ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

2024年上半期の整理ネタ4

2024-08-06 14:51:00 | 日記
田家秀樹さんの著書「80年代音楽ノート」の中で
甲斐バンドが、三たび取り上げられたのは、1986年の3組目…
「甲斐バンド『花火のように』解散~5日間の武道館とシークレット・ギグ」というタイトルの下

「『消えるとか、なくなるとか、そういうトーンダウンした展開は嫌なんで
真夏の夜の花火のように、パーッと夜空に舞い上がって燃焼したい。甲斐バンドは、解散します』
甲斐よしひろは、1986年3月3日の深夜に青山のライブレストラン『CAY』で行われた
新作アルバム『REPEAT & FADE』の完成記念パーティーでそう言った」…と始まり

「80年代には『三大解散劇』ともいえるバンドの解散があった
一つは83年に幕を閉じたイエロー・マジック・オーケストラだ
世界的な成功とともに『テクノポップ』という新しいジャンルを開拓したパイオニア
彼らは『解散』と呼ばずに『散開』と呼んだ

二つめが甲斐バンドである。年間100本前後のツアーを行い
79年からは毎年、日本武道館2日間公演を続け
『HERO(ヒーローになる時、それは今)』を1位に送り込み
海外レコーディングの歴史に残る3枚のアルバム『ニューヨーク3部作』も制作
80年代のバンドシーンを最前線で牽引していた

解散の原因はギター大森信和の耳の不調だった
甲斐バンドは福岡のライブ喫茶『照和』に集まった音楽仲間で結成
74年にデビューして12年、5月に放送された
テレビのドキュメンタリー番組のタイトルは『十二年戦争~栄光の軌跡~』だ
ギタリストを代えて続けるより幕を閉じるという決断だった」と綴られてますが

甲斐さんによれば…「甲斐バンドは、大森さんと作ったバンド」であり
その大森さんから、耳の不調を訴えられても、脱退には反対され
3度目にやっと「1年間の猶予」付きで、解散を決意なさった訳ですし

大森さんが他界されたあとには、それまでのような「期間限定の復活」ではなく
「本気で、もう一度、甲斐バンドをやりたいと思った」と、おっしゃっていたし
甲斐さんにとっての甲斐バンドは、大森さん抜きには考えられないんじゃないかと…?

ともあれ…「最後のアルバムとして、やはりニューヨークで仕上げた『REPEAT & FADE』は
メンバー各自が1枚ずつプロデュースした異例の12インチシングル4枚組
『解散』とは銘打たれていなかったが『旅立ちアルバム』という位置づけだった」…と田家さん

同じ1986年の6組目、渡辺美里さんの章の冒頭で
「日本の音楽シーンにおいて、1986年はアルバム作品が最も充実していた年ではないだろうか
そのアーティストにとっての代表作、転機となった作品、そして歴史に残るアルバムが
それも『複数枚組』という形で続々と発売された

たとえば先述した甲斐バンドが解散に合わせて発売した
12インチシングル4枚組の『REPEAT & FADE』もそうだろうし
サザンオールスターズの桑田佳祐が1年間限定で組んだソロプロジェクト
『KUWATA BAND』の2枚組ライブアルバム
『ROCK CONCERT』がリリースされたのも86年だ」

…として渡辺美里さんの2枚組アルバムの話へ繋げていらっしゃるんだけど
甲斐さんは、96年の再結成の際に、この「REPEAT & FADE」について
「僕にとっては残念だった1枚(笑)何でかって言うと、それぞれの1枚から1曲ずつ選んで
全体で1枚にした方が売れたんじゃないかと思うから…後から気づいた(笑)」と話されてました(笑)

それはさておき…「甲斐が『解散』の2文字を口にしたのは
完成記念パーティーの時と自身のラジオ番組での2回だけだ
3月13日の四日市市文化会館から始まったファイナルツアーのタイトルは『PARTY』
そのステージでも『解散』という言葉は口に出さなかった

武道館の歴史の中で、解散公演を5日間行ったのは、彼らが初めてだ
最終日となった6月27日、甲斐は嵐のような歓声の中で『サンキュー、じゃあね』と言ってステージを降りた
…と記されてますが、奥さんは、甲斐さんが、それ以降のライブで
この「ラブ・マイナス・ゼロ」を歌われる際に「サンキュー、じゃあね」と口になさるたび
「ああ、もう歌詞の一部になっちゃったねぇ」とフクザツな気分になるんだとか…(苦笑)

まあ、それと同じように「100万$ナイト」のエンディングの「叫び」を聴いてる時や
「氷のくちびる」の間奏で、甲斐さんが、大森さん以外のギタリストの方と並んで立たれる時にも
「ああ、単なる『お約束』みたいだなあ…」といった気持ちになるのが否めないらしいけど…(苦笑)

そして…「ドラマはそれで終わりではなかった」と「シークレット・ギグ」に触れられたあと
「80年代の三大解散劇。その3つめの主役となったのが、人気絶頂の88年に解散したBOØWYだった」
…と結ばれていて、すぐ次の章が「感情を吹っ切っていくようなスピード感~BOØWY初の武道館ライブ」

こちらにも「武道館では6月27日まで、甲斐バンドの解散コンサートが行われていた
それから5日後に登場したBOØWYはバンドの『ビート』が変わっていることを鮮烈に見せつけてくれた
甲斐バンドには60年代から70年代のロックが根底にあった
日本でいえば、はっぴいえんど、海外ではローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン
歌い手や演奏者の思いがこもっているような、重心の低いビートが土台になっていた」とか

「80年代になってからの甲斐バンドは『ハードボイルド』をキーワードに
メロディーや演奏に『心情』や『物語』を託そうとした
対照的にBOØWYは、布袋寅泰が奏でるギターの切れの良いカッティングと
松井常松の無機質なベース、高橋まことの乾いたドラムが引っ張ってゆくバンドサウンドで
観客も『聴き入る』というより『踊る』ことを優先している

男性ファンの『甲斐!』という感極まったような声が飛び交っていた
甲斐バンドの解散公演とは打って変わって、明るい嬌声があふれてゆく
わずか1週間の間に行われた二つのコンサートの違いには
時代が変わる現場に立ち会ったという実感があった」…といった記述があったり

「1980年」の章の12組目…「ジョンが亡くなった場所へ~小室等、吉田拓郎、井上陽水の
『ニューヨーク24時間漂流コンサート』~」では
「1980年12月8日といわれてジョン・レノンを思い浮かべる人は
もはやかなり上の年齢になるかもしれない…(中略)
筆者がジョンの死を知ったのは12月8、9日に行われた甲斐バンドの武道館公演の開演前だった
隣の席の関係者に教えられ、何が起きたのか理解できないままにライブが始まった

アンコールの最後に甲斐よしひろが感情を抑えるように
『逝ってしまったジョン・レノンのために』と言って
『100万$ナイト』を歌うのを聴いて現実なんだと思った」…と振り返られる一節があったり
…って、奥さんは「『かなり上の年齢』で悪かったわね(笑)」とツッ込みつつ(笑)

当日の控え室の模様…ジョンの訃報が掲載された新聞をお読みになった甲斐さんが
「信じられない…」といったご様子で首を振られ
十字を切って、その新聞を破っていらした映像…を拝見して、衝撃を新たにしたり
ラジオ番組で、その訃報について語られる甲斐さんの声が甦ったり…と
当時のことをまざまざと思い出していたみたいです

