ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

週刊現代(9/3.10号)3

2022-09-04 15:30:00 | メディア
「『親不孝通り』のライブ喫茶」という小見出しの続きには…
「福岡の音楽プロデューサーのうち、RKB毎日放送の野見山は井上陽水を発掘し
九州朝日放送の岸川は財津和夫(と甲斐さん?(笑))に惚れ込んでレコードデビューさせる
一方、藤井は海援隊の武田鉄矢を見出だした

藤井が続ける。『武田は市内の須崎公園で毎週土曜日に野外コンサートをやっていた
ヴィレッジ・ヴォイスというフォークサークルの3代目会長をしていましてね
僕が公園まで見に行くと、近くにある競艇帰りの客が「都はるみを歌え」とヤジを飛ばしていました
そんな中でもヴィレッジ・ヴォイスは自費で、九州で初めてフォークのレコードを出した
僕がレコードの解説文を書きました』

のちに武田の結成した海援隊のメンバーに加わった千葉和臣に聞いた。
『私はギターが趣味で東福岡高校1年生の時
あとからチューリップに加わる姫野達也と同じクラスになり
ライラックというバンドを作っていました
彼のお姉さんからヴィレッジ・ヴォイスのことを聞いてライラックとして参加した
武田さんとはそれ以来です』」と記されてますが
そのライラックは「照和」オープン時の出演バンドの1つなんですよね?

ともあれ…「千葉が半世紀前の思い出を語る。
『公園の野外コンサートだから会場費が安い
それでヴィレッジ・ヴォイスでは100円コンサートというのをやっていました
途中から入場料100円だと税金がかかると、いい加減なことを誰かが言い出し
「99円にしよう」なんてやっていました』」と振り返っておられるんだけど

妙安寺ファミリーバンドの門田一郎さんが、リンドンのアマチュア最後のステージとして
照和の出演バンドや福岡大学のフォークソング愛好会の皆さんを集めて
「21人の晩餐会」というコンサートを開催なさったことを書かれた記事に

「(会場のキャパ数の倍ほど用意した)チケットを持って税務署に行く。入場税の支払いである
当時は100円以上は税金の対象になっていた
当然、売れ残ったチケットを持って行くと、その分の税金を返してくれる
納税済みのスタンプをチケットに押して貰ったあと、チケットを配布する」との記述がありますし
「いい加減なこと」ではなかったんじゃないかと…?(笑)

ただ、当時の武田さんは「アマチュアが金を取って演奏を聞かせるなどという
『照和』のやり方はおかしい!」と、かなり厳しく非難なさっていたのに
「ヴィレッジ・ヴォイスも入場料を取ってたの!?」と奥さん(笑)
照和は「フォーク喫茶」だから「ドリンク代」が入場料代わりだった訳ですが

「福岡に織り成す人間模様と背景」という記事には…
「『照和』という喫茶店、1,2階は普通の喫茶店だが
地下に20坪ほどのフロアがあり、これが人呼んで『フォーク喫茶』…(中略)
コーラやジュース1本で、平均2時間は座って聴いているのだ
要するに、喫茶店として営業しているというより
単に若者たちに地下室の空間を貸しているという感じ

『地下は全く儲かりません。経営者が学校経営者でもあるので
地域文化への貢献という意味もあって営業しています
ここからチューリップや海援隊が生まれ、またそれに続こうという若者がいっぱいいる
儲からなくても、やめられないでしょう』(藤松武支配人)」…と記されていて
どうやら「営利目的」ではなかったようですし

甲斐さんのトラウマになっているという(苦笑)
ジャムトーストと甘くないレモンスカッシュの「バン食(出演バンドに出される食事)」といい
1回のステージのギャラ(ソロ600円、バンド700円)といい
なかなか待遇改善が為されなかったのもムベなるかなと…(苦笑)
あっ!ちなみに…その後、武田さんが照和に出演されるようになったのは
「冬に野外でコンサートをやるのはツライ」からだったみたいです(笑)

それはさておき…「コンサートに出ている以上
他のバンドより目立ちたかったし、競争心はすごくありました
コーラスではチューリップに負けるけど、野外ステージでは俺たちの方が上だと…」と千葉さん

