「生きるのは誰なのか」の記事にて、コメントをいただきました。
そのご質問と、お返事をこちらでもご紹介させていただきます
〜hinaさんのご質問〜
こんにちは。
ブログの内容、非常にクリアでまったく異論はないのですが、私が常々難しいなと感じているポイントがちょうど書かれておりましたので質問させてください。
>「私」が正気になるためには、すべてに愛を与えることです。
>それは、まずは心のレベルから。
>裁きの想いを、愛ある想念へと逆転させてゆく学びの一つが
>奇跡講座なんですね。
心の中にあるものを丁寧に観察し、愛以外のものを赦していくということだと思うのですが、
「愛か、それ以外か」を区別すること自体が非常に難しいことがあると感じています。
エゴは狡猾ですから、聖霊の愛のように見える感情、想念をも武器に核心から目を反らさせることをいとも簡単にやってのけます。
T18.IV.2:1-2 あなた自身の善意を信頼してはならない。それだけでは足りないのである。(中央アート出版社 奇跡講座より)
裁きの思いか、愛ある想念かを区別することが私が思っている以上に実は難しく、
知らず知らずのうちにエゴバージョンの「愛」をスルーさせ、分離を温存させてしまうことも多いのだと思います。
このあたり、のりこさんが想念を区別するにあたって判断材料にしていることや、コースの箇所などありましたら教えてください。
〜お返事〜
hinaさん
ご質問ありがとうございました。
>T18.IV.2:1-2 あなた自身の善意を信頼してはならない。それだけでは足りないのである。(中央アート出版社 奇跡講座より)
ここでの「あなた自身」とは、
自我との同一化を決断し夢見た[分裂した心=決断の主体]に呼びかけられていますね。
その自分が善意と思っている善意は、自前の解釈に基づく善意ですが
残念ながら私たちは、なかなかそれに気がつくことはできません。
自分でわかろうとする。ということは不可能なのだ。
と、ちゃんと認めて受け入れることですね。
私が、様々なレッスンを経て今学んでいることは
「私には何もわからないのだ。」
「私には何もできないのだ。」
と、はっきりと受け入れることです。
(うわべの思考の話しではなく、胸の奥・心の底からの想いです)
これは一気に、ひとっ飛びに100%できることではないですね。
「神の上に立ちたい」
と思ったがゆえの、投影の世界を夢見た者[分裂した心・決断の主体]ですから
無意識レベルでは、決して受け入れたくありません。
ですから、この、全く一歩も受け入れようとしていない自分自身の抵抗を
ハッキリと認めてゆくことが重要ですね。
hinaさんは、この抵抗を認め始めていますか?
(JACIMの加藤さんのDVD講義でも言われていますが、その抵抗は無意識レベルの激しい抵抗です)
もしもその認識が起きていて、「ともすると その抵抗と誘惑の真っ只中なのだ。」
と、認めているのであれば、必ず必要な理解やレッスンは必要なペースで起きてゆきます(気がついてゆきます)。
>エゴは狡猾ですから、聖霊の愛のように見える感情、想念をも武器に核心から目を反らさせることをいとも簡単にやってのけます。
その通りだと思います。
ですから一番重要なのは[自分は今どの視点から世界を見ているのか]に
警戒することだと思います。
そして一切の妥協をやめてゆくことだと思います。
しかしながら
コースの実践を、常に自我の罠にはまらず 上手にくぐり抜けるることなんて、まず不可能ですから
しっちゃかめっちゃか、右往左往、ギャフンギャフンと、何度もレッスンを繰り返しながら
「私」は、やっと本当に降参するようになるのだろうと感じています。
「エゴの狡猾さに、はめられないように、実践しよう」
と、心構えるというよりは
エゴそのものでいたい自分自身の抵抗と誘惑を、しっかり認めはじめることだと思います。
そして、「私」が退くことの必要性を学び受け入れることです。
「私には何もわからないのだ。」
「私には何もできないのだ。」
この姿勢でいると、見るべき自分自身の闇の想念も、だんだんと覆い隠せなくなってきます。
抑圧してきた様々な想念が浮上するかも知れません。
それもまた、捧げるために現れたものですから、同一化するのではなく
しっかりと認識しては捧げてゆけば良いと思っています。
一例としては、さきほど引用して下さったセクションから
奇跡講座テキスト編 P500(中央アート出版社)
T-18.4.1:5〜6
あなたがそれ以上何かをする必要はない。
実際、あなたにはそれ以上は何もできないと悟ることが必要である。
あとは、奇跡講座ワークブック編のレッスン1〜15前後などいかがでしょうか?
「私には何もわからないのだ。」
「私には何もできないのだ。」
「どうか、あなたが私のかわりに見て下さい。あなたがなさって下さい。いつもありがとうございます。」
これを、真の赦しを思い出してゆくたびに、自分に教えています。
退く。引き下がる。ということですね
コースの学びには、言語の理解力よりも
降参力・降伏力が徐々に必要となってくるのではないか?と感じています。
それは、真の幸福への早道ですね
☆追記2016.07.04☆
※あと一つ、書き忘れていました。
愛ある想念の源は、神の想念ですから
それを私たちの理解しやすい言語にすると。。。
例えばその一つの例が
「私の愛する神の子よ」
「あなたと私は一つです」
「あなたに私のすべてを与えます」
「共に在る」
などなど、、だと思います。
ですから、愛を込めて生きるとは、
愛ある想念で生きるとは
神と同じように
「自分と他のすべてを一つとして見る」
ということでもありますね。
できるかできないか?ではなく
できない想念でいっぱいなのを認識して、それを手放してゆく。
そして聖霊に「正気の眼でみせて下さい。」と、沈黙して祈る。
いかに、「この繰り返しを しよう。」
と、意欲を何度も何度も差し出すか?
そこに、救済の活路が見出されるのではないかな?
という学び・カリキュラムの中にいます。
おきてな〜〜〜い
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