いつもGWは沖縄や鹿児島・トカラ列島の島々を旅していたが、景気も悪いし、どっちみちGW中もほとんど仕事だったので、日帰り観光を考えた。近郊の観光地の多くには足を運んでいるが、中山道の宿場町である馬籠、妻籠は、行ってみたいなあと思いながらも行っていなかったので、今回はそちらを観光する事にした。
乗った中央本線・中津川行の列車に直近で接続する東海道本線・下り列車は接続時間が短いので、1本前の列車に乗った。どうせ「青空フリーパス」使うのだからと、名古屋まで行って中津川行に乗り換えた。中津川の留置線には115系がいたが、バスがすぐ出るので撮影はせず。
中津川から30分程で馬籠宿に到着。まずは全然観光客が向かわない方向へ。馬籠城跡は全然城の面影も無く、それだけ見て、メインの街道方面に戻った。
宿場町というと、地元の東海道の宿場町の地理を想像してしまうので、坂の宿場町が意外だった。GWだから、どうしても人が写真に入ってしまうので、もし奇跡的に写っている方が拙ブログをご覧いただいたのなら、ご容赦を。
水車小屋。発電に利用されている。
馬籠は島崎藤村の故郷である。「藤村記念館」に入った。1つの名言が掲げられていた。
~誰でもが太陽であり得る。わたし達の急務は、たゞたゞ眼前の太陽を追ひかけることではなくて、自分等の内に高く太陽をかゝげることだ。
人によって解釈は異なるし、私は頭悪いので、おかしな捉え方かもしれないが、「皆から見える(評価される)太陽(人生の輝き)ではなく、自分だけに見える太陽を輝かせよう。」という様に感じた。
あるコーナーでは館で販売している童話の見本が置いてあり、読んだ。童話は難しい言葉を遣っていないし、1話が短い場合が多いので、内容をイメージしやすい。それでいて、作者の考えが表れている。難しい本が苦手な私でも読めるだろうと、その中から「ふるさと」を選んで、退館時に購入した。藤村の子ども時代(東京に行く前)の事も分かるし。
ある展示室に近付いていくと、「椰子の実」の音楽が流れていた。あっそうか、「椰子の実」は藤村の詩であった。でも、これは藤村の実体験から生まれたのではなく、柳田国男より聞いた話から生まれたそうである。渥美半島・恋路が浜のトイレに入ると、この音楽が流れたなあ。
藤村記念館に長居してしまい、残りの見学のスピードを上げた。「馬籠脇本陣資料館」。宿場町には大名とか高い身分の人が宿泊する本陣、脇本陣が設けられていたそうである。島崎藤村は本陣を勤めた名家の出である。
お触れを掲示する「高札場」。
恵那山の景観。
妻籠へと続く道。妻籠まで歩いていく事もちょっと考えたが、時間もないし、8キロ程距離があるというので、バスで移動する事にした。
昼食は「中井筒屋」というお店で、蕎麦を食べた。1人旅だと飲食店に入る事をためらって、テイクアウトもので済ませる事がほとんどで、久し振りに1人で入った。子どもの時、祖母と善光寺に行った昼食に蕎麦を食べた際、蕎麦湯が出てきて、「なんでこんなものが出てくるんだろう?」と思った(苦笑)
バスで妻籠へ移動。バスを待っている時に小雨がパラッと降ったし、馬籠峠辺りは道が濡れていたので、天気を心配したが、雨に降られず観光できた。こちらは平らな道だった。
「枡形」。馬籠宿にもあり、今回の旅は直前に思い立ち、観光マップを印刷しただけなので、どういう見学ポイントなのか分からず、マップにある「枡形」の場所が分からずじまいだった。妻籠宿では説明の看板があった。防衛上、道を曲げた部分の事だそうである。馬籠宿では、水車小屋の辺りの事であった。
「妻籠宿本陣」。
脇本陣の家は、副業として酒屋を営んでいたそうである。木曽路は江戸時代に「ひのき一本首一つ」と5種の木の伐採を禁じられ、その禁制が解かれた明治時代に、当主が総檜で建て替えたそうである。ここではガイドさんが1階部分を案内してくれた。明治天皇が立ち寄る事になった際、そのためのトイレを造ったが、結局天皇はトイレを使わなかったという話であった。
バスで南木曽駅へ。列車で恵那の花白温泉に向かった。いつもは運転体験で利用する明知鉄道の駅がすぐ前にある。恵那駅の窓口で花白温泉駅までの往復乗車券を求めたら、「温泉に入るのなら、セット券があるよ。」と、それを発券してくれた。ちっちゃな浴槽が隣り合って2つあるだけで、地味な温泉施設であった。ラドン含有の放射能泉なのは珍しかった。
そして、帰路に就いた。恵那から乗った普通列車が「セントラルライナー」の車両で、ちょっとトクした気分だった。