田家さんは「あとがき」で…「『80年代』をちゃんと書きたいという気持ちは
『毎日新聞』で連載していた『70年代ノート』を2011年に書籍化した時からあった
今の日本のポップミュージックのインフラが整えられた『開拓時代』が70年代だったとしたら
それらが一斉に開花していったのが80年代だった

それまで『あっち側』『こっち側』として相いれなかった芸能界、歌謡界と
フォークやロックなどの新しい音楽との境界線がなくなり、新しい『J-POP』が誕生した
『80年代』以上に刺激的で希望に満ちていた時代はなかったということに間違いないだろう

『70年代ノート』に比べると『私的』な要素は減っているかもしれない
それはひとえに自分の仕事や生活環境がそうさせたと言っていい
それまでの『編集者』や『放送作家』などの仕事から『音楽ライター』という在りように
特化していった時期だったからだ…(中略)

そういう10年間で『最も忘れられない1日』が86年9月12日だった」
…と、ニューヨークの「レコード・プラント」というスタジオで
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「ダブル・ファンタジー」に携わったスタッフの方に
「80年12月8日のことを聞かせてほしい」とおっしゃった話へ…

そのスタッフの方は「ジョンは、今、君が座っている椅子で雑談をしていて
じゃまた明日、と出て行った数分後にテレビのあのニュースが流れたんだ
みんなまたジョンのジョークだと思ったら本当だった」と話されたらしく
「俺はジョン・レノンが生前最後に座った椅子で40を迎えている。そう思ったら涙が止まらなくなった

出発の成田空港で尾崎豊に会ったことは本文でも書いた
同時期に中島みゆきのアルバム『36.5℃』のトラックダウンのために
同アルバムのプロデューサーの甲斐よしひろもニューヨークにいた
自分が好感を持っていたそれだけのアーティストとともに40歳を迎えている
それは信じられない夢のような出来事だった」

…と記されてますが、甲斐さん贔屓の我が家が抜粋したとはいえ
たびたび「甲斐バンド」や「甲斐よしひろ」という名前が登場し
…って、ここにご紹介した他にも、甲斐バンドやARB、めんたいロックや「照和」
甲斐さんを「セイヤング」のパーソナリティーにお選びになった渡辺勲さん…など
「関連事項(笑)」が、ちょこちょこ顔を出していて
この「10年間」は、田家さんとの蜜月だったんだなあと…
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2024年上半期の整理ネタ3

2024-08-04 14:05:00 | 日記
今回は、甲斐さんや甲斐バンドに、ちょっと関係する話題です♪(笑)
甲斐バンドのかつての機関紙「BEATNIK」や甲斐フリークのバイブルと呼ばれた
「ポップコーンをほおばって」でお馴染みの田家秀樹さんが
主要全国紙ではない各地新聞の文化欄で、波状的に連載なさっていたコラム「80年代ノート」が
今年3月、1冊にまとめられて発刊となりました

新刊紹介では…「『80年代音楽ノート』は、音楽評論家・田家秀樹が
80年代にライブやインタビューで目撃したアーティストの姿や発した言葉、制作秘話をつぶさに描く
ポップ・ミュージックの画期が鮮やかに甦る、懐かしくて新しい一冊」とか
「日本のロック、ポップスを創成期から現場で見続けてきた田家さんにしか書けない一冊です」

「彼らの挑戦の数々から浮かび上がる懐かしくて新しい80年代…知られざるエピソードも満載!
Spotifyコードで曲を聴きながら読めます
Amazon Music、Apple Music、Spotify対応のプレイリストも掲載」
「3月26日発売の田家秀樹著『80年代音楽ノート』は、'79年12月の甲斐バンドの武道館公演での
甲斐よしひろさんの印象的なMCから始まります
ぜひ、80年代にタイムスリップして、掲載のSpotifyコードで楽曲を聴きながら読んでください」…と評され

その新刊の「帯」にも、田家さんが取り上げられたアーティストの皆さんのお名前と共に
「新聞の人気連載が1冊に…ライブの熱気とミュージシャンの言葉。時代がよみがえる!」とか
「現場から届けられる、音楽の挑戦者たちの姿。時を経てわかる真実」というキャプション
そして、作家の重松清さんの「田家さんは、いつだって『あの日の、あの瞬間』にいたんだ」
…という推薦の言葉が記されています

この本が発売されると知った奥さんは、このコラムを読むために契約した東京新聞ネット版を解約
…って、連載開始当初は、甲斐友さんからLINEで送られて来た
甲斐バンドに関するコラムが掲載された新聞の切り抜きの写真を拡大して読んでいたんだけど

同時期に活動なさっていた、その他のアーティストの皆さんに関するコラムも読みたいということで
新たに、このコラムの連載が始まるタイミングで東京新聞購読に踏み切ったところ
このコラム以外にも、なかなか面白い記事が多かったらしく
スマホの小さな画面で読む不便さがなければ、このまま購読を続けたいと申しておりました(笑)

それはともかく…田家さんは「まえがき」として
「この数年『80年代』が思いがけないところから脚光を浴びている
いうまでもなく『シティポップ』のブームである
70年代の終わりから80年代の前半のユーミンや山下達郎、竹内まりや、大貫妙子、八神純子らの
シンガー・ソングライターの曲が、40年もの時間を経て海外で評価されるという現象から始まった

『はっぴいえんど』や『シュガー・ベイブ』系
あるいはジャズ・フュージョン系ミュージシャンの『洋楽に匹敵する日本のポップスを』という
執念に近い情熱で作り上げたサウンドが『洋楽よりも洋楽らしい』『もはや海外にもないグルーヴ』として
クラブDJのサンプリング音源として使われることで広がっていった

いつの時代でもそうであるように、後世の再評価は必ずしもその時代の現実と重なりあうわけではない
今話題になっている『シティポップ』にしても同様だったと言っていい
『当時はそんな言葉はなかった』『そういう意識で作ったわけじゃなかった』という
当事者たちの感想もしばしば目にすることができる

そうした新しい音楽を生み出したのが『80年代』だった
とはいうものの『80年代』=『シティポップ全盛』ではなかったことは断言できる
むしろ傍流だったという記憶の方が強い
テレビの歌番組や、ヒットチャートの上位を賑わす音楽として聴かれていたとは言い難い…(中略)
では『80年代』とはどういう時代だったのか
一言で言えば70年代に芽を出したさまざまな流れが連鎖反応のように一斉に開花していった10年間だった

どういうアーティストがどんな音楽の流れを切り開いていったのか。彼らは何を歌っていたのか
今では当たり前になった出来事がどんな風に生まれていったのか
幸いにも筆者は、70年代からアーティストインタビューやコンサート取材などの現場で
その過程を目撃することができた

サブスクの普及はそれぞれの曲から『時代性』や『編年性』を消滅させていった
だからこそ時を超えた音楽として聴かれているという前提はありながら
それでもその時に何があったのかは、誰かが残しておかないといけないと思う
80年代の10年をアルバム中心にたどったこの本が、その記録のささやかな助けになれば本望だ
従ってカレンダーは1979年までさかのぼることになる」…と綴られてますが

奥さんが、甲斐バンドのデビューに「ギリギリで間に合った」と言っているのは
リリースされるアルバムをリアルタイムで聴くことが出来た…ということもさりながら
田家さんのおっしゃるところの「その時に何があったのか」を
バンドの状況や、その周囲の環境、ひいては当時の世相などを
実際に、自分の目や耳、肌で感じることが出来たことを「ラッキー♪」だと思っているんじゃないかと…?

