明日、7月28日(火)13:00~は
真我なるハート実践コースによる「奇跡講座/奇跡のコース2015.7月」3回目のweb勉強会です。
今日、実践コースにエア受講で参加中の友人Hさんからリクエストがありました。
明日の勉強会では「神への信仰心とは?」について取り上げてほしい。と
今、そこに向かいつつある私や共に学び合う方たちは
神への信仰心そのものだった「マザーテレサに関する書籍」を読んでみると良いだろうなあ。
と、助言をすると思います。
けれども、あえて「勉強会でそれを取り上げて~。」
と言う声も、聖霊によるお題なのだなと、、
今 聖霊に耳を傾けています。
☆当ブログで、このブログ内で検索をすることができる検索窓があるかと思います。
ご興味がありましたら、神への信仰 という言葉で検索して見てください。
私が本格的に降伏していった時期は、2014年3月ごろからなのですが
2014年12月あたりに、「もう降伏降参以外、、選べないな。」
という心境になってゆきました。
その12月頃以降の記事は、聖霊によりグイグイ引っ張られていった心を表すような内容かも知れません。
抽象的かも知れませんが、何か伝わってくるものがあるかも知れません。
この世界の、どんな目覚めの道も、
究極のところ「神への信仰」へと導かれます。
これは確かなことです。
世の中の「覚者」と言われる方が、もしも本当に覚者なのであれば
「神しかない。」「God is」「神在り」
といった内容の言葉を、使わずにはいられないでしょう。
イエスが、そうでした。
そうならざるを得ないでしょう。
もしも本当に目覚めた覚者ならば
「この世界は神の戯れだ。」なんて、、、
決して信じることはできません。もちろん言葉にさえできません。
無理です。 笑
けれども今は、「神の戯れだ。」と言っている方もいずれは必ずどこかの時点では
その先の真理に気づいてゆきます。聖霊がそこまで導いてゆくからです。
安心して見守って、赦してゆけば大丈夫なんですね。
奇跡講座テキスト編(中央アート出版社)P207
T-8.4.6:3~6
あなたが私のようでありたいのなら、私たちが同じだと知っている私は、あなたを助けよう。
あなたが違ったものになりたいのなら、あなたが心を変えるまで、私は待とう。
私はあなたに教えることはできる。だが、私の教えを聞くという選択ができるのは、ただあなただけである。
神の国が自由そのものであるというのなら、これ以外のことがあり得るだろうか。
※この文面での「あなた」は、私たちを指しています。「私」は、イエスを指しています。
真我なるハート実践コースによる「奇跡講座/奇跡のコース2015.7月」3回目のweb勉強会です。
今日、実践コースにエア受講で参加中の友人Hさんからリクエストがありました。
明日の勉強会では「神への信仰心とは?」について取り上げてほしい。と
今、そこに向かいつつある私や共に学び合う方たちは
神への信仰心そのものだった「マザーテレサに関する書籍」を読んでみると良いだろうなあ。
と、助言をすると思います。
けれども、あえて「勉強会でそれを取り上げて~。」
と言う声も、聖霊によるお題なのだなと、、
今 聖霊に耳を傾けています。
☆当ブログで、このブログ内で検索をすることができる検索窓があるかと思います。
ご興味がありましたら、神への信仰 という言葉で検索して見てください。
私が本格的に降伏していった時期は、2014年3月ごろからなのですが
2014年12月あたりに、「もう降伏降参以外、、選べないな。」
という心境になってゆきました。
その12月頃以降の記事は、聖霊によりグイグイ引っ張られていった心を表すような内容かも知れません。
抽象的かも知れませんが、何か伝わってくるものがあるかも知れません。
この世界の、どんな目覚めの道も、
究極のところ「神への信仰」へと導かれます。
これは確かなことです。
世の中の「覚者」と言われる方が、もしも本当に覚者なのであれば
「神しかない。」「God is」「神在り」
といった内容の言葉を、使わずにはいられないでしょう。
イエスが、そうでした。
そうならざるを得ないでしょう。
もしも本当に目覚めた覚者ならば
「この世界は神の戯れだ。」なんて、、、
決して信じることはできません。もちろん言葉にさえできません。
無理です。 笑
けれども今は、「神の戯れだ。」と言っている方もいずれは必ずどこかの時点では
その先の真理に気づいてゆきます。聖霊がそこまで導いてゆくからです。
安心して見守って、赦してゆけば大丈夫なんですね。
奇跡講座テキスト編(中央アート出版社)P207
T-8.4.6:3~6
あなたが私のようでありたいのなら、私たちが同じだと知っている私は、あなたを助けよう。
あなたが違ったものになりたいのなら、あなたが心を変えるまで、私は待とう。
私はあなたに教えることはできる。だが、私の教えを聞くという選択ができるのは、ただあなただけである。
神の国が自由そのものであるというのなら、これ以外のことがあり得るだろうか。
※この文面での「あなた」は、私たちを指しています。「私」は、イエスを指しています。