ジョン・トラボルタ主演、トッド・ロビンソン監督「ロンリー・ハート」を深夜のWOWOWで観る。これは、拾い物だった。アメリカの1940年代、戦争未亡人をねらって結婚詐欺をはたらく男女。とりわけ「デスペラード」や「フリーダ」などに出ていたサルマ・ハエック演じるマーサは、妹と称して詐欺師のレイと行動を共にするが、未亡人といちゃつくレイに嫉妬して、次々と相手の女を惨殺する悪女ぶり(脱がないのが不満だが)。ラテン系の濃い顔立ちと豊満なボディ、危機を乗り切るためなら警官の股間に顔を埋めることも厭わず、詐欺相手の未亡人とレイが情交に及んでいると女を撲殺してベッドから引き摺り下ろし、その死体を横目に今度はマーサが情交に及ぶという女。その恐ろしさにレイも一度はマーサを殺しかけるほどだが、肉体的快楽で結ばれた男女は、そう簡単には離れられない。これを追う刑事ロビンソン役のトラボルタは妻が自殺した過去をもつ男で、同僚の女と不倫中だが再婚には踏ん切りがつかない。おまけにその現場を子供に見られて親子関係も修復を迫られている。父親としても男としてもだめだが、刑事としては鋭敏な嗅覚でレイとマーサを追い詰める。
この監督は全く知らない人だが、時間も約100分とほどよく、その簡潔な語り口がいい。結局、凶悪犯2人は電気椅子で処刑されるが、「レイを愛しているから殺した」というマーサの愛憎の深さに、ロビンソン刑事は、自らが愛するものと真剣に向き合うことを決意する。やがて不倫相手とも息子とも関係を修復し、警察を辞めて家族幸せに暮らしたとさ、で幕を閉じるストーリー。処刑シーンはロビンソン刑事が警察を辞める決意を観客に共有させるシーンとして必要かもしれないが、何か他の方法はなかったか。期待せず観はじめたけれど、WOWOWはたまにこういうのがあるからおもしろい。
「ロンリーハート」の事件は実話らしいが、戦争がアメリカの市民生活に影を落としていたとはいえ、あの戦争のとき、アメリカはこんなことをやっていたのかと思う。戦場になったヨーロッパやアジア、日本に比べれば、なんと平和なことだ。一人殺せば殺人者、1000人殺せば英雄だといったのはスターリンだったと思うが、「ロンリーハート」が殺人者の映画だとすれば、戦後のアメリカの戦争映画は戦場の英雄たちを描いていた。そんなことを考えるのは、「ナチスと映画-ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか」(飯田道子・著/中公新書)を読んだからだった。この本は、標題どおりヒトラーとナチスが映画においてどう描かれてきたかを概説した入門書的な書物だ。前半は、ナチスが映画をどうプロパガンダの武器として利用してきたか。その後、戦後なぜアメリカ映画はナチスを悪役として描いたかも含め、戦後の映画におけるヒトラーやナチスの表象の変遷をたどっている。巻末にヒトラー・ナチス関連映画一覧が掲載されており107本の映画が紹介されていて、これがなかなか役立つ。「将軍たちの夜」や「ルシアンの青春」「勝利への脱出」(あったかも?)が入っていないとか、「ゲシュタポナチ女収容所」などのエログロものがないとか、まあ、いろいろあるが、とりわけ、ナチス時代の映画を系統的に観ているのは著者の強みで、これらをきちんと紹介している珍しい本といえるかもしれない。
僕が、ナチスの映像に出会ったのは、小学校の時にTVで観た「コンバット」と「20世紀の記録」というドキュメント、「少年マガジン」「少年サンデー」に登場するフォッケウルフやユンカースなどの戦闘機やタイガー戦車のイラスト、そして母親の「民族の祭典」に関するすべらない話だった。
「コンバット」では、ドイツ軍は敵であると同時に、しばしば同じ戦場で戦うことになってしまった人間同士、あるいは同じように故国に家族や恋人がいる人間として描かれていた。敵にも慈愛を注ぐサンダース軍曹の男気に義侠心を学んだのだ。ドイツ軍はどちらかというと闇雲に撃ってくるだけで、知恵がなく間抜けな軍隊として描かれていた。だから、ナチスを悪とは感じなかった。「20世紀の記録」は戦争の記録映像で、演説するヒトラーの姿もこれで観た。フォロコーストのこともたぶんこの番組で知ったのではなかったか。
母親からは、女学生時代にヒトラーはアイドル的存在であったことを聞き、「民族の祭典」を観た時の興奮というか、ギリシャ彫刻が生身の裸の人間にかわる映像に、男子生徒が興奮しまくりだったり、ヒトラーが登場するたびに女子がこれまた嬌声をあげたことが面白おかしく語られ、なんでも「民族の祭典」というだけで、当時の高校生は笑い転げたのだとか。以来、僕にとって「民族の祭典」は、母親のすべらない話として記憶されてきたのだった。おまけに、「日の丸だー、トリコローレだー、ハーケンクロイツだー」といった歌詞の三国同盟の歌といような歌を歌ったりしてね。