甲斐さんと同い年のボクに「ビートルズが来日した時ってどんな感じだった?」と訊ねたりするのは
「来日した」という事実について、雑誌の写真や、モノクロのニュース映像で見ただけでは判らない
その時代の「ニュアンス」みたいなものを含めて知りたいんだろうと思うんだけど
この本に関して言えば…「歴史の教科書」で「出来事」を知るよりも
実際に、その「出来事」を目の当たりになさった方の言葉で知ることの方がリアルというか
田家さんの主観込みで「その時代」を振り返ることによって
当時の自分の考えや思いが整理できるのかなあと…?

それはさておき…「J-POPが花開いた80年代
ミュージシャンたちと並走してきた田家秀樹さんが
名盤や記念碑的な公演を紐解きながら、当時の音楽シーンを綴ります」…というコラム
その第1回目は「『79年のドラマは全て終わりました。俺たちは80年代に行きます』
甲斐バンドの甲斐よしひろが、1979年12月21,22日の初の武道館2日間公演でそう言ったのは
本編最後の曲『100万$ナイト』の前でだ」

…という書き出しで始まるんですが、前述の「まえがき」にもあった通り
この「第1回」は「序章『1979年12月』」として掲載されていて
「どんな年代にも終わりと始まりがある
それまでの10年がどう終わって、新しい10年がどう始まったのか
劇的な分岐点という意味で、79年の大みそかをしのぐ年はなかったのではないだろうか

今、僕らが日常的に親しんでいるポップミュージックの基盤は、70年代に作られた
日本語のロックバンドにシンガー・ソングライター
それまで日本にはなかった音楽のスタイルやコンサートの形
その頃に原型が誕生した例は数え切れない

ただ、そうした先駆者たちの多くが不遇だった
RCサクセションは事務所の問題に巻き込まれ
THE ALFEEはレコード会社との契約解除で、思うように作品が出せなかった
日本語のロックの元祖『はっぴいえんど』にしても活動期間は約3年、オリジナルアルバムは3枚だけだ」と続き

「その一方で、時代の象徴となった吉田拓郎、井上陽水、松任谷由実や中島みゆき等にとっても
苦戦していた人達にとっても『70年代の終わり』は『舞台が変わる』以外の何物でもなかった
79年の12月に初めて使われたのが『武道館ラッシュ』という言葉だ
松山千春、ゴダイゴ、陽水・高中正義、桑名正博、原田真二、ジョニー・ルイス&チャー
唯一の単独2日間公演が甲斐バンドだった

『100万$ナイト』は、79年10月発売チャート1位になったアルバム
『マイ・ジェネレーション』に収録されていた
歌詞の中の『踊ることも出来ずに』倒れてしまう『傷ついたダンサー』は
失意の中で挫折して行った70年代の多くの若者たちを連想させた」…と記されてますが

奥さんは、新聞の切り抜きで読んだ時と同じく
「男と女は本当には判り合えない。だから、俺は祈るのね」とおっしゃっていた甲斐さんが
「祈る言葉はありはしない」という歌詞をお書きになって
それを、胸が締めつけられるような声で歌われていたのがショックだったことを思い出したんだとか…

それはともかく…「大みそかの日本青年館のステージで
『もう古い歌は歌わない』と言ったのは拓郎だ
浅草国際劇場(当時)のニューイヤー・ロックフェスティバルで
バンド名を『ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド』に変え
過去のオリジナル曲を封印すると宣言したのは
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
同じステージで、髪を染め化粧を施した
ド派手なロックバンドに変身して登場したのが、RCサクセションだった

それぞれの区切りと再出発。新しい時代が始まろうとしていた」…と結ばれ
次章から「1980年」「1981年」…と年別に様々なアーティストについて綴られて行くんだけど
1982年の8組目に再び甲斐バンドが登場♪
ただ、新聞に掲載された時は「NY生まれの肉厚な音」というタイトルだったのが
この本では「わしの太鼓がロキシー・ミュージックになった~甲斐バンドの『ニューヨーク3部作』」

…となっている他「(スタジオでの)そのシーンは今も鮮明に浮かんでくる
1982年10月、新作アルバム『虜-TORIKO』のトラックダウンのために
ニューヨークに行った甲斐バンドに取材で同行した時のことだ」という風に
( )部分が足されていたりと加筆修正の跡が窺え
やはり、新聞の「コラム」には、文字数などの制約があるんだなあと…

ともあれ…「彼らが使ったのは、マンハッタンにあるパワー・ステーション・スタジオ
かつて発電所だったことで、その名前がついた
起用したエンジニアは、ボブ・クリアマウンテン
甲斐バンドを率いた甲斐よしひろは、ボブが手掛けたアルバム
ローリング・ストーンズの『刺青の男』を81年に聴いて衝撃を受けていた
ロックの名盤と言われるロキシー・ミュージックの『アヴァロン』や
デヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』もボブの手による作品だ

トラックダウンとは、ドラムやベース、ギターや歌など
別々に録音されたテープを一本化する作業である
各楽器の音色や全体の音のバランスはそこで決まる
特に、70年代後半からは、レコーディングの過程で、デジタル機材の重要度が増した
パワー・ステーションは、コンピューターミックスの最先端と言われていた

アメリカへの出発の前日も、国内ツアーの公演を終えてからスタジオに戻り
一睡もしないまま成田空港に向かった甲斐は
『観光で行くんじゃない、ボブがいるからニューヨークに行くんだ』と何度となく繰り返した
現地でのスタジオ作業が始まった1日目のことだ
ロビーで待機している僕らの前に姿を現したドラムの松藤英男は、放心したような表情で
『わしの太鼓がロキシー・ミュージックになった』とつぶやいた
それは70年代のロックバンドの太く重いドラムとは違う、エコーの効いた『80年代の音』だった」

…と「シン・タイトル」がキャッチーに出て来たけど(笑)
甲斐さんは、1996年の再結成時のインタビューで…
「音はムチャクチャ良いんだけど、極端なテンション出して、ねじれてるよね
そういう時期があると思うんですよ、ナンでこんなにサウンド・テンション高いの?っていう時期が…
まさに、この『ラブ・マイナス・ゼロ』がそうだね。もう今こんなミックス出来ないよ
80年代の徒花だね」とおっしゃってましたよね?(笑)

それはともかく…「デジタル技術により、肉厚で深みのある音に進化したバンドサウンド
ハードボイルド小説のような骨太な物語性のあるロック
『虜』発表の後、83年の『黄金/GOLD』、85年の『ラブ・マイナス・ゼロ』と続いた
ボブとのアルバムは『ニューヨーク3部作』として語られている

甲斐が当時口にしていたのが『誰もやってないことをやりたい』ということだった
80年,箱根の芦ノ湖畔、81年,花園ラグビー場と続いた野外イベントもそんな例だ
ニューヨークで仕上げられた音を東京のど真ん中で鳴らしたい
現在、都庁が建っている新宿西口都有5号地に2万人以上を集めた野外イベント
『THE BIG GIG』が行われたのは、83年8月だった」…と結ばれてます

