ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

週刊現代(9/3.10号)4

2022-09-05 15:24:00 | メディア
そして…「海援隊の上京物語」という小見出しのあとには
「照和から飛び出した井上陽水は、'70年にデビューした吉田拓郎と並び、爆発的なヒットを飾る
続いてチューリップが'72年2月、海援隊は10月に東京に上った
翌'73年には『心の旅』と『母に捧げるバラード』が大当たりした

海援隊の千葉が打ち明ける。『チューリップがデビューした時
照和の仲間から「財津さんは博多を裏切った」と声が上がり
武田さんもそれを恐れて(上京を)迷った部分がありました』」と書かれているんですが
その「博多を裏切った」発言の発信源は、当の武田さんだという説が有力らしい(笑)

財津さんに対する非難は、ライラックの姫野さんや、ハーズメンの安部俊幸さん
当時ロックバンドだった海援隊のドラマー・上田雅利さんをチューリップに引き抜かれ
3つのバンドが解散、あるいは再編成に追い込まれたことに集中していたみたいだし

プロデビューして、東京に拠点を移すことが
「博多を裏切った」ことになるという風に捉えられていた訳じゃなかったようで
…っていうか、プロになりたい方々にとっての東京は「憧れの地」だったんじゃないかと…?

もっとも、この財津さんのメンバー引き抜きを「自分勝手だ!」と責める声があったために
のちに、プロデビューが決まった甲斐さんが
甲斐バンドのメンバーを集められる際には、かなり慎重にならざるを得なかったらしく
例えば、妙安寺ファミリーバンドの久保さんに声をおかけになる前に
リーダーでいらした門田さんに話を通された…といったことがあったそうです

まあ、デビューなさってからは「俺が甲斐バンドを組んだせいで
博多のアマチュアバンドが3つ潰れた(笑)」という風にウソぶいていらっしゃいましたけど…(笑)

そうそう!武田さんは、アンドレ・カンドレとして芽が出ずに
福岡に戻って来られていた井上陽水さんが、照和で歌われた際にも
「博多を捨てて東京に行ったヤツだぞ!」と
周りの皆さんに、陽水さんをシカトするよう促されたことがおありだそうで(苦笑)
地元愛が強過ぎるあまり、故郷を出て上京なさった方々に
見捨てられたような寂しさを覚えておられたのかなあと…?

それはともかく…「『そんな時、吉田さんや泉谷しげるさんの所属していた
エレックレコードから声がかかったんです
拓郎さんのマネージャーの伊藤明夫さんが
拓郎さんの「イメージの詩」のレコードを武田さんにプレゼントし、交流が始まりました
伊藤さんは泉谷さんのマネージャーもしていて、たまたま福岡に来た時
「あなた達も東京に出て来ないか」と誘われたんです』」と千葉さん

「えっ!?」と思ったら「通説では、泉谷しげるが海援隊の上京を促したことになっているが
実際はマネージャーからの誘いだった」と記されていて
今までずっと泉谷さんにスカウトされたものと信じて来たことが、ガラガラと崩れ去りました(笑)
ちなみに…武田さんは、上京なさるにあたって
「博多を捨てるんじゃなくて、博多のことを世間に知らしめるために東京へ行くんだ!」
…と、一席ぶち上げられたんだとか…(笑)

ともあれ…「エレックレコードの伊藤は、拓郎や泉谷以外にも
『さなえちゃん』で有名なフォークデュオ『古井戸』のマネジメントまで兼務していた
業界で知る人ぞ知る、広島のスーパーマネージャーだ」…と、またもやビッグネームの登場にビックリ!
改めて、件の「集合写真」をマジマジと見つめてしまいました(笑)…って
どの方が伊藤さんなのかは判らないんですけど…(笑)

ちなみに…この「海援隊の上京物語」という小見出しがあるページには
「'93年に行われた『ドリームライブ』では
南こうせつ(左端)や筑紫哲也(右から2番目)らもステージに上がった」とのキャプションと共に
ドリームライブ終盤の「ビッグ4」のヒット曲メドレーを
参加者全員で歌われているシーンと思われる写真が掲載されていて

