思考の中でしか、分離は起きていない。
身体と、身体で、お互いと、お互いを
分離した同士の存在として認識するという体験は
仮想体験でしかない。
実相だけを感じていると・・・
相手がここにいないのがわかるし
自分もここにいないのがわかるし
誰も肉体の中に閉じ込められた存在じゃないのがわかるし
モノも、景色も、何もかも、あたかもここに
あるかのように見せかけられているだけだとわかる。
実相だけを感じていると・・・
相手にも、すべてにも、神聖さを、神を感じてしまうし
もしも、目の前の人が何か憎まれ口を発していたとしても
まったく、それを信じることができない。
まるで、その相手の肉体は、かげろうのように信憑性がなく
神の子という真実以外は、空っぽで
ただの冗談のような 安っぽい演技にしか見えない。
美しい真の姿以外は、何もないのがわかる。
振動するハートに くっついているエゴの思考を聖霊に渡してしまうと
完全にエクスタシーのバイブレーションに戻ってしまう。
すべてが、すべてが、歓喜で、悦びで溶け合って、爆発しあっている。