なな色メール 

シュタイナーの勉強会の仲間と始めたニュースレター。ブログでもその一部をご紹介していきたいと思います。

感謝すること 

2008年12月01日 | さとうえりこ
 臨月の急患がたらい回しにされ、命を失ってしまった遺族(ご主人)のことがいつまでも心に残る。

 意識のない奥さんと生まれたばかりの子供の3人でいる時間を作ってくれたこと、病院のスタッフはとても自分たちによくしてくれたことの感謝の言葉を述べたそうだ。

 本来であれば、妻を返して欲しいと憤懣やるかたない気持ちであろうに、それを記者会見で今後の医療につなげて欲しいと口にすることが出来るとは一体どんな人なのだろうと思った。

 日ごろ、何かと不満ばかりを持っている私はいつまでも彼のことが頭から離れない。自分ばかり忙しい、誰も手伝ってくれない、私だって少しは休みたい、そんな気持ちがあった。時々出会う素敵な文章や本の中に、「感謝すること」「ありがとうという言葉の大切さ」を見つけては折々に自分に言い聞かせてきたつもりではあった。だが、忘れたころにむくむくと不満の芽が出てくる。少し前のニュースで改めて『感謝すること』の尊さをかみ締めたように思う。

 少し前の話だが、娘の友達のお宅にはおばあちゃんがいた。娘がよく遊びに行くので娘の好きな食べ物はすっかり覚えられてしまって、よくおこわや漬物(これらが娘の好物)などを頂いたりしていた。娘とMちゃんはおばあちゃんが作る食べ物の好きなものランキングを言い合ったりして、まるで自分のおばあちゃんのような存在になっていた。ところが、ある時、急に別に暮らすことになり、挨拶もそこそこに姿を消してしまった。お世話になったおばあちゃんにさよならもありがとうも言えなかったことがとても悔やまれた。そこで私はおばあちゃん宛の手紙をMちゃんのお母さんに託した。忘れもしない、文頭はこうだ。

「感謝の気持ちというものはその時々にきちんとするものだと今痛感しています。」
夏休みなどの長期休みに時々娘がお弁当をMちゃん家に持参し、なおかつおばあちゃんの手作りお昼もご馳走になってきていた。「お礼は後で言おう」とそれが惰性で積み重なっていた。もう後の祭りである。お邪魔してきた都度、「ありがとう」が言えたらこんなにも後悔しなかったのにとつくづく思った。おばあちゃんは今は時々Mちゃん家にやってきては娘にまで好きなものを届けてくれる。以来私は、「ありがとう」は後回しにしないように心がけている。でも、皆さん、忘れて「ありがとう」を伝えていないときがあったらごめんなさいね。

 さて家の中では、娘が短くなった鉛筆をゴミ箱に捨てるときに「ありがとう」と言って捨てていたことがあった。私が教えたわけではない。娘が思ってしたことである。高校生になった息子も時々「わりぃ(悪いな)」と言うときがある。家族同士でもいや家族同士だからこそ、改まって「ありがとう」を言い合えたら、それは私が望む家族像である。

 こうして家族4人、平凡に暮らせていることが幸せであること、そして病気も怪我もなく無事であることに感謝することを肝に銘じたいと心から思う。

 こうした気持ちを表現することが出来、それを皆さんに聞いていただけることに感謝します。

ビバ!ボランティア

2008年12月01日 | S.S.
 9月末に息子が小学校から1枚のお便りをもらってきました。小学校の授業で行う英語活動のアシスタントボランティア募集。これを見て、心の中で「やった~!」と思った私。実はかなり前から『小学校英語』に興味があったのです。1年半前、東京渋谷区に住む友人から、お子さんが小学校4・5・6年生の3年間、週1回のペースで英語の授業を受けた体験談を聞き、公立小学校で行う英語活動の意味を確信するようになりました。友人はアメリカ留学の経験がある英語が堪能な人ですが、その彼女が「小学生の頃ってびっくりする程吸収力があるから、どんどん覚えていくの。3年間で簡単なインタビューができるくらい話せるようになったし、単語も1000語くらい入ったかな。遊びの感覚で楽しんでやってるから、自然に覚えるのね。使っていたカリキュラムがとてもよかった。」と言っていました。中学に入るまでに簡単な会話ができる力をつければ、その後の英語がずっと楽しくなると思うのです。日本人の英語コンプレックスを公立小学校が少し頑張るだけで跳ね返せるかも知れない!わざわざ英語塾に通わなくても、学校で教えてもらえれば、家庭の格差なくどの子も平等に英語の力をつけることができるはずです。

