たとえばこんなエピソードを聞いたら人はどんな反応をするでしょうか。華道家安達瞳子さんが小学生になって初めて花ばさみを持ったとき、ご尊父から先ず言われたのは「花を切る時はゴメンナサイとお詫びするんだよ」と。それが生け花手習いの第一歩だったそうです。
又、ある80代の女性は庭の隅に<花塚>を設けて落ちた花、枯れた花がらを埋めているとか。シュタイナー関連の幼児向けカードや絵には花や鳥の傍らに必ず小人が描かれています。バラにはバラの、水仙には水仙の精霊がいて、その霊が芽を出す時から枯れるまで育て見守っていると。花だけでなく、どんな生き物でも、石ころのような無機質のような物にいたるまで、そう考えています。シュタイナーの思想では「先ず霊ありき」で目に見える世界は、見えない霊の世界の反映と考えます。たとえば、殺人という目に見える出来事も、先ず「憎い!殺してやりたい!どんな風に殺すか」という思いから始まりますよね。想念という目に見えない精神の世界(霊とか魂とか表現は違っても)こそ、ありとあらゆるものに浸透している実体で、目に見える現象はそのあらわれであると。
私は「人のからだ」という図鑑を見るのが好きです。そこに描かれている人体図、特に頭のてっぺんから足の先まで張り巡らされた血管やリンパ管、あるいは神経の網の目を見ると、驚嘆してしまいます。皮膚で覆われて目に見えない自分のからだの中で、血液が、リンパ液が、そして神経が、すみずみまで流れている神秘に、心が震える気がします。
人のからだは、小宇宙とも言われます。果てしなく続く大宇宙の凝縮したかたどりという意味でしょう。食物連鎖のことを考えると、この世界は同じいのちの水路が浸透する一つの世界(ワンネス)ということが具体的にイメージできます。プランクトンをえさに小魚は生き、その小魚をイワシが食べ、そのイワシでマグロは大きくなり、そして人のからだに入る。私の大好きな庭でも<いのちのピラミッド>が展開します。目にかけているムクゲの新芽をアブラムシが吸い、そのアブラムシは小鳥のおいしいえさになり・・・という具合に。
最近読んだ佐藤初女さんの本に、上手な表現がありました。
<食べたものが自分の一部となる>
すべての食べ物には<いのち>があって
いったん口に入ったものは生涯私たちの一部となって生きていきます。
小学校で話をしたときのこと。
4年生の子が手を挙げて、「いのちは大切だっていうけれど、僕たちはミワトリや牛を殺して食べているのはいいんですか?」と言いました。
「殺して食べているのではないの。いのちをいただいて、それがからだに入って、一緒に生きていくんだよ」と言ったら「わかりました」と言ってくれたわ。(『いのちのことば』東邦出版)
いのちは、お互いに支え合って、響き合って、ワンネスの世界を構築していると私は思います。この「ひとつ」の世界、同じいのちの水が浸みとおる世界は、ジクソーパズルの絵に似ていると。100のピースの絵とすると、一つのピースが欠けても完成しない。地球という生態系も同じ。人間のわがままで本来の生態系がくずれ、狂い出しています。かけがえのない一つ一つのピースを人間が欲によって葬っていくことで、地球といういのちが大きくひずんでしまったのではないかと。死因の上位を占める“がん”“動脈硬化”“糖尿病”など、目に見えるシンボルかも知れません。健康な細胞を破壊する悪性腫瘍、血液がにごったり、ドロドロしてしまう症状、ひどい便秘など、地球の姿にそのまま通じるのではないでしょうか。私は思うのです。地球環境の問題も、今の生活習慣病といわれる病も<いのちのつながり>を無視し、断ち切っている人間の罪ではないかと。
私の整体士さんがこう言われます。「頭痛にしろ腰痛にしろ足のしびれにしろ、筋肉の凝りが原因です。老廃物が固まり、その下を流れる血管の流れを遮り、神経を圧迫するために痛みが生じます」と。網の目のようにからだを走る血管と神経の道をふさぐ固まりが体調をくずすように、ひとつのつながったいのちの世界で、私たちのエゴという自分中心の固まり、執着がワンネスの生態系を崩していっている。
除霊という心霊ヒーリングの経験はないのですが、先祖の祟りとか、前世の償いということよりも、自分の心の固まり、コリをほぐす霊の整体(------整心、浄霊)ということを、私たち一人ひとりしてもらわねばならないかも知れませんね。すべての生き物、生きとし生けるものとつながる連帯性をしっかり心に刻み、ひとつの輪となりたいものです。できることなら、もう一度幼な子に還って「お花がイタイイタイと泣いているよ」と言い、なでてやる心を取り戻したいなと切に思うこの頃です。
