8月9日に、この記事を投稿していました。
いかなる時でも、幸せでいてもいい。それは可能だ!!
今日、兄の身体は横たえその役目を終了させた。
今気が付いたけど、兄は8月8日に容体が急変したんだなあ。
8月8日とは、母の命日(2017年8月8日)であり、私がユタのリトリートから帰国した日(2019年8月8日)だった。
兄のシナリオには、そろそろ今回のロールプレイングゲームのキャラクターから降りる時期が来ていた。
昨日(8月24日)親族から連絡があり、呼吸状態が不安定になって来ているので会える方はあっておいた方が良いかも知れないとのことだった。
夕方に勉強会が終わって、兄の病院に向かった。
思えば
2012年7月に私の旦那さんがバイク事故で逝ってからこの7年の間に
旦那さん、父、母、そして一番上の兄が逝った。
大げさに聞こえるかも知れないけど
明らかにそれぞれの人生終了の瞬間と、私の意識拡大のプロセスが一致しているように感じる。
夜8時過ぎに病院に到着する。
私が今夜 兄に会うことはとても自然なことで、そしてそれは同時に深刻なことではない感じ。
職員の方に案内され、兄の部屋にたどり着く。
8月9日の面会から2週間が経っていた。
8月9日に会った時
「ねえ、一緒に写真とるよー!」と言ったら
「ふっ..何やってんだよ」といつもの感じの微笑があった。
「兄さん、のりこだよ」と呼びかけると目を開けて
「ああ、来たの?サンキュー」という感じで眉毛が反応する。
顔も頭も印象は全然違ってしまっている。
母や父の最後の頃の姿を足して2で割った感じ。
とてもそっくりだった。何だか懐かしい感じがして、娘たちと私は微笑みあった。
身体もやせ細り、以前のような面影はない。
しかし、それが問題ないように感じる。
なぜなら、彼はそれ(身体)ではないから。
まるでそれ(身体)が重大ではない。
彼は、身体ではないのだ。
そして、私たちは平安を共有していた。
嘆きが必要ない。愛と感謝と平安と幸福さを共有することの自由がそこにあった。
兄のおかげさまで、そのように反応している「私」の心をハッキリと認識することができた。
このすべてのシナリオの背後には聖霊が臨在している。
ありがたさしか感じることが不可能だった。
もちろん、どこか一抹の寂しさのような感情や思考や信念も通り過ぎて行ったと思う。
けど、それそのものには全く力がない。
それらは、完全に偽りの力動なのだった。
8月9日から2週間が経過。
そろそろもう一度 兄のところに行く気がしていた。
明日か明後日行けるかな?と思っていた頃に、親族から連絡があった。
「行く時は、今日なのかも知れない」
勉強会が終了して1時間後、出発する。
何だか、本当に深刻さがない。
平安であり、幸せであり、何よりも感謝が湧きつづけている。
兄に会ったら、2週間前よりもさらに痩せ細っていた。
これ以上無いほどに痩せていた。
この瞬間感じたことは
「ああ、兄さん、もう何がどういうことかわかっているんだなあ」ということだった。
彼の中に不安は無くて、知る必要のあることは知らされている感じ。
物理的な肉体に幽閉されていない感じ。
何というか、それがありがたくて涙が出た。
まさか、現象がこういう状態において私たちは平安であり、感謝していて
あらゆることを受け入れている状態。
これまでの人生で、兄とそんな風に共有したことは無かった。
彼は、スピリチュアルなことを全面否定していたのだけど
ここまで来たらもう、お互いに意見の相違はないと感じたので
「ねえ、あの世は無いって言ってたけども、あったでしょー!?」って彼に言った。
するとその瞬間、心拍数が多分108くらいまで上がり(それまでは多分60〜80前後だった)
医療装置がピーコン!ピーコン!ピーコン!と鳴って看護婦さんたちが駆けつけた。
笑ってしまった。
それが兄からの返事だった。
「なんてこった」と思っているだろう。
それ以降は、心の中で彼に話しかけた。
「ねえ、そこにはお母さんも お父さんも トシちゃんもいるでしょう?何の心配も無いでしょう?」
「これからはね、神様に従って行くんだよ!私たちはそれを一緒にやって来たんだよ。これからは本当にそれだけに専心していこう」
「それしかやることは無いね、私も妥協なく光に向かって行くから、協力していこうね!」と
手を握りながら、すっとずっと話しかけた。
兄は手を握り返して来たり、腕を持ち上げようとしたり、しきりに人差し指を動かしたりして反応してくれた。
「これでもう、私たちの目的は共有された」と私は感じた。
この全体の目覚めのために、私たちは私たちが理解できないレベルで協力しあってきた。
今さらに意識的にその目的を共有できた。そう感じた。
「愛してるよ、愛してるよ、ありがとう、ありがとう」ずっと呟き続け、目的を共有し続けた。
もう大丈夫だと感じた。
深夜0時ごろ帰宅して、映画に関連する作業を少しして寝た。
朝起きて、また映画に関連する作業をしながら
真我なるハート学習会のメッセンジャーグループで「今の思い」を書き込みながら
「何らかの 私個人の、私独自の意志、というものが無いということが何と平安で幸せなことだろうか?」
ということが理由なしに、確信的になっている。
これ以上の奇跡は無いと思う。
これ以上のギフトは無いと思う。
これ以上に欲しいものなど何も無いと感じる。
文字通り、私は私が望んでいることすべてを与えられており、受け取っているのだ。
神様、ありがとうございます。
イエス、五井先生、ありがとうございます。
私の中には感謝以外なにもありません。