 渋谷区の友人の話を受け、昨年11月に同窓会の秋田支部で、渋谷区での英語教育のカリキュラム(渋プロと言われています)を作った先生に来秋していただき、研修会を行いました。その先生から、「小学校英語で大事なのは、楽しみながら行うこと。ゲームや歌、絵本の読み聞かせなどが活動の中心です。小学生に中学生のような読む・書く中心の勉強英語を行ってはいけません。小学生には小学生に合った英語との接し方があるんです。」と教えられ、現在中学校以降に行われている日本の英語教育にはなかった『小学校英語』のあり方を学びました。シュタイナーの発達の考え方とも重なるように思える話でした。

 関心はあったものの、小学校の教員免許を持たない私に実践は無理、と諦めていたところのボランティア募集の話。取るものも取りあえず申し込みしました。その後、話はとんとんと進み、11月11日に実際にボランティアとして英語活動に参加する機会を得たのです。対象は、息子のいる6年生。1日に3クラス3時間もお手伝いするハードなボランティアでした。その感想は?・・・理想と現実はかなり違うものでした。渋谷区で行われていたような理想的なカリキュラムにのっとって授業が進められたわけではなく、手伝うだけの私が教室に入ったら教壇の前に立って先生役をさせられたり、英語の知識がない小学生には到底無理と思われる複雑な英語表現をさせていたりと、ちぐはぐなところも多く、学校側も手探りで始めた状態であることが理解できました。当日は少々失望しましたが、小学校英語はまだまだこれから、軌道に乗るまでは数年以上かかると、夢を大事にしながらお付き合いしていこうと思っています。

 私が関わっているもうひとつのボランティアは、小学校の読み聞かせ活動です。集まりの名前は風の強い街にちなんで「風の丘読書会」。年を重ねるごとに参加者の横のつながりが深まり、この秋から絵本の勉強会も始まります。今まで学校を超えたところでの勉強会には参加してきたのですが、風の丘読書会としての勉強会は、発足以来初めて。読書会には小学生の保護者が参加するほか、回覧板を通して募集した地域の方も参加していらっしゃいます。また、イオン内のスターバックスの店員さん達もお手伝いを申し出て下さり、出勤前の忙しい時間に小学校へ足を運んで下さっています。地域の方々の応援を嬉しく思います。毎月1回水曜日の朝8時20分から20分間だけのボランティア。読む本は読み手の自由。私は今年度1年生と6年生を担当しています。

 何を読んでも目を輝かせ、夢中で聞いてくれる1年生と違い、6年生の読み聞かせは難航するばかり。思春期と言う年齢のせいもありますが、学校という制度の中で、わくわくする気持ちをいつのまにか押し潰されてしまった6年生の子供たち。読み聞かせの時間が来ても、だらだらとめんどくさそうに部屋に入って来ます。彼らが1年生だった時に見せてくれた期待にふくらんだ眼差し、はじける笑い声や感動して流した涙はどこへ行ってしまったのだろう?好奇心いっぱいだった姿がまぶたに残っているだけに、今の彼らを見ると胸が詰まる私。でもめげずに彼らの心に届く話はないか、楽しんでもらえる本はないかと、勉強会に通って情報を仕入れ、自分でも本屋や図書館で本を探しては学校へと向かいます。しらけた目で見ている6年生ですが、心に響くものを与えられれば、表情は一変して真剣に。とても集中して聞いてくれるので、それが面白くもあり、はずれた時には恐くもあります。私や仲間が読んだものの中で反応が良かった本には『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)『どんぐりと山猫』(宮沢賢治)『ぜつぼうのだくてん』(原田宗典)などがあります。ちょっと面白いだけの子供だましの本は通用せず、ことばの美しい内容に深みがある本が人気でした。案外本物志向なんだなと感心しています。

