奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

ハートについて、言葉について

2014年03月09日 18時47分28秒 | 謎が解けていく

「啓示や、正しい知覚として、ハート(神の愛)を感じている状態は、赦している状態」


とも言えるし

そうではないとも言える。


そういう感じがしています。



なぜなら、意識としてこの世界にいるかのような体験をしている私たちは

まだまだ、まだまだ(思考の)浄化が必要だからです。



あくまでも、ハートを感じている状態は

「これからもしっかりと、自身の中に隠し持っている罪悪感を認識して

それは間違っているんだ。と否定して、聖霊に明け渡す。」

その意欲を持たせるためのもの。



言葉は、ただの標識でしかないから注意が必要。

「そうである」とも言えるし、「そうでない」とも言える。



意識は、すぐ エゴに横取りされるから

「ああ、ハートやエクスタシーを感じていれば

あえて赦しはしなくてもいいんだ。赦しているも同じだから。」

って勘違いしてしまう。意識の勝手な判断がはじまる。



注意が必要だよ。って、

注意しなさいね。って、言われている感じがしています。



もちろん。そろそろ、神のもとに戻るだけ状態の、マスターレベルの方たちにとっては

「ハート(神の愛)を感じている状態は、赦している状態」

そのとおりなのでしょうと、思います。




けれど、、、

今の私のような状態は、まだまだ、まだまだ

エゴの思考システムとの、見えないレベルでの強固な、無意識レベルでの自動的採用が

温存されているし、一時的な啓示体験はそれこそ頻繁に、何度もやってくるし

エクスタシーやオーガズムは日々感じる。神に愛されている感覚もすっごく感じる。

ハートを一日中感じている。



じゃあ、まったく罪悪感が隠されていないか?

自身や、神に対して憎悪や恐れがないか?

といったら、そんなめっそうもございません。という状態です。



どんだけ隠されているか。。

しっかり内観すれば、それは明らかです。



意識は、危なっかしい。

ちゃんと整理立てて、ちゃんと実践と理論の両輪をしっかりとさせて進んでゆかないとな。

そんな風に感じるのです。



☆この1年間、ハートのセッションでたくさんのクライアントさんたちと関わらせていただき

真我なるハートのWebクラスでも、30名ほどの実践者の皆さんとびっしり4ヶ月間関わらせていただき

自分の体験、友人たちの体験と経過をみて、

心から、丁寧な日々の赦しの実践が、いかに大切か、マインドはいかに危ういか。


これらを聖霊に、教え込まれた感があります。

いろいろ大変なこともあったけど、何十年分の学びに等しい気がします。

いつも引っ張ってくれている聖霊と神に、感謝感謝です。



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