この記事をお書きになったノンフィクション作家の森功さんは…
「海援隊、チューリップ、井上陽水、甲斐よしひろの4グループを中心」にした
「コンサートには、福岡出身のチャゲ&飛鳥や元チェッカーズの藤井フミヤ
女優の牧瀬里穂、大分出身の南こうせつなども駆け付けた
3万6000人を集めたビッグコンサートである」…と記されてますが
メインの4グループの皆さんが、それぞれ7~9曲のステージを担当なさる中に
ゆかりのあるゲストの方が登場されたそうだし
(…って、ちなみに、甲斐さんの持ち時間のゲストは吉岡秀隆さん、海援隊は武田さんのお母様
財津さんのコーナーには、チューリップの皆さんがお見えになっていたらしい)
ステージとステージの合間は、綺羅星のごとき(笑)皆さんが
入れ替わり立ち替わり、MCを務められたり
飛び入り参加の?チャゲアスのお二人やフミヤさんがお歌いになったり
最後は、メインの皆さんのヒット曲メドレーを参加者全員で歌われ
更に、この日のために、甲斐さん達4人がリレー方式で作詞作曲なさった
「South Wind」という曲を披露されるわ
1回の開閉に、ン百万円かかるというドームの天窓は開くわ…と盛り沢山な内容にも関わらず
チケット代が、6千円+消費税って、コスパ良すぎじゃね?(笑)
それはさておき…ご自身も福岡出身でいらっしゃる森さんは「福岡県はやたら著名人を輩出している
同じ福岡県でも、数多くのミュージシャンを生んだ博多や久留米と
作家の松本清張や俳優の高倉健を世に送り出した北九州地方では、流れる空気が異なる」
…と評されてますが、甲斐さんは「福岡っていうのは芸能人が多い。誰がいるか?
松田聖子、高倉健、草刈正雄、小松政夫、タモリ、小柳ルミ子、梓みちよ、中尾ミエ
うーん、ズラッといるね。ナンかみんな、歯を立てて食いしばって生きてる気がするけど(笑)
やっぱり、こう見てみると、骨太だし、ある意味では、なんだかんだと器用な人が多いねぇ
やりたいこと、きっちりやってくっていう感じでさ
その器用っていうのは、不器用と背中合わせにある
『好きなことをやりたいがために頑張った器用さ』のことではあるけど」とおっしゃってます
ともあれ…
「中でも、福岡市博多はビートルズの出身地になぞらえ『東洋のリバプール』と評される
井上陽水、チューリップ、海援隊というビッグ3には、知られざるそれぞれの生みの親がいた
それが福岡ドームコンサートを仕掛けた3人の音楽プロデューサーだ」…と森さん
イヤ、甲斐さんも「ビッグ4」のお一人として
その「ドリームライブ」開催の記者会見をなさってるんですけど…?(苦笑)
「ビッグ3に加え、甲斐よしひろや長渕剛、松田聖子や陣内孝則…
なぜ綺羅星のごとくミュージシャンが福岡から飛び出したのか
彼らを育んだ場として、西鉄天神駅前にあるライブハウス『照和』をあげる向きが少なくない
それは間違ってはいないが、照和のオープンは'70年であり
彼らはその前からすでに音楽活動を続けていた
3人の名物プロデューサーのうち
最初にフォークソングイベントを始めたのが、テレビ西日本の藤井である
藤井は'67年9月、北九州市小倉にある百貨店の『井筒屋文化ホール』で
『フォークソング・フェスティバル』を始めた
藤井が言う。『'60年代半ばに日本にビートルズブームが起き
九州でも何かやろう、と音楽イベントを始めました
私は小倉勤務だったので、KFS北九州フォークソサエティという団体名でそれを主催しました
したがって初めは北九(州)のバンドが中心でした
そうしているうち、福岡市にも西南学院大学の財津がやっている
フォー・シンガーズというバンドがあると聞きつけました。それで、財津に声をかけたのです
財津には北九へのライバル意識があったと思います。頭抜けてうまかった』」
…と、ここから、3巨頭の皆さんと、皆さんそれぞれの
「推し(笑)」のミュージシャンたちとの関係に触れて行かれるらしく
「『親不孝通り』のライブ喫茶」という小見出しに続いては…
「折しもその頃、ラジオの深夜番組がスタートした
そこで福岡市内のスタジオに音楽好きの大学生を集め、九州朝日放送の岸川が『歌え、若者』
RKB毎日放送の野見山が『スマッシュ・イレブン』という音楽番組を始めた
福岡市内のフォークソンググループが番組に出るようになった」…と記されてますが
岸川さんは、照和のステージをご覧になりに足を運ばれ
甲斐さんに「歌え、若者」に出演するよう直談判に来られたり
「ハッピー・フォーク・コンテスト」に出場するようお勧めになったのと同様に
「これは!と思った人間には、コンテストに出るように勧め、積極的に支援した」り
