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日本大昔ばなし①【建御名方と出雲物語】諏訪大祝へ

2022-09-12 | 諏訪の道

【日本大昔ばなし】

今回は、スポットの紹介ではなく、

諏訪大社に祭られる建御名方の一説の紹介です。(文章多め😅🙏)

前回の投稿で、ミシャグジと諏訪大社の習合について少し触れましたが、今回はそれ以前のお話し😌

興味のある方はご覧下さい🙏✨

【出雲連邦王国】

グレートイズモ・ユナイテッド・キングダム

国造り秘話【建御名方のヒストリー】

出雲最後の王・建御名方命

父は『出雲国』の大国主、
母は『越の国』の奴奈川姫、

この二人の結婚は、勢いを強めていた天孫族の勢力に備える為、越・出雲両国の同盟から始まった。

越の国と出雲国で、婚姻による合併策が行われ、互いの王と姫を結婚させ生まれた子・ミホススミ姫を女王とした。

そして、弟の建御名方命は皇太子となり次期大国主となる為、出雲にいた。

(前回の投稿でも書きましたが建御名方は実名かは分かりません)

ミホススミ姫は、互いの勢力境界

島根半島(ミホの岬)から
能登半島(ススの岬)まで、

越の国と出雲国を結ぶエリアの国母となり、新体制での国造りが行なわれていった。





石川県能登半島(ススの岬)

この婚姻合併策が成功したことにより日本海エリアに長大な

出雲連邦王国=

グレートイズモ・ユナイテッド・キングダム が誕生する。


(英語にするとカッコいいな🙄)

出雲連邦大国の盟主を、「大国主」という。

出雲は、建国当初より新羅からの国引きや和国九州勢との婚姻合併など、様々な他部族と結ぶことで礎を築いてきた国だ。

敵対的な他部族の国にまで、大国主は妻問いをし婚姻政策を進めていった。

なので、大国主には沢山の政略結婚の王妃がいた😌

特に九州の海の部族・宗像氏からは田切姫・湍津姫と姉妹二人も娶っていて繋がりは強かった。

 

福岡県宗像市 宗像大社 【ご祭神】田切姫・多岐津姫・市杵島姫

田切姫とは、スサノオ正妃の血統であった稲田姫の嫡流を途切ったということかもしれない。🤔

(🙄ないと思います)しかし、

大国主の代には稲田姫系から出雲の軸は移った。

そして最終的に、越の国との政略結婚による


別系統

『奴奈川姫ーミホススミ姫』の血統による新体制が出来上がり、出雲連邦国の盟主に君臨した。

、、奴奈川姫と大国主の政略結婚は外部に対してだけでなく、内部に対しても重要な意味を持っていたと思われる。

富山県【気多神社】越中の国一宮 ご神神 大国主命(大己貴)・奴奈川姫

【出雲の国の内訌】
出雲は隣国の『因幡の国』(鳥取県東部)とも婚姻合併を行い、
因幡の白ウサギこと八上姫を娶っていた。


伯耆国の(鳥取県西部)スセリヒメは、スサノオと櫛稲田姫の娘で大国主の正妃だった。正統なプリンセスでありクイーンである🫅

隣の因幡の国(鳥取県東部)の八上姫は他部族であり、出雲に入り後継を狙うことをスセリ姫側の勢力は許せず、伯耆と因幡に内訌を生んでいた。

一般的に「スセリヒメは嫉妬深かった」と現代ロマン風に解釈され、感情的な対立とされているが、実際はそれ以上に根が深い政治的な対立だった。

この二つの勢力を抑えたのは、


北陸の強国・奴奈川姫勢力との婚姻合併で、

この強力なパートナーの存在により、内部勢力の対立は沈黙させられた。

かくして

スセリ姫八上姫の子が次期・大国主になることは無くなり


奴奈川姫の子タケミナカタが大国主となり、

奴奈川姫の娘ミホススミ姫は、両勢力を挟み込むように能登半島と島根半島に君臨した。

(実際は美穂姫とススミ姫という二人の人物がいたのかもしれないないが🤔)

連綿と続けられてきた出雲の婚姻政策による

出雲連邦王国=

グレートイズモ・ユナイテッド・キングダム

の『国造り』はこれでクライマックスを迎えた。

しかし、連邦国であるが故に越の国側との間に亀裂が入ることもあり、一枚岩とはゆかなかった。

大国主こと父・オオナムチの下で大将軍の如く、

事あらば兵を出し、婚姻政策で繋いだ日本海沿岸の国々をまとめる為の軍事を建御名方は一身に捧げていた。次期出雲王(次期大国主)として、戦えぬ戦さも戦い抜いた。平時においては、出雲のミホの岬から、能登のススミの岬まで船を出し、越の国まで武威を布武し、治安を維持に努め国がためを続けた。

