ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

週刊現代(9/3.10号)5

2022-09-06 15:20:00 | メディア
この記事の最後…「氷川きよしも博多出身」という小見出しに続いては
「照和はやがてプロシンガーへの登竜門に位置づけられ
かぐや姫に入る前の伊勢正三も客として通ったという」と森さん

映画「照和」の中で、甲斐バンドの田中一郎さんが「照和でも勉強になるんだけど
ホールでのコンサートと両立できないとダメだと思っていた」とおっしゃっていたのは
照和のステージは不断の努力をする場、コンサートはその努力の成果を見せる場所であり
成功すれば自信がついて、その自信が照和のステージに跳ね返り
上手く行かなければ、より努力に励むようになるかららしく

また、地元メディアのアマチュア参加番組にも演奏の場を求めたことが
結果、音楽を演っている学生たちの間に照和の名前を浸透させることになり
ラジオに出演したバンドが、照和で演奏していることを告げると
そのバンドを目当てに見に来たり、自分たちも照和に出演したいとやって来たり
互いに連動して照和は全盛期を迎えることになったみたいです

以前に甲斐さんが話されていたように、照和の入っている建物の周りを行列が囲んでいた頃は
100組以上のバンドが、オーディション待ちをしていて
レギュラーと言えども、常に努力、練習をしなければ、その座をいつ奪われるか判らない状態(汗)
照和に出演しているかどうかで、そのバンドの信用度まで違っていたんだとか…(笑)

長渕剛さんも鹿児島県から出て来られ、照和に出演することを夢見ておられたそうで
「オーディションに合格した時は天にも昇る気持ちで
道行く人全員に『俺は照和に出られるんだぞ!』と叫んで回りたかった」らしい(笑)

それ程までに若者たちが照和に憧れたのは、音楽を演っている者にとって最高のステータスであり
音楽で身を立てたいと望む者にはプロへの近道に思えたことが大きかったんでしょうね?

同映画の中で、田中一郎さんと陣内孝則さんがコメントされていた通り
つい昨日まで間近に見ていた人がプロになる
同じステージに立っていたバンドがデビューする
…という事実を目の当たりになされば「プロ」が身近に感じられ
「次は自分が…」と夢を抱くことにリアリティが持てたというのも頷けます

「チューリップの再来」と呼ばれ、人気・実力共、プロになる日も近いと言われていた
ピエロに所属なさっていた松藤さんも「メンバー全員がプロになるつもりでした
井手さんが東芝EMIとしか契約したくなくて、他のレコード会社からの誘いを断ってた
そんな選り好みをするくらい、調子こいてたんですね(笑)」と話されてたし…(笑)

昭和53年には、13組ものバンドが博多からデビューし
その内、照和出身のミュージシャンは28組、延べ74人だったそうだけど
東京が遠かった頃の一地方都市、その街の小さなライブハウスから
わずか8年間にこれだけのプロを生み出したことについて

「当時の照和は、若者たちが生演奏で腕を鍛え
お互いに切磋琢磨できる場所だった」とおっしゃっていた岸川さんは
福岡が注目の的になっていた頃、連日のように東京のレコード会社や音楽関係者から
新しいミュージシャンや人気が出て来たバンドはいないかと電話で問い合わせられ
「青田刈りもいい加減にしろ!」とウンザリなさっていたそうです(苦笑)

それはともかく…「もっとも照和の全盛は10年と続かなかった
'78年の長渕剛が大物歌手デビューの最後だ
福岡のアマチュアミュージシャンたちは、ライブハウスからポピュラーソングコンテストに
プロへの軸足を移していく。代表的なのが第一経済大学のチャゲ&飛鳥だ
二人は照和にも客として通ったが、デビューの場として選んだのはヤマハのポプコンだった

'78年の福岡大会でグランプリに輝いたチャゲと最優秀歌唱賞の飛鳥の二人がバンドを結成し
'79年の全国大会のつま恋本選に『ひとり咲き』で出場し
すぐにデュオでレコードデビューを果たした
『彼らにしてみたら照和が廃れ、それ以外に手がなかったのでしょうね』
ポプコンの審査員でもあった藤井はそう言う」と記されてますが

