の中におち、今でも思考の芯になっている。
国際関係学は学際的な学問だ。学際的interdisciplinaryとは、多くの分野にまたがったという意味。雲を掴むような対象をどうやって捉えていくのか。私が学んだ大雑把な理解は・・・整理するためにふたつの軸を使うというもの。ひとつは方法論でもうひとつは地域研究。方法論には、宗教学、法学・政治学、社会学、社会心理学そして心理学などがある。地域研究は、国または地域の分析と捉えればわかり易い。3年生までにいくつかの方法論と地域研究を学び、4年時に関心のある特定の地域について自ら選んだ方法論で分析するのが卒論作成の理想となっていた。が、4年間では広く浅く関わったに過ぎないというのが実態だろう。
地域研究の授業は具体的でとっつき易かった。好きだった地域はだんぜんアジア、それも東南アジアだ。理由は単純。ヨーロッパの列強に植民地化された辛い歴史を持つ国々であること。農業国で、生活のリズムがゆったりしていること。人々の性格が温和で優しく受容的なこと。潤いのあるエキゾチックな文化にも惹かれていた。ベトナム、タイ(この国だけは緩衝国として植民地化を免れた)、インドネシア、マレーシア、ビルマ(現ミャンマー)etc。高温多湿で雨季があるモンスーン気候の国々。そこにはどんな風景が広がり人々はどんな暮らしをしているのか。何を食べ何を着そしてどんな家に住んでいるのか。ことばは?音楽は?
東南アジアに近くなりたくて、暮らしを描いた本を探して読んだり、映画を見たり、留学生との交流会に行ってみたりした。インドネシアの民族芸能ワヤン(影絵)の幻想的で美しかったこと、日本人学生が行ってくれたケチャック踊りのチャクチャクチャクという耳に残る独特の響き・・・あの時の東南アジアへの憧憬は今も心の奥に残る。
オーストラリアに興味を持ったのは、担当をしていたオーストラリア人の先生が素朴で素敵だったから。授業の内容もわかりやすかった。アボリジニーという先住民の存在、連邦宗主国イギリスとの複雑な関係、そして鉱物資源が豊かながら人口が少な過ぎて国としての存立基盤が弱いなどの課題を抱えた国。しかし、この大陸にしか生息しない貴重な動植物が生きている稀有な国でもある。
「Sちゃんは何故ホームステイに行かないの?」そんな質問をされ、長期休暇ごとに英語圏の国に1ヶ月もホームステイする学生が結構いることに気づいたのは4年生になった頃だろうか。普段は週2回の家庭教師、長期休暇には倉庫などで単純作業のアルバイトをするのが常だった私に、国際関係学科に在籍していても自ら海外に行くという発想はなかった。当時1ヶ月のホームステイで100万円はかかったと思う。それだけの資金を親にぽんと援助してもらえる人達が大学には来ているんだな、と思ったら仲良くしてきた友人達が少し遠い存在に見えた。
私が初めて海外旅行に行ったのは、銀行に就職した年の暮れ。私と同じように大学時代にホームステイに行かなかった仲間の友人に誘われた「タイ7日間16万円バスの旅」。お年寄りのご夫婦が多い団体旅行だったが、初めて行った海外。それも憧れの地南国タイ!微笑みの国のキャッチフレーズ通り人々は優しく物腰はソフトだった。屋台で食べた香菜入り汁ビーフンの美味しかったこと、奥地チェンマイの寺院で聞いた風にゆれる軒下飾りのカラカラカラという音色の綺麗だったこと。16万円でも十二分に満足できた。
井門富士夫先生という大好きな先生がいた。フルブライトでアメリカに留学したという先生はいつもかっこつけて外国人のように机に腰掛けて授業をする。話の内容も抽象的だ。その先生が、小難しい授業の合間にしみじみ言った。「君達はいつか結婚し、団地の狭い白い箱に住むことになるかも知れない。でも忘れるなよ。どんなに小さな窓であっても、それは世界に向って広がっている窓であることを。その小さな窓からでも世界が見れる人間になるため、君達は勉強しているんだぜ。」聞いた当初はショックだった。そうか。結婚とは人生の墓場だ。自由を奪われ我々は狭い四角い箱に閉じ込められるのだ。自由の身を謳歌していたあの頃、来るべき将来の生活に漠然とした不安を感じながら窓の話は私の頭に残った。
大学の先生達はいくつになっても理想の社会を語る象牙の塔の住人。いつまでも志は青く若いまま。でも学生の多くは社会に出て世間の荒波にもまれる。矛盾だらけの世界の中で、酸いも辛いもわかる大人になる。どんなに理想を掲げても、理想だけでは生きていけない。結婚だってしていくだろうし、子どもだって産む。生活に追われ気持ちの余裕もなくなるだろう。小さな女子大で卒業生を何人も出してきた先生には、私達の将来の姿が見えていたのだろう。今は澄んだ目で先生を見つめ一生懸命授業を聞いていても、いつか教えられたことを忘れていく日が来ることを。そして自分の生活しか見えずどんどん視野が狭くなっていくことも。年を経るごとに井門先生が窓の話をして下さったことに感謝の念を覚える。あの時ともに授業を聞いていた仲間のうち、この話を覚えている人は何人いるだろうか。