赦した時、瞑想の時、ワークの時だけ静寂(→ハート)にいるのではなく
常に、聖霊とともにプレゼンス→ビーイング→ハートにいること。
常に。
それが大切。
そこから出ようとする意識の動きを発見すること。
(本当は、動いていないし、一歩も出ていないんだけれども、毎瞬自我を採用しようという動きが在る)
そして、自分が思っているよりも
私たち意識の習性は、いかにプレゼンスにとどまっていたがらないかも自覚することだ。
いるつもりではなく、確かにそこから出ないことを意志する。
今すぐできないのは、当たり前。
少しずつレッスンするから、いつかは必ずできるようになる。
この、プレゼンス・ビーイング・ハートから
何もしないことだ。
God is以外のなにも判断しない。
神への、完全なる全託だ。
常に、聖霊とともにプレゼンス→ビーイング→ハートにいること。
常に。
それが大切。
そこから出ようとする意識の動きを発見すること。
(本当は、動いていないし、一歩も出ていないんだけれども、毎瞬自我を採用しようという動きが在る)
そして、自分が思っているよりも
私たち意識の習性は、いかにプレゼンスにとどまっていたがらないかも自覚することだ。
いるつもりではなく、確かにそこから出ないことを意志する。
今すぐできないのは、当たり前。
少しずつレッスンするから、いつかは必ずできるようになる。
この、プレゼンス・ビーイング・ハートから
何もしないことだ。
God is以外のなにも判断しない。
神への、完全なる全託だ。
ビーイング
新しいワードですが、
そのまま訳すと
プレゼンスは、存在感、
ビーイングは、存在 的な
どちらも存在が、共通しますが、
赦しの上では、どういう意味でしょうか(・_・?)
あすかちゃんは神戸映像を持っていますから
特に 1日目を何回も聞いてくださいね。
ハレルヤさんも 今迄あまり、悟り系の用語を使用してませんでしたが、ここ最近はプレゼンス ビーイングという言葉も使っています。
プレゼンスも ビーイングも 神・キリスト側から見れば分離感ですが自我を採用してきた意識から見たら解放感です。
プレゼンスは、一なる意識 すべてが自分だという内なるスペース感です。
ビーイングは、その気づきの中で委ねくつろいでいる感じです。圧倒的な明け渡し状態。
さらに詳しい表現もあると思いますが、簡単に言うと そんな感じです。
赦したら、思考に行かなければ その状態なのですが
しかし、簡単にわたしたちは「さて!」という感じで そこから出ます。当たり前のように…。
そういう点についても、神戸映像はサポートになりますから また繰り返しご覧くださいね。
そういう意味なのですね!
今日息子の病院まで一時間ちょいかかるので、神戸映像聞きながら行きましたU+273AU+25DF(U+2217U+275BU+E31U+1D17U+275BU+E31U+2217)U+25DEU+273A
ドライブしながら聞くとなんか、入りますね!
何度も聞きますが、毎回違うというか。
よいですねU+2661
何度も神戸映像聞きます(*U+2022U+300U+1D17U+2022U+301*)U+648 U+311U+311