…と書いたトコで、まだ書き足りないなあと気づきましたので、続きは次回に…(笑)
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2024年上半期の整理ネタ2

2024-08-01 15:08:00 | 日記
甲斐さんや甲斐バンドの活動には直接関係がないネタシリーズの第2弾…(笑)
今回は、奥さんが、以前に甲斐さんのラジオ番組に投稿したことがある
前・明石市長の泉房穂さんに関する話題です

泉さんは、現職当時にツイッター(現『X』)を開設され
明石駅前に2台目のストリートピアノを設置したことを報告なさる際に
「ピアノは上手に弾けないし、歌もギターも下手だけど、音楽は好きだ
小学生の頃、鼓笛隊の指揮者となったが、リズム感がなく、一日で交代となった」と明かされ

更に…「高校の文化祭だが、甲斐バンドのコピーバンドのリーダーから
トークが出来、声も甲斐よしひろそっくりと口説かれ、ボーカルとして予選に出たが
音程を外した私のせいで予選落ちとなった
翌年、ボーカルだけ差し替わり、そのバンドは文化祭に出演した
以後、カラオケでも人前では絶対に歌わない!」という呟きと共に
甲斐バンドのライブアルバム「CIRCUS&CIRCUS」の写真をアップなさっていたんですが

奥さんは、甲斐さんが「バイキング」に出演されていた頃に
当時の泉市長が、職員の方にパワハラ発言をなさった…というニュースが取り上げられ
そのパワハラ発言の証拠と思われる音声データが公開された時には
甲斐さんにそっくりな声だなんて全く思わなかったらしく
「ドコが似てんのよ!?」とツッコミながらも(笑)
自分と同世代でいらっしゃる泉市長が、明石市民会館で開催された
甲斐バンドのライブを観に行かれていたのかも知れない…と親近感を覚えた模様…(笑)

ちなみに…その明石市民会館でライブがあったのが木曜日だったので「まさかね?」とは思いつつも
終演後に「ザ・ベストテン」の生中継が入るんじゃないか?と勝手にドキドキしていたみたいで(笑)
その1週間後の木曜日に、甲斐バンドが「ザ・ベストテン」に出演なさった時は
「結局、出るんじゃない!?(笑)」とクスクス(笑)
といっても「第3の方法」でのご出演でしたけど…

それはともかく…投稿をお読みになった甲斐さんは、まず「ストリートピアノ」に食いつかれ(笑)
「今、ナンか、あの…『街角ピアノ』…NHKのBSで、ずっともう…
もう何年くらいになるんですかね?もう5年か6年…もっとなるんですか?
僕、最初の方からずっと観てますけど…
街角に置いたりとか、空港に置いたりとか、駅に置いたりとかっていうね
そういう外国のアレを…ね?ずっとやってる内に、一番最初が広島だったか?神戸だったか?
日本もポツンポツンと、そういうのやるようになって、まあその流れですね、これね、ハイ」と話され

「文化祭」の件では…「ああ、そうなんだ…(笑)昔あったねぇ!文化祭の予選ねぇ!
もう、僕らの高校、ものすっごい(数の)バンドいたんで
文化祭の時も、予餞会の時も、予餞会の予選があるっていうですね
えー、そんな高校でしたけども、ね?…文化祭に…なるほど(笑)」…と遠い目?をなさって(笑)

「バイキング」での音声データについては…「ああ!ありましたね、ハイハイハイ、ありました!
ちょっとこう…声が、こう…嗄れた、ちょっとダミ声系の感じの人ですよね?これね?
『バイキング』でやりました!やりました!」…と記憶におありだったご様子

そして…「明石市民会館へ観に行かれていたのかも知れない」…という一文には
「イヤ、これ…これ、来てるでしょ!きっと」と断言されたあと(笑)
「泉市長は思い出しました!あの…ちょっとアクの強い感じの市長さんですよね?
えー、イヤ、そうですか、失礼しました!1回、ちょっとネットで、ちゃんと見て…(笑)
もう、こんなことで、印象コロッと変わりますからね、ハイ(笑)人って、勝手なもんです、ハイ(笑)」

…と、おっしゃっていたので「泉市長を見かけたら報告しなきゃ♪」と奥さん(笑)
ただ、その後、泉さんは市長を退任され、今は「政治評論家」「コメンテーター」として
著書や雑誌記事の執筆、講演会や選挙の応援演説、テレビ・ラジオ、ネット配信へのご出演
先の都知事選では、ハシゴで演説をお聴きに行かれる等々、全国各地を飛び回っていらっしゃるので
今、泉さんにお会い出来る確率が、一番高いのは、西明石駅の新幹線ホームかなあと…?(笑)

ちなみに…泉さんは、その後、件のツイートに関して…
「(人前では絶対に歌わない!)…だが、今でも家では時々こっそりとギターを弾いている
昔、妻と出会って間もない頃、フミヤの『TRUE LOVE』の弾き語りをしたこともあった
歌もギターも下手だけど、やはり音楽は好きだ」と連投なさったり
「これまでのツイートの中で『いいね』の数が第3位」と明かされたり

「高校時代のバンド」についての質問に…「甲斐バンドのコピーで、ボーカルでしたが
周りからは『カイはカイでも海援隊だろう』と言われてました
高校2年の文化祭で予選落ちし、翌年ボーカルだけ差し替え
トークだけは好評だったけど、どうも音程とリズムが苦手で…」…と、お答えになったり
「『裏切りの街角』という甲斐バンドの曲のメロディーが好きだった
『見上げたとき 街が泣いてた』という歌詞も好きだった」とツイートされたりなさってました

ともあれ…泉さんは、これまで、ご自身でスケジュール調整や収支報告をなさっていたものの
あまりに多忙になられたため、今年の4月6日から
ホリプロに所属され、マネージャーを付けて頂いたそうで
ご自身のXで発表なさった際には…「プロダクションに所属ということになると
(泉さんが)おとなしくなるのかな?」とか「言い過ぎるとスポンサーからクレームが来るのでは?」
…といった心配の声が少なくなかったみたいだけど

泉さんは…「何かと制約があるものと思っていたが
ホリプロからは『これまで通り自由に発言を』と言われています
クレームも今のところ聞いていません
忖度するくらいなら干された方がマシだと思っています」…と返され
また「ホリプロを選んだ理由を明かす 他にも幾つかお声がけいただいたが」という記事に関しては…

「ホリプロからは『そのままの泉さんを応援したいので
これまで通り、好きにやってください』とのこと
ありがたくてチョット感動したくらいだ…
(所属事務所選びは)ある意味、結婚に近いものがある
もちろん相手を気に入ってのことは大前提だが
相性や出会った時のタイミングというものもあるように思う…」と話されてました

ただ、一口に「ホリプロ」と言っても、様々なジャンルが設けられているようで
俳優、お笑い・バラエティー、アイドル、モデル、パパ・ママタレント、音楽アーティスト、声優、
文化人、アナウンサー・レポーター、スポーツ選手、芸術家、キャラクター、ジュニア・キッズ
…といった中で言うところの「文化人チーム」に属しておられるらしく
「『芸能人』ではありません」と泉さん

でも…「オファーがあれば、ドラマにも出てみたい」…とおっしゃったり
ホリプロ所属者一覧では…「石原さとみさんや伊集院光さんの近く」にお名前がアップされていて
「ナンか私だけ証明写真みたいで、かなり浮いてますよね」と笑っていらしたり