 ビバ・ボランティア!!自分の好きなことを提供できる場があるのは楽しいですね。今回のなな色メールに添付した本田由紀氏の記事の中に「行政は家庭教育の重要性を強調するが、それはおかしい。公立の初中等教育できめ細かい指導により知識やスキルの習得を均質に保証すること、学校の内外で芸術やスポーツなど多様な活動を安価に提供することが望まれる。」とありましたが、彼女の考え方に共感しています。学校教育をさらに充実させること、また放課後の芸術・スポーツなどの習い事活動を誰でも関われるような敷居の低いものにしていくことは、格差が広がっている今の社会において、すぐに実践していきたい事柄です。そのために、学校教育や習い事活動へ、地域の人材の力をもっと活用できないかと考えています。学校教育への人材の活用は、私が関わる活動も(恥ずかしながら)ひとつの例にあげられるかなと思っています。また芸術やスポーツに関しても、ボランティアで教えてくれる地域の人がいれば、かなり安く子供にお稽古事を習わせることができるでき、親は助かりますね。
 
 しかし、ボランティアはお金になりません。生きがいにはつながりますが、収入はゼロです。そこで、さらにもうひとつ踏み込んで考え(大風呂敷を広げた話ですが)、自分の好きなこと、得意なことを人に提供するという活動を、地域通貨という形で流通できる社会ができたら面白いのではないかなと思っています。大人が読み聞かせを行って貯めた通貨で、子どもにジャズダンスや太極拳を習わせる。ジャズダンスや太極拳の先生は、教えたことで貯めた地域通貨で、ちゃぶ台ホテルのような癒しの場でゆっくりスローフードをいただく。ちゃぶ台ホテルのオーナーは、貯めた通貨をまた他に使う・・・といった具合です。ボランティアが与えるだけの一方向のものではなく、地域通貨という媒体を介して社会の中で次々に循環することで、自分にも何かが戻ってくるようになれば、ボランティアの価値も変わってくるかと思いますが、いかがでしょうか。たくさん現金収入を得なくても、住民の工夫次第で豊かに暮らせる方法があるのではないかと(夢のような話ですが)思っています。

 今までここの街は、中心地から遠く孤立していて不便と言われてきましたが、最近この地域が、教会を中心に小さなコミュニティーを作っているヨーロッパの街のように思えてきて、ちょっと不思議です。小学校でのボランティア活動を通して、街のあちこちに知り合いが増えてきたからでしょうか。丘のまわりをゆっくり散歩しながら、この地域との関わりをこれからも大切にしていきたいと考えているこの頃です。


『くまの子ウーフ』的、私は何からできているか・・・?

2008年12月01日 | ともこ
“風が冷たくなって冬の匂いがした 
そろそろこの街に君と近づける季節が来る 
今年最初の雪の華 
二人寄りそって眺めているこの時に幸せが溢れ出す・・・”
という歌がぴったりの季節ですね。

私はともすれば“今この時”の幸せを感じる暇がないくらい、時間に追われて毎日バタバタと忙しなく生きています。「何がしたいの?」 「進歩している?」 と焦ることもしばしば。
そんな時は、ベトナム人の僧侶ティック・ナット・ハンの一杯のお茶の話を思い出す事にしています。

「お茶を楽しみ、豊かな香りを愛で、味を味わい、カップの温かさを感じるためには、今この瞬間にいて、心をこめて意識を集中しなければなりません。
過去の出来事を思い煩い、未来の事を心配していると、カップを見た時、お茶はもうなくなっているでしょう。 あなたはお茶を飲んだのに、それを覚えていないのです。
人生もまさにその一杯のお茶のようなものです。」

