去年の11月に鳥取島根へ。
で、山陰合同銀行健康保険組合大山寮へ一泊しました。
途中ナビに墓地につれていかれたりしたので
宿到着は8時すぎてました。
一泊2食つきで安く宿泊できるところってことで
さがしてたどり着いたのが大山寮。
私は銀行マンではないのですが宿泊できるみたいです。
銀行マンは安く泊まれるみたいですが。
銀行と関係ない私たち家族は一人5800円。
新しくはないですがメシ付きでこの値段なら私的にはぜんぜんOK。
夕飯は焼き肉。飲み物は別料金。
平素、そんなにいい肉食べてないのでおいしかったです。
お嬢さんがパクパク食べるので私の分が...
朝食です。私はたまごで1杯。のりで1杯って
がっつり食べました。
大山(だいせん)は標高1,729mの火山だとか。
中国地方では一番高い山です。
見えてるのは美保湾。ゲゲゲの鬼太郎で有名な
境港があります。
宿をでて島根の出雲大社をめざしました。
去年の11月に鳥取島根へ。
宿泊先の大山寮をめざしました。
風力発電施設でしょうか。風車がならんでました。
冬は日が暮れるのが早いってことを計算してませんでした。
大山の道って山道で街灯あまりないんですよね。
日がでてるころはこんな道なんですが
日が暮れるとけっこう真っ暗です。
車もほとんど走ってないんですよね。
で、ナビが親切に
目的地に到着しました。案内を終了します。
って連れてきてくれたのは霊園でした。
真っ暗なところでナビが案内してくれたのは墓地って
安物のホラー映画か!でもマジこわいッス!
テレビの心霊番組の再現ドラマなんかでありそうな話でしょ。
霊がよびよせたなんていうの。
ヤバイ!ヤバイ!アカンアカン!
家族三人恐怖で顔が引きつりました。
とりあえず、ここから逃げないとって
ことで引き返しました。
大丈夫。いざとなったら御朱印をかざして
怨霊を退散させるからなんてつぶやきながらね。
この御朱印が目にはいらぬか!
って黄門さまじゃないけどね。
我が家のナビはお茶目なナビでたまにこういうこと
やってくれます。でも今回はこんなときにそんなことして
どうするねんってかんじでした。
で、道に迷ったので奧さんに携帯で宿に連絡を
してもらうと、電波がつながりません。
マジっすか!
夜道でそれはないでしょうってかんじで恐怖はますばかり。
再度、携帯で電話するとつながり
なんとか無事やどにたどりつきました。
で、宿に着いてチェックイン。受付で
3人家族なのに
4名様ですね。
え、3名なんですけどなんて言うとそちらの方は
なんてあらぬ方向をしめされたりしたらもう私は
キャー!ついてきてる!
って気絶していたでしょうね。
単なる言い間違いでよかったです。
けっこう道中怖かったです。
お嬢さんはちょっとちびってました。
真っ暗ななかで墓地に案内されたんですからね~。
私もただでさえ小さなオチンチンが.....
上の写真に写ってるのは霊じゃないのでご安心を。
去年の11月のおわりに鳥取に。
白兎神社の次に、宇部神社に。
せっかく遠くにきてるのだから御朱印をできるだけ集めたい私の希望で。
自分の御朱印記録みたいなもんなんで
適当にスルーしてくださいね。
住所は鳥取市国府町宮下字一宮651です。
祭神は武内宿禰命(たけしうちのすくね)
武内宿禰命は360余歳の長寿であったため長寿の神とされる。そうで
明治32年(1899年)、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり
その後も数度社殿や祭神が図案となったため
金運・財宝の神ともされる。そうです。
祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われる。
『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世
伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり
成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが
当社の創祀かもしれないんだとか。
吉田家本『延喜式神名帳』には、仁徳天皇55年
三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に
双履を残して行方知れずになったとある。
当地は遺跡が多く、国府が置かれるなど
古くから因幡国の政治・文化の中心であり
当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し
同一宮とされた。承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が
国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い
郡司からの利田請文を奉納したと知られるんだとか。
中世以降、社領を失って衰退し、天正9年(1581年)
羽柴秀吉の鳥取城攻めで社殿全てが灰燼となり
神職も離散したが、『鳥取藩史』によると
江戸時代初期、寛永10年(1633年)鳥取藩主池田光仲の
社領25石の寄進を受けて社殿も復興したとされ
歴代藩主の崇敬を受けたそうです。
本殿。
『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降
社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建。
正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で
付け千木・鰹木を置く。
同年、本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、
方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した
拝殿(幣殿に接続)も再建された。以上いずれも檜皮葺。
双履石(そうりせき)。
後丘の亀金山に本殿を見下す位置にあり、祭神終焉の遺蹟と伝える
磐境であるが、地下1.2mの所から竪穴式石室が発見され
古墳時代前期末から中期の円墳(もしくは前方後円墳)の一部と判明した。
そうです。
住所は鳥取市国府町宮下字一宮651
26枚目御朱印ゲットだぜぇ!