いしかわようこ
又、ある80代の女性は庭の隅に<花塚>を設けて落ちた花、枯れた花がらを埋めているとか。シュタイナー関連の幼児向けカードや絵には花や鳥の傍らに必ず小人が描かれています。バラにはバラの、水仙には水仙の精霊がいて、その霊が芽を出す時から枯れるまで育て見守っていると。花だけでなく、どんな生き物でも、石ころのような無機質のような物にいたるまで、そう考えています。シュタイナーの思想では「先ず霊ありき」で目に見える世界は、見えない霊の世界の反映と考えます。たとえば、殺人という目に見える出来事も、先ず「憎い!殺してやりたい!どんな風に殺すか」という思いから始まりますよね。想念という目に見えない精神の世界(霊とか魂とか表現は違っても)こそ、ありとあらゆるものに浸透している実体で、目に見える現象はそのあらわれであると。
私は「人のからだ」という図鑑を見るのが好きです。そこに描かれている人体図、特に頭のてっぺんから足の先まで張り巡らされた血管やリンパ管、あるいは神経の網の目を見ると、驚嘆してしまいます。皮膚で覆われて目に見えない自分のからだの中で、血液が、リンパ液が、そして神経が、すみずみまで流れている神秘に、心が震える気がします。
人のからだは、小宇宙とも言われます。果てしなく続く大宇宙の凝縮したかたどりという意味でしょう。食物連鎖のことを考えると、この世界は同じいのちの水路が浸透する一つの世界(ワンネス)ということが具体的にイメージできます。プランクトンをえさに小魚は生き、その小魚をイワシが食べ、そのイワシでマグロは大きくなり、そして人のからだに入る。私の大好きな庭でも<いのちのピラミッド>が展開します。目にかけているムクゲの新芽をアブラムシが吸い、そのアブラムシは小鳥のおいしいえさになり・・・という具合に。
最近読んだ佐藤初女さんの本に、上手な表現がありました。
<食べたものが自分の一部となる>
すべての食べ物には<いのち>があって
いったん口に入ったものは生涯私たちの一部となって生きていきます。
小学校で話をしたときのこと。
4年生の子が手を挙げて、「いのちは大切だっていうけれど、僕たちはミワトリや牛を殺して食べているのはいいんですか?」と言いました。
「殺して食べているのではないの。いのちをいただいて、それがからだに入って、一緒に生きていくんだよ」と言ったら「わかりました」と言ってくれたわ。(『いのちのことば』東邦出版)
いのちは、お互いに支え合って、響き合って、ワンネスの世界を構築していると私は思います。この「ひとつ」の世界、同じいのちの水が浸みとおる世界は、ジクソーパズルの絵に似ていると。100のピースの絵とすると、一つのピースが欠けても完成しない。地球という生態系も同じ。人間のわがままで本来の生態系がくずれ、狂い出しています。かけがえのない一つ一つのピースを人間が欲によって葬っていくことで、地球といういのちが大きくひずんでしまったのではないかと。死因の上位を占める“がん”“動脈硬化”“糖尿病”など、目に見えるシンボルかも知れません。健康な細胞を破壊する悪性腫瘍、血液がにごったり、ドロドロしてしまう症状、ひどい便秘など、地球の姿にそのまま通じるのではないでしょうか。私は思うのです。地球環境の問題も、今の生活習慣病といわれる病も<いのちのつながり>を無視し、断ち切っている人間の罪ではないかと。
私の整体士さんがこう言われます。「頭痛にしろ腰痛にしろ足のしびれにしろ、筋肉の凝りが原因です。老廃物が固まり、その下を流れる血管の流れを遮り、神経を圧迫するために痛みが生じます」と。網の目のようにからだを走る血管と神経の道をふさぐ固まりが体調をくずすように、ひとつのつながったいのちの世界で、私たちのエゴという自分中心の固まり、執着がワンネスの生態系を崩していっている。
除霊という心霊ヒーリングの経験はないのですが、先祖の祟りとか、前世の償いということよりも、自分の心の固まり、コリをほぐす霊の整体(------整心、浄霊)ということを、私たち一人ひとりしてもらわねばならないかも知れませんね。すべての生き物、生きとし生けるものとつながる連帯性をしっかり心に刻み、ひとつの輪となりたいものです。できることなら、もう一度幼な子に還って「お花がイタイイタイと泣いているよ」と言い、なでてやる心を取り戻したいなと切に思うこの頃です。
いしかわようこ