これをワイス博士の『前世からのメッセージ』で読んだ時、「これだ!」 と私の座右の銘に認定!!しました。
 
この本は私のバイブルと言っても過言ではありません。 
今テレビ番組でおもしろいものがありますね。 
自分が感銘を受けた本を紹介する“私の一冊”というものです。 
私の一冊・・・私ならどれをあげるかしら?
前述のブライアン・L・ワイス博士の本もしかりですがE・Q・ロスの『死ぬ瞬間』?
・・・好きな作家なら さくらももこや、沢木耕太郎氏ですが『大地の子』にはかなり心を掴まれ主人公 陸一心 は忘れられない理想の男性です。
今My本棚を見てみたところ、環境に関するものや、スピリチュアル系が多くあります。
こんな風にスピリチュアルなもの(シュタイナーへも続く)へ傾倒するきっかけとなった野崎友璃香さんの『イルカと逢って,聞いたこと』をあげてもいいかも知れません。

これは20代前半に友人のお陰で手にしました。

次の転機はここ秋田に来てから。『宇宙の根っこにつながる生き方』に出会ったこと。
この本で瞑想を知りましたが、瞑想の危機についても説明があったので実践は数年先のヨガを経てからでした。
(宇宙の大いなる意志にそって生きているアボリジニの人々の話はここで知ったのです。)

かの“西の魔女”も瞑想は精神力の弱い人間がするものではないと言っていますね。
西の魔女が孫娘に話した魔女修行は初女さんの言う丁寧な生活に通じますね。(動きのある祈り)

先日当誌メンバーのI さんの素敵なちゃぶ台カフェを訪れました。
寒くなり始めた季節にかぼちゃの放蕩がとっても美味しかったです。
お料理を待つ間にシスター渡部の講演のテープを拝聴する機会を得、心のこもっていない時間の使い方は自分の時間をムダにしているのだというお話を聞きました。
丁寧に生きる極意を教えてもらったと感慨深かったです。
現代の日本では情報や楽しいことが溢れていてつい欲張りになって、時間が足りません。
知らず知らずの内にモモでいう“時間泥棒”にあっているのですね。
それに、“死”が忌み嫌われ避けられているので“生”の実感も薄れているのでしょうね。
“死”を意識すると“生”を大切に、一瞬一瞬を丁寧に心をこめて送りたいと思うはずですもの。

タレントの石切もえさんが前述の番組で本との出会いを「旅」と表現していました。
私はこの表現大好きです。
本当にそうだと思います。
私は何度素晴らしい旅をしたでしょう。
小学生時より読書家でしたから。

シュタイナーの本に出会ったのは、先月7歳になった息子の出産直後でした。
子安美知子さんの情感ある文章表現にドイツ、シュタイナー学校内を憧れの思いと共に旅しました。

 毎日自分の食べたいものを献立にして幸せな私ですが、実は私は子どもの頃からキャリアウーマンに憧れており、専業主婦を嫌って料理を避けていたのでした。
ところがある日、桐島洋子女史の『できる女は料理も上手い』を読んでから料理大好きになりました。
もともと食いしん坊でしたし、好きな人たちと美味しいものを食べることはとてもいい事だと思います。
母となってからは、勿論家族の健康面も考え、三度のままざめ(秋田弁で炊事のこと)を楽しんでいます。
それに仕事への考えも変わってきました。
確かに社会人として職業を持つのは自立した人間という感じですが、それより最近は自給自足こそ本当の自立?のような気がします。
なので、今は西の魔女や、ターシャ・テューダーさんのような生き方が理想です。

それから美しいものに囲まれていたいです。
美しい風景が好きで、高校時代の京都の山陰の寮の窓から毎朝見ていた田園と森とが朝焼けに彩られる風景がとても好きでした。
ここ秋田県南の鳥海山も海も大好きです。
 
 
よって私は本とドラマと音楽と綺麗なもの美味しいもので出来ているようです。

 それでは、MERRY CHRISTMAS AND HAPPY NEW YEAR!!