このあと私たちは恐怖の体験 を
することになるのですがそれはまた。
奧さんが鳥取砂丘のそばにある砂の美術館へ
行きたいというので行ってきました。
いつものように去年の11月の話ですが。
で、せっかくこんなとこまできたんだから御朱印も
ゲットしたいという私の意向で。
因幡の白兎で有名な白兎神社にいこうと思ったわけじゃなく
たまたまなんですけどね。
鳥取県鳥取市白兎603番地に鎮座する白兎神社 はくとじんじゃです。
道の駅白うさぎによったら、神社もありましたってね。
白兔神を主祭神とし、保食神を配祀する。
白兔神は日本神話に登場する因幡の白兎のことであり
その説話の内容から皮膚病に霊験のある神として
また、大国主と八上姫神との婚姻を取り持ったことから
特定の人との縁結びの神としてかなわぬ恋をかなえ
特定の人との親交をより深めると信仰される。
さらに、遠国の人もこの兎に願えば早く国に帰れるという。
また医療の神でもある。
ってことだそうです。
創建の由緒は不詳である。かつては兎の宮、大兎大明神、白兔大明神とも
呼ばれた。戦乱で消失し、鹿野城主だった亀井茲矩により慶長年間に
再興された。戦乱焼失後、白兎神の御神体は現白兎神社の南方10キロの
山上に位置する松上神社に遷座されていたという。
現在の本殿は明治時代の再建。亀井茲矩はこれに先立って摂津国(現在の大阪市)
御霊神社(祭神瀬織津姫)を当時の自邸敷地内に遷座・復興していた。
亀井 茲矩(かめい これのり)っていう戦国大名は
おもしろい大名で津和野藩の基礎を築いた人です。
鎮座地は身干山と呼ばれる丘で、因幡の白兎が身を乾かした山と
伝えられる。
境内は神域として長く保たれていた為、クロキ、タブノキ、シイノキ
ヤブニッケイ、トビラ、モチノキ、カクレミノなど多種多様の植物が存在し
平成12年(2000)に「白兎神社樹叢」として国指定天然記念物に
指定されています。
樹叢(じゅそう)って植生によらない、自生した樹木が密生している
林地のことをいうらしいです。
白兎が体を洗ったとされる御身洗池です。
御身洗池は旱天・豪雨のときでも水位の増減がないとされ
「不増不減の池」とも呼ばれているんだとか。
中国からなのかアジア系の団体ツアーがきてました。
お守りとかめずらしいのか、けっこう売れてました。
神社って日本のものだからおもしろいのでしょうか。
本殿の土台には28弁の菊の紋章が彫刻された菊座石が使われており
当社の創建に皇室の何らかの関わりがあるのではと言われている そうです。
菊座石です。
主祭神は白兔神。しろうざぎのかみ。
25枚目御朱印ゲットだぜ!
うさぎがワンポイント。
ご訪問ありがとうございました。
去年の11月に鳥取島根へ。
砂の美術館、鳥取砂丘をあとに次の目的地へ。
お昼ごはんを食べようと道の駅へ。
神話の里しろうさぎ。近くに白兎神社があります。
恋人の聖地ってあっちこっちでみかけますね。
遊歩道を通って白兎海岸へ行けます。
昔隠岐の島に流されたうさぎがワニザメをだまして
気多の崎まで渡ろうとしたが、だまされたことに気がついた
ワニザメに皮をむかれて苦しんでいる時に、大国主命が通りかかり
「真水で身体を洗い、ガマの穂にくるまっていなさい」
と言われ完治したという神話「因幡の白うさぎ」の舞台といわれてるそうです。
天気がよければいいながめなんだろうけどこの日は天気がいまいち。
みえてる島が淤岐島。おきのしま。いろんな説があるらしいですが
ここではこの島から白ウサギがぴょんぴょんとサメの背中を
渡ったそうです。
道の駅しろうさぎの2Fで昼食を食べました。
ぎんりん亭。白兎海岸を眺めながら食事ができます。
お嬢さんはかにたっぷり丼。1620円。
私は彩り海鮮丼。1620円。
うさぎ三段跳び丼。1200円。
私たちは満足しましたが、食べログでの評価は普通みたい。
このあと御朱印ゲットだぜ!ってことで神社へ。