1976~77年頃は、交通手段の発達や情報量の増加によって、東京との距離が近くなるにつれ
次第に福岡独自の文化が失われつつあった頃で
また、観客も好きな音楽を聴くために、身近なアマチュアがいるライブハウスに行くより
福岡でも見ることが出来るようになったプロのミュージシャンのライブに足を運ぶようになり
「照和」という名前の力にも翳りが見え始めていたものの

照和にいれば客は集まり、音楽関係者もたびたび訪れていたことが、当時の出演者たちを安心させ
甲斐さん達がいらした頃みたいに、他のホールでコンサートを開くこともなくなり
照和で歌うことが全てになってしまったようで
自然とかつての勢いは衰え、ボルテージは落ち
本日の出演者の名前より、照和出身のミュージシャンの名前に頼るようになっていった一方で

「歌の甲子園」と呼ばれたポプコンは「一夜明ければスター!」といったイメージが定着し
かつての照和のように、客の反応がミュージシャンを育てるという
「叩き上げ」のやり方は魅力的に見えなくなってしまったみたいです(汗)

更に…藤松武さんが照和のマネージャーになられる前から
オーナー側と現場責任者との間に意見の食い違いはあったようで
オーナーご自身は、藤松さんの「フォーク喫茶・照和」のアイデアについて
「それが若者たちのためになるなら」という立場で了承されたものの
採算を度外視したやり方に対し、経営に携わる幹部の方々は難色を示していたらしく

照和の全盛期には文句のつけようがなかったのが、ひとたび勢いが衰え始めると
地下に出入りする若者たちについて、あれこれオーナーの耳に吹き込むようになって
結果、地下をレストランにすることが決まり
若者が多く出入りすることが店の活性化に繋がるという藤松さんの進言は聞き入れられず…(汗)
藤松さんは「照和」を4階に移して存続させる手配をなさった後、退職されたそうですが
甲斐さんは「4階に移った照和は照和じゃない!」とバッサリ…(苦笑)

ともあれ…「それにしても、なぜ博多はこれほどミュージシャンを輩出できたのか
福岡西新商店街連合会会長の鳥巣勲に尋ねた
鳥巣はこう笑う。『一言でいえば、目立ちたがり屋が多いのでしょう
博多には5月のどんたくと7月の山笠という2大祭りがあり

特にどんたくでは天神やら博多駅前やら、西新やら商店街が
20ヵ所以上の特設ステージを設けて、歌手の卵がそこで歌う
テレビ局がそれを番組にし、レコード会社のスカウトも来る
松田聖子や氷川きよしもみなどんたくで歌っていました』」と記されてますが

同じ質問について、森山達也さんは、映画「照和」の中で…
(福岡の人は)祭りごとが好き、良い意味で目立ちたがり屋
(最新の東京の)情報が入らないし、入っても遅かったり
外国のアーティストが来日しても大阪、広島止まりで、福岡まで来なかったりするので
流行に関係なく好きな音楽を独自のスタイルでやるしかない
それが当たったんじゃないかと話されてました

門田さんは「バンドを組んで練習を重ねる、そしてバンドが目標とするのは
人前で歌うこと、ラジオに出ること、テレビに映ること…福岡ではその全てが叶えられた
こういう環境があったから、数多くのバンドが生まれ、育ち、プロとして羽ばたいて行った」と分析され

また、岸川さんは「物怖じしない開けっ広げな性格の人が多いし
『年長者は絶対』という風土で、礼儀作法が身についていることが
東京の関係者の方に可愛がられたのではないか
FENが流れていて、アメリカ先端の音楽がふんだんに聞けたことや
大学が数多くあって若者が大勢いたことで、音に馴染む機会や人が多い
東京に行っても福岡を懐かしみ、大切に思っている奴ばかりですよ(笑)」とおっしゃってます

そして記事の最後は…
「歴史的に見れば、福岡は明治維新の『負け組』であり、権力や権威を疑う習い性がある
商業都市の博多は、アジアの玄関口として栄えてきた
日本国内だけでなく、様々な人種が集い、人々は快くそれを受け入れてきた
同じ福岡県の北九州地方もまた多くの人種が共生し、著名人を生んだ
炭鉱と港湾で成長してきた工業都市の北九州には、やくざ映画のような風土が残っている」
…と結ばれていて、後編は、その辺りに触れた内容になるんじゃないかと…?
コメント
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