前述の「福岡に織り成す…」の記事にも…「福岡の若者をフォークの世界に近づけたのは
なんと言っても『チューリップ』の存在でしょう
ひとつ良いものが出ると、それに続こうという連鎖反応は、当然起こってくるし
また『チューリップ』にやれるものなら、俺たちだって、という気持ちもまた当然起こる
『海援隊』が東京へ出て成功したのは、そうした現象の一例ですよ」という
RKB毎日ラジオ制作部・竹内ひろ彦さんの言葉が掲載されていたり

甲斐さんも「博多の人間は、良いと思ったものを参考にはするけど
実際に表現する時は、あくまで自分のやり方で勝負するっていう人が多いよね」とおっしゃっていて
「ライバル意識」が、オリジナリティに、より磨きをかけるというか
ポジティブに作用する方が多いんだなあと…

ともあれ…「ライラックを解散し、千葉は海援隊に加わり
姫野はチューリップ入りした…って、順序が逆のような気が…?(笑)
そんなミュージシャンたちが集結したのが、ライブハウス照和だったのである
照和は喫茶店だったが、使っていなかった地下1階をライブハウスに改装し、'70年11月にオープンした
照和のある天神には、水城学園という大学の進学予備校があり、予備校生たちがライブに熱狂した
そのせいで西鉄天神駅から水城学園までの通りは『親不孝通り』と揶揄されるようになる

そして照和から、まず初めにチューリップがレコードデビューし、海援隊が続いた
実はビッグ3のうち井上陽水は照和のオープン1年前の'69年にデビューしている
再び海援隊の千葉が語る。『僕たちは毎日放送の野見山さんが
番組に出している陽水さんを知りました

最初は井上陽水ではなく、アンドレ・カンドレという変わった名前で
「カンドレ・マンドレ」という曲でデビューしました
でも全然売れず、福岡に戻ってきたんです』」と書かれてますが

長渕剛さんも、ポプコンで「ビクターレコード賞」を受賞され
「長渕剛(ながぶちごう)」名義で「雨の嵐山」という曲でデビューなさったものの
数ヶ月後には、また照和に戻って来られたそうで

当時、照和のマネージャーでいらした門田さんは
「貪欲に曲を作り、ステージの喋りも上手くなった剛のプロ志向が本物になった時
私は甲斐よしひろと同じものを感じた」と評されていて
やはり、最初にデビューなさった時と比べるとただ単にプロになるだけじゃなく、その後もずっと続けて行かなくてはならないことに対する
「覚悟」が違っていらしたんじゃないかと…?

ともあれ…「井上陽水は福岡市内の生まれではなく、筑豊地方の田川の歯科医の息子だった
歯科医を目指して大学入試に3度失敗し
RKB毎日放送の野見山のところにデモテープを持ち込んだのが、デビューのきっかけだ
テレビ西日本の藤井もまた、陽水のデビューに関わっている
こう話す。『野見山さんから「すごいのがいるから、ちょっと聞いてくれ」と
デモテープを渡されましてね、それで陽水を知りました』

野見山は照和がオープンしたあと、アンドレ・カンドレ改め
井上陽水としてポリドール・レコードから再デビューさせた。曲は『傘がない』や『心もよう』だ
藤井の回想。『野見山さんは、井上良介というプロデューサー見習いを使っていましてね
良介はもともと九大(九州大学)を卒業したミュージシャン志望で、音楽的にも優秀でした

岡林信康のマネージャーをしていた時期もある
福岡ドームの打ち上げ写真にもいますよ
その井上が野見山さんに命じられ、照和で陽水にギターを教えていました
そこにも立ち会いましたけど、陽水は座ったまま「都会では~」と歌っている
それじゃあ流行らない、身長が180センチ近くあるんだから
立って歌った方がいい、とアドバイスしました』」と明かされていて

「あの陽水さんにギターを教える!?」「それも照和で!?」と2度ビックリ!(笑)
ただ、陽水さんは、照和に出ておられた訳じゃなさそうなのに
「福岡出身のミュージシャン」イコール「照和」とのイメージが強いせいか?
ひとくくりにされていらっしゃることに違和感を覚えていたんですが

甲斐さんが、照和のウェイターをなさっていた頃に、陽水さんがフラッと照和にやって来られ
コーラ1杯しか出せないと言われていらしたにも関わらず
ギターの弦を張り替えられて、数曲を披露なさったと驚かれていたことについては
やっぱり、陽水さんにも「古巣」という感覚がおありだったのかな?と妙に腑に落ちました(笑)
コメント
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