「契約の際に『石原さとみさんや綾瀬はるかさんとの共演はいつ頃でしょうか?』と
軽く振ってみたのだが、完全にスルーされました」と明かされたり…って
もしも、船越英一郎さんと共演なさる機会がおありになったら
甲斐バンドのお話で意気投合なさるかも知れませんね?(笑)

ともあれ…泉さんは、市長時代に「暴言」で騒がれたこともあってか?(失礼!)
「口調もキツイし、言い方もキツイし、しかも早口で大声
もう少し落ち着いて話した方がいいとは判っているのだが…お聞き苦しくて申し訳ありません」
…と話し方には気をつけていらっしゃるそうですが

出演番組のサブタイトルや、ネット記事の見出しなどでは
「なぜかいつも『ぶったぎる』とか『荒れ模様』とか『激怒』などと付けられる
本人的にはそんなつもりはなく、フツーに言ってるだけなんだが…」と呟かれたところ
「昔、泉谷しげるは予定通りに出演しても
『乱入』と言われると言っていたことを思い出して笑った」との返しが…(笑)

そのあと、泉さんは…「関西人だと『アホやなあ』に違和感はないが
『バカじゃないの』と言われると強い違和感を感じたりもする」とか
「播州弁でフツーに会話しているだけなのに、ケンカしているように思われたりもする
言葉ってホントにむずかしい
『激怒』と言われないように自分でも気をつけたい」…と投稿なさっていたんだけど

「アホ」と「バカ」に関しては、ほぼ全ての関西人が覚える感覚だと思うし
…って、さんまさんが、大竹しのぶさんの口調を真似なさって「バカじゃないの?」
…と、おっしゃっているのを拝見するたびに、そう言われた当時のさんまさんは
大竹さんから、ホントに軽蔑されているかの如く
受け取られていたのかも知れないなあと思ってしまいます(苦笑)

また、同郷の方同士が、そのお国言葉で会話なさっていると、発音や響きによっては
「ケンカしている」と勘違いされることは、多々あるんじゃないかと…?
かつて、甲斐バンドの皆さんも、リハーサル時や楽屋で「博多弁」の会話をなさっていると
「ケンカしていると思われた」と話されてましたよね?(笑)

ただ、泉さんが、例に挙げられた「失敗した相手」に対する「播州弁」というのが…
「ワエ、ダボかあ、ゴーワクのお、ドクショイことになってもてワヤクチャや
まあ、べっちょないけどな」…といったもので
標準語にすると…「おまえ、バカか、腹立つなあ
ひどいことになってしまって、メチャクチャだ」…となるんですが(汗)

泉さんによれば…「最後に『べっちょない』と言ってる場合、さほど怒ってない」んだとか…(笑)
まあ、生粋の関西人である奥さんは、前述の播州弁で、まくし立てられても平気みたいですが
フツーは「激怒」しているとしか思えないくらい怖く感じると思います(笑)

ちなみに…明石漁業組合連合会や魚の棚商店街、明石まちづくり推進室等々で作成された
「明石方言」の「番付表」では、東の横綱が「せんどぶり」西の横綱が「めぐ・めげる」
東の大関が「べっちょない」西の大関が「ちゃう」
関脇は「いぬ」と「いちびる」で、小結は「あんじょう」と「やたけた」…と、なっていて
「ダボ」や「ゴーワク」「ドクショイ」などに比べると、かなり「王道」の関西弁って感じ(笑)

関西人以外の方のために「翻訳(笑)」しますと…
「せんどぶり→久しぶり」「めぐ・めげる→壊す・壊れる」「べっちょない→大丈夫」
「ちゃう→違う」…って「ちゃうちゃうちゃう」や「ちゃうちゃうちゃうんちゃう(笑)」は
博多弁の「とっとっと」や「すーすーす」みたいなもんです(笑)

「いぬ→帰る」「いちびる→ふざける」「あんじょう→上手に」「やたけた→いいかげん」
…という意味なんだけど、もしも、これらの言葉を使うタイミングが訪れたとしても
関西人の前では、くれぐれもお使いにならないよう、強くお勧め致します(笑)
「バカ」と言われるのと同様、エセ関西弁には「イントレランス」な地域ですので…(笑)

余談ですが…泉さんが、ホリプロの大先輩でいらっしゃる榊原郁恵さんのラジオ番組
「ハートフルラジオ虫の知らせ」に出演なさった際に「高校時代のバンド」の話が出て
その文化祭の予選で歌われたのが「安奈」だったということで、リクエスト曲として流されたあと
「これを文化祭で歌うはずだったんですよ~!」と悔しがっておられました(笑)

そうそう!早口で多弁な泉さんが唯一、言葉少なくなられたのが、奥様に関するお話の時で
弁護士時代に「お願いして」結婚なさったものの
泉さんは、政治家を目指していらしたので、奥様には内緒で、衆議院議員に立候補!?
当選されて以降「頭が上がらない」みたいで(笑)

今も何かしら奥様に謝罪なさらないといけないことが起こるたびに
「それはいいから」と家事の分担が「増えている」んだとか…(笑)
ちなみに…金婚式の記念には「海外旅行へ行こう」と、おっしゃったら
奥様は「友達を連れて行っていいかな?」と返されたそうです(笑)
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2024年上半期の整理ネタ1

2024-07-30 14:15:00 | 日記
「上半期」と言っても、もう7月も終わりに近いんですが(苦笑)
今回は、甲斐さんや甲斐バンドの活動には、直接関係がないものの
「ブログネタ」として保存していた事柄を、ざっとご紹介しようかなと…

例えば、6月30日のファンミーティングで、甲斐友さんがゲットした
甲斐さんのソロアルバム「翼あるもの」のジャケットと少し違う画のジグソーパズルの件…
LPを模した箱に掛けられた「帯」に、甲斐さんのサインが重なっていて「開封できない」との事で
代わりに、奥さんが押し入れから発掘した、同じパズルを開封し、組み立てることになったんだけど

そのピースの色合いというのが、ベージュ→薄いグリーン→薄いグレー→水色→青→青紫→紫→
赤紫→ピンク…といった風に、ビミョーなグラデーションになっていて、ナカナカ難解だったことや
完成形は、LPサイズより、二回り大きなこのパズルの箱くらいの大きさかと思いきや
実際は、LP4枚分に近い大きさだと判明し(汗)
パズルの空き箱を始め、家中の箱を総動員する勢いで、パズルと格闘するも

完成形を4分割して、それぞれの箱の中で組み立てていると
左側の背景を作っていたつもりが、右上の部分だったりして(苦笑)
箱から箱へと移動させようとした時に、バラバラと崩れてしまい、また作り直し…といった具合で(汗)
「今日はこれくらいにしといたる」(笑)を繰り返しながら、ようやく完成!