それ程にまだ、新しい出雲連邦大国は纏まってはいなかった。

そして、遂に

西から天孫族(後のヤマト朝廷)が侵攻してきた。

出雲勢は帰順することになる。

この時、出雲系でまだ大国主の位にあったオオナムチは天孫族とは戦わず逃げることを決めた。そして、息子の建御名方に地位を譲り、

「降伏するかは、建御名方に任せる」と言い残し、

船で息子の事代主と逃げ去っていった。

静岡の三保へ妻と共に降臨した。静岡の伊豆も出雲が語源と云われる)



静岡県 御穂神社【御祭神】 大己貴命(大国主命) 三穗津姫命

羽車に乗りお二人が降臨してきたので、日本最古の新婚旅行と云われているらしいが、、😑 (ていうよりカケオチ😳☝️)

△前々回の投稿で、弥生時代に稲作が行なわれていた事が発見された、静岡の弥生遺跡『登呂遺跡』について書いたが、静岡へ稲作文化をもたらした弥生人が流入したのと、大国主と美穂津姫が静岡へやってきたのはほぼ時期的にも重なる気がする。

静岡市登呂遺跡

【戦う建御名方命】

大国主の地位にいた父・オオナムチは戦わず逃げたが、

後を任された越の国系の建御名方命だけは、最後まで天孫族に抵抗した。

しかし、天孫族の将軍・武甕槌命に敗れてしまう。

かくして天孫族は出雲勢を祭政合併して、天孫族が政治の実権を握り、出雲側には出雲大社に祭祀を司らせる形で民衆を取り込み、皆、天孫族勢力に帰順した。

敗れた建御名方命は、仕方なく越国の母・奴奈川姫と共に川を遡り、山深い信州へと逃げていった。

奴奈川姫の一族がいた日本海沿岸の北陸地方(富山県・新潟県境)は、信州への塩の提供地でありもともと縁故があったと思われる。

しかし、諏訪まできて進軍できなくなってしまう。

諏訪側の先住部族・洩矢氏の勢力に諏訪入りを阻まれ、

建御名方命は暫く北小野(塩尻市)で駐屯していた。

その後、天竜川を挟んで両陣営は対峙し何度か戦っても決着がつかず、洩矢氏側は、武居恵美寿、横内佐口らが戦死したという。

建御名方側は、出雲連邦の残党を引き連れていて出雲氏族単独ではない。

寧ろ出雲族らは天孫族に帰服し、出雲連邦が解体され行き場を失った氏族らが行動を共にし、出雲大物主系の外戚氏族や、三輪氏、鴨氏の残党らが従っていた。

これ以上、人々の首長として互いの兵を犠牲にすることは出来ず、

建御名方と洩矢氏側とで一騎討ちをし決着をつけることになった。

  ⚔️

建御名方は藤の蔓を使い、洩矢側は鉄輪を得物に使い戦った。

洩矢氏側が負け、建御名方はついに諏訪に入りした。

狩猟部族の先住部族であった洩矢族(守矢一族)を、祭政合併して
建御名方命が諏訪の大王(大祝)となった。

△母・奴奈川姫は、鹿に乗って諏訪入りしてきたという、、。

もしかすると、奴奈川姫の一族は元々の越の国(新潟)の土着勢力ではなく、

九州の志賀島に『鹿の角』を奉納していた部族とも関わりがあったのではないだろうか。

天孫族がまだ大和朝廷を開く前の事で、天孫族にとっての東方とは狩猟民族など異民族が住む異国の地であり、建御名方が強行し諏訪に入ったという事は

『逃げた』というよりも、実質的な追放だったのかもしれない。諏訪に入った以上、二度と天孫族の土地に戻ることはなかった。

諏訪大社【上社本宮】建御名方命 

戦いの連続だった、出雲連邦王国最後の王・建御名方命の物語はここで終わった。

母の国である越の国の民、天孫族の支配下で部民となり隷属することから逃げて来た人々、最後まで建御名方命を慕い運命を共にした将軍達を諏訪入りさせ

そして犠牲になった悼むべき人々、全てに「最後は責任をとる」と言い

諏訪大祝となって最後をむかえた。

また別の投稿で詳しく、

奴奈川姫と【蛇と鹿】について書いていく・・・

(つもり😅)

書き切れれば、九州とユダヤの起源まで😌


今月は連休があるので、暫く諏訪地方に滞在してあちこち回ってから書いてみる。

数日滞在しただけで古代諏訪の歴史は深く、知りようもないと思うが、、

できる限り深堀りしてみたい、、😌

聖なる国 日本に✨
不思議な歴史がいっぱい✨😮☝️



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