おそらく、奇跡講座(奇跡のコース、ACIM)を、学び実践してゆくと
このような段階は、おのずと経てゆくのだろうな。
と、実感しています。
できれば、目を伏せておきたいし、避けて通りたいのですが、、
それでは、ほとんど時間短縮は起きてゆかないのでしょう。
↓ワプニックさんが、どこかでおっしゃっていましたが
その通りなんだと思います。
「私たちは、このコースの概念について知りたいとも理解したいとも思っていない無意識の抵抗があります。」
というニュアンスの言葉。
今は、相当それを見せていただいて、認めていってるところです。
自我は、ただ世界をいい感じに見ていたいだけだし、
幸せならそれでいい。
そうなんですね^^;
真に目覚めることなんて、無意識レベルのほとんどの部分は望んでもいませんでした。
しかし、聖霊はその先へ導こうとしています。
いい感じに世界を夢見ることの、その先。。
本当に、過去から出て未来をも手放す。
完全なる現在に、真の自己に目覚める。
いや~~~~、、
一筋縄ではいきませんが
もはや、それをいつするか?という選択しかありませんでしたね。
以下
3月29日の、Rさんと私とのメールのやり取りです。
このやり取りがあって、翌日の30日にRさんに勉強会に(3月の2回目)参加していただきました。
☆Rさん☆
断末魔の雄叫びを上げている自我がずっと出てきていて、
赦しをしているしていないのレベルを越えて来ていて
半ば放心しております(^_^;)
消えていく姿として見送るしか術がない感じがしています。
絶え間ないので、赦しができているできていないの境目も、
間違っているのかどうかもよくわからなくなっています 笑
2月29日から明らかにまるで別ステージに行ってしまってるかのような。
ある種の混乱?
その前が全然思い出せません。
(2月29日は、とてもシンプルながら、決して自我が容認してこなかったところに焦点を当てて学び合っていました。それゆえに今まで覆い隠されていたものが浮上したのだと思われます)
☆のりこ☆
その断末魔こそが
自我と同一化した「私」の
猛烈に悲痛な
助けを求める懇請
愛を求める懇請だったのだ
ということを
素直に
白旗をあげて認めることみたいです。
それは、自我の理論では「負け」を認めることなので
なかなか、そこに救いがあるとは見えて来ませんでした。
妄想の中では
すでに瀕死状態なのだから
負けを認めて
「私」が感じる全ては、
「私自身」の助けを求める懇請なんだ。
愛を求めて叫ぶ声なんだ。
じゃあ、慈しみから聖霊のもとへ
断末魔を運ぶしかない。
そっか、そっか。
と、、
そういう感じです。
☆Rさん☆
あーー、負けを認めずに瀕死で踏ん張ってますね。
これ本気で嫌がってるけれど、やってみます。
おおげさ?
自我には負けを認めることが死に等しいって思ってます?
☆のりこ☆
自我の理論では
負けを認める=死ですね。
即刻死刑という妄想。
けど、勝てるはずが無いのは
知っていますね。相手は神だから。
「勝ち目があるはず」と
思うことで、永遠と思えるほどに
時間を先延ばしする作戦ですね。
インチキマジック。。
ヴォルデモートも
「負け」を認めれば楽だったのにね。^^;
決断の主体の「私」は
自我そのもの100パーセントではないから
たった1回100パーセント完璧に
聖霊を選ぶことができれば(負けを認める)
天国の自覚が復活するね。
自分には、助けが必要。
癒しが必要なんです。
私は、愛を求める懇請そのものなんです。
これですね。
☆Rさん☆
勝ちにいくゲームなら知ってますが
負けを認めていくゲームって(笑)
プライドもへったくれもないですね。
ギャフンです。
☆のりこ☆
ゲーム機ごと、返却です( ´ ▽ ` )ノ....
☆Rさん☆
なんでしょ、今までの降参はギリギリ自我が許せる範囲だったんだなーとわかります。
☆のりこ☆
ばれたか〜〜。。。
☆Rさん☆
昨晩はありがとうございます(^^)
そりゃ、コースは希釈解釈されてアタリマエですワね(^_^;)
こんなこと自我には死活問題ですもの。
でも、3年かけてここまで安全に聖霊に導かれて来たのですね。
最初からヴォルデモートを見せられたら、走って引き返します。
聖霊がその先に導きたがっているのをすごく感じるので、
もう頭垂れてついていくしかないと思っています。
<自分には、助けが必要。癒しが必要なんです。
私は、愛を求める懇請そのものなんです>
やっと、やっと、という感じがしています。
今日が講義の日で良かったです。
☆のりこ☆
これ、すごいよ。(この段階の学びを受け入れること)
2014年の
「意識はいませんでした!それはただの思考でした!」
と、同じか それ以上の学びだね。
↑それどころでは、ありませんでした^^;
2016年2月、3月の学び合いの映像は、永久保存版と言えそうです。
昨日、ずっとエア受講し続けてくださっている兄弟との個人セッションでしたが
これまでの勉強会(2016年2月3月)の映像を見ていても、なかなか腑に落ち切っていない部分が大半だった。
ということがわかったようでした。
それは、ごく当たり前のことなのですが、聖霊はその先の学びへと連れてゆきたくて
個人セッションを受けざるを得ない。という感覚に導いてくれたようです。
結果、号泣でした。無意識の半端ない抵抗に気が付けるということは
放心状態になりますが、けれどもそこを経てこそ
真に目覚めてゆけるのだろうと、、学んでいます。
それは、本当にありがたいことで
半端ない抵抗に気が付いて、感謝が湧き上がってゆき、心の中が愛で満たされてゆきました。
少しずつ、少しずつ、氷山がとけてゆくようです。
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