52歳の主人公は、大学改革で准教授に格下げされ、大学の教え子に手を出してセクハラで訴えられて職を終われ、田舎暮らしをする娘の所へ招かざる客として居候を決め込むうち、黒人のチンピラに暴行を受け、車は盗まれ、娘はレイプされて、挙句の果てにその子供を宿してしまうのだが、それでも娘はその現実を受け入れて田舎を離れようとはしないので、男も同じ村の動物の避妊やらやらをする施設を手伝いながら暮らしていくという、アパルトヘイト以降の南アフリカの政治状況や社会状況についてはよく分からないが、その状態を「恥辱」というなら、大学教授の落ちぶれた人生ということができるのだが、もともとこの男は、2回の離婚、52歳になっても週一で娼婦を買い、お気に入りの娼婦が辞めてしまうと自宅をつきとめて電話をしてしまうというストーカーぶり、動物施設の嫌悪すら感じていた女とも平気で寝てしまうし、自制のまったくない男なのだから、果たして、この落ちぶれた状態を「恥辱」というべきなのかどうか。セクハラで訴えられて、ことを穏便に済ませたい大学側や同僚の情状酌量の声を突っぱねるところには気骨のようなものもあるのだが、何もそんなところで発揮しなくもよさそうなものだ。
そんなわけで、生きようとする意志よりも、なんとなく生かされていて、環境が変わっても変わらないこの男の節操のなさには、むしろ、自由を感じてしまうのだった。初めて読んだノーベル文学賞受賞作家J.M.クッツェーの『恥辱』は、自由であることは恥辱を生きることでもあるというお話なのかもしれない。そして、この元大学教授とそう遠くないところに僕自身もいるように思えるのだった。
そんなわけで、生きようとする意志よりも、なんとなく生かされていて、環境が変わっても変わらないこの男の節操のなさには、むしろ、自由を感じてしまうのだった。初めて読んだノーベル文学賞受賞作家J.M.クッツェーの『恥辱』は、自由であることは恥辱を生きることでもあるというお話なのかもしれない。そして、この元大学教授とそう遠くないところに僕自身もいるように思えるのだった。
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