鈴木清順監督「ツィゴイネルワイゼン」は蒟蒻をひたすらちぎり、目玉をなめるおばけ映画だったが、その原作となった内田百の「サラサーテの盤」(筑摩文庫)を最近読んだら、ちゃんとちぎり蒟蒻を入れた豚鍋を食べるシーンが出てくる。目玉をなめるのは、同じ文庫所収の幻想奇譚「東京日記」にあって、いずれにしろ原作も映画もどちらも傑作だと思った次第。
ヴァイオリンの名手だったサラサーテが後に自らの名前がつけられるストラディバリウスで弾く「ツィゴイネルワイゼン」は、録音の途中で入ったサラサーテの声が聴ける珍盤として知られていて、それが百の小説のモチーフにもなっているが、小説でも清順映画でも「なんといっているか」は問題とされない。小説では、主人公が死んだ中砂の後妻に「サラサーテの盤」を返しに行き、そこでレコードをかけると、サラサーテの声が聞こえたところで後妻が顔を覆って泣き出すという場面でお話しは終わってしまう。あの世にいる人の声として扱われるところがおもしろさだ。
なんでも、これをサラサーテが録音した頃は、レコードの片面は5分しか録音できなかったので、弾いている途中で録音が終わってしまうことから「もう終わる」とか言っているらしい。真相を聞けば大しておもしろくないのだから、これはあの世からの声と思ったほうが楽しい。
このブログにもときどき顔を出すのり平さんは百ファンらしいが、確かにおもしろい。ぼくは「東京日記」のかずかずの幻想奇譚がとても気に入った。ところで、ツィゴイネルワイゼンのツィゴイネルがドイツ語で「ジプシー」を意味し、ワイゼンは「歌」の意味だそうだ。
ヴァイオリンの名手だったサラサーテが後に自らの名前がつけられるストラディバリウスで弾く「ツィゴイネルワイゼン」は、録音の途中で入ったサラサーテの声が聴ける珍盤として知られていて、それが百の小説のモチーフにもなっているが、小説でも清順映画でも「なんといっているか」は問題とされない。小説では、主人公が死んだ中砂の後妻に「サラサーテの盤」を返しに行き、そこでレコードをかけると、サラサーテの声が聞こえたところで後妻が顔を覆って泣き出すという場面でお話しは終わってしまう。あの世にいる人の声として扱われるところがおもしろさだ。
なんでも、これをサラサーテが録音した頃は、レコードの片面は5分しか録音できなかったので、弾いている途中で録音が終わってしまうことから「もう終わる」とか言っているらしい。真相を聞けば大しておもしろくないのだから、これはあの世からの声と思ったほうが楽しい。
このブログにもときどき顔を出すのり平さんは百ファンらしいが、確かにおもしろい。ぼくは「東京日記」のかずかずの幻想奇譚がとても気に入った。ところで、ツィゴイネルワイゼンのツィゴイネルがドイツ語で「ジプシー」を意味し、ワイゼンは「歌」の意味だそうだ。