さらに、「マガジン」「サンデー」に描かれる小松崎茂などのドイツ軍の戦闘機、戦車などの挿絵は、他を圧倒するかっこよさだった。カギ十字のマークもデザイン的に視覚を魅了した。タミヤ模型のプラモデルの箱絵に描かれた戦車やそこに並走するドイツ兵の軍服のかっこよさ、少年たちはみんなドイツ軍のファンだった。
この監督は全く知らない人だが、時間も約100分とほどよく、その簡潔な語り口がいい。結局、凶悪犯2人は電気椅子で処刑されるが、「レイを愛しているから殺した」というマーサの愛憎の深さに、ロビンソン刑事は、自らが愛するものと真剣に向き合うことを決意する。やがて不倫相手とも息子とも関係を修復し、警察を辞めて家族幸せに暮らしたとさ、で幕を閉じるストーリー。処刑シーンはロビンソン刑事が警察を辞める決意を観客に共有させるシーンとして必要かもしれないが、何か他の方法はなかったか。期待せず観はじめたけれど、WOWOWはたまにこういうのがあるからおもしろい。
「ロンリーハート」の事件は実話らしいが、戦争がアメリカの市民生活に影を落としていたとはいえ、あの戦争のとき、アメリカはこんなことをやっていたのかと思う。戦場になったヨーロッパやアジア、日本に比べれば、なんと平和なことだ。一人殺せば殺人者、1000人殺せば英雄だといったのはスターリンだったと思うが、「ロンリーハート」が殺人者の映画だとすれば、戦後のアメリカの戦争映画は戦場の英雄たちを描いていた。そんなことを考えるのは、「ナチスと映画-ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか」(飯田道子・著/中公新書)を読んだからだった。この本は、標題どおりヒトラーとナチスが映画においてどう描かれてきたかを概説した入門書的な書物だ。前半は、ナチスが映画をどうプロパガンダの武器として利用してきたか。その後、戦後なぜアメリカ映画はナチスを悪役として描いたかも含め、戦後の映画におけるヒトラーやナチスの表象の変遷をたどっている。巻末にヒトラー・ナチス関連映画一覧が掲載されており107本の映画が紹介されていて、これがなかなか役立つ。「将軍たちの夜」や「ルシアンの青春」「勝利への脱出」(あったかも?)が入っていないとか、「ゲシュタポナチ女収容所」などのエログロものがないとか、まあ、いろいろあるが、とりわけ、ナチス時代の映画を系統的に観ているのは著者の強みで、これらをきちんと紹介している珍しい本といえるかもしれない。
僕が、ナチスの映像に出会ったのは、小学校の時にTVで観た「コンバット」と「20世紀の記録」というドキュメント、「少年マガジン」「少年サンデー」に登場するフォッケウルフやユンカースなどの戦闘機やタイガー戦車のイラスト、そして母親の「民族の祭典」に関するすべらない話だった。
「コンバット」では、ドイツ軍は敵であると同時に、しばしば同じ戦場で戦うことになってしまった人間同士、あるいは同じように故国に家族や恋人がいる人間として描かれていた。敵にも慈愛を注ぐサンダース軍曹の男気に義侠心を学んだのだ。ドイツ軍はどちらかというと闇雲に撃ってくるだけで、知恵がなく間抜けな軍隊として描かれていた。だから、ナチスを悪とは感じなかった。「20世紀の記録」は戦争の記録映像で、演説するヒトラーの姿もこれで観た。フォロコーストのこともたぶんこの番組で知ったのではなかったか。
母親からは、女学生時代にヒトラーはアイドル的存在であったことを聞き、「民族の祭典」を観た時の興奮というか、ギリシャ彫刻が生身の裸の人間にかわる映像に、男子生徒が興奮しまくりだったり、ヒトラーが登場するたびに女子がこれまた嬌声をあげたことが面白おかしく語られ、なんでも「民族の祭典」というだけで、当時の高校生は笑い転げたのだとか。以来、僕にとって「民族の祭典」は、母親のすべらない話として記憶されてきたのだった。おまけに、「日の丸だー、トリコローレだー、ハーケンクロイツだー」といった歌詞の三国同盟の歌といような歌を歌ったりしてね。
さらに、「マガジン」「サンデー」に描かれる小松崎茂などのドイツ軍の戦闘機、戦車などの挿絵は、他を圧倒するかっこよさだった。カギ十字のマークもデザイン的に視覚を魅了した。タミヤ模型のプラモデルの箱絵に描かれた戦車やそこに並走するドイツ兵の軍服のかっこよさ、少年たちはみんなドイツ軍のファンだった。
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