摂津国八十八箇所第15番札所の
円珠庵(えんじゅあん)、別称鎌八幡は
大阪屈指の縁切りスポットだとか。
江戸時代初期の和学者契沖が晩年に隠棲
古典の研究に親しんだところであるで
それが円珠庵の起こりだそうです。
遠い昔、このあたりは三韓坂と言われた古道で
そのわきに一本の榎の霊木があり、人々の信仰を
集めていたそうです。
大阪冬の陣のとき、真田幸村がこの土地に
陣所を構えたが(真田丸)この信仰を聞き伝えて
鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩と称して
祈念したところ、大いに戦勝をあげたと
伝えられているんだとか。
幸村、夏の陣で負けちゃってますけどね。
で、人々にそんなすごい霊木に鎌を打ち付けて
祈祷すれば、願いが叶う~って祈祷寺として
信仰を集めていたみたいです。
昭和になってから鎌で切ったように様々の悪縁を
断ち切り、良縁に恵まれるって信仰されるようになり
更に知られるようになったみたいです。
鎌八幡があるのは大阪市天王寺区空清町4-2
大阪屈指の縁切りスポット鎌八幡の紹介ってことで。
ご訪問ありがとうございました。
自分の御朱印記録ってかんじで。
もう2年前の話です。
最近はちょっとやる気がね。
88箇所満願断念してます。
このころはかなりのペースでめぐってましたが。
ブログに載せるのも面倒になってきてます。
なので最近はさっぱり。
やってきたのは宗恵院 (そうえいん)。
摂津国88ヶ所 第18番札所。
都会のお寺ってかんじでビルです。
当山は元生玉十坊の1つで「覚園院」と称し
開創年代は不明であるが、元禄年間(1688~1704年)
来辺和尚により、再建されたと伝わる。
明治初年の神仏分離により廃絶の危機に瀕したが
当時の「宗恵庵」と合併、「宗恵院」として存続、現在に至っている。
1945年(昭和20年)の空襲で、ことごとく灰燼に帰した。
戦後、壇信徒の協力により、復興に着手し(昭和25年)
仮本堂が完成、1963年(昭和38年)鉄筋コンクリート2階建ての
本堂、庫裡が完成したとか。
さらに、1980年(昭和55年)増築工事を行い新客殿が完成している。
そうです。
130枚目。
大阪府大阪市天王寺区生玉前町5-22
ご訪問ありがとうございました。
最近はまったく御朱印あつめもやってないのですが
この頃はまだけっこうやる気がありました。
やってきたのは青蓮寺 せいれんじです。
夕陽丘学園高校の前にあります。
当山の縁起は聖徳太子が鴫野の地に創建された
志宜山法案寺の歴史に遡るとのことである。
法案寺は中古、生玉神社と習合して、その別当職を兼ね
多くの塔頭を擁した畿内屈指の大寺であった。
豊臣秀吉の築城に際し、今の生玉神社の地に移り
爾来明治に至るまで、いわゆる生玉十坊と称されたが
明治初年の神仏別離の令により、法案寺は分散した。
十坊随一「遍照院」の住職快法尊師は十坊の内「遍照院」と
「医王院」の二院を合して、もと茶臼山にあった
慶長年間(1596年~1614年)に創建の「青蓮寺」の
寺号を移して、今の地に再興したのが現在の青蓮寺である。
ってことらしいです。
129枚目。
ご訪問ありがとうございました。
清水寺といっても京都のあのお寺ではありません。
あのお寺を模倣して創建されたらしいですが。
創建の時期や事情についてはくわしくはわからないみたいです。
もとは有栖寺(うすじ)と称していたとか。
大阪市内唯一の天然の滝である「玉出の滝」(たまでのたき)。
普段どれぐらいの水量があるかはしりませんが
行ったときは細く下に落ちてました。
うわさによるとパワースポットだそうです。
京都の清水寺の音羽の滝をマネてるみたい。
寛永17年(1640年)に延海阿闍梨(えんかいあじゃり)により
中興されたそうで、延海は観世音菩薩の御告げを受けて
京都の清水寺を模した舞台造の本堂を建立したそうです。
本尊として京都の清水寺から迎えた千手観音像
(聖徳太子作の伝承をもつ)を安置した。
当寺の境内は北・西・南の三方が崖になっており
往時は大坂の街や大阪湾を見渡す眺望の地であったそうな。
通天閣がみえてます。
今は市内のビルしかみえませんが。
当時の舞台がどんなのだったかは想像しづらいです。
なにせ今の舞台はコンクリートなので。
みえてるのはアベノハルカス。
江戸時代には新清水寺なんていわれてたそうですから
それなりのものだったんでしょうね。
住所は大阪府大阪市天王寺区伶人町5-8。
128枚目。
ご訪問ありがとうございました。