ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

余は如何にしてヨシモト信徒になりし乎

2009年06月10日 | 
 鹿島茂・著『吉本隆明1968』(平凡社新書)を読む。吉本がなぜすごいのか、団塊世代の著者が若い人の疑問に答えるため、自らの吉本体験を語りながら、初期の吉本の著作を読み直し、吉本思想の根幹を成す「大衆の原像」とは何かを解き明かしつつ、吉本思想の再評価を試みる。この本の魅力は、何ゆえに吉本が著者の規範になったかを述べてゆく私小説的批評である点で、いわば鹿島版「余は如何にして吉本主義者になりし乎」なのだが、さらにこの本について語ろうとすると、自ずと自らの吉本体験を語らねばならぬこと、そしてそれは自らの出自を踏まえて語らねばならない、という気にさせてしまうことだろう。

 僕が吉本を最初に読んだのは現代思潮社刊『異端と正系』である。埼玉の田舎のサラリーマン家庭に育ち、旧制中学だった県内の進学校に通っていた高校1年の冬、同じ高校の2年上の兄から借りて読んだのだ(ちなみに僕の知的な開明にはこの兄の影響が大である)。所収の「社会主義リアリズム論批判」「転向ファシストの詭弁」「日本ファシストの原像」などの論文に衝撃を受けた。読書歴として評論を読むという経験がほとんどなかった僕にとって、理解はできなかったけれど、そこに登場するこれまで名前さえ知らない作家や批評家、とりわけプロレタリア文学や戦後左翼の批評家たちをばっさばっさ切り倒す歯切れのいい語り口には度肝を抜かれた。批評とはかくも他人を斬りまくっていいものなのだと。

 その一方で、詩人としての吉本の現代詩は、中原中也などの詩に親しんでいた僕には、言葉のつぶてのように感じられた。思潮社の現代詩文庫『吉本隆明詩集』で読んだ「転位のための十篇」の「廃人の歌」の「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によってぼくは廃人であるそうだ」などに表現された孤立無援の闘争宣言のような啖呵のきり方とそこに同居する哀愁のようなものに魅せられたのだった。

 こういうとき吉本隆明ならどう考えるだろうと、ある時期吉本は出来事や物事を判断する規範になっていた。吉本がスターリニズムと呼ぶシステムは、一つの組織が目標に向かって対立を克服しながら上昇的な志向をしていくときに作動する抑圧的な排除のシステムであり、それが誰もが否定しがたいスローガンを纏っていればいるほど、巧妙に組織と個人を抑圧していく、ということを自分の体験と合わせて知った。誰もが否定しがたい目標を掲げる組織や運動に違和感をもつのは、それがスターリニズムやファシズムというシステムを内包しているからに他ならないのだが、吉本の著作に触れなかったら、そうした違和感を解きほぐすことができないまま、すなわち批評精神をもたぬまま青春時代をすごしていたかもしれないのだった。

 昨年、糸井重里プロデュースによる講演会の映像がNHKで放映されていた。途中でチャンネルを切り替えてしまった。20世紀の亡霊のように感じられてしまったからだ。あるいは、失礼ながらルバング島から生還した横井さんを思い出してしまったからだが、できれば、「時事放談」のように囲炉裏でも囲みながら糸井と対談するような趣向のほうがよかったのではないかとも思った。

 この本のあとがきで著者は、乱暴にいえば吉本は「自分の得にならないことはしたくないだって? 当たり前だよ、その欲望を肯定するところに民主主義が生まれ、否定するところにスターリニズムやファシズムが生まれる」と言ったのだと述べているが、これは至言だ。しかし、プチスターリニズムは社会の至るところに蔓延している。これに加担しないためには、とりあえず「ずれる」しかないのかもしれない。

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