いつだったかな?
1週間くらい前だったと思う。
「私」という知覚者と、この夢の中のすべてが同一だった
というゆるぎない体験があった。
数十秒間だったとおもう。
家も私、道路を走る車も私、車のタイヤも私、そのタイヤの音も私
鳥のさえずりも私、鳥も私、風も私、風の音も私、木々も私、舞っている落ち葉も私
肉体も私、家族も私、世界中の誰もかれもが私、世界のドラマも私、、、、
宇宙も宇宙人も惑星も隙間もなにもかも私
うごめく犠牲者も、破壊者も、あらゆる現象も、気象も、私
戦場も私、パワースポットも私、轟音も私、美しい音色も私
すべては完全にニュートラルで、善も悪もない
なぜなら、いかなる幻想と幻想の間に分裂が起きていないから
すべて単一だから
私じゃないなにかはどこにもない。。。
ありえない
ぜんぶ、私の空想だった
私と、私の空想は離れることができない。。。
アジャシャンティが言うように、その「すべては私」という
完全なワンネス体験も、まだ目覚めの通過点に過ぎない。
けど、
私=非実在の空想=夢=夢の世界のすべて
という感覚は理由なく更なる確信になった。
そして、この先の「私」
完全なる無
絶対なるものの息
実在である私=神に知られている
神との隙間は一切ない
それを受け入れてゆくことになる。
「どのように?」
とかも、任せていればいい
すべてはすでに完了しているから
自己保持のシステム・欲望が依然としてまったく消えたがっていないのを
見つめてゆけばいい。
「そういうことだったのですね」
と、、、
今なお維持されているかのように見える自我とは関係なく
幸せでいていい。
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1週間くらい前だったと思う。
「私」という知覚者と、この夢の中のすべてが同一だった
というゆるぎない体験があった。
数十秒間だったとおもう。
家も私、道路を走る車も私、車のタイヤも私、そのタイヤの音も私
鳥のさえずりも私、鳥も私、風も私、風の音も私、木々も私、舞っている落ち葉も私
肉体も私、家族も私、世界中の誰もかれもが私、世界のドラマも私、、、、
宇宙も宇宙人も惑星も隙間もなにもかも私
うごめく犠牲者も、破壊者も、あらゆる現象も、気象も、私
戦場も私、パワースポットも私、轟音も私、美しい音色も私
すべては完全にニュートラルで、善も悪もない
なぜなら、いかなる幻想と幻想の間に分裂が起きていないから
すべて単一だから
私じゃないなにかはどこにもない。。。
ありえない
ぜんぶ、私の空想だった
私と、私の空想は離れることができない。。。
アジャシャンティが言うように、その「すべては私」という
完全なワンネス体験も、まだ目覚めの通過点に過ぎない。
けど、
私=非実在の空想=夢=夢の世界のすべて
という感覚は理由なく更なる確信になった。
そして、この先の「私」
完全なる無
絶対なるものの息
実在である私=神に知られている
神との隙間は一切ない
それを受け入れてゆくことになる。
「どのように?」
とかも、任せていればいい
すべてはすでに完了しているから
自己保持のシステム・欲望が依然としてまったく消えたがっていないのを
見つめてゆけばいい。
「そういうことだったのですね」
と、、、
今なお維持されているかのように見える自我とは関係なく
幸せでいていい。
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