つながる喜び

2008年12月01日 | いしかわようこ
「コケッココ」ニワトリ症候群という言葉を聞いたことがあるでしょう。一人で食べる「孤食」、朝食を食べない「欠食」、家族が別々に好きなものだけ食べる「個食」、いつも同じものばかり食べる「固食」。この4つの漢字「孤・欠・個・固」の音(オン)「コケッココ」を取って「ニワトリ症候群」とよぶそうです。今の日本人の、特に子どもたちの淋しい食卓風景をうつしとっている気がします。皆さんの食卓はいかがですか?
最近面白い本を読みました。『食堂かたつむり』(小川糸著 ポプラ社)『チェンジング』(吉富多美作 金の星社)どちらも食いしん坊の私には唾(つば)が出てくるようなおいしい料理がこと細かに登場してきます。でも料理の本ではありません。人の手で作られる料理で、作る人も食べる人も劇的にチェンジしていくという「人間性復活」の物語です。
 「食べ物って大事なのよ。体をつくったり、心をつくったり。人が生きていけるように内側から守ってくれるのよ。」ニワトリ症候群の見本のような男の子(小5)大夢(タイム)に香奈子がそう言い諭すのです。「そうか。体も心も自分で作っていけるんだ。」繊細な性格で、いじめに遭って自分に自信をもてないでいたタイムが母性愛に溢れる、偶然に出会った香奈子から料理の特訓を受ける中で、人の生き方学んでいくのです。色んな野菜を大鍋で煮たおいしいスープを一緒に飲みながら、人参も玉ねぎもセロリもじゃがいももみんなそれぞれの個性を堅持しつつ、融合して素晴らしい味のハーモニーを作るのを知ったタイムの悟ったこと―それは自分らしさをきちんと表すこと、違う個性との連帯する大切さでした。(『チェンジング』32ページ)
 いつかリンボー先生こと林望氏が「日常生活が一番尊い。」という発言をしていました。今時代は地球規模の危機に直面しています。チェンジを旗印にかかげたオバマ氏が圧倒的支持を得たのは、「どげんかせんといかん」という多くの人の思いが結集したからでしょう。でもチェンジは足元から、日常生活からと私は考えている者です。
半月前になるでしょうか、とても幸せな経験をしました。いつもの床屋さんで顔そりをしていただきました。その日、私の顔にカミソリをあててくださった方は40代後半の女性で、新しく入店した人のようです。中三デパート閉店で、目星を付けていたン万円のセーターを4割引きで買ったとか。古い雑貨が好きだとか、私と似たところがあっておしゃべりに花が咲き、楽しい人でもありましたが、それ以上に嬉しいことがありました。顔そりの何と丁寧なことといったら、生まれて初めてと思う位だったのです。特に鼻の周り、眉へのカミソリの当てる手の優しさといったらありません。眉が顔そりのポイントとおっしゃっていました。あったかいタオルで顔を覆うこと3回。マッサージも念入りで恐縮するほど。顔を引き締める手の動き。一番ありがたかったのは、目の周りのマッサージと指圧。目の弱い私が自分で毎日やっている完璧なツボの押さえ方でした。私はすっかり感動してつくづく幸せだなあと思ったのです。顔を剃るという一つの仕事をこんなにも心をこめて丹念になさって下さるその方に心の底からの感謝と尊敬を覚えたのです。1,890円の三倍も差し上げたい気持ちでした。
もう一つの体験。市場の近くの小さな店で干し柿用の柿がザルに盛られていました。ひもで干せるように枝をつけたものです。私は干し柿が大好きなので早速買おうとしたところ、30代の若い男性の店主がおいしい干し柿の作り方をとうとうと実演しながらレクチャーしてくれたのです。学校の先生のような口調。目の奥で笑いながらポイントを伝えてくれました。「まんづ、柿の皮をむいでみれ!」「まんづ、そごからまちがっているど。」向き方からヒモに吊りさげ方、干す場所などなど。私は初めて本式の干し柿作りを教えてもらいました。たった500円(柿6つ)の買い物にこれだけの指導をして下さる店主に深々とお辞儀してきました。「いまぐいったら報告に来てケレ!」
 ああ、人間っていいなあ!こんなにも相手に幸せを与えて下さるなんて。人と人とが心でつながる喜びはたとえようもなく素晴らしい。顔をそってくれた人、干し柿作りを教えてくれた人、二人は私の心の師。愛の力をしっかりと刻んで下さいました。私もそれをリレーして行こうと思っております。