こうせつさんに寄り添っていらっしゃる陽水さん
そのお二人を、筑紫さんのお隣から見つめておられる武田さん
そして、その中央には、ステージ衣装をざっくりとしたセーターに着替えられた甲斐さんが
マイクを持った右手は、腿の辺りに下ろされたまま
大きく口を開けて、笑顔で歌っていらっしゃる姿が写ってます

この「ヒット曲メドレー」を現場で目撃していた奥さんは
チューリップの「心の旅」が始まった時に
「甲斐さんのマイクのボリューム上げて~!」と心の中で叫んでいたらしい(笑)
ちなみに、このメドレーで披露されたのは…
「思えば遠くへ来たもんだ」→「少年時代」→「バス通り」→「サボテンの花」→
「HERO」→「あんたが大将」→「心の旅」→「夢の中へ」…なんだけど

ナゼか、財津さんのステージの途中にも…
「いっそセレナーデ」→「安奈」→「贈る言葉」…というメドレーが挟まっていたそうで
「HERO」と「安奈」という甲斐バンドの代表曲が登場したので
「次は『裏切りの街角』かな?」と思っていた奥さん
まさかの「バス通り」に狂喜乱舞した(笑)みたいですが

福岡の皆さんにとっては、甲斐バンドのヒット曲である「裏切りの街角」よりも
甲斐さんがアマチュア時代から歌われていた「バス通り」の方が「代表曲」ですよね?
実際、このデビューシングルは、福岡県での売上げが一番高かったみたいだし…(笑)

それはさておき…「そして福岡の音楽プロデューサーの藤井は
海援隊の『母に捧げるバラード』の売り出しに奔走した
千葉は決して表舞台に立たない彼らの恩を忘れない

『みな、大学を休学して上京したから
「2年で芽が出なかったら福岡に帰ろう」と話していました
「母に捧げるバラード」が売れなかったら、大学に戻っていたでしょうね
武田さんは福岡教育大の4年生でしたけど
いつでも帰れるよう、お母さんが授業料を納めていたみたい
でも2年目で売れましたから、みな大学は除籍になりました』」と明かされてますが

チューリップにしても、海援隊にしても、この'73年のヒット曲は
「これが売れなかったら次はないぞ!」とレコード会社から引導を渡された
まさに崖っぷちからの起死回生の1曲だったみたいで
こうした局面を打破できるかどうかが、本当のプロになるための関門なのかなあと…?

「藤井たちが井上陽水と財津和夫、武田鉄矢という
ビッグ3を生み出し、福岡の音楽が一挙に花開いた」と森さん
「照和で彼らに続いたのが、甲斐バンドの甲斐よしひろだ
甲斐は照和の店長として出演希望者のオーディションをするようになる」
…と、ようやく「4人目の男」に触れられ(笑)

「藤井が冗談まじりに言う。『甲斐は照和でウェイター兼店長みたいなことをやっていたんです
それで、僕のやっていたテレビ西日本の
「レッツ・ゴー・フォーク」に出してくれ、というハガキをもらいました
ドームの打ち上げの時、それを見せてやると驚いていました
甲斐には博多の明治生命ホールのイベントの受付をやってもらったりしました』」

…というエピソードを披露なさってますが、このハガキの件といい
かつて、洋楽に詳しく、8分の曲をノーカットでおかけになっていたという
KBC九州朝日放送のぶっ飛びアナウンサー(笑)松井伸一さんに
「多分あの人なら…」と見込んで投稿なさって
「こじんまりした食器セット(笑)」を戴いたことといい
甲斐さんって、結構アクティブな視聴者でいらしたんだなあと…?(笑)

「『そういえば、まだ中学生だった藤井フミヤが下駄ばきでやって来たから
「中学生は帰りなさい」と追い返したこともありましたね』」と藤井さん
フミヤさんは、初めて照和へ行かれた時にも
「中学生は入れない」と門前払いされたんじゃなかったっけ?(笑)
こちらはこちらで、アクティブな中学生でいらっしゃったんですね(笑)
コメント
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