「渋沢栄一」さんを1枚ハタいて購入したフレームに、またまた苦労して箱の中のパズルを移動させ
元々パズルに付いていたパズル用の「のり」は
製造年月日を考えると「怖くて使えない」と、新たに買った「のり」で固定したらミッションクリア
…のはずが、ナゼか、ピースが1枚行方不明!?
ビックリして部屋中をくまなく探すも見つからず…

「こんなことなら、最初からフレームを買っておけば良かった…」と後悔しつつも
「これはこれで『世界にひとつだけのパズル』だ」と思うことにしたんだとか…(笑)
まあ、甲斐友さんがパズルを引き当てなかったら
それに甲斐さんのサインが重なっていなかったら
おそらく?イヤ、絶対に完成させることなく、一生押し入れの肥やしになっていたでしょうしね(笑)

…といった感じのネタの2本目は、甲斐さんのラジオ番組で取り上げて頂いた「人間麻雀」の件…
オンライン麻雀ゲームの「Maru-Jan」が、現役Mリーガーの日向プロ、瑞原プロ等を招き
人間を牌に使って対局する「人間麻雀」を開催するということで
その麻雀牌役の136名には謝礼1万円、和了牌(アガリ牌)となった方々には、更に1万円
…というギャラもさることながら、漫画で読んだ「人間麻雀」をリアルに体験できると話題になり

「赤五筒になって大切にされたい」とか
「一筒になって、タンヤオつけたいからと瑞原さんに捨てられ、絶望して、河に寝そべったら
それが日向さんの当たり牌で、歓喜の輪に入る…最高じゃないか!」などと
実際に参加した場面を想像して盛り上がる方が多数おられたので

奥さんは「字牌になって、ツモ切りされるのはヤだなあ…」とか
「対面のプロの方にポンされたら、ものすごい距離を走らないといけないんじゃないか?」
…などと想像してクスクス笑ってるし(笑)
ボクはボクで「『山』に積まれる際には、どんな体勢になるんだろう?」とか
「顔を覚えるのが得意なプロが有利なのでは?」といったことを考えていたし

松藤さんは「ドラになった時、ひっくり返るんですかね?(笑)」と笑っていらしたし(笑)
…で、実際にはどんなものなのか?と思い、配信映像を観てみたら…
まず、人間牌の方は、自分の好きな牌が描かれた
胸元から太ももあたりまである大きさのボードに
牌が見えないよう薄い布を貼ったものを首に掛け
って、その「牌選び」の場面はなかったんですが
きっと「大切にされそうな」牌は、倍率が高かったんじゃないかと…?(笑)

そして…甲斐さんが「イヤ、それ(『山』に)は積まれないでしょ?
絶対2列で立ってるかナンかでしょう?だって、もし、積まれた時にはさ、下の方の列の人の…人が
ラスパイの…ラスト牌の時なんて、死んじゃうよ?
だって、ずーっと、2…2時間くらいいる訳でしょ?ずーっと下に…死ぬよねぇ?(笑)
えー、だから、やっぱ、すごい大変だなあと思って…」

…と、おっしゃっていた懸案の(笑)「山」に積まれる際には
東南西北それぞれの「家」の前に、2列に並べられた椅子を椅子取りゲームのように選んで座り
ドラになった方は、首に掛けたボードの目隠し布を剥がし、自分が何の牌かを表示して対局スタート
…となってましたけど、ラス牌近くの方はもちろん
王牌(対局中にツモることが出来ない14枚の牌)に当たった皆さんは
きっと「ツモ切りでもいい」と思っていらしたんじゃないかなあと…?(笑)

ただ、1試合目は「役満縛り」ということで「大三元」や「四暗刻」
「緑一色」「清老頭(チンロウトウ)」を目指さざるを得ないように配牌されていたため
大切にされるはずの「赤五筒」の方が、一巡目でツモ切りされたり(笑)
字牌の方が、あっさり切られたと思ったら、対面のプロの方に拾われて
長い距離を走って行かれたり…と、ちょっと意外な展開(笑)

ちなみに…捨て牌になった方が仰向けに寝転がる「河」や
ポン・チー、カンなどで牌をさらす場所には、バスタオルくらいの大きさのシートが敷かれ
ポンやカンで面子になった方々は、和気あいあいと手を繋いで横たわっておられました(笑)

ツモられる牌の方が「自分は不要な牌だ」と判っていらっしゃる時には
申し訳なさそうに、小走りでやって来られ、目隠し布を剥がして、予想通りツモ切りになると
「ですよねぇ」とすぐに河へ向かわれたり(苦笑)
逆に、待ち望んでいた牌の方がやって来られた時には、その牌と面子になる牌の方々が
「おいでおいで!こっちこっち!」と手招きなさったり(笑)

プロの方も手が進むと、それまで持っていらした牌の方に
「ホントに申し訳ない!」と謝られてから、お切りになったり
「こんなにツラい思いをして捨て牌を選んだことはないです」と頭を下げられたり

ある女性プロの方は、これまで「フリテン」になってしまった牌のことを
心の中で「元カレ」と呼んでおられたらしく(笑)
「『人間牌』で対局していると、その『元カレ』に顔が出来る(笑)」と笑っていらっしゃいました(笑)

また、ここ一番で、危険牌をお捨てになる際に、プロの方が『強打!』とおっしゃると
その捨て牌になった方が、ダイブするみたいに体を投げ出しながら横たわられた弾みで
掛けていらしたメガネを弾き飛ばしてしまわれたり(笑)
2試合目が始まる前に、トイレや水分補給のために休憩時間が設けられていたり
といった具合に、人間牌ならではの光景が面白かったです♪

白眉だったのは、石橋伸洋プロが、単騎待ちでテンパイなさった時に
どちらの牌で待つか?を決めかねられた挙げ句
「2人でジャンケンして下さい」とおっしゃって
勝った牌の方が残られたんですが、見事その牌で上がられ「役満縛り」に勝利なさった場面でした(笑)

主催者の栢(かや)孝文代表は、創業当初から
「人間将棋の麻雀バージョンをやるのが夢だった」と話されてましたが
もしも、第2回が開催されるなら、ぜひ参加してみたいです!(笑)
…って、麻雀をご存知ない方には「ナンのことやら…?」ですよねぇ…スミマセン!(苦笑)

まっ、それはそれとして、3本目のネタは…
奥さんが、ネットで発見した「生まれ月と日で占う今年の運勢」なるもの
最初は、よくある類いの占いと思ったみたいだけど
これをご覧になった「2月9日生まれ」の方が「なぜだ!」とポストなさっていたそうで

その占いの「一覧表」を見てみると…まず、左側の「生まれ月」の欄に
「1月…やっぱり」「2月…今年は凄く」「3月…誰よりも」「4月…思ったより」「5月…笑うほど」
「6月…いいカンジに」「7月…去年よりも」
「8月…理由はないけど」「9月…ネタにされるくらい」「10月…最高に」「11月…驚くほど」
「12月…普通に」…といったフレーズが並び

そのフレーズに続けて、右側の「生まれ日」の欄を読むと…
「1日…何もない」「2日…ヤバい」「3日…告られる」「4日…好かれる」「5日…興奮する」
「6日」はナゼか飛んでいて(苦笑)…「7日…強くなる」「8日…ぼっち」「9日…変態」
…という文章になっているという占いでした

件の「2月9日生まれ」の方が「今年は凄く、変態」との結果に
「なぜだ!」とポストなさったのもムベなるかな(笑)…と思った一方で
「1月1日生まれ」の方みたいに「やっぱり、何もない」よりは、ずっといいんじゃないかと…?(汗)
もっとも、何月生まれの方であれ「9日生まれ」という時点で
すべからく「なぜだ!」と叫ばれることは間違いないかと思われます(笑)

ちなみに…「4月7日生まれ」の甲斐さんは「思ったより、強くなる」だけど
「4月19日生まれ」の松藤さんは「思ったより、太る」となっていたので
秋からの甲斐バンドツアーに備えて、是非とも、ご自愛いただきたいですよね?

