旅するくも

『旅が旅であることを終わらせる為の記録』

なぜそこに草は存在するのか

2010-02-14 23:13:07 | 素晴らしき日々
先週の日曜、その日焼き鳥屋のオヤジから頂いたベッドを無理やり車に押し込んでアジトに運んだ。
真冬なのに風もなくて暖かいのでベッドを庭に干していた。

ジャンベを叩き疲れてベッドに横になって雲を眺めて過ごしていると庭にある花壇が目に映る。
草がボウボウだ!

しかし、ベッドが置いてある何年も放置してある場所には草は生えていない。
何故だろうか。
そして僕は草はなぜ存在するのかと考え、ある農法をすすめている人の言葉を思い出す。
その人の考え方では草や虫はその土地を元のかたちに戻そうとする為にやってくる。
決してその場が壊れたから生まれてくるのではなくて、その場を壊したから生まれてくる
という考えだ。
虫がいるから農薬をまくのではなくて、農薬をまくから虫がくる。

そんな視点で考えるなら害虫などはどこにも存在しない。

草や虫は不自然なものを自然へと移す為に存在するのではと、ベッドで横になりながら
そんな事を思った。

でも、この考え方はとっくの昔にかたちを変えて作品になっている。
宮崎駿監督の7巻のマンガ本として売られている”風の谷のナウシカ”だ。

どの農耕の歴史の本を読んでみてもほぼ間違いなく出てくる脱落性。
僕の場合、初めてそういった本を読んだのは中尾佐助の”栽培植物農耕の起源”だ。
本の中に脱落性と非脱落性について書かれている。
本来、小麦などの穀物は少しの振動や風で種子を大地に落とそうとする。
収穫する事を考えれば、それは困った穀物の持つ特性とも言える。
だから人は非脱落性のものへ変化させ収穫する。

僕らは地球という大きなサイクルの中にいる。
”人は地球に生かされている”と言うのは考え方ではなくて事実だ。
僕らが文明と呼ぶものは大きなサイクルの中で都合のいいように自然なものを変化させ、
人が考える小さなサイクルをその大きなサイクルに、はめ込もうとしているだけなのかも知れない。

文明とは本来あるべきものに蓋をして自然を覆い隠すような、ラコタの人たちの言葉を借りれば、本来あるまっさらな地球の上にひかれた絨毯と言うように神社にもそんな役割があるように僕には思えてならない。
あまりにも不自然だからだ。

今は、その絨毯の下に眠るものに触れようとする時代がすでにやってきているのかも知れないな。