いや~浅草七福神の最後で迷いました。
だいたい神社も9時5時みたいなかんじなんで5時すぎてたので
焦りました。コンプリートできないんじゃないかと。
なにせスマホなんか持ってないので方角がわからないわけです。
だいたいあっちの方向やろうってかんじでず~と回れてたのですが
浅草寺周辺は人だらけなんで、たぶんあの人も同じことやってるハズっていう
ついていく作戦ができなくてね。
しかし神社って今までにも何回か経験したことがあるのですが
迷っていても、不思議とついちゃうんですよ。
ほんと不思議な力が連れて行ってくれるようなね。
迷ってるし、疲れてるし、もうあきらめたそのときに
今回も不思議なことに目の前に現れたような錯覚を覚えました。
矢先稲荷神社は、徳川家光が寛永19年(1642)に創建した三十三間堂の
守護神として祀られた稲荷大明神を起源とします。
三十三間堂は、元禄11年(1698)の大火後に深川へ移転しましたが
稲荷大明神は当地に残り、三十三間堂(弓矢の練成道場)の由来から
矢先稲荷神社と称したそうです。
ご祭神は応神天皇、伊佐那岐命、伊佐那美命。
福禄寿。
79、80枚目ゲットだぜぇ!
ご訪問ありがとうございました。
一日で二つの七福神を回ってるので最後のほうは
かなり時間がなくってあせってましたが、やってきたのは浅草神社です。
浅草寺の横にあるのですごい人でした。
推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で
漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で
物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ
二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して
僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後
真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って
真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源だとか。
実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて
三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。
ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為
神社の格としては江戸一低いといわれているそうです。
猿回しやってました。さすが東京やね~。
祭神は土師真中知命はじのあたいなかとも、桧前浜成命ひのくまはまなり
桧前竹成命ひのくまたけなり、東照宮
人多すぎ~。さすがは浅草って思いました。
恵比寿像の実物は奥のほうにあるので
実際はみることできないみたいです。
74、75枚目ゲット!
浅草神社の末社の被官稲荷神社の御朱印もゲット!
安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき
山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ
その効果あって病気は全快しました。そして、同二年
町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に
勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ
現在浅草神社の末社としてその境内に祀られています。
名称の由来は不明ですが、被官とは官を被(こうむ)る、ということから
就職・出世と解せばよいでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は
新門辰五郎により奉納されたものです。ってことです。
76枚目ゲットだぜぇ!
ご訪問ありがとうございました。
次にやってきたのは待乳山聖天(まつちやま しょうでん)です。
金竜山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院というそうです。
宗派は聖観音宗しょうかんのんしゅう。
私はよく知らなかったのですが大根まつりで有名なんだそうです。
毎年正月7日の午前11時半から当日お参りした信者の方に
仏前にお供えした大根を煮てご馳走するんだそうです。
創建は縁起によれば推古天皇九年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ
喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地姿を現し
人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったとことがはじまりなんだとか。
震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失し
現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものだそうです。
江戸時代には東都随一の眺望の名所とされていたんだとか。
歌川広重の浮世絵ではこんなかんじで描かれてます。
根の途中から二つに分かれている大根と巾着は「待乳山聖天」のシンボル。
大根は夫婦和合、縁結び、子孫繁栄を表しているそうです。
巾着は商売繁盛、金運。
毘沙門天。
住所は東京都台東区浅草7-4-1。
72、73枚目ゲットだぜぇ!
ご訪問ありがとうございました。
浅草名所七福神のひとつ今戸神社へやってきました。
七福神と関係なく人気スポットみたいでたくさんの女性が。
ほとんど女性といってもいいくらいでした。
時間があればゆっくりしたかったのですが。
なんでも良縁を招くパワースポットなんだそうです。
歴女には、沖田総司の終焉の地としても有名だとか。
沖田総司は肺の病で最後はここに収容され治療をうけていたそうです。
今戸神社は康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折
京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりである
といわれているそうです。
また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り
戦勝祈願をしたといわれているそうです。
その後、白河天皇永保元(一〇八一年)、謀反をおこした
清原武衡・家衡討伐のため、源義家が今之津を通過するあたり
戦勝を祈願しました。その甲斐あって勝ち、いくさをおさめることができ
義家は神徳に報いて社殿を修復しました。
戦乱兵火に遭うごとに再建されること、しばしばでした。
江戸時代、三大将軍徳川家光は、今戸八幡の再建ののために
官材を下され、舟越伊豫守と八木但馬守に命じて
寛永十三年(一六三六年)に再建が成りました。
大正十二年九月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し
間もなく復興したものの、つぎは昭和二十年三月の東京大空襲でも
重ねて被災の憂き目に遭ってしまいました。
こうした、被災=再建の歴史をくりかえしながら、同四十六年十一月
現在の荘厳な社殿が、氏子崇敬者の浄財によって造営されたのです。
ってことです。
その間、昭和十二年七月に今戸の隣地に鎮座されていた白山神社と合祀
社名が今戸神社と改称されました。
御祭神は應神天皇おうじんてんのう、伊弉諾尊いざなみのみこと
伊弉冉尊いざなみのみこと、そして七福神のうちの福禄寿です。
江戸時代に初めて「招き猫」が作られたのが今戸地区だったことから
招き猫があっちこっちに。
福禄寿。
住所は東京都台東区今戸1丁目5-22です。
70、71枚目ゲットだぜぇ!
ご訪問ありがとうございました。