その「Circus & Circus 2024」というライブハウスツアーですが
ファンクラブ先行受付の概要が記された甲斐報が、もうすぐ届くということで
「そろそろ職場に根回しを…」と考えていた奥さん
同じ職場の先輩に、やはり今年50周年を迎えるALFEEファンの方いらっしゃるのを思い出し
「そちらと擦り合わせるのが先かな?」と気づき「それとな~く」話を切り出したところ

ALFEEのチケットは、そこそこ入手が困難らしく
その先輩は、東名阪を諦めて、広島や四国・九州へ行こうと考え中だと知って
ALFEEの50周年ツアーの日程を調べてみたら…
10月18日の広島と20日の高松は、甲斐バンドツアー初日より前なので、ノー問題として
その甲斐バンドツアー初日の10月26日(広島)には、神戸公演が組まれているようで
「神戸は絶対行くよねぇ…?」と奥さん(苦笑)
その翌日には、甲斐バンド高松公演が予定されているため、連休は必定…(苦笑)

更に…11月23日は、ALFEEも甲斐バンドも福岡公演…って、先のビルボツアー福岡公演の折にも
同じ日に、ALFEEの皆さんが福岡にお見えになってたみたいだし
東京を拠点に、週末中心のツアーを組むと、似たような日程になるのかも知れませんね?
しかも、翌24日は、ALFEEが福岡2日目、甲斐バンドは大阪公演ということで
年末の繁忙期に、2人揃って連休になる見込み(汗)

そして、ALFEEのホールツアーは11月で終了するものの
12月23日・24日の武道館、29日の大阪城ホールという3本のアリーナライブが残っていて
先輩は「城ホールは行きたいなあ」と話されていたらしく
甲斐バンドツアーファイナルの川崎もガッツリ重なることが判明…(苦笑)

おまけに、今のところ、全25公演のALFEE50周年ツアーは「追加や変更の可能性あり」みたいで
12月上旬からアリーナライブまでの間に、追加公演が組み込まれるやも知れず
どうやら、先輩との擦り合わせは諦めた模様…(笑)
もっとも、来年、甲斐バンドのホールツアーが敢行される頃には
擦り合わせる必要がなくなっているんじゃないかと…?(笑)
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1978年の甲斐バンドライブ!?

2024-06-27 14:05:00 | 日記
コトの起こりは、6月5日の夜…甲斐バンドの永久欠番ベーシストでいらっしゃる長岡和弘さんが…
「皆様…特に甲斐バンドを応援してくれている仲間の皆様
先月、本棚のケースの中から、1978年5月18日(46年前)に、私の地元大村市で開催された
甲斐バンドのコンサートのカセットが出て参りました

ヨレヨレになっていた音源を知り合いのエンジニアがコツコツと編集し繋いで完成版のCDにしてくれました
近いうちに私の番組で少しオンエアしようと思います
意外にシッカリと演奏し、シッカリと歌っていたのにビックリ!!ですよ」…とポストなさったことで

奥さん達…「オリジナル甲斐バンド」と「この当時の甲斐さんの声」に思い入れのある奥さん(笑)や
デビュー当時からのファンの甲斐友さん達はもちろん
当時のライブを知らない甲斐友さん達も大盛り上がり♪(笑)

更に、6月12日には…「本棚の引き出しから発見した46年前の大村市民会館での
甲斐バンドのコンサートを録音したカセットテープが、こんな2枚組のCDになりました
PAの音響卓から直接録音されたものなので、音もシッカリとしていました

会場の声援は聞こえにくいですが…今度オンエアします」…という投稿と
2枚の「完成版」のCD&「Earlydays DEMO TAPE」というタイトルのCDの写真
「そのカセットです」という、曲名が記されたカセットテープの写真がアップされ
より一層、キャイキャイ盛り上がったらしい(笑)

そのカセットテープのインデックスに書かれていた、当日のセットリストは
1曲目が「らせん階段」で「永遠のオープニングナンバー」との呼び声高い「きんぽうげ」は2曲目
「裏切りの季節」「ブラッディマリー」「裏切りの街角」「夕なぎ」「一日の終り」「吟遊詩人の唄」

「昨日鳴る鐘の音」「七月の便り」「円舞曲」「そばかすの天使」「東京の一夜」「昨日のように」
「最後の夜汽車」「悪いうわさ~ダニーボーイに耳をふさいで」「氷のくちびる」「ポップコーンをほおばって」…といったラインナップ♪

ライブアルバム「サーカス&サーカス」が収録された77年12月と同じ状況…
セカンドアルバム「英雄と悪漢」~「ガラスの動物園」~当時の最新アルバム「この夜にさよなら」まで、3枚のアルバムからの選曲…ではあるものの
カセットに収録されたのは、翌年春のツアーということで、内容を変更なさったんでしょうね?

ともあれ…「オンエア」なさるということは、当然、甲斐さんに一言お断りを入れておられるはずですし
長岡さんが、ビルボードツアー福岡公演にお見えになっていたのは
「この件もあってのことだったんじゃないかな?」と奥さん

すると…まさに、長岡さんがトヨタホールに来られた当日
「6月27日のオンエアでライブ音源をお聞かせします…お楽しみにお待ちください
この音源は甲斐くんにも届けたので、彼も自分の番組でオンエアするかも知れませんね」とのポストが…!?

奥さんが、その27日の放送を待ち切れず(笑)、いそいそと1週前のオンエアにかじりついていると…
番組冒頭から、長岡さんが「私ね、少し前になりますけど
先月、福岡へ甲斐よしひろくんのソロライブを観に行って来たんですよ!5月18日でしたね
『ビルボードライブツアー』と言って、ナンかこう…いつもと違うメンバーと曲を…
えー、ステージと客席が超近い感じがする楽しいライブでした」と話し始められワクワク♪(笑)

更に…「また、演奏曲が…結局、リクエスト中心によるものだったそうですね
その日のね、ラストの曲を私はとても印象的でした、うん
この日の編曲は全部、甲斐バンドの時のアレンジとは全然違っていて
ちょっと、ひと味違う楽しみ方が出来ました
今夜の1曲目は、そのライブアレンジでお聴き下さい『この夜にさよなら』です」

…と、ライブバージョンを流されたもんだから、懐かしさというか
まだ青く甘い甲斐さんの声と、若い頃の歌い方に
当時の「マイクスタンドを抱えた甲斐さん」の姿が目に浮かび
また「長岡さん」と、アルバム「この夜にさよなら」が
奥さんの心の中では、深く結びついていることもあって、思わずうるうる…(苦笑)

ただ、そのあと、しばらくして「ナンで、この曲をじっとして聴けないのか判った!」と奥さん(笑)
先のビルボードツアーで、周りの皆さんがじっと聴き入っておられるのに
ついつい体が動いてしまうのを止められず、若干?恐縮していたみたいだけど(笑)
「そう言えば、この当時からずーっとこうだったから、DNAに刷り込まれてるんだと思う(笑)」
…と申しておりました…って、そんなに動きながら号泣するってどーよ?(笑)