一方で「お前、無理だな、諦めろ、人生考えた方がいい」とか(汗)
「一番好きなことは取っといた方がいいよ」とか
特に「ビッグ4」の出現で、博多が「日本のリバプール」と呼ばれた頃には
「のぼせ頭に水をかけることばかりしていましたね(笑)」とおっしゃっていて
「東京で成功するのは何百人にひとりでしょう
地方の民放局の1ディレクターが『お前、東京へ行け、成功する』なんてとても言えない
「一番好きなことは取っといた方がいいよ」とか
特に「ビッグ4」の出現で、博多が「日本のリバプール」と呼ばれた頃には
「のぼせ頭に水をかけることばかりしていましたね(笑)」とおっしゃっていて
「東京で成功するのは何百人にひとりでしょう
地方の民放局の1ディレクターが『お前、東京へ行け、成功する』なんてとても言えない
そりゃ悩みましたよ。それに東京は遠かったんですよ。距離的にも、メンタルでも遠かった
そして、レコードを売り込むのにどうしたらいいのか、プロダクションのことやらなんやら
そのノウハウを私達も知らなかった(笑)」とも明かされてます
再び、藤井さんが…「私はテレビでしたから、ラジオと違って
上層部はフォーク番組なんて全く関心がありませんでした
だから電波ではなく、ライブイベントに力を入れました
ラジオのスタジオに学生を集めても仲間内の十数人ですが
ホールを借りれば大勢でライブイベントをできる
それで福岡と北九を行ったり来たりしながらライブをやっていました」…と話されているのと
かつて、岸川さんが、60年代のフォーク・ムーブメントの中
グループでなくてもギターの弾き語りで、気軽に音楽がやれるようになり自分で作った歌を歌いたい、誰かに聴いて欲しいという若者たちが
オーディションなしで誰もが参加できる「九州の民放のどこも作ってなかった」番組…
「歌え、若者」に飛びつき「応募ハガキが殺到」した一方で
「当時、長髪の若い連中がジャンジャンうるさくギターを弾いて歌う番組に
酔狂なスポンサーはつかなかった(笑)
だから、どうしても番組の廃止論が出る
4月と10月の番組編成の時期は、いつも孤軍奮闘でした」とおっしゃっていたことが重なり
まだまだ表現の場が少なかった若者たちのために尽力なさっていたことがスゴイなあと…
「当時、長髪の若い連中がジャンジャンうるさくギターを弾いて歌う番組に
酔狂なスポンサーはつかなかった(笑)
だから、どうしても番組の廃止論が出る
4月と10月の番組編成の時期は、いつも孤軍奮闘でした」とおっしゃっていたことが重なり
まだまだ表現の場が少なかった若者たちのために尽力なさっていたことがスゴイなあと…
それはともかく…「全国的に見れば、フォークライブは東京より関西が早く
高石ともやや岡林信康、五つの赤い風船が有名になりつつあった
彼らも福岡のライブに出たいと言って、出演してもらったりしました
照和はそれを見て'70年にオープンしたから、順序から言えば逆なんです」と藤井さん
その辺りのことについては、甲斐さんも映画「照和」についてのインタビューで…
某旅行代理店をお辞めになったあと、照和に戻られた頃には
「チューリップは東京に行く準備をしていて
行くことは決まってたけど、いつ行くのか判らない、非常に微妙な時期だった」こともあり
もう定期的に照和に出演なさってはいなかった…とか
「海援隊は、チューリップがドラムを引き抜いたから、フォークバンドになったんだ(笑)
僕が高校生の時はロックバンドで、ジャックスのカバーをやったりしてましたよ」と話されていて
…って、そもそも、高校2年生の甲斐さんが、ラジオ番組に出演なさった勢いで
初めて照和のステージに立たれた時は、まだ照和が開業したばかりの頃だったみたいだし
大学生でいらした財津さんを始め、チューリップの皆さんにとっては
「照和」への出演が、そのまま直接プロデビューに繋がったのではないんですよね?
まあ、それを言うなら、甲斐バンドも、メンバーの皆さんは
それぞれ別のバンドで、照和に出演されていただけで
「甲斐バンド」として「照和」のステージに立たれた訳ではないんですが…(笑)
ただ、甲斐さんが、照和でウェイター兼レギュラー出演者でいらした頃
甲斐さんはもちろん、イチローさんも、妙安寺ファミリーバンドの門田一郎さんも
「ここ(照和)だけじゃなくて、ここのステージをキチンとやりながら
ホールを借りて、コンサートを開くっていうことも大事
その両方をちゃんとやって行かないとダメだよね」とお考えだったらしく
すべての始まりが「照和」ではないとは言っても
やはり「照和」抜きには語れない…といったところでしょうか?