それはさておき、曲が明けると…
「この曲を聴いてるとね、このアルバムのレコーディングの時の景色…
こう…浮かぶ…浮かぶんですよ、ちょっと、お話しますね」…と長岡さん
「昔ね、こう…夏にね、レコーディングしてることが多かったんですけど
秋になると、発売するために、夏にレコーディングしてたんですね、きっと…

みんなでスタジオに籠って、そこで曲も作ったり
遊んでる最中に突然『あっ!曲が出来たからスタジオ集合!』みたいな感じで集まって
そこでレコーディングしたりとかね」と話された途端

「ああ!解散したあと、甲斐さんが『バンドの時は、夜中に曲が出来たら
すぐにメンバーに電話して、スタジオに集まるっていうのがフツーだったけど
ソロだと、すぐにセッションのメンバーを呼び出す訳にいかないのがもどかしい』って言ってた!」と奥さん
長岡さんの一言一言に、イチイチ食いつくので、文字起こしが進まないこと、この上ない(笑)

ともあれ…「ある時は、3日間かかって、1小節もレコーディングが出来ないとかね
今考えると、マネージャーとかディレクターにはね
扱いにくい、ムラの強~いバンドだったっつうね(笑)
私がこのバンドの担当だったら、ホントに悩んで、ストレスとの闘いで、担当ヤメてたと思うね(笑)
『僕、ヤメさしてくださ~い!』って…こんなね、いい加減なね

フツーならね、スタジオって、1日ナン十万もね、するんですよ?
…で、そのスタジオ、デーン!と押さえてる訳ですよ、1週間とか10日…
…で、スタジオでレコーディングするんだったら
前もって、レコーディングする曲は、東京でデモ作品を作ったり、試作をして
そいで、スタジオ入りするのが…あっ、曲は出来てんですよ、そん時はね、それが当たり前なんですよ

これが、ナンも出来てないので行き当たりばったりで『さあ、どうしよう』から始まるんですからね
スタジオ代とか、経費面とか、発売予定の日とかで、調整は難題だらけだったと思います
今になって、スタッフの皆さんに深くお詫びを申し上げます、ホント…」とおっしゃった時には
「だって、甲斐さんは『カケラみたいなものだけ持ってスタジオに入る』って人だし…(笑)」とクスクス(笑)

でも「ガラスの動物園」の超長~いレコーディング時間に比べれば
「この夜にさよなら」は、かなり早く出来上がったそうで
スタッフの皆さんから「やれば出来るじゃん!」と褒められたんだとか…(笑)

もっとも、その後…「破れたハートを売り物に」のレコーディングでは
出来上がったはずのマスターテープを工場に送られた翌朝に、ストップをおかけになったり
ついには、海を渡って仕上げることをお決めになったり
「いいものを作る時間をくれよ」とツアーをお休みされたり…と
納得がいく音作りのためには、手間も時間も惜しまないという姿勢を貫いておられました

それはともかく…「スタジオにはね、こう…ジャケットを撮影するカメラマンも来ていて…
同行していて…そうそう、カメラマンは、インスタ(ジオ?)の写真もずっと装丁していたんですけどね、料理が上手でした
朝からね、散歩してね、どっか山ん中から、変なキノコ採って来るんですよ
…で、料理に入れるんですよ、ナンか知らんけど…
麻婆豆腐とかオムレツが、ムチャクチャ旨かった!

…で、ディレクターはね、スタジオの屋根の上に上がって、マネージャーと並んで
体中にオイルを塗って、体を真っ黒に焼いてましたよ
時々、降りて来て『どう?調子は?うまくやってる?』って
数分間、スタジオに声をかけに来てくれる、そんな感じ…それでいいんです

前に話した『猫』っていうね、早稲田大学の出身のバンドのソロやってた新田和長さんって言うね
名物ディレクターです。その人の、あのー、プロデュースでやってたんで…
その人…彼の仕事ぶりから、ナンか、自分なりのディレクタースタイルを見つけたような気がする、私は…
長岡、二十何歳の様子です」と話されたあと

「あっ、この前ね、自宅でね、1978年、大村でコンサートしてた、そのカセットが出て来た
今、CDに焼けるようにして、番組で…まあ、録音状態のいいヤツ、ナン…
1曲くらい、おかけしようかなあと…」と、件のカセットテープに触れられたものの
奥さんは「えっ!?1曲くらいって…」と、ちょっとガッカリ…(苦笑)

まあ、30分番組なので、全て聴けるとは、さすがに思っていなかったみたいだけど
「2週に渡って特集されるんじゃないか?」
「5~6曲は聴けるのでは?」という期待はあったらしい(笑)
それでも、貴重な音源を耳に出来る機会を与えて下さった長岡さんには感謝しかないですよね?

そして…「で、来年はナンか、デビュー50周年記念コンサートツアーをやるらしいんです
大村にも来て貰いましょうかねぇ」と長岡さん(笑)
番組アシスタントの橘さんが「そん時は是非、長岡さんもステージに上がって貰って、特別公演で…」
…と、おっしゃると「それは、イヤイヤイヤ…(笑)」と笑っていらしたんですが
奥さんは「福岡公演で実現させて欲しいなあ♪」と、本気で申しておりました(笑)

ただ、そのあとに…「で、お客さんはみんな、あの…年金手帳かナンか持って(笑)ね?
…で、年金手帳に、御朱印かナンか、ピッと押して
あと『お孫さん同行のこと』とかね
『お孫さんと来て下さい』…みたいなね」…と、ファンの高齢化についてイジられ(笑)
…って、奥さんは、甲斐バンドツアーのグッズに「御朱印帳」があったことを
長岡さんがお知りになったら…と考えてクスクス(笑)

もっとも、奥さんも、その「御朱印帳」が登場した際に、甲斐友さん達と
これから先のツアーでは「年金手帳カバー」とか「杖」や「拡大ルーペ」といった
「高齢者向けのグッズが出て来るんじゃないか?(笑)」と話していたらしいので(笑)
とやかく言える立場ではないんですが…(苦笑)

ただ…橘さんが「ナンか…でもナンかイイですよね
大村だから出来る長岡さんと甲斐さんのコラボ…
っていうか、トークショーとかも楽しそう」とか
「長岡グッズ作りましょ!長岡グッズ!」と粘られても
「イヤイヤイヤ!ナンか色々、変に期待されると困る」と長岡さん

「高校生とか中学の時にさ、憧れのステキだった人はさ、50年後に会わない方がいいんです
ナンか…『えっ!?ガッカリ…』みたいなね…『何?あの人』みたいなね
(『でも、よく言いますよね?すっごいマドンナ的な存在で、美人で綺麗だった人が
一番、こう…変わるっていう…逆に、ちょっと物静かで、ナンかこう…おとなしかった子が
すごい、大人になって、綺麗になってるってこと』…と橘さん)

そうなんですよ!もしも、皆さんの記憶に、すごいカッコよく…
あのー、美しく姿が残ってるんだったら、壊したくない!(笑)
だから、ちょっと…僕の美しさが壊れるから(笑)」…って
演奏なさることから遠ざかっていらっしゃるので
ステージには上がれないとお考えなのかと思いきや、ビジュアル面を気になさっていたとは…(笑)

でも、ご自身のXに上げておられるお写真を拝見する限り
ファンの皆さんのイメージが壊れるとは思えないくらい
当時の面影を残されたまま、ステキに年を重ねていらっしゃるような気が…?
ともあれ…今夜の「Happy Go Lucky!」は必聴ですね♪
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